旧約 第44週
エレミヤ書27章~42章

日本同盟基督教団 行徳キリスト教会 牧師
山本 真仕

2009年10月31日 初版

【日曜】 エレミヤ書27章~29章
「苦しいときも神の主権は変わらない」

 エレミヤの時代は政治的に不安定な時代でした。大国バビロンの勢力を前に、国が滅びるのも時間の問題という状況が続いていました。人々は疲れ、恐れ、新しい変化を望みました。多くの偽預言者たちが偽りの預言をし、バビロンに滅ぼされはしないと人々に偽りの希望を吹聴していました。しかし、預言者エレミヤは、神が語られたことを忠実に人々に告げました。その預言の内容は、決して人々が聞きたいと思う内容ではありませんでした。

【27章9~15節】

 エレミヤは預言者として神が語られたことを人々に語りました。それは、人々が聞きたい内容ではありませんでしたが、唯一彼らが生きる道でした。神が語られることは、私たちが望むことと一致しているとは限りません。ときに厳しい言葉を通して、私たちを戒め、私たちを悔い改めに導かれる方です。
 私たちは私たちが聞きやすい言葉だけを受け入れていないでしょうか。神様が私たちに厳しい言葉を与えられるのは、私たちがその言葉によって生かされるためです。自分の思いや、肉的な思いを御言葉よりも優先するのではなく、まず神が私たちに何を語られているのか、耳を傾け、求めていきたいと思います。

【28章15~17節】

 預言者ハナヌヤは、エレミヤの首につけられていたバビロン降伏の象徴の首かせを砕き、2年のうちに捕囚の民が解放されるという偽りの預言をしました。神は偽りの預言をしたハナヌヤに宣告を下し、いのちをとられます。神は偽りの預言をする者を忌みきらわれ裁かれます。神が語っていないことを語ることは、民全体に偽りの希望を持たせることになるからです。
 私たちは安易な希望に惑わされてはいないでしょうか。本当の希望は、私たちの目の前の状況が良くなるということではなく、どのような状況においてもインマヌエルなる神が私たちとともにおられ、困難のうちにも神の主権が変わらないことを見出すことです。安易な希望に私たちが生きるとするなら、状況が改善されなければ失望することになるでしょう。神が語られる言葉に耳を傾け、神御自身に希望を見出す人は、どのような状況においても希望を失うことはありません。

【29章10~13節】

 最悪な状況にあっても決して変わることのない神の主権を信じていたからこそ、預言者エレミヤは大胆に主の言葉を語ることができました。エレミヤは神が私たちのために立てている計画が何よりもすばらしいものだという確信をもっていました。この前提がなければ、目の前の状況に簡単に左右され平安を失ってしまうでしょう。
 神は、召された者たちを守り、最善を備えてくださるのです。どのような状況にあっても、神との関係と神への信頼を失わないようにしたいものです。父なる神は私たちに最善を備えてくださいます。たとえ困難な状況にあっても、神は主権をもって私たちの人生の舵をとってくださるのです。

【月曜】 エレミヤ書30章~31章
「私たちを愛され癒されるお方」

 「その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する」
 主なる神は、イスラエルと交わされた契約を決して忘れることなく、誠実にその契約を果たされる方です。バビロン捕囚の後に、捕囚から贖い出し、イスラエルを再建することを、エレミヤを通して明確に語ります。契約を放棄したイスラエルの民に対して、神は新しい契約を結び、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とおっしゃるのです。

【30章10~17節】

 イスラエルの民はバビロンによって壊滅的な状態にさらされます。それは、主の懲らしめであり、罪に対しての当然の結果でありました。その傷は痛み、あまりのひどい状況のゆえに、イスラエルの民を弁護する者はいなく、同盟国もイスラエルから離れます。「捨てられた女」とも呼ばれたイスラエルの民に対して、主なる神は彼らを完全に見捨てることはせずに、懲らしめの後に彼らの傷を癒されます。主は彼らを弁護し、イスラエルが諸国の民から軽んじられることのないように守られる方です。
 私たちのうちに、癒えていない傷は存在しているでしょうか。心の深くに刻まれているような深い傷はないでしょうか。決して癒えることのないように思えても、主なる神は私たちの傷を癒し、私たちを弁護してくださる方です。廃墟のような心の状態であっても、神はそのうちに感謝と喜びを満たして回復される方です。

【31章15~26節】

 神はイスラエルの悔い改めの祈りと叫びを聞き、ご自分の民へ回復の希望と愛を示されます。ラマとはエルサレムの北にある町で、捕囚の民がバビロン移住のために集められた場所でした。主なる神は、イスラエルの嘆きと涙をみて、彼らをあわれみ、回復の道を備えられていることを告げます。
 試練や困難は、ときに私たちが神を忘れ歩んでいることを悟らせ、私たちを神の御許に向かわせます。私たちをねたむほどに愛されている主は、私たちが主に立ち返り、主とともに歩むことを望んでいます。私たちは神が不在のなかで物事を進めるのではなく、どのようなときも神の国と神の義を第一に求めていきましょう。

【31章31~34節】

 主なる神は、イスラエルと再び契約を結ぶことを語られます。その契約はモーセと交わされた契約と同じものではありません。それは、かつてのように石に刻まれる契約ではなく、私たちの心に刻まれるものです。契約の箱に収められていた十戒は神と民の契約の象徴でした。その契約の箱が収められていた神殿が崩壊され、神との契約そのものが無効とされるような時代、エレミヤを通して神は、決して壊されることのない民の心のうちに契約を刻むことを語りました。
 神の民として、私たちの心のうちには、変わることのない神の契約がしっかりと刻まれているでしょうか。うわべだけではなく、心から神の民であることに誇りをもって歩んでいきたいと思います。

【火曜】 エレミヤ書32章~33章
「神にできないことは一つもありません」

 この章は時系列的には37章~38章の後の出来事です。エレミヤはユダの王セデキヤによって監視の庭という場所に監禁されていました。それは、バビロンの軍勢がエルサレムを包囲するなかで、セデキヤ王をはじめエルサレムがバビロンの手に渡ることを預言したからです。しかし、同時に神は、エレミヤにアナトテの地を買うことを告げ、土地の証書を大切に保存するように命じられます。それは、やがて捕囚の時代が終わり、再び土地を買い戻す時代が来ることを告げ知らせるためでした。

【32章1~5節】

 セデキヤ王は国家の危機の状況にあって、エレミヤに語られた神の言葉を受け取ることができませんでした。自国の民が生きるか死ぬかという政治的な判断のなかで、立てられた王としての判断を迫られますが結果的にエレミヤに語られた言葉を受け取らず、エレミヤを監禁したのです。
 私たちは目の前の状況に左右されることが多くあります。しかし、まず主の御心が何であるのかをよく求める必要があります。たとえ、示されたことが自分の計画や思いとは違っていても、神が語られることを信頼して受け入れ従う心が求められます。

【32章6~15節】

 セデキヤ王とは対象に、エレミヤは主が語られたことを忠実に行いました。エレミヤにとってアナトテの土地を買うことは決して益になることではありません。すでにバビロンによって国が敗北しようとしているなかで、たとえ地代を払って権利を得たとしても、その権利が有効になる保障はどこにもないからです。しかし、エレミヤはこれを神からの言葉として受け取りました。それは必ず神の言葉は成就するという、エレミヤの信仰の応答でした。
 私たちは主から示されていることで、その応答をしていないことはないでしょうか。エレミヤのように、目の前の状況が見えないときであっても、「あなたには何一つできないことはありません」と、信仰をもって応答していきませんか。

【33章14~18節】

 エレミヤに主の言葉が語られたのは、彼が監視の庭で監禁されていたときでした。エルサレムが敵軍に包囲され、すぐにでもカルデヤ人の手に落ちようとしているときでした。そのようななかで、主なる神は、エレミヤに契約の回復のビジョンを与え、ダビデの子孫からメシヤが誕生するという約束を必ず成就することを語られました。
 厳しい状況にあるときにこそ、私たちは神が与えてくださる約束と計画をしっかりと握りしめて歩んでいく必要があります。厳しい状況のなかで不平不満だけをあらわしていないでしょうか。困難な状況にあるときにこそ、しっかりと神の約束を握って前進していきたいと思います。

【水曜】 エレミヤ書34章~35章
「立てた誓いをかえてはいけない」

 ついに、エルサレムを包囲したバビロンの攻撃が始まります。主はエレミヤを通して、セデキヤ王にエルサレムが陥落するという神の計画を告げ知らせました。そのようななかで、セデキヤ王はエルサレムにいるすべての民と契約を結び、悔い改めのしるしとして律法に準じて同胞へブル人の奴隷たちを解放することを主の前に誓います。しかし、エルサレムの民はその神との誓いを翻し、再び解放した奴隷を使役したため、裁きが宣言されます。35章は、時系列的には26章以降に続くエホヤキム王治世の事柄ですが、34章の、契約に不誠実であったエルサレムの住民と対比するように、先祖の言い伝えを忠実に守るレカブ人を称賛します。

【34章8~18節】

 主の御前で約束をし、信仰の決断をしたにもかかわらず、その決意をないがしろにしているということはないでしょうか。旧約の時代、お互いに契約を交わすときには、引き裂いた動物の間を通り抜ける儀式をしていました。契約を破ればその動物のようにいのちを絶たれることを意味していたのです。
 箴言12章22節では「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる」と記されています。神を畏れる歩みは、誠実に約束を守ることからはじまります。たとえ、その約束が自分にとって損になったとしても、誓いを変えずに誠実さを保つことは大切なことです。

【35章13~19節】

 神はレカブ人の忠誠心を祝福され、「レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない」と言われました。それは、彼らが私欲に惑わされずに忠実に先祖の命令を重んじたからです。同じように、神を愛する人は、神の戒めを大切にして生きる人です。神を愛することと、神が言われることを行うことは表裏一体だからです。
 私たちは神の言葉に生きることを私たちの喜びとしているでしょうか。日々のディボーションや祈りを通して、神の御心を行うことを私たちの霊的な糧としているでしょうか。心においてそうであるならば、口先だけでなく、行動においてもその姿勢を保っていきたいと思います。

【木曜】 エレミヤ書36章~37章
「神の言葉に立ち返ろう」

 36章は35章と同様に年代の違う記事が挿入され、37章以降は再び34章以降の出来事に続いています。エホヤキム王の治世に、エレミヤは主から語られた言葉を巻物に記しました。エレミヤの主から受けた言葉を筆記したバルクは、幽閉されているエレミヤに代わって人々の前で、神の言葉を語ります。その言葉の重要性を理解した首長たちは、王の前でその言葉を読み上げますが、エホヤキム王はその巻物を小刀で裂き、暖炉の火で燃やしてしまいます。エホヤキム王の治世が終わり、セデキヤが王になりますが、民はエレミヤに語られた主の言葉に聞き従いませんでした。

【36章1~8節】

 エレミヤは幽閉されているなかで、神の言葉を受けました。そして、それを書き記し、民に読み聞かせるという使命が与えられました。バルクという必要な助け手を神から与えられ、エレミヤは神の言葉を人々に語りました。
 私たちにも、時が良くても悪くても神の言葉を伝える使命が与えられています。忙しいから、難しいからという理由で神の言葉を語ることを躊躇してはいないでしょうか。神様は人々に語るために、必要な助け手と道を備えてくださる方です。あきらめずに、常に神の言葉を語る備えをしましょう。

【36章20~31節】

 イスラエルの民が祝福されるのは、民が御言葉に立ち返り、御言葉に聴き従うときです。神は預言者を遣わして、その時代の人々に御心をあらわし、民を導かれました。神の言葉を神の言葉として受け入れ、立ち返るとき、民は生かされますが、神の言葉に聴く耳をもたないときには、民は滅ぼされます。とりわけ、民のリーダーである、王や首長の御言葉に対する姿勢が国全体に影響をおよぼしていくゆえに、その責任は重いものです。
 家長である夫が神の言葉を重んじるとき、それは家庭全体の祝福へとつながっていきます。家庭の祝福を覚えつつ、まず家庭における神の言葉に対する位置づけをもう一度見直してみませんか。家庭で神の言葉が権威あるものとして語られ重んじられることが大切です。

【37章1~10節】

 セデキヤ王はエレミヤを預言者と認めつつも、彼の言葉には聞き従いませんでした。神の言葉よりも、援軍のエジプトに淡い希望を抱いていたのです。しかし、神はエレミヤを通してセデキヤ王に「見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く」と警告をしています。
 私たちは神の言葉以外のものを優先的に拠り頼んでいることはないでしょうか。目に見えるものは刻々と移り変わっていくものばかりです。私たちは移り変わっていく希望に自分の歩みを委ねていくものではなく、いつまでも変わることのない神の言葉の確かさにしっかりと委ねていくものでありたいと思います。

【金曜】 エレミヤ書38章~39章
「降伏することこそいのちへの道」

 主なる神はエレミヤを通して、カルデヤ人に投降する者は生きるが、抵抗するなら必ず滅ぼされるという警告をします。神の言葉を忠実に語るエレミヤを殺すように首長たちはセデキヤ王に願います。セデキヤ王はエレミヤを彼らの手に渡していまいます。首長たちは、エレミヤを穴の中に入れて餓死させようとしますが、主はクシュ人エベデ・メレクを起こして、エレミヤを救出させます。助け出されたエレミヤは、再びセデキヤ王の前で、カルデヤ人に降伏する以外に生きる道はないと告げます。そして、1年6ヶ月の間包囲されていたエルサレムの都は、神の預言のとおり、バビロンの王ネブガデレザルの手によって陥落します。

【38章1~6・16~23節】

 セデキヤ王はエレミヤによってバビロンに必ず滅ぼされるという警告があったにもかかわらず、降伏せずに首長たちの声に耳を傾けます。エレミヤは自分自身が殺されるかもしれないという状況にあっても、神を信頼し、神の言葉をまっすぐに語りました。
 私たちが自分たちの力で何とかしようとするとき、神様はそのような高慢を打ち砕かれ、私たちが主に完全に拠り頼む者となるよう試練を与えられる方です。エルサレムの民は、最後まで抵抗し続けました。しかし、神が求められていたことは、神の言葉を信頼して明け渡すことだったのです。私たちは、人々の声よりも、神を信頼して、神の計画がなされていくようにと委ねているでしょうか。

【38章7~13節、39章15~18節】

 神の言葉を忠実に語ったことによって殺されかけたエレミヤは、クシュ人エベデ・メレクによって無事に救出されました。エベデ・メレクもまた、反対勢力の多いなか、神の人であるエレミヤを信じ、信仰をもって主の働きをしたことによって、後に神から特別な守りを約束されました。
 神は信仰によって歩み出す者を必ず祝福されます。たとえ、困難なときであっても、その困難をも益と変えてくださる方に信頼し、一歩を踏み出すことが求められています。

【39章1~8節】

 セデキヤ王は主の言葉に従わなかったゆえに、最悪の結末を迎えることになります。最後まで抵抗し続けた人々はすべて虐殺され、セデキヤ王の子どもたちは王の目の前で殺されます。そして、セデキヤ王の両目はえぐり出され、青銅の足かせにつながれ、バビロンに連れていかれます。
 神の主権を認めずに、自分自身でいのちを救おうと思う者は、それを失います。しかし、主を認め、主に信頼する者は、いのちを見出します。どのようなときであっても、心を尽くして主に拠り頼み、自分の悟りに頼らず、神の御前で謙遜に歩む者になりたいと思います。

【土曜】 エレミヤ書40章~42章
「すべての計画を主に委ねよう」

 エルサレムがバビロンの王ネブガデレザルの手によって陥落した後、エレミヤは捕囚の民として連れて行かれたラマで釈放されます。釈放されたエレミヤは自由を得て、ミツパに下り、総督に就任したゲダルヤと残された民とともに歩みます。その後、ダビデの血統であり王族の一人であるイシュマエルは、総督に立てられたケダルヤに謀反を起こし、ケダルヤとその部下たちを殺してしまいます。ケダルヤの殺害を聞いた将校の一人で、ケダルヤにイシュマエルの暗殺計画を忠告したヨハナンはイシュマエルを追い詰め、捕虜を奪還しますが、カルデヤ人たちの報復を恐れて、今後の導きを知るために預言者エレミヤに神の啓示を求めました。

【40章1~6節】

 神からの言葉を預かり、それを大胆に語り終えたエレミヤは、その後釈放され、自由の身になります。バビロンに移住することも祖国に留まることも許されたエレミヤは、残されたイスラエルの民のなかに住むことを決断します。バビロンでの地位と生活が保証されているなかで、あえてエレミヤは廃れた祖国の土地で歩むことを決断します。その決断のうちにエレミヤの祖国に対する熱い思いを感じます。祖国を愛し、人々が神に立ち返るために、厳しい神の言葉を語り続けたエレミヤの信仰の原点がここにあるのではないでしょうか。
 私たちは人々が神に立ち返るために、苦難の道をもともに歩む心備えがあるでしょうか。自分の生活の保障や、自分の人生の計画よりも、主なる神が私たちに備えている計画が最善であることを信じているでしょうか。

【40章13節~41章3節】

 総督に就任したケダルヤは、将校であったヨハナンの忠告を聞かずに、イシュマエルの謀反に巻き込まれていきます。ケダルヤに与えられていた使命は、集まったユダヤ人たちと一緒に祖国を再建することでした。ケダルヤは、ヨハナンの忠告を聞いたときに、神の人エレミヤに助言を求めるべきでしたが、そうはしませんでした。謀反を起こしたイシュマエルも、神の御心を行うのではなく、モアブ人の王と同盟を組み、自分の願望を達成するためだけに動いていたことがわかります。
 ここから私たちは、信仰から出ていないことはすべて失敗に終わることを教えられます。私たちは、どのようなときも常に神の御心がなされるようにと祈り、また御心が何であるのかを知るために、御言葉を求めて生きる姿勢をもたなければなりません。

【42章1~22節】

 イシュマエルを追い詰めたヨハナンは、今後の導きのためにようやく預言者に導きを祈り求め、神の御心を求めます。そして、彼らは「主が私たちの間で真実な確かな証人でありますように。私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられる言葉のとおりに、必ず行ないます」と告白したにもかかわらず、いざ主の御心があらわされると、目の前の状況に振り回され、神の御心を行う決心から離れてしまいました。
 私たちも、主の御心を行いたいと告白しつつ、いざ目の前の状況の困難を体験すると、恐れや不安が生じてきます。しかし、そのようなときにこそ、主の言葉をしっかりと握り締め、私たちを愛し、あわれんでくださる方を信頼して歩んでいきたいと思います。

参考文献

  • ワイザー/月本昭男:訳『ATD旧約聖書註解20 エレミヤ書(上)』ATD・NTD刊行会、1985年
  • ワイザー/石川立:訳『ATD旧約聖書註解21 エレミヤ書(下)』ATD・NTD刊行会、2005年
  • 『実用聖書注解』いのちのことば社、1995年
  • 『新聖書辞典』いのちのことば社、1985年
  • アンドレ・ネエル/西村俊明:訳『預言者運動の本質』創文社、1971年