旧約 第43週
エレミヤ書12章~26章

日本長老教会 東吾野キリスト教会 牧師
古川 和男

2009年10月31日 初版

【日曜】 エレミヤ書12章~13章

 12章14~17節は、唐突に、憐れみと回復の言葉が語られます。文脈の流れからは場違いな感じがします。それだけにやはり、主の本心は、御自身の民を怒り裁くこと以上に、憐れみ、祝福したい、慈しみの御心であるのだ、と印象づけられるのです。

 しかし、そのためにも、いいえ、そのためにこそ、まず人間の罪、不信仰がきちんと解決され、悔い改めがなされることがどうしても必要なのです。しかもその罪は、「腐った帯」や、人の肌の色、「ヒョウの斑点」のように人間に染みついています。それを人間に捨て去らせるのは簡単なことではないのです。だから、エレミヤの苦労はまだまだ終わりません。エレミヤ自身、煙たがられ、殺されかける体験をしました(11章)。その恐れ、やり切れなさ、憤りから、激しい復讐の言葉を吐露せざるを得ないほどです。

 けれどもそれに応えて主が示されるのは、さらに大きな戦いへの覚悟です。7~11節を、新改訳はエレミヤの言葉としていますが、新共同訳は主のことばと訳しており、こちらのほうが主流のようです。それでいて、主の嘆きかエレミヤの嘆きか、どちらともつかないような文であるのも事実で、エレミヤも主もともに嘆いているのです。「嘆きの書」と呼ばれる本書は、罪を悔い改めない背信の人間に対する主ご自身の激しい嘆きをありありと語る書であることが分かります。

 主を心から恐れて歩もうとする時に、祝福や恵みに満ちることもあるでしょうが、世界と自らの罪とに嘆かざるを得ないことこそは避けられません。しかし、その嘆きは、実は主ご自身の深い嘆きに(やがて、御子キリストの十字架となる、あの悶えるような苦しみに)ほんの少しだけ触れる経験なのです。

【月曜】 エレミヤ書14章~15章

 14章1~16節と14章17節~15章9節は、「わざわいの予告→民の祈り→主の拒絶」というパターンを繰り返します。「日照り」や死の予告に引き出された民の実際の祈りか、それともエレミヤが民の側に立って仮想した祈りか、いずれにしても、これらを主は一蹴なさるのです。

 民の「悔い改め」の言葉は、敬虔そうに見えて疑いません。このまま曲を付けて歌えそうなくらいです。けれども主は、その心が悔い改めず、さまようことを死して、主に立ち返ろうとしていない「本音」を突かれます。口先だけ、言葉だけの祈りは、それがどんなに立派で美しくへりくだって見えても、主の目を私たちの心から逸らせるものではありません。

 エレミヤ以外の預言者は、民に平安を告げます。決して悪意や不遜から語ったとばかり断定はできないように思います。民の心情を配慮して、励まそうとの善意ある弁論だったような気もします(勿論そこには、神からの栄誉よりも人からの賞賛を求める思いがなかったとは思えませんが)。
 しかし、そういう言葉を、しかも主の名を借りて語ることを、主は許しません。主を恐れ、悔い改めて主に真実に生きることよりも、テキトーな回心で平安が約束されるような人間本意の宗教を教えてはならないのです。

 そうはいっても、エレミヤ自身、心は乱れます(15章10節以下)。みことばを喜びだと言いつつも、主を「欺く者、当てにならない小川」呼ばわりし、主に叱咤されます(15章16・18・19~21節)。それでも、14章の、しおらしさを装った歌よりは、乱れ、疑う心を率直に申し上げるエレミヤのそばに、主はおられるのです。

 日照りや病や死、様々なわざわいを送って、主は私たち人間に挑まれます。それは人が、神の偉大さを知り、本当にへりくだって、聖なる恐れを抱くためです。あなたの「神」が小さく、人の都合でこしらえたイメージに過ぎないなら、それは壊される必要があるのです。

【火曜】 エレミヤ書16章~17章

 所帯を持つことを禁じられ、喪中の家に悼みに行くことも、宴会に加わって楽しむことも禁じられたエレミヤは、民の罪に対する主の嘆きを、まさにその生の丸ごとで表すようにされます。

 この時期、まだエレミヤの預言した国家の危機は、現実とは見えなかったようです。平時にあって、エレミヤは主の怒りと裁きとしてのわざわいとを語り続けます。これは、どんなに勇気を振り絞っての行動だったでしょうか。洪水のきざしもないなかで箱船を造り続けたノアのようなエレミヤでした。
 しかし、「苦しいときの神頼み」は、本当の信仰へのきっかけとはなっても、神とのいのちの関係とは別のものです。異教徒の外国人ならともかく、主なる神の民を自認しているイスラエル人にして、ほかの神々に心を寄せ(偶像崇拝)、自分の生活が安泰であればいい、という恩知らずは、平穏のただなかにあってこそ悔い改めなければならなかったはずです。

 現代に置き換えれば、イエス・キリストを知らない人によりも、すでに「クリスチャン」を自称している「私たち」にへの問いかけです。主を信頼するよりも、自分の願いを頼んでしまう、直しがたい陰険さを突きつけてきます。
 罪とは、道徳的なものである以前に、主に対する存在のあり方です。「悪いこと」などせず、平穏無事に暮らし、イエス様を「一応」礼拝し賛美していても、まさにそこにおいて神を神としていないなら、「万死に値する」とさえ言えるのです。もちろん、主は容赦なく罰し、怒られるのではなく、愛と忍耐を持って正しい関係へと必死に呼びかけてくださっています。それでも聞かなければわざわいを起こし、「苦しいときの神頼み」でもいいからとの謙遜をもって悔い改めへ導かれます。こういうのを「強いられた恵み」と呼んだりします。

 この部分の帰結は、17章19節以下のとおり、「安息日の遵守」です。主から離れやすい心を正しく生かすのは、やはりまず、主の日(今では日曜日)を礼拝のために専念して過ごすことでしょう。教会で楽しみ恵まれることにもまして、神である主の前に、人としてへりくだって、主だけを信頼するために、万難を排して礼拝へ行きましょう。

【水曜】 エレミヤ書18章~20章

 18・19章は、「陶器師」のたとえが重なります。18章は粘土をこね直し、19章は焼いた陶器を粉々にし、とガラッと厳しさが重々しくなったようです。しかしもっと大事なのは、陶器師を例にしてのメッセージに対する、かたくなな反応です。18章では、エレミヤ暗殺の企みとなり、19章の反応は20章に続き、主の宮の長パシュフルによるエレミヤ逮捕となるのです。これほどに聞く耳を持とうとしないなら、言われるとおり、こね直すか、粉微塵にされるかしかないでしょう。

 その合間に歌われるエレミヤの告白は、なんと激しいことでしょう。敵の子らまで虐殺してくれとか、自分なんぞは生まれなければよかったとか。あまりのきつさに、戸惑い、引いてしまいたくなります。けれど、この激しい言葉が示すのは、罪のもたらす嘆きの深刻さです。罪を犯した本人が厚顔無恥で平然としていても、その家族が後々までもしわ寄せを受け、援助者が四苦八苦し、ということは実例に事欠きません。
 しかし、何よりも、天の神が、私たちの罪のために苦しみ、嘆かれ、御自身に痛みを負うておられたのです。そのことは、ゲッセマネの園と十字架で苦しまれた主イエス様にありありと表れています。

 エレミヤは自分の人生を、生まれないほうがよかったと口走ります。しかし、こんな慟哭が聖書にあるということ自体に救われる思いをする人も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。神様は、私たちの嘆きを知っておられ、御自身の嘆きとして、覚えてくださっています。

 心揺れ動きながらの地上の生涯だからこそ、陶器師なる神の測り知れないご計画とご真実を信じさせていただきましょう。

【木曜】 エレミヤ書21章~22章

 21章で初めて、王宮からエレミヤに助けが求められます。これまでエレミヤの言葉を笑い、憎み、揉み消そうとしてきた状況が、風向きを少し変え始めます。しかし、それは、自分の間違いを認め、悔い改めたから、だったのでしょうか。いいえ、ただ迫り来たバビロン軍による攻撃を何とかしてやり過ごしたいからに過ぎませんでした。主は、そんなイスラエルの敵となって戦われるとおっしゃいます!

 けれども、それはイスラエルが憎くなって滅ぼすため、堪忍袋の緒が切れたため、などではありません。過ちを認めて主に降参し、潔くバビロン軍に投降することに、いのちが約束されています。反対に、なおもエルサレムの生活にしがみつき、現実となった主の警告から逃げ続けるなら、死が運命となるのです。自分の生活を守ることが第一、という考えから、神が第一であると気づかなければならない、最終段階です。

 この部分が21・22章の序論となり、21章11節以下は、ユダの王家(特にエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン)への宣告がまとめられます。その最後はバビロンへの捕囚です。22章29節「地よ。地よ。地よ」と三度繰り返す極めて強い宣告は、人の行いが地を汚す悲惨を強調します。耳から離れなくなる主の嘆きです。

 しかし、王たちへの厳しいさばきも、エレミヤ書52章では、エホヤキン王がバビロンの地で、憐れみを受けて過ごす描写となって再登場します。そして、この情景をもってエレミヤ書は閉じられるのです。捕囚は、王も民も深くへりくだり、主の憐れみに生かされるためだったのです。王国の治安・繁栄が人の望む幸いでしたが、主は、一切を失ったとしてもそれで心砕かれ本心から主に立ち返るならば、それこそ幸いな人生と見ておられる、ということでしょうか。

【金曜】 エレミヤ書23章~24章

 前回の悪い王たちへの言葉を受けて、23章は悪い牧者(指導者)への裁きから始まりますが、3~8節で、主が良い牧者を立てて民を牧させるという明るい言葉が続きます。厳しく、暗いメッセージが続いてきたエレミヤ書では、珍しくホッとする印象を受けます。5・6節で語られる「一つの正しい若枝」「主は私たちの正義」(新共同訳「主は我らの救い」。ヘブル語「יְהוָה צִדְקֵנוּ」)と呼ばれるのはイエス・キリストのことで、4節の「牧者たち」(複数形)は、イエス・キリストによって立てられる、教会の教職者たちだと考えてよいでしょう。

 しかし、9節以下はまた偽預言者らへの厳しい言葉となり、それが40節まで延々と続きます。人々の歓心を買うような話を、「主の託宣」(新改訳「宣告」)として語り、人気を博している預言者たちです。主の名を持ち出しつつ、主への恐れ多さを全く持ち合わせません。「みだりに主の御名を唱える」罪は重いのです。軽々しく、「神様はわざわいなんか与えない、きっと大丈夫」と保証するばかりで、火のような主の言葉に自らの心を焦がされ、おののくことがないなら、捨てられるのです。これは、現代の牧師をも、その真偽を判別する基準です。

 24~29章までは、冒頭に年代を記しますが、年代順に並べられてはいません。わざわざその最初に配される24章は、これ以降を見通す基本的な視点を明らかにしていると言えるでしょう。バビロンへ連れて行かれた民こそが、再生の希望を担う、真実な民となり、エルサレムに残ってわざわいを免れたと安心している民は滅びへ向かっている、というのです。

 バビロン捕囚は、強烈な悲劇でした。その喪失、悲惨は、主の裁きでした。けれどもそこで心を砕かれ、主に立ち返ることができるなら、避けて通ることばかりを考えてはなりませんでした。
 私たちも、心を尽くして主を求めるためには、今ある(幸いで、平穏な)生活から引きはがされなければならないこともある、ということでしょう。少なくとも、わざわいを免れていることを誇っていては、それこそ、救いようのない魂と成り果てるしかないのです。

【土曜】 エレミヤ書25章~26章

 章の数で言えば、今日でエレミヤ書の半分を読んだ事になります。ここでは、世界大の裁きという大スケールの内容です。第1回の「バビロン捕囚」が実現するまで1年という時期の預言ですが、その捕囚のなかにいたダニエルが、エレミヤの預言した「70年」を読んで回復を祈ることになります(ダニエル9章)。実際、この預言は成就します。ただし、本章の時点では、70年後の帰還の希望よりも、70年という「刑期」の重さのほうが前面でしょう。それでも、ここに至るまでも、「23年間」(25章3節)も忍耐深く、主は悔い改めを呼びかけてこられたのです。

 イスラエルだけでなく、周囲の国々も、この主の裁きの前に立たされます。今日の私たちも、現代の諸国家も、これを思い、深くへりくだらなければなりません。

 26章では、新王が即位したばかりの祝賀ムードの真っ直中で、悔い改めと滅びを語ったエレミヤが、たちまち捕らえられてしまいます。それでも、恐れることなく大胆に語るエレミヤです。20~23節に差し挟まれる預言者ウリヤの殉教は、エレミヤの時代の逆風と、彼が殺されなかったことの不思議さとを引き立てます。

 それにしても、このエレミヤの堂々たる姿は!!
 12章で叱咤された臆病者は、確かに鍛えられ、勇者として成長していました。人に裏切られ、嘲笑され、涙し、主に激しく訴え、ボロボロになったエレミヤ。自分の弱さを知っているエレミヤだからこそ、彼は主のみことばのみを信頼し、強められ、恐れぬものとされたのでしょう。
 神様が、私たちをも強くしてくださって、恐れなくてもいいものを恐れることから解き放ってくださることを願わされます。