旧約 第42週
イザヤ書65章~エレミヤ書11章

日本長老教会 久我山キリスト教会 教会員
水越 摂

2009年10月31日 初版

はじめに

【1】 預言書の目的

 預言書の書かれた目的として次の3つがあり、ここでは主に 2. と 3. について述べる。
  1. 神の主権と支配を表すこと
  2. 信仰を強めること
  3. きよめと奉仕に導くこと

【2】 信仰を強めること

 預言は神の言葉であり、必ず実現する。そして、預言は神が全宇宙を支配し、未来を告げる力を持った偉大な方であることを証する。このような神の偉大さに触れ、これまでの預言が正確に成就してきたことを知るとき、私たちは力を受ける。「私の信じる神はこれほどまでに偉大な方である」と喜ぶことができる。そして、私たちの将来についても、「必ずこの預言(御言葉の約束)のとおりである」と希望を得る。この希望が、困難のなかにあっても、信仰を強めるのである。
 子どもは、ヘンゼルとグレーテルや眠れる森の美女、白雪姫といった、途中ちょっと怖い部分のあるストーリーを好む。子どもがそのような不安で落ち着かない恐怖感を楽しむことができるのも、最後にはすべてがうまくいくことを知っているからだ。
 私たちは今、どのようになるかわからない時代に生きている。しかし、道の途中で一時的な不安におびえるのではなく、キリストとともにある人生を楽しむことができる。なぜなら、私たちはこの「人生」という物語の結末を知っているからだ。預言書のなかに、イエスキリストの福音と、約束の天の御国がはっきりと語られていることを信仰をもって受けとめるとき、私たちは大きな希望を得る。
 曖昧な預言、秘められた預言を受けとめるには、信仰がいる。後に神ご自身が光を当てて明らかにしてくださると信じることが求められるからだ。
 神は、私たちが希望を抱くのに十分なだけの啓示をくださった。他方で、敷かれたレールの上を機械的に歩む運命論者にならないために、すべてを明らかにはされなかった。
 預言は信仰を強めるために書かれたのであり、預言が信仰に取って代わるものではない。最後には神が完全な支配と平安を与えてくださるという預言、この約束を信じるときに、私たちの信仰は大きな力を得る。

【3】 きよめと奉仕に導くこと

 預言の成就する時が明確にされていないことによって、クリスチャンはきよめと神への奉仕への思いを与えられる。キリストがいつ来てもいいように準備しておくことが求められるからである。この希望は私たちをきよめる。ヨハネはキリストの再臨について述べた後、次のように結論づけた。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストがきよくあられるように、自分をきよくします」(第一ヨハネ3章3節)。この御言葉は、預言の目的を要約している。説教であれ予告であれ、預言の目的は人が神の前にきよい歩みをすることである。
 神の預言の啓示を、ただ未来がこのように流れていくという事実だけを記した言葉ととらえるなら、神に対して高慢な態度であるといえる。ある人々は預言が実際に何を示しているのかという問題を解決するために多大な努力と時間を費やす。しかし、もし単に「未来を知りたい」という自分の知的好奇心を満足させるだけで、預言を通しての霊的な成長を求めないなら、無意味な自己満足に終わるだろう。神が中心にあってこそ、預言の価値はある。
 神は、未来に対するメッセージを通して、現在の私たちの生活に影響を与えたいと願っている。神が聖書の中に預言書を置いたのは、ご自分がいかに遠い未来まで見通しているかをあらわすためだけではなく、それを読む私たちの現在の生き方が変わることを願ってのことである。

 このように、預言は、神の主権と支配を明らかにし、神の民が神へのまったき信頼を置くように励まし、きよさと奉仕への思いを与えるとき、その目的を果たす。

【日曜】 イザヤ書65章~66章

【65章】 新しい祝福の約束

 【1~7節】 主の報復
 【8~16節】 怒りと祝福
 【17~25節】 新世界の出現

 「新しい天と新しい地」(17節)については見解が分かれる。死の存在を否定せずに寿命について言及していることから(20節)、地上における千年王国(黙示録20章)であるとする見解が一方にある。他方、黙示録21~22章の幻はイザヤ書66章を踏まえた預言であると捉え、新天新地は天の御国であるとする見解もある。ただ両者とも、無から有を造り出す絶対的創造のみわざの延長線に、贖いのみわざがあると考える点では共通する。すなわち、罪人を聖い神の子どもとすることは、まったく新しい者に造り変える再創造と解するのである。

【65章の脚注】

1節 「わたしの名を呼び求めなかった国民」 キリストの贖いが全世界に及ぶことを示す。
3~5節 一連の行為は偶像礼拝を指す。
8節 ぶどうの房のなかに少しでも甘い汁があればそれを損なわないように、神は彼らのなかに救われる者を残しておいた。「神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。・・・今も、恵みの選びによって残された者がいます」(ローマ11章1~5節)
11節 「ガド」「メニ」 前者はシリアの幸運の神、後者はアラビヤの運命の神。
20節 長寿は神の祝福の象徴。
24節 神との関係の回復。特別の配慮と愛が注がれていることを表す。
25節 神の新しい創造は、堕落以前のエデンの園に勝って豊かな世界である。

【66章】 神の至高性と来臨

 【1~4節】 形だけの礼拝者に対する裁き
 【5~9節】 神の民の誕生
 【10~17節】 神の民の祝福
 【18~24節】 主の栄光のあらわれ

 66章は、神の裁きと祝福を交互に織り交ぜながら、神の至高性、約束の来臨について語る。
 神はユダの民が真の礼拝を行っていないと語る(1~4節)。神は決して、神殿がなければ礼拝できないとか、いけにえがなければ悔い改めもないとは言わなかった。真の礼拝者は、砕かれた悔いた心を携えて、それぞれの場において神の御前に出る。

 主の家の山の幻(18~20節)は、2章2~4節と共通する。主の家の山の丘、すなわちシオンの丘あるいはエルサレム全体についての終末預言である。新しいエルサレムが、全世界の礼拝者の中心になる。主は、イスラエルの神であるだけでなく、全世界、全被造物の神であることが世界中に伝わり、主の栄光が全世界に輝く。そして、神の完全な支配が実現し、真の平和がもたらされる。

【月曜】 エレミヤ書1章~2章

【エレミヤ書】

 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」(31章3節)。神はイスラエルを真実に愛し続け、「背信の子らよ、帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう」(3章22節)と、最後まで招き続けてくださった。

【1章】 エレミヤの召命

 【1~3節】 表題
 【4~10節】 エレミヤの召命
 【11~16節】 2つの幻
 【17~19節】 派遣と励まし

 すでに北イスラエル王国はアッシリヤによって滅亡し(紀元前721年)、南ユダ王国にもバビロンの脅威が迫りつつあった。ユダは自国の取るべき方向も見えず、ただ北のバビロン、南のエジプトという大国の間で揺さぶられる不安定な社会状勢であった。そのなかで、ユダの人々は、偶像に頼み、近隣の大国という人間的な力に頼む生き方をしていた。また、「南ユダ王国にはエルサレム神殿があるので滅びない」という迷信や、形式的な祭儀、性的不道徳、欺き、幼児犠牲なども蔓延していた。
 このような滅亡を目前にした嵐の前の静けさのなかで、エレミヤは召された。社会の雰囲気とはまるで正反対の、あまりに厳しい、目の覚めるような神の召命の言葉が語られる。イスラエルの人々が、神の律法に従わずに不道徳にふけり、この世の権力に心を奪われているなかで、エレミヤは神の真実を語り、神の審判を告げなければならなかった。ここから50年におよぶ苦難の預言者人生が始まる。

 召命にあたり、神は、恐れを抱くエレミヤに3つの約束をくださった。
 1. 預言の成就(10・12・14・16節)
 2. 神の臨在(19節)
 3. 勝利と守り(18・19節)
 エレミヤはこれらの約束を受け取ったが、実際に働きに立つと、彼には激しい迫害と苦難が待っていた。偽預言者からは攻撃・非難され、王にも忌み嫌われて預言の書を燃やされ、民にも嫌われて物笑いとなる。さらには、牢に入れられ、故郷で暗殺を謀られ、祖国滅亡後はエジプトに強制連行され、伝承によれば孤独のうちに獄死したとも伝えられている。彼は生涯を通して孤独で、その働きも人に感謝されるものではなかった。
 これほどみじめなエレミヤに、神様はともにいてくださったのだろうか?「勝利と守り」の約束は、どこにいってしまったのだろうか? 目に見える状況は、いかにも神の約束と違う。
 神はこれらの困難をそのままに残された。その困難のなかで、エレミヤは、神様がともにおられることの意味を問い続けることになる(11章18~23節、12章1~6節、15章10~18節、17章14~18節、18章18~23節、20章7~18節)。それに対して神は、新しいことは何一つ語らず、ご自身の命令や約束を変えることはせず、むしろ悩みのたびに彼を、すでに与えたこの3つの約束へと導かれた。
 人生の様々な困難に対する神様の回答は、すでに御言葉のなかで語られていたのである。エレミヤは困難のなかで何度もこのレッスンを学ぶことになった。

 神は、ご自身の器を召し出されるときに、臨在の約束をくださる(出エジプト3章12節、4章15節、ヨシュア記1章5・9・17節。ダビデも詩篇23篇4節で勇気の源が神の臨在にあると告白する)。それはエレミヤの召命においても同じだった。神は変わらない愛を注ぎ、働きのなかでエレミヤが困難を覚えたときも、ともにいてくださった。困難さえもご自身の計画のうちに用いられ、働き人の信仰を強め、困難の真ん中で完全な勝利を実現してくださるのである。
 苦難のなかで神様がともにおられることの意味。エレミヤは、生涯をかけてそれを問い、そして証した。彼の人生をとおして記されるこの点もまた、エレミヤ書の主題の一つだろう。苦しい病や先行きの見えない生活など、大きな困難に直面するとき、私たちも、エレミヤの生涯、彼の葛藤を思いめぐらしたいと思う。そして、エレミヤもそうであったように、ともにいてくださる神に励まされ、呼びかけてくださる神の大きなご計画と圧倒的な勝利の約束に期待したい。

【1章の脚注】

1節 エレミヤはエルサレムの北方のアナトテという寒村において、地方祭司ヒルキヤの家に生まれた。おそらく何らかの形で祭司の職に従事していたのではないかと想像されている。
2節 「治世の第13年」 紀元前627年。
6節 「若い」 嬰児から大人まで広く使われる言葉。エレミヤは経験不足を訴えているが、これは彼の謙遜というより、老人の経験と知恵が重んじられるイスラエル社会では当然のことである。
7節 「まだ若い、と言うな」 5節と7節は逆に読むとわかりやすい。わたしはあなたが生まれる前から預言者として定めていた。だから、あなたが若いのではない。今がその定めの時なのだ。
9節 「主は御手を伸ばして、私の口に触れ」 預言者として聖別し、神の言葉を授けたことを象徴的に表す。さらには神とエレミヤが親しい関係にあることも暗示する。エレミヤの按手礼。
11~12節 「アーモンドの枝」 名詞形はシャーケッド。動詞形はショーケッドで、見張る、目覚めるの意味。パレスチナでは1月頃アーモンドの木がもっとも早く白い花をつける。春を一番早く感じて目覚めるアーモンドの木を見張りにたとえる。神はご自身の言葉を速やかに実現されること、定められた御計画を初めから終わりまですべて見通した上で見張っておられ、確実に遂行される方であることを、はっきりと語ってくださった。
13節 「煮え立っているかま」 バビロン軍が北からユダに攻め込むこと。
17節 「腰に帯を締め」「みな語れ」「おびえるな」 神はエレミヤに3つの命令を与えられた。
1. 服の裾をたくし上げて縛り、いつでも神のために立ち上がることができるように備えておきなさい。
2. 神の口としてわたしの言葉を語れ。神がしもべに命令を与えるとき、神はすでに必要な能力を備えてくださっている。神がまずエレミヤの口に触れてくださり、言葉を授けられた後に語れと言われていることに注意(9節の後に17節という順)。その言葉は神の言葉であり、預言者自身が働きの成功や失敗に責任を持つのではなく、神が命じるとおりに語ればよい、と命じる。
3. 恐れるな。この命令は神の臨在の約束とともに語られていることに注意(イザヤ41章10節)。

【2章】 燃えるような愛で真実に愛し続ける神の誠実さと、背信を続ける民の対比

 【1~3節】 思い出してみよ
 【4~13節】 イスラエルの背信
 【14~19節】 イスラエルは奴隷となる
 【20~28節】 バアル礼拝の愚かさ
 【29~37節】 悔い改めない民の態度

 「若かったころ」(2節)は「花嫁のころ」と訳したほうが正確だが、イスラエル人がシナイの荒野において契約を結び(シナイ契約。出エジプト24章3~8節)、何者にも煩わされず神と2人だけの特別な祝福の関係にあったことを指している。神はこの初めの愛を新婚の頃にたとえて、「そのときの愛にもう一度立ち帰ろう」と招いてくださっている。これは、怒りをもって罪を断罪するのが目的というよりも、「涙と痛みによって思い出してほしい」と語っておられる神の愛のあらわれである。「これほどに愛しているのに、なぜ行ってしまったのか」という真実の愛ゆえの痛みがある。神はなお、契約を破り、離れていった民に対して、「わたしがあなたがたの背信をいやそう」(3章22節)と招かれる。

【2章の脚注】

8節 「牧者」 政治的指導者。宗教的指導者と区別する意味で用いられる。国政にも腐敗があったことを示す。
10節 「キティムの島々」「ケダル」 キティムはキプロス島、転じて地中海沿岸諸国を意味し、ここではパレスチナから見て西方を指す。ケダルはパレスチナの東にある砂漠のアラブ系遊牧民。世界の西から東まで。
16節 「頭の頂をそり上げる」 イスラエルが女性名詞で呼びかけられ、その屈辱が非常に大きいことを表す。
17節 「主が、あなたを道に進ませたとき」 神がイスラエル人をエジプトから約束の地へ導かれたとき。
20節 「くびき」「なわめ」 神がイスラエル人を祝福するために与えた契約の律法のこと。
「高い丘の上」「青々とした木の下」 バアル礼拝の行われた場所。
21節 「ぶどう」 たくさんの実を結ぶぶどうは、神に祝福されたイスラエルの象徴。
「雑種」 異教徒との結婚によって心が神から離れたことを表す。
22節 「ソーダ」「灰汁」 心の悔い改めが問題になっており、体だけを洗っても意味がない。
23節 「谷の中」 バアル礼拝の行われたベン・ヒノムの谷。性的な狂乱が儀式として神の礼拝に入り込んでいた。これについてユダの民は、「あくまで神礼拝のなかに新たな慣習を取り入れただけであり、バアルに従ったわけではない」と弁明する。
「すばやい雌のらくだ」 性的に堕落した民を、興奮して走り回りながら雄を探す交尾期の雌にたとえている。
24節 「荒野に慣れた野ろば」 飼い馴らされていないので、抑制が利かないことのたとえ。
25節 「はだしにならないよう、のどが渇かないようにせよ」 荒野で死なないための最低限の常識さえも、情欲に取り付かれた者たちの耳には届かない。
34~35節 「いのちの血」「押し入るのを」 神は律法の規定(出エジプト22章2節)を例に挙げ、民の不正は明らかであることを示す。
37節 「両手を頭にのせて」 恥や悲嘆を表す動作。

【火曜】 エレミヤ書3章~4章

【3章】 背信の子らよ帰れ

 【1~13節】 イスラエルの罪責
 【14~18節】 未来の終末的な回復の恵みと希望
 【19~25節】 待つ神、応える民

 ヨシヤ王の前々代の王マナセ(紀元前697~643年)は、異邦人よりも悪いことを行わせた(第二列王21章9節)。マナセはヒゼキヤが壊した偶像礼拝の聖所を再建し、ありとあらゆる異教の祭儀を自由に行わせ、神殿娼婦のための家を主の宮にまで設け(第二列王23章4~7節)、率先して自分の子どもを火で焼き(第二列王21章6節)、神のしもべを迫害した(第二列王21章16節)。マナセはアッシリヤの宗教と習慣を受け入れて隷属することで、宗主国への忠誠心を示したのである。その治世は最長(55年間)にして最悪であった。
 ヨシヤ王は8歳で王となり、16歳のとき神を求め始め、20歳のとき宗教改革の大事業に着手した。マナセの悪習を改めるべく徹底した宗教改革を行った(第二列王22~23章、第二歴代34~35章)。祭儀の場をきよめ、偶像を破壊して火で焼き、偶像に仕える祭司や神殿男娼、娼婦をみな死刑とした。エルサレム神殿を修理し、律法の書を7年ごとに民の前で朗読させた。一貫して主とその契約の言葉に熱心であり、ヒゼキヤと並び賞される王となった(第二列王23章25節)。
 しかし、マナセの長く腐敗した統治の下で人々の心に入り込んだ習慣は、たやすく改めることのできるものではなかった。マナセの長い悪政の間に、人々は神をすっかり忘れてしまっていたのである。宗教改革はイスラエル人の心まで変えることはできなかった。そしてヨシヤ王の宗教改革は次第に政治権力的な色彩を帯び始め、年月の経過とともに外形的な事柄で終わってしまったようである。
 そのなかでエレミヤは、ユダに人々に対して「心の割礼を受けよ」(4章4節)と語った。

 「夫になる」(14節)の原語には、「めとった」という動詞の完了形が使われている。姦淫の罪によって離婚させられたイスラエルは、本来なら石打ちの死刑(申命22章20~21節)になるはずであったのに、その後さらにバアルを夫とした。しかし神は、その罪までも赦した上で、もう一度、イスラエルを花嫁として選び取った。地上のすべての国々を知っている神は、あえてイスラエルを選んだのである(アモス3章2節参照)。これは、神の愛が律法による断罪よりも遥かに大きく、どれだけ豊かであわれみに富んでいるかを表している。神の愛はすべての背きの罪を覆ってなお豊かにあまりある。
 このように、罪人との関係を再び結ぼうとされる神の愛は、情というより意志による決定であり、選択による行動がともなう。神は再びイスラエルに関係の修復を持ちかけられる。イスラエルの心に語りかけ、彼らを取り戻そうと試みてくださる。ちなみに、ホセア書2章14~23節では「口説く」という表現が用いられている。愛をもって強く求める神の愛が表されている。
 イスラエルの民が姦淫の罪を犯したにもかかわらず、神はイスラエルとの結婚を望んでいることが、ここではっきりと示された。神の真実な愛は、イスラエルが姦淫の罪を犯しても変わることがなかった。イスラエルが神の愛をはねつけ、神に背を向けたにもかかわらず、神は誠実に愛し続け、あわれみを保ってくださった。イスラエルが自らの意志で偶像の神に近づき、それによって自らを真の神から遠ざけたにもかかわらず、である。
 神がイスラエルを愛されたのは、彼らがその愛にふさわしい花嫁だったからではない。イスラエルは神の愛に値しない。それはイスラエル人の背信の歴史が雄弁に物語っている。モーセは、神がイスラエルを愛した理由について、それはただ、神が彼らを愛したからだと語った(申命7章7~8節)。

 神はイスラエルがどんな状態であっても、神に叫び求める者の声を聞かれる。神は放縦なイスラエルの上に絶えず目を注ぎ、これに干渉し、愛する娘をふたたび完全に立ち帰らせる機が熟するのを待っておられる(ホセア2章6~7・16~20節参照)。「背信の子らよ。帰れ。私があなたがたの背信をいやそう」(22節)と呼びかけ、罪を赦し、豊かに祝福してくださる。

【3章の脚注】

1節 申命記24章1~4節参照。
2節 「裸の丘」 バアルの祭儀として性的不道徳が行われた場所。イスラエルの恥の象徴。
3節 「遊女の額」 恥知らずで悔い改めず、厚かましいことのたとえ。
8節 「離婚状」 北イスラエル王国がアッシリヤの手に渡され、サマリヤの人々が捕囚として移されたこと。
11節 「正しかった」 どちらも神の前に悪を行ったが、比較すると、ユダのほうがより悪かったという意味。自らの罪を軽く考えて不道徳に身を任せ、北イスラエルの滅亡を見ても悔い改めなかったことへの弾劾。
12節 「北のほう」 捕囚となっている北イスラエルの民を指す。神は、かつて身を切られるような痛みを覚えつつ愛をもって厳しくしかり、我が子の悪を正した。いまや愛をもって真実の幸福へと導いてくださる。
16~17節 「主の御座」 かつてイスラエルの民が迷信的な信頼を寄せていた神殿でもなく、契約の箱でもなく、エルサレムそのものが主の名のおかれる聖所となり、唯一の神に栄光が帰される。
21節 「哀願の泣き声」 恥の象徴である裸の丘から聞こえる哀願であることから、真実の悔い改めの声ではなく、バアル礼拝によって毒されたご利益主義、苦しいときの神頼みである。
22節後半以降 イスラエル人の応答のかたちをとっているが、これは、イスラエル人の真実な良心の叫びを、エレミヤが神に祈るかたちで代弁したものである。

【4章】 北からの災いの警告

 【1~4節】 悔い改めへの招き
 【5~18節】 破滅の宣告
 【19~21節】 エレミヤの嘆き
 【22~31節】 さばきによる荒廃

 悔い改めを主観的な心の問題と捉えると、行動を促す「帰って来い」(1節)という言葉は奇妙に感じるかもしれない。しかし、そもそも悔い改めとは方向転換を指し、人生の方向性がまったく変わることを意味する。行いの変化そのものを表すのではなく、心の変化が行いという外面においてあらわれる。悔い改めの実として、わたしのところに戻ってくるという行動を示しなさい、と招いている。

【4章の脚注】

3節 「いばらの中に種を蒔くな」「耕地を開拓せよ」 古い行いを残したまま悔い改めるのではなく、まずいばらを取り除きなさい、古い行いを改め、まったく新しい生活を始めなさい、と命じる。
5節 「角笛」 危険の到来を知らせる合図。恐怖の象徴。
「城壁のある町にいこう」 敵が攻めて来たので戦闘態勢に入れ、ということ。城壁のある町に兵を送り、そこを砦とすることで戦いの基点とする。
6節 「シオンのほうに旗を掲げよ」 ユダの町が次々に陥落し、その避難民を最も堅固な要塞であるエルサレムに誘導するための旗が立てられる。状勢は非常に悪く、追いつめられている様子。
「北から」 バビロンの軍隊は、ティグリス川を三日月型に迂回し、ユダの北方より襲来することから。
7節 「獅子」 バビロン軍の恐ろしさを、獅子の獰猛さにたとえている。
8節 エレミヤは預言者として神の審判を明確に語りつつも、同胞であるユダの民の側に立って神に訴え、自身の心境を嘆きとして表現する。これはエレミヤが神と民との間で板挟みとなって苦しむことを表すだけでなく、彼が民の思いをまるで自分の思いとして嘆き、代弁していることを表す。
11節 「熱風」 春に吹く東風で、シロッコと呼ばれる。冬の青草を一気に枯らす。ここでは、神の裁きとして用いられるバビロン軍を指す。
19節 「はらわた」 イスラエル人は感情の根源が内臓にあると考えた。ユダの民の痛み苦しみを表す。エレミヤは祖国に臨もうとしている災いについて傍観できず、民に代わってもだえ苦しみながら痛みを告白する。
27節 「ことごとくは滅ぼさない」 神のあわれみと捕囚民の帰還を表す。神の裁きは破壊に終始するのではなく、懲らしめ、誤りに気づかせる愛の導きである。

【水曜】 エレミヤ書5章

【5章】 エルサレムの堕落

 【1~9節】 義人はいない
 【10~19節】 滅ぼす者への召喚状
 【20~25節】 裁きの理由たる偶像礼拝の愚かさ
 【26~31節】 社会的不正行為と堕落

 神は、出て行った娘が家に戻ってくるときのために、いつも扉を開けたままにしておかれる。私たちが家に帰るには、つらい悔い改めの道を通らなければならず、それ以外に道はない。しかし、エレミヤの語った悔い改めへの招きは、私たちにとって大きな希望となる。それは、私たちが神の前にどれほど大きな罪を犯し、神から遠く離れてしまったとしても、ふたたび神との豊かな愛の交わりのなかにいつでも戻って行くことができるというものだからである。
 これは、大きな試練が与えられたときに倒れてしまわないために、私たちがしっかりと握っておくべき重要な真理でもある。私たちは「大きな罪を犯してしまったので、もはや神との関係回復は不可能である」と間違って信じ込んでしまうことが多いのである。
 エレミヤが悔い改めと神の招きを語ったのは、裁きが迫っているからという理由だけではない。そこに神が待っておられるからである。エレミヤは「待っておられる神のもとに帰ろう」と呼びかける。

 14節から「それゆえ」と始め、裏切りの罪が指摘された後、それに対する裁きが警告として与えられる。しかし、罪の裁きは、冷酷な情け容赦ない仕打ちではない。それは常に人間の罪を起点とし、過ちを気づかせるための警告なのである。このとき、父なる神は、我が子を愛するがゆえに懲らしめる。さながら、痛みを覚える父親のように。
 旧約におけるイスラエルの歴史は、罪、警告、裁き、懇願、救済というパターンが繰り返される。イスラエルは、罪を蒔き、裁きを刈り取った。裁きの前に、神は実にあらゆる手段を用いて、ご自分のもとに帰らせようとされた(警告)。預言者、アッシリヤ、エジプト、バビロンも、ただ主権者なる神の手によって用いられた道具にすぎなかった。そして神は、イスラエルをご自分のもとに帰らせるために、しばしば懲らしめを与え(裁き)、そして彼らに蒔いた罪の苦い実を気づかせ、神に助けを求める(懇願)ようにされるのである。最後に、愛に満ちた神は、ご自分の子を赦し、壊れた関係を修復してくださる(救済)。これは罪に始まり愛に終わる歴史であり、神と私たちとの関係にもあてはまる。

【5章の脚注】

2節 「主は生きておられる」 宣誓の慣用句。誓ったことを裏切るなら、それは偽証と同じである。
5~6節 「くびきを砕き、なわめを断ち切って」 神の愛の律法を破り、主の恵みの大庭からさまよい出て滅びに向かう姿を、自ら柵を越えて「獅子」「狼」「ひょう」の餌食になる家畜にたとえる。
10節 「ぶどう」 ユダの民の象徴。
14節 「あなたの口にあるわたしの言葉を火とし」 神がエレミヤに授けた言葉は、神ご自身の言葉であるから、すでにエレミヤが語った裁きの預言を、神は今まさに実現すると宣告された。
15節 「一つの国民を連れて来る」 アッシリヤ軍の襲撃のこと。
18節 「ことごとくは滅ぼさない」 捕囚から帰還する者がいることを指し、さらには神のあわれみが常に用意され、残されていることも含まれる。
27節 「鳥でいっぱいの鳥かご」 密猟者が不法に得た獲物を誇らしく眺め、決して放すことなくしっかりと集めるように、エルサレムにおいても不法を行う者が自らの不法を誇り、決して改めないことのたとえ。
28節 「彼らは、肥えて、つややかになり」 古代オリエントにおいて肥満は富を表していたが、同時にその行動に抑止が利かない者をも意味した。誤った貪欲を暗示していると思われる。
31節 「預言者は」「祭司は」 両者の併記が多いのは、偽預言者が祭司に取り入り、祭司は指導的階級に取り入る集団であったことを暗示する。
「自分かってにおさめ」 直訳は「彼らの手でおさめ」。神によって治められることとの対比。

【木曜】 エレミヤ書6章~7章

【6章】 エレミヤの警告と民のかたくなさ

 【1~8節】 北から攻めてくる敵がエルサレムを包囲する様子
 【9~15節】 腐敗の結末。神とエレミヤの対話
 【16~21節】 契約の立法が破られていることと形式的な礼拝
 【22~26節】 侵略者の性質
 【27~30節】 炉で試された神の民

【6章の脚注】

1節 「ベニヤミンの子ら」 南ユダ王国はユダ族とベニヤミン族によって構成される。
9節 神は、愛する民のうちに、正しい者がいないかどうか調べるよう再度促す。農夫が収穫のぶどうの実を大切に扱い、一つも残すことがないように、神はイスラエルの民に最大限のあわれみと忍耐を示されている。
16節 「幸いの道」 幸いに至らせる道(単数形)であり、神がイスラエルに律法を通して示してこられた、神との契約の道である。神は民に呼びかける。「あなたがたは神と契約を結び、最高の祝福が約束されている道を歩んでいたではないか。思い返してみよ。これまでの歩みのなかで何が幸いであったかを」
17節 「見張り人」は預言者たちのこと。またその警告。
19節 「たくらみの実」とは、行いの実に対応する言葉で、エレミヤが外形的な行いを問題とするにとどまらず、心のあり方にまで迫るもので、心の割礼(4章4節)を受けよと語った彼の真意が、ここにも見て取れる。ヨシヤ王の宗教改革よりもさらに厳しく徹底したものである。
20節 礼拝における心の伴わない形式主義や過度の贅沢を非難している。
28~30節 鍛冶屋が金属の純度をためすように、神はエレミヤに神の定めた契約の道に忠実であるか否かを試すよう命じる。信仰は試練という火によって精錬される。

【7章】 神殿攻撃の説教

 【1~11節】 神殿攻撃の説教
 【12~15節】 エルサレム滅亡の預言
 【16~20節】 異教の女神崇拝の蔓延
 【21~28節】 生け贄ではなく悔い改め
 【29節~8章3節】 幼児犠牲に関する断罪

 7章からエホヤキム王の時代に語られた預言が始まる(1~6章はヨシヤ王)。
 ヨシヤ王の31年間の治世は、北上してきたエジプトのパロ(ファラオ)ネコとの戦いで戦死する悲劇で幕を閉じ(第二歴代35章20~27節)、エホアハズが王に立てられた(紀元前609年7~9月)。しかし即位からわずか3ヶ月後、ネコによって廃位させられ、エホヤキムが立てられた。ユダにとって紀元前609年は、列強に翻弄され次々に王の変わる激動の年であった。
 このような時代にあってエレミヤは、新王の即位式を終えたばかりの神殿で「この神殿は攻撃されて廃墟となる」という衝撃的な預言を語る。そして、南ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚が実現する前に、神の前に真に悔い改め、神に立ち返れと警鐘を鳴らした。この預言によってエレミヤは命の危険にさらされ(26章参照)、後に様々な苦難を迎える(すべての人からのろわれる、物笑いとなる、家族に反対される、一晩足かせにつながれる、故郷アナトテの人ですら彼を殺そうとする)。

 「行い」(3節)は、口語訳で「道」と訳されるように、人生のすべての道と捉えることができる。すなわち、実際の行動だけでなく、心が向かう方向、心の願い、思索の習慣などもすべて含まれる。「わざ」(3節)は、そのような心の方向、願い、習慣から生じる具体的な行動を意味する。エレミヤは、これから良い行いをしようと決心するように呼びかけたのではない。心を含めた全存在の方向性をまったく新しくするように求めた。真の信仰とは、自らの命のうちにあるものを明らかにすることであると強調したのである。
 エレミヤの神殿説教の主題は攻撃の警告であるが、その目的はあくまで悔い改めに導くことである。初めに語られたことは、今でも待っていてくださる神の忍耐と、真実な悔い改めにより裁きを思いとどまらせてくださる神のあわれみである。エレミヤのメッセージの目的は、あくまでも「イスラエルよ、帰れ」であり、裁くことが目的ではない。

 社会不安のなか、ユダの人々はエルサレム神殿という「建物」に心の拠り所を求め始める。「我々にはエルサレム神殿があるから滅びることはない」という誤った信仰が起こり、一部の祭司はそれを扇動さえしていた。彼らは神殿における宗教的義務を果たすことで安心し、神殿の中にいれば神の守りがあると安心していたのである。「これは主の宮だ」(4節)は、そのような背景から出た言葉である。
 しかし、それは偽りの確信であった。彼らは神殿を信じていた。伝統を信じていた。そして宗教的な行為を信じていた。だが、自分たちの宗教行為に満足していただけであった。人間の努力や感情に基づいて、「すべてがうまくいっている」という儚い安心を与える、偽りの宗教であった。
 私たちも、神との正しい関係を持たずに宗教的な行為だけを行っている場合がある。教会信仰や交わり信仰、宗教的なルーチンワークが維持されることで神に守られていると思ってしまう危険がある。宗教的な行為が神との個人的な関係に取って代わることのないよう、よくよく注意しなければならない。

 21~28節では、形式的な祭儀のみを行い、神の契約の律法に従わない矛盾を突く。
 イスラエルの民が荒野にいたとき、神は一方的な恵みとして、永遠の祝福に至る契約を結ばれ、その恵みの証として十戒をお与えになった。まだいけにえや祭儀に関する規定はなく、祝福の約束だけが存在していたのである。
 その後、自らの罪により神との関係を断絶してしまった人間のために、関係を回復する恩恵的な赦しのシステムとして、いけにえや祭儀に関する規定が設けられた(これもまた恵みである)。しかし、神の御心は、「わたしはあわれみは好むがいけにえは好まない」というように、形式的な犠牲を求めるところにあるのではなく、あくまでも愛に基づく一方的な恵みと祝福を与えるところにあった。
 エレミヤは十戒を念頭に置き、形式的な祭儀の規定だけを行う無意味さと、それが罪を正当化するための道具になっている現実を批判する。

 31節の「自分の息子、娘を火で焼く」は、幼児犠牲を指す。カナン人の間には、最初に産まれた子どもを豊作祈願などのためにいけにえとして殺す習慣があった。その悪習を多くのイスラエル人も真似て、トフェテの谷やエルサレム神殿では幼児犠牲が行われ、人柱として幼児を家の壁に埋め込むこともなされていた。バアルの預言者は公の幼児殺人者であり、バアル、アシュタロテ礼拝は、殺人と性的不道徳を儀式として行う、おぞましいものであった。
 幼児犠牲が忌み嫌われた理由は、神の御心に反するものだったからである。神は命の犠牲を求める方ではない。たしかに創世記において神はアブラハムに対しイサクをいけにえとしてささげよと命じたが、その真の目的はアブラハムの献身を試すためであり、神は身代わりの雄羊を用意してくださった(これは、私たちの罪の身代わりのイエス・キリストと、罪の贖いの十字架を証している)。
 幼児犠牲は、神の愛を否定し、贖いの十字架を否定し、人が神によって大切に造られ、愛されている存在であること、ゆえに命も貴いということを忘れさせる、恐ろしい罪なのである。

【7章の脚注】

2節 「主の家の門に立ち」 神殿の門は人の出入りの多い公的な場所である。神はエレミヤに授けた言葉を公の宣言として語れ、と命じられた。
4節 ユダ王国における神殿信仰について少し補足すると、確かに、ダビデ契約において 「主はあなたのために一つの家を造る〔ダビデ王家確立の約束〕」(第二サムエル7章11節)と、「彼〔ダビデの世継ぎの子〕はわたしの名のために一つの家を建て〔神殿建設〕」(同13節)は切り離すことができない(詩篇132篇11~12節参照)。つまり、ダビデ王家の継続と神殿の存在が、神との契約の永遠性を保証する。よって国の存続を願うユダの民が神殿の存在を拠り所とすることは、一面において真理とも言える。しかし、ダビデ契約は神の恵みによる贖罪により始まり、その目的は神の主権的な恵みに栄光を帰すことであることを忘れるなら、ただちに形式主義に陥る危険がある。神殿は免罪符ではない。エレミヤは「国の安全が何によって守られるのか」を問い、今まさに、悔い改めと、この世界を造られた生ける神への信仰が求められていることを語った。
11節 「強盗の巣」 これから罪を犯そうとする者が自己正当化のための免罪符として神殿に来るなら、そこは神を礼拝する場所ではなくて、強盗の集まる家と同じである。バアル礼拝をする者は「神殿があるから守られる」と言い、不道徳にふける者は「神殿でいけにえをささげたから赦される」と言う。
14節 「シロにしたのと同様なこと」 かつての聖所で契約の箱が置かれていた場所。ペリシテ人によって破壊された(第一サムエル4章1~11節)。エルサレム神殿だけでなくユダの国全部が滅ぼされるという宣告。
15節 「エフライムのすべての子孫を追い払ったように」 アッシリヤにより北イスラエル王国の民が捕囚として連れ去られたこと。南ユダ王国も同じようになるという預言。
18節 「天の女王」 イシュタル、アシュタロテなどと呼ばれ、農耕民族の間で多く見られる豊穣と多産の女神。金星を崇拝の対象としていた。バアルは男性神として性的不道徳を招き、多くの神殿男娼や娼婦(ヨシヤ王の宗教改革で全員死刑)を発生させた。天の女王は各家庭の生活に入り込んだつつましい豊作祈願ではあるが、やはり被造物である金星を神格化して拝むことは創造者である神を否定する偶像礼拝である。
29節 「長い髪を切り捨て」 長髪は女性の栄光であり、貞操を神にささげた聖別のしるしである。それを切ることは、単に悲しみの表現だけでなく、聖別された者がその資格を失ったことを示す恥のしるしである。これは女性にではなくイスラエルの民に向けたもので、恥をあらわにされたことを嘆けと命じるものである。
32節 「虐殺の谷」 幼児犠牲を奉献した場所で、その罪を犯した民自身が葬られるという罪の結果。

【金曜】 エレミヤ書8章~9章

【8章】 背信を続ける民

 【1~3節】 神殿説教の続き
 【4~17節】 背信と裁き
 【18節~9章1節】 激しい荒廃に対するエレミヤの嘆き

 4節以降、ユダの背信は不自然で、自然の成り行きと異なっていることが、驚きをもって語られる。
 人間は、確かに倒れたら自然に起き上がり、間違えたら直そうとする理性を持っている。しかし、その理性のなかにも罪の性質が入り込んでいるので、正しく働かせることが難しくなってしまった。
 人は神によって新しく造り変えられ、罪によって堕落した理性を回復させていただくことにより、初めて理性を正しく働かせることができる。それには自分が罪の奴隷であることを神の前で認め、神によって造られた被造物としての自らの限界を潔く認めることからスタートする。そして神が聖霊によって新しい回復のプログラムを歩ませてくださることを信じることによって進んでいく。
 人間的な理性によって歩もうとする者は、一見、知的に見えるかもしれないが、正しく働かない理性を基に歩んでいるので、結局は堕落してみじめになる。

 この時代のイスラエル人と同様、今日の私たちも罪を楽しみ、罪をコントロールでき、いつでも罪から離れられると考える。しかし、気づいたときには、もう罪は私たちの主人になっているのである。どうしてこうなったのだろうと思っても、もう遅い。罪を利用してそこから良いものだけを得ることなど決してできない。そのようなことをすれば、必ず最後にはみじめな敗北が待っている。罪は冷酷な主人のようなもので、この主人は罪人を酷使し、虐待して、最後には捨て去る。
 誘惑がやって来たときには、堕落の機会ではなく、神への愛と献身を表す好機と捉えるべきだろう。あらゆる罪の誘惑に対して、私たちは「サタンよ、その問題はすでに解決済みである!」と言えばよい。誇らしく神への愛と忠誠を証しよう。

【8章の脚注】

3節 虐殺を逃れて生き残った者も、死んだ方がましだったと嘆くほどに、荒廃が国全体に甚だしく及ぶこと。
8~9節 律法が与えられていることを誇るだけでは意味がない。律法に従い、神を礼拝することが、知恵ある生活にほかならない(第一ヨハネ5章3節)。
20節 「救われない」 おそらく、収穫の夏が過ぎて秋が来ても、実りがなかったので満たされないことの意味。秋はバアルへの収穫祭が行われた時期であり、そこに祝福と満たしが無いことを表す。
21節 「傷」 破れるという意味。民の状態があまりにもひどいために、エレミヤは心が破れるような痛みを覚えている。「恐怖が私を捕えた」は「苦痛が私たちを捕えた」(6章24節)よりもさらに強い表現である。
22節 「ないのか」「いないのか」 反語法。傷薬はないのか。いや、ある。医者はいないのか。いや、いる。ではなぜ傷はいやされなかったのか。それは、民の傷があまりにもひどく、傷薬でも医者でも治しようがないほどだからである。

【9章】 嘆きの歌

 「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」(24節)
 信仰の価値は、信じる対象の価値によってすべて決まる。何を信じるかが決定的に重要となる。
 真の信仰は、前向きに考えることでも、積極的な思考でもない。どんな善行をするかでもない。ただ神に信頼することである。
 他方、偽りの信仰は、人間、およびそれに属するものに信頼することから始まる。他人の評価、地位、富、名誉、そして自分の努力も含まれる。しかも、サタンは私たちに、「神はあなたの努力に満足してくださいます」と畳みかける。人間により頼むことと神により頼むことは同時にはできない。そこでサタンはまず、自分の能力により頼むように誘惑する。そして、神から離れさせようとする。これがサタンの罠である! 人間の能力により頼む者は、すでに神から離れ始めている。
 人は、全能の神に信頼するなら救いと力を得、弱い人間に信頼するならみじめな結果を招く。

【9章の脚注】

2節 「旅人の宿」 厳しい荒野の自然から一時的に旅人を守るための仮設小屋のようなもの。エレミヤはそんな場所でもいいから、民から離れたいと告白している。本来、預言者は、民の間に遣わされ、神の言葉を語り続ける存在であるが、エレミヤは、預言者としての仕事を投げ出して一人になりたいと告白する。それほどに、民の罪が甚だしく、もはや耐えられないと叫ぶ。
3節 「舌を弓のように曲げ」 言葉を曲げる、偽証、嘘、偽り。
7節 逃げ出したいと言っていたエレミヤが、もう一度民と向き合い、厳粛な裁きの宣告を繰り返す。
「溶かして試す」 炉から貴金属を取り出すためではなく、民が石ころ同然であることを明らかにするため。
16節 「絶滅させる」は「ことごとくは滅ぼさない」(4章27節、5章18節)と矛盾しない。44章27節で「剣による絶滅」が予告されるが、続く44章28節では「剣をのがれる少数の者」の存在が約束されているのと同様である。神は常にあわれみと悔い改めの道を残しておられ、私たちが帰るのを待っておられる。
17節 「巧みな女たち」 泣き女と同義語。職業的な泣き女のこと。
20節 「娘に嘆きの歌を教え」 災いの規模があまりにも大きいので、職業的な泣き女を総動員してもまだ足りず、エルサレム中の女たちが互いに哀歌を教え合い、娘たちにもそうしなければならなくなる。
25節 「包皮に割礼を受けている者」 心に真実な悔い改めがなく、外形的な行いだけ改めればそれでよいと思っている者のこと。

【土曜】 エレミヤ書10章~11章

【10章】 偶像礼拝のむなしさと国土の荒廃

 【1~16節】 偶像礼拝
 【17~22節】 国土の荒廃
 【23節~25節】 エレミヤの祈り

 「御怒りによって懲らしめないでください」という祈りはよく聞くが、「公義によって、私を懲らしてください」(24節)という祈りは珍しい。エレミヤは懲らしめを神に求めた。つまり、ただ神の怒りを恐れるのではなく、神の前にへりくだるための恵み深い矯正を受け取りたいと願っている。エレミヤは、人が契約の道を真っすぐに歩み通すためには、道から外れたときに懲らしめを受けることが必要であると理解している。
 「公義」は神の律法を指す。罪を犯した者に契約(律法)が適用されれば、当然刑罰が科されることになるが、エレミヤが求めていたのは、契約の究極的な目的、すなわち試練を経て完成に至る道だった。すなわち、契約のもたらす祝福に至るためには、その懲らしめを受けなければならない、と考えている。これはエレミヤが契約の恩恵性について正しい理解をもっていたことのあらわれである。エレミヤのように、「聖化と完成に至るために、あなたからの正しい懲らしめと訓練が必要です、愚かで悟りのない私を、どうか苦しみのなかで訓練し、成長を導いてください、あなたが深い愛によって今私を訓練してくださっていると信じます」と祈る者でありたい。

【10章の脚注】

2節 「天のしるし」 異邦人は、日食や月食、彗星などを悪霊の働きとして恐れていた。被造物を拝むのではなく、創造主なる神を恐れる信仰が求められる。
16節 「ヤコブの分け前」 創造主なる神のこと。神はイスラエルにご自身を分け前として与えたほどに愛し、緊密な関係を持ってくださることを表して、ご自身のことをヤコブの分け前と言われた。
17節 「包囲されている女」 エルサレムの住民、さらにはユダの国の困難な国家状勢のこと。
「荷物を地から取り集めよ」 この地を去るために荷造りせよ、の意味。
18節 「放り出し」 力づくで町から追い出す、または根こそぎにする、の意味。
「思い知らせてやるため」 直訳は彼らが見出すため。誰が何を見出すかについては、2つの解釈がある。1つ目は、イスラエルの民が真実の神を見出すという解釈。2つ目は、バビロンが包囲したエルサレムの町で最後の一人を見つけ出すまで、つまり誰も逃げられないという捕囚の厳しさを示すという解釈。
20節 「天幕は荒らされ」 天幕とその中の子どもは、神の恵みによって守られる祝福を表す。それが倒されるというのは、神の祝福が取り去られたことを表す。
21節 「牧者」 国の指導者たち。神と人との関係を牧者と羊にたとえ、大牧者なる神から羊を飼うようゆだねられた国の指導者に対して裁きが下る。
22節 「うわさ」 北からバビロンが攻めてくるうわさ。まだ実現には至っていないが、悲劇的な結末が迫っている。民は、この段階で預言者の言葉に耳を傾け、神の前に悔い改める道を選ぶこともできたのだが・・・。

【11章】 契約違反とエレミヤ殺害計画

 【1~17節】 契約違反の告発
 【18~23節】 エレミヤの告白

 エレミヤの祈りにある「復讐する」(20節)とは、個人的な感情で報復を求めているのではなく、正しい裁きを神にゆだねることである。つまり、エレミヤは、神が「思いと心をためされる」方であると信じており、何が正しいか真実な方に判断していただきたい、とゆだねるのである。「打ち明けた」(20節)の直訳は「投げかける」であり、信頼して思いのすべてを打ち明けるという意味も含まれる。エレミヤは、自分の生死についても神にゆだねている。エレミヤは、彼の問題が彼一人のものではなく、必要であれば神から正義の介入がなされることを信じている。

 神がエレミヤに対して一番言いたかったこと。それは「目に見えるものによってではなく、信仰によって生きる者となりなさい」ということである。目に見える状況ではなく、それを超えた神を見る。
 ときに私たちも、熱心に主に仕えているのに、何も目に見える結果がなく、敵対や反対、落胆、孤独によって、主のための奉仕が空しいものに思えてくることがある。そんなときは悪人が栄えているように思えたり、神が私を見捨ててしまったように感じたり、他人がみんな上手くいっているように見えたりするものである。しかし、信仰によって私たちは、目に見える状況と真実とは違う場合があることを知ることができる。
 神は私たちに、死にさえも打ち勝つ十字架をお与えになり、圧倒的な勝利の約束を示された。とすれば、死に打ち勝っているのだから、仮にあなたの前に強盗が現れてナイフで切り刻んで殺して踏みつけたとしても、勝利している事実は変わらない。死にさえもすでに勝利している。殺されることさえも恐れなくてよい。したがって、私たちは、どのような困難が起きようとも、目の前の状況ではなく神をしっかりと見つめ、神の約束の言葉を信じる信仰によって、恐れずに歩むことができるのである。

【11章の脚注】

8節 「実現させた」 神との契約には、祝福とのろいが明記されている(申命11章26~28節)。今、民に臨もうとしている災いもまた、契約の成就である。しかし、のろいの後に、なお望みを置いてくださる(申命30章1~3節)、あわれみの主でもある。
15節 「わたしの家」 エルサレム神殿。

参考文献

  • 服部嘉明「エレミヤ書、哀歌」『新聖書講解 旧約15』いのちのことば社、1989年
  • ハーレイ『新聖書ハンドブック』いのちのことば社、2009年
  • 安田吉三郎「哀歌」『新聖書注解 旧約4』いのちのことば社、1974年
  • ハリソン/富井悠夫:訳『ティンデル聖書注解 エレミヤ書、哀歌』いのちのことば社、2005年
  • 『旧約聖書のメッセージ 教師用ガイド』ホームスクーリングビジョン、2003年