旧約 第41週
イザヤ書47章~64章

日本バプテスト・バイブル・フェローシップ
みふみバプテスト教会 牧師

徳田 信

2009年10月31日 初版

【日曜】 イザヤ書47章~48章

 ここでは、バビロンの破滅と、それに伴うイスラエルの解放が描かれている。
 47章では、40章から続く終末的な神の働きかけが表されている。神はイスラエルの民を、残虐なバビロンの手に渡すことによって懲らしめを与えた。つまりバビロンは神の道具として使われたのだった。それゆえ懲らしめという目的が果たされると、イスラエルの光栄が回復され、逆に神の敵であるバビロンは罰せられる。自らを神と等しいものとするほど奢り高ぶったバビロンに対し、得意の星占いに頼ってみよという皮肉な励ましを与えることで、その破滅の状態が記されている。
 48章では、イスラエルに対する「聞け」という言葉で始まっている。「ヤコブの家よ」と呼びかけることによって、イスラエルが陥っている肉的な性質を表わし、彼らの不義と偽善を責め立てている。そして3節から6節にかけて、預言の何たるかが語られている。「先に起こった事」(3節)はおそらく出エジプトのことを指しており、その出来事をモーセにあらかじめ告げていたにもかかわらず、それを信じなかったイスラエルの頑なさが指摘されている。それは、第二の出エジプトとも言える、エルサレムの陥落と捕囚、バビロンの破滅とそこからの解放の預言を聞いても信じず、それが起こったときには「偶像」に栄光が帰されるであろうことが言われる。イスラエルの頑なさが問題にされている。

【月曜】 イザヤ書49章~50章

 この2つの章では、42章1~9節に記されていた1つ目の「しもべの歌」に次いで、第二のしもべの歌、第三のしもべの歌が登場する。第二の歌は49章1~6節で、第一の歌と比べても「しもべ」の苦しみが強く現れてきている。第三の歌は50章4~9節に記されているが、ここでは苦しみがさらに具体的に描かれている。
 これら2つの歌の間には、しもべイスラエルに課されている使命について語られ(49章7~13節)、シオンの回復の幻が語られ(49章14~26節)、そして神のメッセージに応答しなかったイスラエルの罪が、神とエルサレムの離婚と奴隷のたとえによって示されている(50章1~3節)。
 そして第三のしもべの歌の後には、この「しもべ」が伝える神のメッセージに聞き従うようにとの勧めが続いている(50章10~11節)。

【火曜】 イザヤ書51章~53章

 この3つの章では、前半の51章から52章12節までがシオンの救いの約束に当てられ、後半の52章13節から53章の終わりまでが4つ目のしもべの歌に当てられている。
 より詳しく言えば、51章ではシオンへの慰めのメッセージが語られ、次いで新たな出エジプトが命じられる。52章に入ると、6節まででシオンの回復が語られ、次いで12節まで喜びと励ましが歌われている。7節の「良い知らせを伝える者の足」を人々は心待ちにしていたが、主の救いを受けた今日の私たちも同じ「足」となりたい。
 52章13節から、4つ目のしもべの歌が記されている。これは旧約聖書中、もっとも明瞭にイエス・キリストの姿を描いた預言である。新約聖書でもっとも頻繁に引用されている部分でもある(52章15節がローマ15章21節、53章1節がヨハネ12章38節およびローマ10章16節、53章4節がマタイ8章17節、53章7~8節が使徒8章32~33節、53章9節が第一ペテロ2章22節、53章12節がルカ22章37節)。これらの新約聖書の箇所も参考にしつつ、じっくり幾度も読み返すならば、主イエス・キリストの御姿がはっきりと浮かび上がってくるだろう。

【水曜】 イザヤ書54章~56章

 苦難のしもべの死を通して新しく生み出された民は、神の呼びかけによって目覚めさせられる。
 54章では、神と民との関係が夫と妻との関係にたとえられ、夫なる神に捨てられていたようであったイスラエルであったが、しかし決してその関係が切られていたわけではなかったことが語られている。特に2~3節は、不可能を可能とする神への信頼が強く訴えられ、近代海外宣教の父と呼ばれるウィリアム・ケアリもインドへの新しい歩みを始める際に引用した箇所であった。
 苦難のしもべの代償的死(53章)を通し、イスラエルの救いが確かにされたわけだが(54章)、続く55章ではその恵みにあずかるようにとの招きが語られる。本当には満たすことのできない偽の糧にだまされることなく、「いのちのパン」を求めて来るようにとの勧めがなされている。それは私たち人間の目から見たならば理解し難いこともあるかもしれないが、主の思いはそれをはるかに越えているのである(8節)。
 次いで56章では、救いの全世界的な広がりが描かれる。外国人であっても、主に連なるならば、イスラエル人にも優って祝福を受けることが可能なのである。それに対し、神の民と呼ばれながらも罪を犯し続けている預言者や指導者たちが厳しく批判されている。

【木曜】 イザヤ書57章~59章

 56章に続き、57章1~13節まで、イスラエルの指導者の罪を指摘している。特に偶像礼拝の罪が指弾されている。「あなたの義」(12節)とはまったく皮肉な表現である。14節からは、神の民が主に近づくための霊的な道の備えが語られている。彼らは執拗に罪を犯し続け、罰を受けたにもかかわらず、主は彼らを癒そうとされる。しかし主を退け続ける者たちに対しては、厳しい警告の言葉が投げかけられている(20~21節)。
 58章では、偽りの信仰と真の信仰とが対比されている。人々は宗教的熱心さを誇り、自分たちの義を主張していたが、それが形式的なものにすぎないことを鋭く指摘している。自己満足の断食などではなく、むしろ愛によって社会に正義と公正が打ち立てられることこそ、主が求めておられる断食であることが語られる。
 59章では、指導者のみならずユダの民全体のなかにも蔓延していた罪が指摘されている。神が人々の祈りに答えられないのは、主が偶像のように無力だからなのではない。彼らの罪が神と人とを隔てているのである。罪のなかにあり続ける人々が作り出す社会の悲惨な状態を通し、民全体を覆っている罪が指摘されている。そのようななかでイザヤは、9節以降、民全体のなかに自らを置いて、罪を告白し、執り成している。そして15節の後半からは、主の答えとしての決意が語られている。その答えとは報復、そして贖い主の到来である。

【金曜】 イザヤ書60章~62章

 この3つの章では、神の都エルサレム、すなわちシオンの栄光と豊かさが語られている。60章1~18節は、神の都が栄光に輝いている姿が描かれている。そして19~22節では、太陽や月などに優る主の栄光のゆえに、被造物により頼む必要がない状態を描いている。それは終末に完成する新天新地を描写しているようでもある。
 61章では、より具体的な解放が描かれている。ここでの良い知らせの告知者はおそらく「しもべ」自身であろう。というのは、「しもべ」なるイエス・キリストによって、1~2節がご自身の働きとして引用されているからである(ルカ4章18節)。またマタイ5章の山上の説教の「8つの祝福」も、この61章が下敷きとなっている。イザヤが預言した新しい世界は、まさにキリストによって開始されたのである。
 62章では、シオンの新しい栄光の姿が記され(1~5節)、祈りに答えて主が守られることが確言され(6~9節)、そして贖い主がシオンに到来することが高らかに宣言される(10~12節)。

【土曜】 イザヤ書63章~64章

 63章1~6節では、シオンの敵の代表であるエドムの滅亡が述べられている。血の酒ぶねを踏んで血のしたたりが降りかかった衣を着た人物に、「誰か」と預言者が尋ねると、その人物は神ご自身であることを明らかにする。「酒ぶねを踏む」とは、主のさばきを表わしているようである。
 そして63章7節から64章にかけては、神への嘆願と感謝の祈りである。主の恵みが、それまでの働きかけのなかにあらわされていることを覚え賛美している。主に対する反逆のゆえに多くの苦しみにあってきたことは確かであるが、「どこにおられるのか」と助けを主に求めたことは正しい。
 63章15節からは、(おそらくは)預言者による嘆願の祈りである。過去の神のあわれみを思い起こしつつ、贖い主である主に、とりなしの祈りをしている。64章もその祈りの続きであり、イスラエルの霊的な無感覚に痛みを覚えつつ、その不信の民のなかに自らを置いてとりなし続けている。