旧約 第40週
イザヤ書31章~46章

同盟福音基督教会 岐阜キリスト教会 主任牧師
川村 真示

2009年10月31日 初版

【日曜】 イザヤ書31章~33章
「万軍の主は、鳥のように」

 今日の31章と32章は、28章1節から続く「わざわいの宣告」の、第5のグループにあたります。また33章は、その第6のグループにあたります。それらのグループでは「ユダに対するさばきと約束」が語られています。今日の箇所は、次の言葉で始まっています。

  ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。
  彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、
  イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
   (31章1節)

 ここに記されているのは、迫りくるアッシリヤの脅威を前にして主により頼まず、エジプトとの軍事同盟に依存しようとしたユダの姿です。しかし主は、そんな彼らに言われます。

  エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。
  主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。
   (31章3節)

 時に私たちも、同じようなことをしてしまうのではないでしょうか? 本当に頼るべきお方に頼らず、空しいもの(人)に頼ってしまうのです。イスラエルにとってのエジプトは、特別な存在でした。かつて彼らは、モーセによってエジプトから導き出されたにもかかわらず、何かあるとすぐにエジプトを振り返り「あぁ、あの頃は・・・」と懐かしんだのです。私たちも、すでに主によって救い出されているというのに、以前の生活や、以前頼りにしていたもの(人)を引っ張り出して、すがってしまうことがあるのです。しかし、それは虚しい行為です。そのようなことを続けていると、その頼っている存在も含め、みな共に滅び果ててしまうのです。私たちが本当に頼るべきお方は、どなたでしょうか?

  万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、
  これを守って救い出し、これを助けて解放する。
   (31章5節)

 主こそ、私たちを守られるお方です。詩篇91篇4節にもこうあります。「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである」。
 どうか私たちが苦難のとき、こう叫ぶことができますように。

  主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。
  朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。
   (33章2節)

 私たちが、このように心から叫び、祈るとき、私たちは次のことを知るでしょう。

  まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、
  この方が私たちを救われる。
   (33章22節)

【月曜】 イザヤ書34章~36章
「主の書物を調べて読め」

 33章にて、一連のユダに対する「わざわいの宣告」は終わりました。そして34章には、彼らを悩ませ続けた「諸国民とエドムへの徹底したさばき」が記されています。そのさばきは、あまりにも壮絶であり、また徹底したものです。それがたとえ「敵」に対するさばきであっても、私たちは思わず目を覆いたくなり、背筋が凍りつきます。

  主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。
  主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。
   (34章6節)

 またその結果、エドムは廃墟となってしまいます。

  ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。
  主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。
  そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、
  ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。
   (34章11・13節)

 現代の教会は、「神様の愛」をことさらに強調する傾向があるといわれます。しかし私たちは、どれほど「神様の義」を理解しているでしょうか?
 主はかつて、アブラハムに次のような契約を与えられました。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世12章3節)。つまり、エドムの反逆は、イスラエルに対する反逆というだけでなく、イスラエルを選び、愛しておられた「主」への反逆であったのです。主に敵対する者に対する、主のさばきは、徹底したものです。
 私たちは、この主に対する「健全な恐れ」を失ってはいないでしょうか? それを失わないためには何が必要なのでしょうか? 聖書にはこうあります。

  主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。
  それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。
  それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。
   (34章16節)

 私たちが、主への健全な恐れを失わないために、私たちは「主の書物を調べて読む」必要があります(申命31章26~29節参照)。なぜなら、聖書は、「神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」だからです(第二テモテ3章16節)。また、この主と主の言葉に信頼する者には、「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」のです(詩篇30篇5節)。続く35章には「シオンの未来」が預言されています。何という慰めでしょうか!

  荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
  彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
  弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
  主に贖われた者たちは帰って来る。
  彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。
  楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
   (35章1~3・10節)

【火曜】 イザヤ書37章~39章
「うわさを聞いて」

 前日の36章は、アッシリヤのエルサレムに対する、挑発と陰謀について記されていました。そのやり方は卑劣で、偽りのうわさを流し、ユダの民の士気をくじこうとするものでした。ラブシャケはエルサレムを包囲し、大声で、しかもわざとユダの言葉で、こう叫びました。

  ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはできない。
  ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、
  この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、
  と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。
  ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。
  私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、
  自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。
   (36章14~16節)

 まさに「こっちの水は甘いぞ♪」と言っているかのようです。しかし、人々は黙して答えませんでした。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからです(36章21節)。私たちも、ときに、自分に不利なうわさを、流される経験をするかもしれません。そんなときは「彼らに答えるな」です。そして「祈りをささげてください」(37章4節)。もし私たちが、慌てふためき「火消しに奔走する」なら、かえって火に油を注ぐことになるでしょう。日本のことわざにも「人のうわさも75日」とあります。今日の箇所にも、うわさを流した張本人が、うわさによって滅びる様子が記されています。

  今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。
  彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。
   (37章7節)
  主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、185,000人を打ち殺した。
  人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。
   (37章36節)
  アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。
   (37章37節)

 さてその後、ヒゼキヤは病気になります。イザヤは「あなたは死ぬ。直らない」(38章1節)と彼に死を宣告しましたが、ヒゼキヤは、主の憐れみによって寿命を15年増し加えられたのです(38章5節)。それを聞きつけたバビロンの王は、ヒゼキヤに手紙と贈り物を届けました(39章1節)。ヒゼキヤは非常に喜び、バビロンからの使者に、宝庫の金銀、高価な香料、油、いっさいの武器など、国の財宝をすべて見せてしまいました(39章2節)。それを聞いたイザヤは、次のように預言しました。

  見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、
  バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。
   (39章6節)

 私たちは、自分の賜物を積極的に、主と教会のために用いるべきですが、決してヒゼキヤのように、賜物を「見せびらかし」てはいけません。それは人に「ねたみ」という罪を犯させるからです。それにしても、このようなイザヤの預言を聞き「自分が生きている間は、平和で安全」と思ったヒゼキヤは、もはや王としての自覚を失っていました(39章8節)。

【水曜】 イザヤ書40章~41章
「新しく力を得」

 前日の39章と、今日の40章の間には、ひとつの区切り(*注)があります。前日の39章の最後は、バビロン捕囚に関する預言で終わっていましたが、今日の箇所は、そのバビロン捕囚後のイスラエルに対する「慰めのメッセージ」で始まっています。

注) これは第二イザヤ仮説を支持するものではなく、捕囚前にイザヤが主から与えられた、捕囚後のイスラエルに関する預言です。

  「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
   (40章1節)

 あなたは疲れていますか? イスラエルの民もこのとき疲れていました。故郷を離れ、長い年月、遠い異国のバビロンで苦役を課せられ、捕囚の民として生活してきました。
 主は、そんな彼らに、やさしく語られます。

  エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、
  その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。
   (40章2節)

 イスラエルは2つの大国に翻弄されてきました。アッシリヤによって北イスラエル王国が滅ぼされ、バビロンによって南ユダ王国が滅ぼされてしまいました。ダビデ王朝の陥落とエルサレムの陥落は、彼らに計り知れない絶望をもたらし、なかには歴史をつかさどる主を疑う者もいました。私たちにもそんなときがあります。神が沈黙し、敵ばかりが栄えているように思われ、ひどい挫折感を味わうのです。しかし、そんななかにあっても大切なのは、主と主の言葉に信頼することなのです。

  主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
  草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。
   (40章7~8節)

 イスラエルの民も、アッシリヤやバビロンのような大国でさえも、主の息吹が吹くと枯れてしまう草花のような、はかない存在のです。しかし、神の言葉は「永遠に立つ」のです。
 あなたはそのことを信じますか? 信じるとき、あなたにも「新しい力」が与えられます!

  しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。
  走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
   (40章31節)

 鷲が飛ぶのを見たことがありますか? その姿は雄大です。鷲は必死に羽ばたいて、自分の体重を支えることはしません。大きな翼を広げて、上昇気流に乗るのです。私たちも肩の力を抜き、信仰の翼を広げて、主にすべてをゆだねてみるとき、自分の力ではない新しい力を経験するのです。あなたも思い切って信仰の翼を広げてみませんか? このお方にすべてをゆだねてみませんか?
 また主は、疲れ、慰めを必要としている者に、次のようにも語りかけてくださいます。

  恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
  わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
   (41章10節)

 だから恐れる必要はありません。主はどんな試練が押し寄せてきても、あなたを強め、あなたを助けてくださいます。主は義の右の手であなたをしっかり守り、決して離しません!

【木曜】 イザヤ書42章~43章
「新しい歌を歌え」

 今日の箇所で主は、バビロン捕囚後、イスラエルを救うために来られるメシア(救い主)について、イザヤを通して語られます。主はイスラエルに「新しいこと」をなさろうとしているのです(43章19節)。しかしこう話すとイスラエルはすぐに、ダビデのような政治的・軍事的に長けた、力強い王の出現を期待したことでしょう。しかし主が約束されるメシアは、そのような人間的な基準とは大きく違った、油注がれた方(42章1節)でした。

  彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
  彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、
  まことをもって公義をもたらす。
  彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
  こうして見えない目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。
   (42章2~4・7節)

 これこそ真の救い主の姿です。何と柔和な救い主の姿でしょうか! もうおわかりだとは思いますが、これはイエス・キリストのことなのです(マタイ12章18~21節参照)。この世の権力者は、大声を張り上げ、いたんだ葦のように弱った民の心をへし折り、風前の灯火のような民の希望を吹き消してしまうでしょう。しかしこの救い主は、民を支配するのではなく、柔和と謙遜によって民の目をひらき、十字架の愛によって、あらゆる束縛から民を解放してくださるのです。この方を思うときに、私たちの唇には、自然と賛美が生まれます。

  主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。
  海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。
  荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。
  セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。
  主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。
   (42章10~12節)

 「主に向かって新しい歌を歌え」とありますが、「新しい歌」とは何でしょうか? それは、単なる新しいメロディーの曲という意味ではありません。そうではなくて、この救い主に出会い、暗闇から光に、絶望から希望に移されたことを感謝する歌なのです。イザヤの時代のイスラエルの人々は、まだこの救い主を見てはいませんでしたが、信仰によって「今や、それは芽生えている」(43章19節・新共同訳)と信じることができたのです。
 私たちもまた、試練のなかで、まだこの光が見えないときもあるでしょう。しかし、そうであっても、信仰によってこの方を仰ぎ見、心からの賛美をささげることができるのです。

  あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、
  川を渡るときも、あなたは押し流されない。
  火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
   (43章2節)

 そして何よりも、私たちは大きな主の愛を覚えて、心からの賛美をささげたいものです!

  わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
   (43章4節)

【金曜】 イザヤ書44章
「わたしに帰れ」

 昨日の43章19節をもう一度、新共同訳で引用しましょう。そこには「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」とありました。特に「今や、それは芽生えている」との言葉が印象的でした。救い主はやがて来られます。しかしもう、その新しいことはすでに始まっているのです。その新しい時代の幕開けに際して「今」イスラエルの民は、もう一度、何を確認すべきするべきなのでしょうか?

  今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
   (44章1節)

 イスラエルがまず確認すべきなのは、自分たちが主によって選ばれた民であり、主のしもべであるということです。逆にいえば、主こそが自分たちの神であり、自分たちは主のものであるということです。この主は、いったい、どのようなお方なのでしょうか?

  あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主・・・。
  わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
  恐れるな、おののくな。・・・ほかに岩はない。わたしは知らない。
   (44章2・6・8節)

 まず主は、ご自身のことを「あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主」であると紹介されています。主は私たちをも母の胎内にいるときから形造り、守ってくださいます。このお方は天地万物を創造された神なのです(44章24節)。

 また主は、ご自身のことを「初めであり、終りである」とも紹介されています。これは主が永遠なるお方であると同時に、地上の歴史をも支配されているお方であることも意味しています。
 イスラエルの民のなかには、自分たちが捕囚になったことにより、主が自分たちを見捨てたと感じている者がいました。私たちのなかにも、そう感じている人があるかもしれません。
 しかし主は御心にしたがい、すべてのことを益としてくださるお方なのです(ローマ8章28節)。

 そして最後に主は、ご自身のことを「岩」であるとも紹介されています。「岩」とは「安全」と「保護」の象徴です。この主が私たちを守られるのです。そして主は「このような神が、ほかにあろうか?」と問いかけているのです。もちろんいません。
 しかし、イスラエルは今までにも何度となく虚しい神々(偶像)を慕い求めました。

  偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。
  彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
   (44章9節)

 偶像の正体とは、いったい何でしょうか? それは、鉄や木から人間によって細工されたものなのです(44章11節)。人によって造られたものが、人を助け、人を罪から救うことができるでしょうか? いいえ出来ません! いくら「私を救ってください。あなたは私の神だから」(44章17節)と祈ったとしても、それはむなしい行為なのです。
 私たちも、ともすれば、この世の虚しいものを頼りにしていないでしょうか?
 まことの主は、こう言われます。

  わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。
   (44章22節)

【土曜】 イザヤ書45章~46章
「ご自身を隠す神」

 今日の箇所は驚くべき言葉で始まっています。

  主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。
  「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、
  彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」
   (45章1節)

 クロスとはペルシヤの王です。彼は紀元前539年に新バビロニア帝国を攻撃し始め、その年の10月に新バビロニア帝国を陥落させ、凱旋将軍のように入城しました。このクロス王のおかげで、イスラエルはバビロン捕囚から解放され、自分たちの国に帰ることができるようになるのです(45章13節)。
 しかしここで驚くべきなのは、主はこのクロスをして「油注がれた者」と呼んでいることです。少なくともクロスは、真の神様を知りませんでした。

  わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。
  あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
   (45章5節)

 でも実際は、このこと自体が主の偉大さを証明しているのです。主は誰でしょうか? このお方は、光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する、すべてを造られるお方です(45章7節)。またこのお方は、天を創造し、地を形造り、これを仕上げられたお方でもあります(45章18節)。このお方はすべての歴史を支配しておられるゆえ、異邦人の王でさえ、ご自身の目的のために用いることができるのです。

 私たちもそのことを信じるでしょうか? 私たちが助けを必要とするとき、その人自身は主を知らなくても、教会に行っていなくても、聖書読んでいなくても、主がその人を用いて、私たちに必要な助けを与えることができるのです。クリスチャンはときに傲慢になってしまいます。主は、意外な人を通して、私たちを助けられるかもしれません。

  イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。
   (45章15節)

 この言葉は、主がクロス王のような異邦の民を通しても働かれることを意味していますが、それと同時に、主が偶像とは全く性質を異にしていることも意味しています。偶像は立派な外見を持っていますが、その偶像には、人を助ける力はありません。それどころか、人の重荷ともなります(46章1~2節)。それに対して主は、むしろ「ご自分を隠される」、目には見えない、霊的なお方ですが、この方には、本当の意味で人を救う力があるのです。

  わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。
  胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
  あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
  あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。
  なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
   (46章3~4節)

 何という慰めでしょうか? このお方は、私たちがまだ母の胎内にいるときから、しらがになっても、私たちを愛し、背負い、救い出してくださるお方なのです。一瞬たりとも、私たちを離されることはありません。あなたはこの主に、全幅の信頼を置いていますか?