旧約 第39週
イザヤ書11章~30章

日本キリスト改革派教会 東京恩寵教会 協力牧師
千ヶ崎 基

2009年10月31日 初版
2009年11月28日 第2版

【日曜】 イザヤ書11章~13章

 インマヌエル説教と呼ばれる部分の最後に位置しているのが11~12章であり、ここにメシア預言があります。
 11章1節で、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」と記されています。「根株」というのは切株のことです。太い幹に成長した大木が斧で伐採される。根元に斧が入れられるということは、その木にとって瀕死の状態に陥ることを意味しますが、神様はその絶望のなかから新しい芽を生えさせるというのです。
 しかも、2節に「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」とあり、メシアが真実に主を知り、主に従う存在であることが示されています。
 そのメシアの王としての働き(3~5節)、支配する世界の様子(6~9節)、メシア到来によって人々が集まり(10節)、やがて一つの民として新しくまとめてくださる(11~16節)ことが記されます。そして、12章はメシア到来による救いの御業を賛美する内容となり、そこでは信仰にとって要となる神を信頼する思いが豊かに表わされています。

 13章から次のテーマへと入り、諸外国へのメッセージが語られます。13章は、続く14章23節までと合わせて、バビロンに対するメッセージです。「主の日」(6・9節)、「残酷な日」(9節)、「怒りの日」(13節)、「その日」(22節)という表現から、神様が裁きをなされる「時」が必ずあることを思わせると同時に、神の主権が全世界に及んでいることをも覚えることができます。

【月曜】 イザヤ書14章~16章

 諸外国に対するメッセージが続きます。これらがあること自体、神の力が届かない所は一つもないことを表しています。

  1. バビロンに対して(13章~14章23節)
  2. アッシリアに対して(14章24~27節)
  3. ペリシテに対して(14章28~32節)
  4. モアブに対して(15章1節~16章14節)

 バビロンの滅亡に関しては、イスラエルの民がバビロンの滅びる姿を見てあざけり歌うようになる(14章3~21節)というかたちで表現されます。ここで特徴的なのは、バビロン滅亡の記述の前に、イスラエルの回復(14章1~2節)があることです。神の裁きと同時に、イスラエルが再び回復させられるという出来事があります。それは神の「あわれみ」(14章1節)により、神が備えてくださる土地に「いこわせる」(同1節)という仕方で実現されていきます。神が罪人を救われる動機と結果が見事に語られているために、神の恵みをはっきりと見ることができます。

 14章24~27節のアッシリアに対するメッセージにおいて、「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する」(24節)から、神の永遠のご計画とその成就の確かさに目を開かれます。
 また、14章28~32節のペリシテに対するメッセージにおいて、「異邦の使者たちに何と答えようか。『主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。』」(32節)から、神の主権によってイスラエルが守られることがわかります。
 そして、15章1節~16章14節のモアブに対するメッセージの、「これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである」(16章13節)から、神の御言葉による啓示に、真実な裁きと救いのメッセージがあることに気づかされます。

【火曜】 イザヤ書17章~20章

 諸外国に対するメッセージが続きます。

  1. ダマスコとエフライムに対して(17章)
  2. クシュ(エチオピア)に対して(18章)
  3. エジプトに対して(19~20章)

 ダマスコはアラムという国名と同じものとしてとらえられるほど重要な都市です。このダマスコと北イスラエルのエフライムとが地理的にも近かったために、密接な関係にありました。その密接な関係は、生ける真の神に信頼を置くことよりも両国の同盟を優先し、そこに揺るがない生活の安全性を求めていきました(17章)。
 そこでイザヤは、人間の力や知恵に頼ることが空しいことを明らかにします。その手で生活の安心を得ようとしても、実際に事を決定し、実行されるのは神御自身です。したがって、神を忘れる者たちが好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさし、植えたものを育てても、神は病といやしがたい痛みの日に収穫を奪い取られると警告されるのです。

 ダマスコとエフライムよりも力のあったクシュ(エチオピア)のことが18章で取り上げられています。ここでは、神の呼びかけ(1~3節)、裁きの報告(4~6節)、神の主権をクシュ(エチオピア)が認めることの預言(7節)が語られます。クシュに対するメッセージは裁きのメッセージだけではないようです。

 19章からのエジプトについては、クシュ(エチオピア)との関係も触れられ、やはり両国が生ける真の神を忘れて歩むために、アッシリアを通しての裁きが預言として語られている。しかしながら、19章16~25節には神の裁きの後にエジプトの悔い改めによって神を認めるようになるとの回復の預言があります。エジプトであったとしても、神の御前に悔い改めへと導かれるならば、真の平安のなかに招き入れられる余地があるのです。これこそ神の深い憐れみに他なりません。

【水曜】 イザヤ書21章~23章

 諸国に対するメッセージが続きます。

  1. バビロンに対して(21章1~10節)
  2. エドムに対して(21章11~12節)
  3. アラビヤに対して(21章13~17節)
  4. 幻の谷、エルサレムとユダに対して(22章)
  5. ツロに対して(23章)

 21章1~10節のバビロンに対するメッセージは、「倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた」(9節)から、滅びのメッセージだと分かります。また5節には、バビロンと手を組んだ者たちの安堵の様子が記され、人の力による結束こそ最も確実な力と思わせる表現が出てきます。しかしそれは、人の手に頼る平和の獲得が確実なのか、それとも神に頼る平和の獲得が確実なのかを、神の民に深く考えさせる内容となります。

 21章11~12節のエドムに対するメッセージにおいて、新改訳「夜回り」、新共同訳「見張りの者」と言われているのは、預言者のことであり、その預言者から、単調に見える時間の流れにおいて神からの試練が現実にある、という厳しい現実が語られます。

 21章13~17節のアラビヤに対する託宣に、「まことに主は私に、こう仰せられる」(16節)という言葉があり、神の主権を思い出させます。世界を治める神の存在を豊かに指し示しているとも言えます。

 22章は、幻の谷と称されるエルサレムとユダに対して神の裁きがあることを示すメッセージとなっています。それは5節の「なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では、城壁の崩壊、山への叫び」などからわかります。エルサレムとユダは、「なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、『飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから』」(13節)とあるような生き方をし、神からの警告(12節)を示されていても、自分の手による安心を喜び続けていく。そうして神の語りかけを無視して立ち帰らないときに、その罪は赦されず(14節)、神の裁きを招いてしまうのです。

 23章はツロに対してのメッセージで、ここにも神による裁きの内容が色濃く出ています。フェニキヤの主要都市としてのツロとシドンの名が出てきて、貿易などによる繁栄が滅んでいくと語られています。物に頼る考え、偶像の神に頼る考えは、いつしか神の裁きの対象となり、滅びへと向かわされます。それをご計画し、実行されるのは、まぎれもなく主御自身です(8~9節)。
 15節以下には、ツロの悔い改めと新しい生まれ変わりの姿が預言されます。神を知らずに生きている者たちにも、神の主権によって恵みがもたらされることが示されていきます。

【木曜】 イザヤ書24章~26章

 イザヤ書24~27章には、神の裁きと救いの両面が語られていきます。

 24章1節に「見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる」とあり、神の裁きの預言が語られていくことがわかります。神の裁きを物語る内容は数多くの表現で記されていきますが、そもそも神の裁きが下されることとなった原因はどこにあるのでしょうか。それは、人が神の律法を軽んじ、神との永遠の契約を破ったことによります(5節)。しかし、神の裁きが下るなかにもわずかな者が残され(6節)、そのなかから神の御名をあがめて賛美し、神の栄光をあらわす者たちが起こされるという(15~16節)、憐れみ深い御業についても言及されているので、神にある希望の光を見ることができます。

 25章には、神がなされる御業を証しし、賛美する言葉が語られていきます。神がなされる御業には、これまで見てきたような裁きと同時に救いも含まれます。たとえ神の民が諸国民によって支配されていたとしても、神はそこから御自分の民を救い出されます。そして、その神の救いの御業は神御自身のうちにあるご計画に従って行われていきます(1節)。したがって、そのご計画には偽りも狂いもありません。神のなさる確実な救いの御業をほめたたえることこそ真の喜びの声となり、生きる力そのものとなります。こうした御業について「主が語られた」(8節)のですから、神の主権によって確かに裁きと救いが行われることを知り、救いの確かさをも抱かせていただけます。

 26章1節にある「その日」は、神に背を向ける者たちに対する裁きが行われる時であり、その時に神の民は救いに入れられます。高い所に住む者(5節)は、世の力により頼む者です。そして、世の力に頼る者を神は裁かれます。その反対に、「どこまでも主に信頼」(新共同訳3・4節)する者たちは、神が備えてくださる場所に入り、神と共にあり、本来の平和と喜びと希望のなかに憩わせていただけます。神に信頼することこそが、本来のあるべき姿です。神への信頼が、自分の人生を肯定し、目の前にある自分の人生に希望を持って歩むこと(8節)と結びついていくのです。

【金曜】 イザヤ書27章~28章

【土曜】 イザヤ書29章~30章