旧約 第38週
伝道者の書9章~イザヤ書10章

日本福音キリスト教会連合 大月福音キリスト教会 伝道師
奥多摩バイブルシャレー プログラムディレクター

大倉 寧

2009年10月31日 初版
2009年11月28日 第2版

【日曜】 伝道者の書9章~12章

 この伝道者の書は、「知恵」ということを要所要所で示していますが、このクライマックスのなかで、その中心について教えています。

  1. 創造者を覚えること(12章1節)
  2. 創造者を知ることの大切さを伝えること(11章1節)
  3. 神はすべてについて裁きをなさること(12章13~14節)

 日本の社会において、一般的には、「創造者」「創造主」は存在しないと考えるほうが知恵のあることと考えている人が、圧倒的に多いように思えます。そして、創造主の存在を信じていることが、あたかも「知恵のない」ことのように思われているわけです。
 しかし、真実は違うことを聖書は繰り返し証しています。

 創造主である神を知った人は、9章2節で「すべての事はすべての人に同じように起こる」と言われるとおり、神を信じるか、信じないかによって、お金持ちになったり、特別健康であったり、ご利益があったり、ということはないことを知ることができます。
 しかし、そうでない人たちは、そのようなことが理由で「神などいない」と結論づけてしまうことがあります。神が存在するのであれば、神を受け入れる人だけが、ご利益を得ることができると、あまりにも単純に結論づけてしまうのです。

 ここでは、神様がそういうお方ではないことを、はっきり示していることがわかります。私たちに本当の知恵=真実の知恵を持つべきだということを教えています。
 1つ目は、9章で教えているとおり、「正しい人」も「悪者」も、そのことが理由で、受けるものが左右することはない、ということです。まさに「ご利益宗教」とはまったく違うところです。
 2つ目は、宣教を継続することが、知恵ある者の使命であるという側面です(10章)。「あなたのパンを水の上に投げよ」(11章1節)は、伝道の活動にたとえられるところです。
 3つ目は、最終的に結論として、神に従うことが最も知恵のあることで、それが「すべて」であるということです。そして、それは裁きを伴うことを忘れてはならないのです。自分の見える範囲での世間から蔑まれていることを理由にして、この知恵を受け入れないという結論を出すのはナンセンスです。

 私たちの住んでいる日本は、世界でも、最も宣教の困難な地だと言われます。国は豊かで、経済的に不況といっても食べるに事欠くことはまずなく、治安も比較的良い社会です。しかし、この先進的な社会であることが理由で、ある人は「日本は世界でも最も知恵のある国民であり、社会である!」「他の国の多くの国民のように『神』の存在など認めている人たちより、自分たちのほうがはるかに勝っている!」と認識してしまっています。
 しかし、本当にそうでしょうか。
 聖書の説明している永遠の視点からするならば、そこに落とし穴があると考えられます。真の神にある知恵、真実を見失いながら、ただ相対的なものの見方のなかで、「恵まれている」ということだけで、「それがすべてだ!」と判断することでは、かえって、それが邪魔をして、真理から遠ざかってしまうこともあるのです。

 キリストにある者、主にある教会が、どんなに世間に拒まれ続けようとも、小さい群れであることが長く続こうとも、人の目から見て成功と思われるようなことがなかったとしても、私たちは、この社会に、福音である「真の知恵」を伝えていくことを、希望をもって続けるべきなのです。神様の存在を伝えること、宣教というのは、「時が良くても悪くても」(第二テモテ4章2節)、状況に左右されずに継続すべきものだからです。
 「神の裁き」に恐怖を抱くゆえに信仰を持つことは、ある意味、正しい信仰とは言えないのですが、「すべてを正しく裁かれる神様がいらっしゃる」という確かな視点を持つことは必要なことです。
 真実なお方を知ることに喜び感謝しつつ、本当の意味で、全能であられる神を畏れながら、歩みを進めてまいりましょう。

【月曜】 雅歌1章~4章

 この雅歌という聖書の書簡は、本文の意味をそのまま理解するのが難しく感じられます。「男女愛の歌が、なぜ、神の真理を語る聖書に記されているのか?」という疑問を、多くの人が抱くようです。
 内容をそのまま読む場合には、確かに多くの人が感じるとおりでしょう。ただ、この書物は、古来、ユダヤ教において、「神」と「神の民」の間の愛について歌われていると理解されてきました。ですから、キリスト教においても、これは「キリスト」と「教会」の愛の関係を示していて、そのように理解され、解釈されるべきものであることがわかります。
 そうだとすると、ここに出てくる表現から教えられることを考えることができるので、その理解を基本にして読み進めていくのが相応しいでしょう。

 神と、私たち人との愛は、「純粋」で、ある場合には「単純」であるといってよいでしょう。難しいことを挟まずに、その愛が存在するべきことである、ということです。
 キリスト教は、決して短いとは言えない伝統と歴史のなかで、学問的に研究・分析を深めることによって、神学というものを発達させてきました。それはそれで大切な研究ですし、そのような学問的な掘り下げや、スタイルがあったからこそ、福音の理解も進んだのは確かです。
 ただ、ここで開かせていただいているところでは、そのような、学問的とか理知的であることは強調されません。単純に、純粋に、ときには感情的に、神様への愛と、救い主イエス様の愛に感謝をして、その愛の思いを深め、浸り、気持ちを寄せる。そういうこともなされてよい、と示しています。
 これは、もちろん、信仰生活、教会生活において、どちらかに極端になることではありません。偏りは間違いを招くので注意が必要であり、そのような意味でも、聖書は様々な側面から、神学を、感情と知性のバランスをもって語っています。そういうバランスのなかで、私たちも、感情の歌と思いを、知性と同じく持っていくことは、あってよいこと、いやむしろ、なくてはならいない重要なことであると思うのです。
 以下、すべてを細かく見ていくことは量の関係で難しいので、2つの箇所だけピックアップします。

 「真心からあなたを愛しています」(1章4節)
 非常にシンプルな言葉でありますが、主の真実のなかで語られるこの言葉は、本当に深い愛の言葉であるのです。「真心」という言葉を、昨今では耳にすることが少なくなったようにも思います。しかし、あえて、そのような現代日本の私たちに、真心をもって、神様と自分をとらえるように、と示しているのです。
 愛し、愛されることのすばらしさ、その魅力をここでは教えています。

 「あなたの愛は、なんと麗しいことよ」(4章10節)
 私たちのうちに「神様を愛する愛」がより豊であるならば、それを主ご自身はたたえてくださるというのです。神様が私たちを愛してくださっている、という感謝のなかで、その愛に単純に応えることで、その応答に純粋に神様ご自身が喜び、そして、それを称賛してくださるのです。

【火曜】 雅歌5章~8章

 昨日のところで、雅歌という書物が「キリストと教会の愛の関係」を示していることを確認しましたが、一方で、男女の愛の麗しさと大切さを見ることができるのも、この雅歌です。愛し、愛されることのすばらしさ、その魅力ということも、見ることができます。
 現代は「言葉が軽い時代」などといわれることがありますが、ここに記される言葉では、その愛の表現において、ほめたたえる言葉が「駆使」されているということができるでしょう。「いかに愛しているか」ということを、口先だけでなく表現するのです。

 聖書は、間違った男女関係を禁ずるだけでなく、正しい男女関係、夫婦関係の大切さについても、しっかりと繰り返し教えます。この雅歌では、愛し合う男女の豊な感情、愛の深まりが、美しく表現されています。神のご計画のうちに導かれる夫婦にとっては、性愛をも含めた情感豊かな男女の愛も、祝福され、豊かな関係を築いていくものとされるのです。
 清い男女関係が重要であるとともに、夫婦関係においては、その深まり、愛し合う感情を育て、想いが他の方に向かないようにすることが大切なのです。互いの人格そのものを本当に愛し合うことは、きちんと進められるべきで、お互いの存在を本当に喜ぶことが大事なのです。雅歌には、相手の外観をたたえるところをいくつも見ることができますし、ときには相手の姿かたちをほめるのも大切だと思います(もちろん外観がすべてではありませんし、注意を要する場合もあるでしょうが)。

 しかし、いずれにしても、男女を互いに愛する愛は、真実の愛でなければいけないので、よく言われる駆け引きの愛、感情の赴くまま欲を満たすだけの愛、というのは間違いといわなければならないでしょう。世界の様々な文化のなかで、男女の関係が乱れる社会にあっては、聖書の示す本来あるべき男女の愛の在り方は、歴史的に見ても理解されにくい状況にあります。私たちの住む日本でも、現代はそれに拍車がかかるばかりです。
 しかし、真実の愛は、そのような一時的な感情を超えて存在するものなのです。ですから、充分注意をしなければなりませんけれども、正しい夫婦の関係と、それを築き上げるプロセスにあっては、その感情の想いをより育てていくことも、神様の与えてくださる賜物だと思います。
 夫婦となる男性と女性は、本当に愛し合うこと、しっかりと深く愛し合うこと。それが神様の創造の業から求められるものです。当然感情も伴うことであり、愛を豊かに表現することです。残念ながら、そのようなあるべき夫婦の関係も、時間の経過によって薄くなってしまいがちであることは否めません。そのような風潮が、結婚という、神の定められた制度をも、魅力のないもののように扱うのです。夫婦の在り方、本当の愛の意味は、しっかりと聖書全体から学んで理解しなければなりません。

 さて、今日のところからは、1箇所だけ取り上げてみます。
 「女のなかで最も美しい人よ」(5章9節、6章1節)
 「キリスト」と「教会」の関係においては、真の教会の信仰における確かな歩みが「最も美しい」ということになります。夫婦の関係においては、相対的にナンバーワンということではなく(もちろん容姿のことでもありません!)、神様の与えてくださっている伴侶であるという真実のなかで、お互いにとって「最も美しい」といえる存在ということではないでしょうか。将来結婚したいと願っている方にとっても、お互いに「最も美しい」といえる伴侶が導かれるよう祈ることも大切だといえます。

【水曜】 イザヤ書1章~2章

【木曜】 イザヤ書3章~5章

【金曜】 イザヤ書6章~8章

【土曜】 イザヤ書9章~10章