旧約 第37週 箴言19章~伝道者の書8章
BibleStyle.com
日本同盟基督教団
新発田キリスト教会 牧師
本間 羊一
2009年10月31日 初版
【日曜】 箴言19章~21章
「箴言」は、8つの収集物から構成されています(山口昇・後掲文献670頁)。
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序言(1章1~7節)
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知恵についての教え(1章8節~9章18節)
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ソロモンの箴言(10章1節~22章16節)
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知恵ある者の言葉(22章17節~24章34節)
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ヒゼキヤによるソロモンの箴言(25章1節~29章27節)
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アグルの言葉(30章1~33節)
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レムエルの言葉(31章1~9節)
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しっかりした妻(31章10~31節)
19~21章は「ソロモンの箴言」に属します。ここにある箴言が、ソロモンの手によって直接すべて書かれたわけではなく、後世の者が編纂したと考えられます。彼自身の手による箴言も含まれたと考えられますし、彼以前や彼以後の箴言も、ソロモンの名の下に編纂されたのでしょう。
箴言には、賢い者と愚かな者、勤勉な者と怠け者、正直者と偽善者、といった正反対の人物が登場します。そして、前者は神の祝福を受けて豊かになり、後者は神から罰せられるのだという個所が多くあります。今日の個所においても、ある者たちは祝福を受け、称賛され、またある者たちは厳しく罰せられ、断罪されている箴言が多くあります。たとえば以下のような個所です。
「怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える」(19章15節)
「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう」(20章7節)
「勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ」(21章5節)
これらの箴言は一見すると、祝福の道か、罰の道かの二者択一を迫るようにも感じられます。では、これらの箴言は、現代風に言えば“勝ち組”と“負け組”の法則のようなものなのでしょうか。いや、単純にそうは言えないのです。
箴言の底流には、神がこの宇宙、世界、社会のすべてのものを創造され、支配され、保たれ、導いておられるという信仰的な思想があるのです。その意味で、箴言が説くのは現世利益的な助言というような類ではありません。その証拠に箴言の作者たちは、人間の知恵では、はかり知れないことがあることを認めていました。
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(19章21節)
「主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない」(21章30節)
また、箴言の作者たちは、富や財産、名誉よりも、重要なものがあることも知っていました。
「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」(19章1節)
いかに成功や富を得るかが第一義的なことではありません。あくまで重要なのは、すべてを導く神の意志なのです。神の創造、支配、保持を信じて、誠実に生きていくべきであるという生活が勧められているのです。
【月曜】 箴言22章~23章
22章17節~24章34節は「知恵のある者のことば」(17節)と呼ばれています。旧約聖書においては、祭司や預言者と並んで、「知恵ある者」(賢人)という職務があったと考えられます。「祭司から律法が、知恵ある者からはかりごとが、預言者からことばが滅びうせることはないはずだから」(エレミヤ18章18節)。祭司は律法を解釈し、預言者は神の御心を宣言し、知恵ある者は日常に関しての実際的助言をしたと考えられます。
聖書学者たちは、22章17節~24章34節の「知恵のある者のことば」が、ソロモンの時代より古い古代エジプトの知恵文学「アメン・エム・オペの教え」と類似していることを指摘します。箴言が古代エジプトの文学の影響を受けていると推測されます。ソロモンの時代は国際交流が盛んであり、イスラエルにもエジプトの文化が入っていたでしょう。聖書は特別な「神のことば」ですが、他の文化から隔離されて無菌室で純粋培養されたような書物でもないのであって、色々な文化の影響も受けたのです。そのように聖書には他の文学との類似性があります。しかし、その底流に唯一無二の思想が流れていることも確かです。私たちは遥か昔の古代オリエントの時代に思いを馳せつつも、箴言独自の神のメッセージを読み取るという醍醐味を味わうことができるのです。
今日の個所からは、貧しい者への配慮や、富や権力への警戒といったテーマが読み取れるのではないでしょうか。「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな」(22章22節)。「知恵ある者」は、貧しい者たちに対して優しくし、その社会的権利が守られるように配慮すべきであり、一方、富や権力に安易に惹かれてはならないと言うのです。
日本国際飢餓対策機構というキリスト教系の団体があり、私の奉仕する教会にも毎月、ニュースレターや資料が届きます。「世界食糧デー」(毎年10月16日)のポスターには次のようにありました。
「食料価格高騰で、世界中が揺れた昨年。さらに、金融危機が追い討ちをかけ、飢餓人口8億5千万人が、現在10億人近くまで増えています。豊かな国日本に住む私たちは、飢餓に苦しむ人々と何も関係がないと言えるでしょうか? 世界人口68億分の一の『わたし』かもしれませんが、私たちが何かを始めるときに、その輪が広がり、共に分かち合う世界に変わることを信じ、始めてみませんか」(2009年のポスターより)。
日本にも飢餓問題に取り組む尊い働きに従事したり、支援したりする方々がいます。一方で、同じ日本で、貧しい方々への生活保護を搾取しようとする“貧困ビジネス”が問題になっているこの頃です。貧しい者に配慮せよ、との勧めは、そのような世界や日本にある様々な貧困や飢餓の問題と切り離して読むことはできないのではないでしょうか。もちろん、何もかもはできませんが、世界中で苦しんでいる人々のことを少しでも知り、少しでも行動することを、心掛けたいと思います。
【火曜】 箴言24章~26章
先日の個所に続いて24章34節までが「知恵のある者の言葉」で、25章1節~29章27節は「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」となります。「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」は、ソロモンより約200年後のヒゼキヤ王の時代に編集されたものと考えられます。ある注解書には、ヒゼキヤに大きな影響を与えたのは預言者イザヤであり、そのイザヤ的な思想が25章2節には含まれていると指摘されています(鍋谷堯爾・後掲文献187頁)。
「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」(25章2節・新改訳)
「事を隠すのは神の誉であり、事を窮めるのは王の誉である」(25章2節・新共同訳)
この2節は、含みのある箴言だと思います。王は、国を治める責任がありますから、あらゆる物事を探り、知識を極めることが、良い王としての誉れを受けることにつながります。しかし、一方で、人間がどんなに知識を極めたとしても、神の御旨を探り極めることはできないのです。
有名な C. S. ルイスは、『悪魔の手紙』(守安綾・蜂谷昭雄訳、新教出版社、1995年)という面白い本を書いています。その本に出てくる「悪魔の手紙」には、いかに巧妙に人間を神から遠ざけるかの手解きが記されています。悪魔は、人間が「自分を造ったかたにではなく、自分が造った物に向かって」祈らせるようにすべきと説きます。反対に、人間が「わたしが考えるあなたにではなく、あなたが御承知のあなた御自身に」祈るように意識してしまったら、悪魔は「われわれの立場は絶望である」と言うのです。
ここでルイスが示唆するように、人間はしばしば自分のイメージにおさまるような矮小化した「神」を心に造り上げてしまい、それで「神」をわかったような気になってしまうものではないでしょうか。人間にとって知識や知恵はもちろん大切ですし、それを求めて努力することも大事なことですが、神ご自身の御旨のすべてをはかり知ることはできないのだという謙遜さを欠いてはならないのでしょう。詩篇139篇も思い出します。
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
(詩篇139篇1~6節)
【水曜】 箴言27章~29章
「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」(25~29章)の続きです。
ある注解書には、28章10~28節のあたりには、特に貧しさと富のテーマが多く見られると指摘されています。世のなかには、貧しい者と富む者がいるというのが現実です。その現実のなかで、いかに神の御心に沿ってふるまうか、という知恵を読み取ることができるでしょう。
またそのような現実的なテーマが流れているようななかでも、28章13節のような深い宗教性を感じさせる個所もあります。やはり箴言は、単なる現世利益的な助言ではないのです。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」(28章13節)
神の前に罪を告白するか、否かが、良い人生を歩む鍵と教えられています。これは現代の信仰者にとっても同様でしょう。神の前には、何一つ隠さず、祈りのなかで弱さをさらけ出してよいのです。いや、そうすべきなのです。祈りが言葉にならないのなら、一言「主よ・・・」と祈ってもよいでしょう。「言葉にならないのです」と素直に祈ってもよいでしょう。神の前に心を隠す必要はないし、そもそも隠すことはできないのです。アダムとエバが、食べてはならない木の実を食べたとき、神から隠れました。ここに罪ある人間の原型があるのです。
また、私たちは教会のなかや、兄弟姉妹との交わりにおいても、ときに罪を告白し合うことがあってしかるべきだと思います(なんでもかんでも暴露し合えばいいということではありませんが)。私たちはともすると、良いことや嬉しいことがあれば、恵みの「証し」だと言って報告します。もちろん、そういう証しも素晴らしいものです。しかし、そればかりが続くとしたら、御利益宗教との差は何なのだろうか、わからなくなるかもしれません。ときには、「自分にはこういう弱さがある、こういう誘惑がある、だから祈ってくれ・・・」と自らの罪を告白するのも、主イエスの赦しや恵みを「証し」することにつながっていくのではないでしょうか。
【木曜】 箴言30章~31章
30章は「マサの人ヤケの子アグルのことば」、31章1~9節は「マサの王レムエルのことば」、31章10~31節は「賢い妻」というテーマでの詩です。
「マサ」についての詳細は不明です。アブラハムと女奴隷ハガルの間の子イシュマエル(→イスラム教の聖典コーランではアラブ人の祖とされる)の子孫にマサという名があることから(創世記25章14節、第一歴代1章30節)、箴言の「マサ」とはアラブ人の一部族のことであろうとも言われます。イスラエル王ソロモンの名が冠される箴言に、外国人の作品が挿入されたことの詳しい経緯は分かりませんが、29章までとは趣の異なる箴言となっております。
特に、30章2~4節には、「神の超越性に対する人間の無知についての告白」(鍋谷堯爾・後掲文献207頁)という主題があります。
4節の「風」と言うのは「ルーアッハ」というヘブル語で、「息」や「霊」とも訳されます。「風を集める」という表現は、ヨブ記34章14節や詩篇104篇29節にもあります。「もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る」(ヨブ記34章14~15節)。
ある聖書学者は、これらのヨブ記や詩篇の個所とイメージは同じであろうと指摘します(パーデュー・後掲文献)。そうであるならば、「風をたなごこころに集める」とは、神こそ生きとし生けるものに生命を与え、そして取り去る(集める)お方であることの表現です。「水を衣のうちに包む」というのは、生命に潤いを与える水(雨)の一切を司る神を表現しています。
4節には、「この全宇宙を創造し、すべての生命の生死を司るお方は誰か!?」という叫びがあるのではないでしょうか。確かに私たちは「それは神だ」と答えることができます。しかし、それではたして神を本当にわかったことになるのか、とアラブの賢者アグルは問うてくるのです。本当に「あなたは知っているのか?」(新共同訳)と。
30章5~6節は、その問いに対する応答のようなニュアンスがあるのかもしれません。
「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾」(30章5節)
「神の尊厳は、それ自体人間の理解力を越え、この力をもっては把握することができない。そこで私たちは、かくも偉大な光輝に圧倒されないためには、これをせんさくすることをやめて、この気高さを崇敬しなければならない。そのために私たちに必要となって来るのは、神をその御手の業においてたずね、また考えるということである。・・・中略・・・御言葉は、神をその御業について、まことによく記して私たちを教えている」(カルヴァン『信仰の手引き』新教出版社、11~13頁)。
私たちは神を「把握」しようとか、「せんさく」しようとかするべきではなく、「気高さを崇敬」する心で御言葉(神のことば)に聞くべきなのです。箴言全体を貫く主題は「主を恐れることは知識の初めである」(1章7節)の御言葉です。主を恐れ敬うことなくして、神のことばを本当の意味で読むことはできないのでしょう。
【金曜】 伝道者の書1章~4章
「伝道者」という語は、ヘブル語ではコーヘレスで、「集会を招集する者」という意味で、ある種の職務を指していると考えられます。その著者や年代については、様々な解釈があります。詳しいことは省きますが、「伝道者の書」は実にミステリアスであり、それゆえに興味深い書であるということだけは言えます。
「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1章2節)
「空」とは、ヘブル語で「ヘベル」で、「息」という意味もある語です。つまり「空の空。すべては空」とは、吐く息が一瞬に霧散するかのように、すべてのものはやがて消え去る虚しいものにすぎない、という意味です。著者は、「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない」と、すべてを否定します。各時代に起こる様々な新しい文化、政治、事業・・・それらも著者の目には、何一つ新しくはなく、虚しいばかりです。
「むなしい、むなしい」と一切を否定し去る言葉のなかに、ある種の清涼感のようなものを感じるのは、私だけでしょうか。明治生れの旧約学者であり、詩人でもある松田明三郎という人は、次のようなことを記しています。
「われわれは此の大胆なる厭世的宣言が、世界に於て最も信仰深いと云われるヘブライの民族の一詩人に依て叫ばれ、それがまた、旧約聖典の中に収められておることを思う時、一層驚嘆せざるを得ないのである」
この「驚嘆」は、すべての信仰者の「驚嘆」であると思います。伝道者の書は、私たちの心の奥底にも「空の空」という叫びがあることを教え、その心の闇の領域を明るみに出すことによる不思議な癒しを与えてくれるのではないでしょうか。
しかし、伝道者の書が徹底的にすべてを否定する論調には、とまどいも覚えます。知恵や知識を極めても虚しい(1章13~18節)。快楽を極めても虚しい(2章1~11節)。いや、そもそも、何を極めようが、極めまいが、すべてのものが向かう「死」というものの前には何もかもがむなしいではないか、というところに行きつくのです(2章12~17節)。
先取りするようですが、この伝道者の書の結論は、最後の12章13~14節にあると言われます。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」(12章13~14節)
箴言に通じるような、「神への恐れ(敬い)」をもって、神に従うという実にシンプルな結論に至るのです。しかし、その過程もまた重要なのでしょう。今日は「空の空!」という叫びを存分に味わって、この書を読み進めたいものです。
そして「死」という問題に対する、より明確な答えは、新約聖書のイエス・キリストの福音に待たねばならないということになります。
【土曜】 伝道者の書5章~8章
今日の個所においても、あらゆるものの虚しさが説かれます。宗教の虚しさ(5章1~7節)、政治の虚しさ(5章8~9節)、富の虚しさ(5章10~14節)、人生そのものの虚しさ(6章)などが延々と続きます。6章12節に重要な問いがなされています。「だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを」(6章12節)。死の問題が解決されないとしたら、何がいったい正しいことなのか、また何が人生の意味なのか、誰も答えることができないではないか、との問いかけです。
その問いかけのテーマを引きずりながら、7~10章には、死に向かう人間にとって「何が善であるか」ということの箴言のような言葉が続きます。
8章には、人生の不条理といったテーマも読み取れます。著者は、貧しいか、富むか、長寿か、短命か、その如何にかかわらず、神を敬う信仰者こそしあわせであると知っています。しかしながら、なお正しい者に悲しむべきことが起こり、悪者に喜ばしいことがおとずれるという現実を目の前にしては、「これもまた、むなしい」と世の不条理を嘆くのです(8章12~14節)。
世は不条理なことが常です。私たちの身のまわりにも「なぜ」ということがしばしば起こります。あるいは、世界に目を向けると、不条理な苦しみにあえいでいる人がたくさんいます。彼らを助ける力のない自分に幻滅するときもしばしばです。伝道者の書は、世にある「不条理」という問いを投げかけます。
しかし、この不条理な苦しみに、答えや意味をお与えになるのは、イエス・キリストではないでしょうか。主イエスも、実に不条理な十字架を苦しみぬき、死を遂げました。そして、3日目によみがえったのです。主イエスは、世の虚しさに翻弄され、「空の空」と嘆く人間の弱さをご存じなのではないかと思います。主イエスご自身こそ、十字架という不条理の前に、血の滴るような汗を流しながら祈ったからです。そして十字架上で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ!(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マルコ15章34節)と叫ばれたからです。
参考文献
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山口昇「箴言」「伝道者の書」『実用聖書注解』いのちのことば社、1995年
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鍋谷堯爾、熊谷徹、片岡伸光『箴言・伝道者の書・雅歌』(新聖書講解 旧約13)いのちのことば社、1988年
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尾山令仁、本間正巳他『新聖書注解 旧約3』いのちのことば社、1975年
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パーデュー『箴言』(現代聖書注解)日本キリスト教団出版局、2009年
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『新聖書辞典』いのちのことば社、1985年
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