旧約 第36週 詩篇145篇~箴言18章
BibleStyle.com
日本同盟基督教団
北赤羽キリスト教会 伝道師
増田 満喜子
2009年10月31日 初版
【日曜】 詩篇145篇~150篇
詩篇には多くの嘆きの歌があります。私たちと同じように、暗闇、痛みのなかで主に叫ぶ信仰者の姿が、祈りが、多く記されています。しかし、この書簡は「ティヒリーム」(たたえの歌)と呼ばれました。それは嘆き、痛み、苦しみ、困難のなかにあっても、どのようななかにあっても、主に対する信頼がその根底に流れていたからです。
私たちは神をほめたたえます。しかしその理由は、恵まれたから、感謝なことがあったから・・・それだけではありません。神が神であられるからです。私たちがどのような状況にあっても、どのような状態であっても、神はいかなるときにも神であられ、ほめたたえられるべきお方だからです。
詩篇145篇は146篇から始まるハレルヤ詩篇の導入となっており、ここから150篇に至るまで神に対する願いは述べられません。いかに神がほめたたえられるべき偉大なお方であるかが述べられ、神への賛美で埋め尽くされています。
神にのみ信頼し、望みを置くとき、私たちの人生の喜怒哀楽、どのような経験も、神への賛美へかえられていくのです。苦しみのとき、悲しみで立ち上がれないとき、傷つきすべてが閉ざされたように思えるとき、あなたの神を見上げてください。あなたを愛し、あなたを贖い、あなたとともにおられる唯一まことの、天の父なる神様を見上げてください。あなたにとって、神様はどのようなお方ですか? 「主を喜ぶことは、あなたがたの力であるから」(ネヘミヤ8章10節・新改訳の注**別訳)
最後の150篇は頌栄となっています。全世界のすべてのものが、神に創造されたすべてのものが、神をほめたたえるべきです。全世界が神への賛美であふれ、神をほめたたえる声で地が揺れ動くそのとき、神が私たちを、そして天地万物を創造されたその目的が達成されます。「また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』」(黙示録5章13節)
今日もこの主への賛美のうちを歩みましょう。ハレルヤ!と主を見上げて。
【月曜】 箴言1章~3章
【はじめに】
箴言には多くの知恵と教訓が記されていますが、その知恵は実際生活上の知恵でも知識でもありません。まさに神ご自身から与えられた知恵です。神との関係を前提として、どのようしたら聖い道、祝福された神とともに歩む人生を歩むことができるか、という知恵が記されています。
そしてこの神から与えられた箴言のテーマは、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(1章7節)です。
「主を恐れる」とはどういうことでしょうか。主とは「すべてのものをあらしめる者」「すべてのものの根源」という意味です。その主をただ単に怖がるということではなく、主の恵みと愛への信頼をもち「畏怖の念」をもって、かしこみひれ伏し、従うことです。
真の知識は神様との正しい関係から始まります。
本当の知者とは、神様がこの世界の、宇宙の主であることを知り、そのなかですべてのものを正しく位置づけていく人のことなのです。
【1章】
箴言に記されている神様からの教えに謙遜に耳を傾けるならば、「わきまえのない者」にも分別が与えられ、「若い者」にも知識と思慮が与えられます(4節)。そして、神様によって安全が約束されるのです(33節)。
「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう」(23節)
【2章】
「知恵」は私たち人間の思索によって得られるものではありません。神ご自身が与えてくださるものです。ではどのように神様は今のこの時代、私たちに知恵を与えてくださるのでしょうか。それは聖書によってです。ですから私たちは聖書を開き、みことばを黙想し、暗記し、熱心に神様のみこころを求めるのです。
神様は私たちに「銀のように、これを捜し、隠された宝のようにこれを探り出す」という熱心な姿勢を求めておられます。そして探す者は必ず、見つけ出すのです。
「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」(エレミヤ29章13節)
【3章】
両親は子どもに教え、知恵を授けます。それは子どもに祝福された人生を歩んでほしいからです。神様も私たちの天の父として、愛をもって私たちに神の知恵を守るように命じておられます。それは、神様のみことばに従うことの先に、祝福が用意されているからです。
その祝福とは「長寿」であり、「富と誉れ」(物質的祝福。16節)、「楽しい道」(精神的祝福。17節)、そして「いのちの木」(霊的祝福。18節)です。
クリスチャンにも、もちろん苦しみ、悲しみ、困難があります。しかし、そのような暗闇のなかを歩くときにも、心を尽くして主に拠り頼み(5節)、主を認めて(6節)歩む者には、神様から与えられる決して揺るがされない平安が心にあるのです。
【火曜】 箴言4章~6章
【4章】
親は子どもの祝福された人生を願って子どもたちを教えます。現代の親たちはどのようなことを子どもに教えているでしょうか。様々なことがあるでしょう。しかし、その教えのなかでも、一番大切なことは「主を恐れること」です。「知恵の初めに、知恵を得よ」(7節)。真の知恵の核となる「主を恐れる」ことが抜け落ちてしまってはなりません。
新約時代に生きる私たちにとって、知恵とはイエス・キリストご自身であり、イエス・キリストに従うことこそ、知恵を愛する生き方です。
【5章】
性の問題についての知恵が記されています。性の問題とは非常に大きなものです。ですから箴言では繰り返し、この性の問題を取り上げています。
性の問題に対して、私たちは「知恵に心を留め」「英知に耳を傾け」て、正しく対処しなければなりません。
また誘惑にあったときには、罪の結果がどうなるかを見る必要があります。「苦よもぎ」(4節)とは罪がもたらす苦痛の象徴として用いられます。性的な罪を犯した者は激しい苦痛を味わい、その罪の行き着くところは死です(5節)。
ローマ書6章23節にはこうあります。「罪から来る報酬は死です」。はっきりと聖書は宣言します。しかし、続いてこう言われます。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」。なんという慰めでしょうか。イエス・キリストの十字架の前に、この性的な罪を告白し、悔い改める者を、主は受け入れ、赦し、もう一度立たせてくださるのです。この神の愛の前に応答しましょう。
【6章】
軽率さへの警告が具体的に記されています。気軽に保証人となることへの警告、怠け者とよこしまな者に対する警告、姦淫に対する警告です。
どの罪も、神をほめたたえるために、神とともに歩むために、神が私たちに備えてくださった時間、自分自身、賜物すべてを無駄にするものです。無駄にするどころか、自分自身、社会生活、家庭生活、霊的生活をも滅ぼすものです。
ですから、くどいほどに、聖書は私たちに「知恵を得よ!知恵を得よ!これをあなたの心に結べ!刻め!首のまわりに結べ!」と叫ぶのです。
知恵が「あなたが歩くとき、あなたを導き、あなたが寝るとき、あなたを見守り、あなたが目ざめるとき、あなたに話しかける」(22節)ようになるまで、熱心に祈り求めましょう。
【水曜】 箴言7章~9章
【7章】
続けて聖書は私たちに、性的な誘惑に対する警告を語ります。
性的な誘惑に打ち勝つためには、神の命令を「ひとみのように守る」(2節)ことが必要です。細心の注意を払い、慎重に守るのです。そしてこの命令を私たちの「指に結び、心の板に書きしるす」(3節)ことが必要です。常に心のなかで神様からの命令を反復し、記憶し、刻みつけるのです。そしてこの神様からの知恵と、自分の家族のように親しくするのです。
誘惑は、ときに信仰的な口実を用いて、あなたに迫ってきます。この狡猾な悪魔の誘惑に、私たちは主のみことばによって勝利しましょう。あなたは今、闘いへの備えはできていますか。信仰の武具を身につけていますか。
【8章】
ここでは知恵が擬人化され、知恵自身が語ります。
新約時代に生きる私たちにとって、この知恵とはイエス・キリストご自身のことです。
主イエス・キリストは、私たちに知識と思慮を与えてくださいます。
そして、主イエス・キリストは、この世界が作られる前から、永遠の昔から存在され、父なる神と一つです。そして、天地創造のわざに参与し、この世界と人の子たちの創造をともに喜ばれたのです。
しかし、その三位一体の神のみわざは、終わったわけではありません。今も、神に創造された私たち人類を罪から救うために、働いておられるのです。
そしてこの知恵(イエス・キリスト)を見出す者は、いのちを見いだします(35節)。
ひとりでも多くの人がいのちの道を歩むことができるように、また、私たちが今日もいのちの道を選び、歩むことができるように、主の臨在のなかを歩みましょう。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14章6節)
【9章】
ここでも擬人法を用いて知恵が語られます。
9章の前半では知恵は伝道者として描かれ、「わきまえのない者」「思慮に欠けた者」に対して呼びかけています。知恵にふさわしくない者を知恵は招くのです。イエスさまは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」(マタイ11章28節)、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(マタイ9章12節)と言われました。この私をも招いてくださる主に応答しましょう。
そして9章後半では愚かさが擬人法で描かれています。聖書はここで愚か者の特徴を3つあげます。
【1】 騒がしくみだらである: 永遠のこと、神のこと、人生の目的を考えず、流されるままに日々を過ごし、いつも欲求不満でいっぱいです。
【2】 盗んだ水は甘い: 人に見せられないような秘密の生活を作り上げてしまっています。
【3】 死の備えがない: 永遠の滅びがあることに気づいていないのです。
あなたの心の目は開いていますか。そして開き続けていますか。神の前で自分自身を吟味しましょう。
【木曜】 箴言10章~12章
【10章】
10章から22章まではソロモンの箴言と呼ばれ、箴言の中心部を占める最大の箴言集です。多くは2行からなる対句になっていて、10~15章では対称的な対句が反意的に述べられています。また、16~22章では同義的な対句が並び、2行目が1行目の内容を補うかたちになっています。
10章では、正しい者と悪者について対称的に述べられていますが、とくに、ことばによる罪、愚かさについて記されています。また、私たちが声に出さず、心に憎しみを抱いていながら偽善的にこれを隠すことも罪であると語ります。そしてこの憎しみの終着駅は破滅なのです。この私たちの真の心の醜さの反映である憎しみを覆うものは、愛しかありません(12節)。愛によって人は変えられ、愛によって癒され、回復を与えられるのです。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」(第一ペテロ4章8節)。主の愛によって、愛の人と変えていただきたいと祈りましょう。
【11章】
当時、度量衡が十分に規格化されていなかったため、思い思いのはかりが作られ、不正が至るところで起きていました。しかし「欺きのはかり」はレビ記やミカ書においても禁止されています。神様は、神様の前にささげるものだけでなく、この社会のなかで「欺きのはかり」が使われることもお嫌いになられます。すべての生活が神の前で行われることです。
高ぶりとは「沸騰する」ことを暗示することばから派生しています。これはいつも自分が中心でなければ気が済まない人の心の状態を指しています。サタンはこの「高ぶり」によって堕落しました。
この世は、「正直者は馬鹿をみる」ことと「欺きのはかり」を使うことを奨励するかもしれません。しかし、主はこう言われます。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6章8節)。祝福の道を選び取りましょう。
【12章】
正しい人は大地にしっかりと根をおろし、芽を出す植物にたとえられています。正しい者は、訓戒や叱責をしっかりと受け取り、神の前に、人の前に誠実で勤勉な歩みをなし、職を持ち、そしてその職が小さく、人の目にはあまりとまらないものであったとしても、それを忠実に果たします。また、神から任された被造物の世界を管理します。
このような人は神からの知恵と訓戒を受け取っているので、嵐が来ても、災害が起こっても、倒れることはありません。神の愛を確信し、生活の根底に神の愛があるので、いつも平安であり、芽を出し、良いものに満ち足りるのです。
そして彼の口から出る、愛あることばによって周囲の者はいやされ、彼の親切な言葉によって喜びを与えられるのです。
今日も神の愛のなかに根ざしましょう。神の愛があなたに平安を与え、そしてその神の愛があなたの周囲の人々に喜びと平安を与えるのですから。
【金曜】 箴言13章~15章
【13章】
「なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる」(4節)
信仰者だから努力しなくてもよい、などということは決してありません。犠牲を払わなければ得られない祝福もあるのです。棚から牡丹餅ではありません。
なまけ者は人一倍欲望だけは大きく、勤勉な人が持っているものを自分も欲しいとは思いますがそれだけで、腰を上げようとはしません。ですから心は空っぽで貧しい生活を送るようになります。しかし勤勉な人は努力を重ね、多くを得るようになり、しだいにその努力が容易になっていき、さらなる祝福へと導かれます。
【14章】
「知恵ある女」「愚かな女」とありますが、ここで述べられていることは男女の区別なく適用され、人には2つの道があり、そのどちらかを選ばなければならないことが記されています。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(12節)
まっすぐに見える道は、発見しやすく、多くの人が歩いている道です。それは肉の欲求を満足させてくれる道であり、自分にとって好ましく、歩きやすい道です。しかし、その道は神様の目から見れば曲がった道なのです。その道の行き着くところは滅びです。
2つの道の分岐点に立ったとき、正しい道、祝福の道、神のみこころの道を選び取るために必要なのは「神からの知恵」です。今日も、主を愛し、主の細い御声に聞き従って歩みましょう。そこにこそ確かないのちの道があります。
【15章】
知恵ある者と愚かな者は、その口から出る言葉によっても違いが表れます。
知恵ある人は、感情に任せて言葉を発しますが、知恵ある者は、まず神の前にことばを吟味し(28節)、時にかなったことばを語るのです(23節)。このようなことばは「いのちの木」(4節)であるとあります。これはエデンの園の中央にあり、神様とともに歩む人間が味わう、いのちと祝福を象徴しています。また、ヨハネの黙示録22章2節では、「いのちの木」は救いによって与えられる永遠のいのちの象徴となっています。
このようなすばらしいことばは、日々、主に知恵を求め、叱責を聞き入れているなかではぐくまれます。そして彼は自分を叱ってくれる人を愛するのです。
周囲の人々に癒しと、永遠のいのちをもたらす「いのちの木」のようなことばを私たちが語ることができるように、今日も主に整えていただきましょう。
「主を恐れることは知恵の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」(33節)
【土曜】 箴言16章~18章
【16章】
人生の歩み方を考えさせる箴言です。私たちは確かな人生を歩みたいと思います。平安をもって、喜びにあふれた人生を歩みたいと願います。そのためにはどうしたらいいのでしょう。努力も、計画性も必要でしょう。しかし、なによりもまず必要なのは、神様の主権を認め、神様を恐れつつ、神様の前で人生の計画を立て、その計画の一つ一つを神の前に広げて、みこころであるかを祈り求めて歩むことです。そして「主にゆだねる」ことです。
「ゆだねる」とは、無責任になることではありません。イエスの母となったマリヤが受胎告知を受けたとき、どんなに不安で、恐れと恐怖に包まれたことでしょうか。しかしそれでも彼女は神のみこころを受け入れ、信頼してゆだねました。イエス様も十字架を前にしてゲッセマネの園で血の汗を流し、もだえ苦しまれました。そして十字架に向かわれたのです。「ゆだねる」とは、苦しみのなかにあっても神の御声に聴従していく信仰の姿勢です。
神の主権を認め、神の御手のなかに生きましょう。そこにこそ確かな人生があるのですから。
【17章】
この箴言を書いたソロモンは「栄華を極めた」と言われるほどの人物でした。そんな彼が「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(1節)と言うのです。平和とは、争いがないということだけでなく、一緒にいると心に喜びが湧きあがる、そんな愛のある関係です。そのような家庭となるためには、まず自分自身から変わらなければなりません。
神様の御声よりも人の噂話に耳を傾け、人の災害を心のなかで喜び、わいろに心がぐらつき、同じことを繰り返し語り、反抗を好んではいなかったか。友が苦しむとき、その苦しみを分かち合っていたか・・・。
自分自身が悔い改めて、神様の愛に立ち返るなら、まずあなたと神様との関係が平和になり、あなたの心に平安と喜びがあふれます。そしてそのあなたの心にある平和が自然にあなたの家族に流れ出て、家庭に喜びがあふれるのです。
主の平和をもたらす者となることができるように、主の前にまず自分自身が静まりましょう。
【18章】
人との関係について述べている箴言です。人は他者と交わって生きるように神様によって創造されました。それを拒む者は極端な利己主義者です。人の意見を聞かず、自分の意見だけを主張し、自分が正義であるとする、謙遜に欠けた高慢な姿です。
自分の心を閉じてしまうことによって、人は孤独、劣等感、挫折感に陥ってしまいます。まず、自分が心を開き、家族、友人、師の言葉に耳を傾けましょう。なによりも神のことばに耳を傾け、聞き従うなら、それは「堅固なやぐら」となります(10節)。
「聞く」ということにも注意がなされます。「よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける」(13節)。また判断をするにも両者の言い分をしっかり聞いてから判断するようにと勧められています(17節)。
やはり口を制する者は知恵ある者です。この口によって自分自身が罠にはまることのないように、慎重に、そして賢く、愛をもって時にかなった言葉を発する者、そして時には黙する者となりましょう。
参考文献
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鍋谷堯爾著『詩篇を味わう III』いのちのことば社、2007年
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榊原康夫「詩篇90~150篇」『新聖書注解 旧約3』いのちのことば社、1979年
-
尾山令仁「箴言」『新聖書注解 旧約3』いのちのことば社、1975年
-
榎本保郎『旧約聖書一日一章』主婦の友社、1977年
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羽鳥明『今日の知恵 明日の知恵:箴言の恵み』いのちのことば社、1983年
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