旧約 第32週 詩篇31篇~61篇
BibleStyle.com
御茶の水キリストの教会 伝道者補佐
足立 雄飛
2009年10月31日 初版
【日曜】 詩篇31篇~34篇
心配や不安で心が押し潰されそうになった経験のある方は少なくないでしょう。多くのクリスチャンは、神が全知全能の存在で、このお方にできないことは何もないということを知っています。しかし、この事実をどれほどの人が本気で信じているでしょうか。私たちは何か問題に直面したときには特に強く神に祈るものですが、その問題があまりにも大きすぎると、祈りながらも半ば諦めの気持ちが出てきてしまう弱い存在なのではないかと思うのです。少なくとも私はそんな弱い人間です。
私は大学卒業後、しばらく祖父母と一緒に暮らしていたことがありました。同居を始めて3ヶ月が経とうかというときに、突然裁判所から土地と建物の差し押さえ通知が届いたのです。それは以前祖父がある人の連帯保証人になっていたことによるものでした。私はこの事実に一瞬目の前が真っ暗になりました。これまで裁判所などとは縁のない生活をしてきた私にとって、この通知は恐怖以外の何ものでもなかったのです。
それからというもの、まずは弁護士を探すことから始まり、毎週休日には祖父母を伴って法律相談所へ通い、何度も審理が繰り返されました。結局感謝なことに、その半年後にはなんとか和解が成立し、多額の債務を負うことにはなったものの、家や土地までも失い路頭に迷うことはありませんでした。この間私は毎日必死に祈りながらも、常に心のなかでは様々な思い煩いが支配し、祈りが聞かれなかった場合のことしか考えることができませんでした。「あなたの御手に委ねます」と祈りながらも、全く委ねきれていない自分がいたのです。
31篇の著者は、迫り来る恐怖のなかで、1節~4節にかけて何度も何度も「~してください!」という、まるで神にすがりつくかのような祈りを繰り返しています。そのうえで最終的には「私のたましいを御手にゆだねます」(5節)と、全知全能なる神への完全な信頼をもって、自分自身を神に明け渡していたのです。しかも普通であれば希望など決して持ち得ない「最悪」と呼べる状況のなかで(10~13節)です。
私がこの詩人の祈りの姿勢から一番教えられることは、14節の「しかし、主よ。私はあなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』」との信仰告白です。これはペテロの信仰告白(マタイ16章16節)と通じるものがあるのではないでしょうか。自分を取り巻く状況がどんなに最悪と呼べるようなものであったとしても、どんなに人の言葉や態度に傷つき心が押し潰されそうになっていたとしても、それでも「あなたは、わたしを誰だと言うのか?」ということが私たちには問われます。ぜひ、私たちはいつ如何なる時にも「あなたこそ私の神です」と心からの信頼をもって告白できる者にさせられたいと思います。主は私たちの心の叫びに決して鈍感な方ではないのですから(34篇17~19節)。
【月曜】 詩篇35篇~37篇
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(37篇5節)
「道」とは人生のことです。「ゆだねよ」とは元来石などを転がすという意味の言葉だそうですが、ここでは、「主の上に人生の重荷を転がして背負っていただく」という意味になるそうです。私たちは人生において実に多くの選択肢に直面します。そのときに大事になってくるのは、選ばなかった道を後悔するのではなく、選んだ道で主を認めていくということです。「あのとき、こうしていれば・・・、やはりこれは神様の御心ではなかったのではないか・・・」と後悔することは誰にでもあることだと思います。しかし、私たち人間には神様の御心など知る由もありません。その道がどんなに後悔に満ちた、失敗まみれのものであったとしても、その道で主を認め、その重荷を主に背負っていただくときに、その道が主の御心へと変えられていくのです。
ぜひ今日から、この神様にあなたのその重荷を降ろしてみませんか。主はあなたの道を確かなものとし、たとえあなたが倒れてしまいそうなときにもその手を支えてくださいます(37篇23~24節)。
【火曜】 詩篇38篇~41篇
ある人は言いました。「人に向ければただの愚痴でも、神に向ければ祈りとなる」。
詩篇38・39篇からは命に関わるような大きな病に苦しんでいる詩人の姿を見ることができます。その姿はあのヨブの壮絶な苦難を彷彿とさせますが、ただ一つ異なる点は、これらの苦痛の原因が詩人自らの罪によるものであるとの認識をしていたということです。それゆえに、詩人はなんとか言葉で罪を犯さないようにと(39篇1節)ひたすら努力をしました。「よいことにさえ、黙っていた」(39篇2節)とありますから、その徹底ぶりは相当のものだったことがうかがえますが、そのことによる精神的ダメージもかなりのものだったようです。
私たちは日々の生活のなかで、無意識のうちにも様々なストレスを受けています。そのストレスを定期的に吐き出すことができれば良いのですが、それができないといつの間にか心のなかに溜め込んでしまい、心身共に体調を崩す原因となってしまうのです。良いカウンセラーとは、まず相手の話をじっくり聞くと言います。多くの場合、相談者自身が自分の言葉でその悩みを吐き出すことによって、少しずつ頭のなかで整理がなされ、話しているうちにその問題解決の糸口を自ら発見したり、解決には至らなかったとしても、心の負担をある程度軽減させることができるからです。私たち人間には愚痴ることも、ときとして必要なのかも知れません。もちろん、愚痴る相手や頻度にもよりますが・・・。
この詩人はその愚痴を神様に向けました。その心の叫びを神様の前に吐き出したのです。私たちの天のお父様は正に24時間営業の神です。いつでもどこでも私たちの心の叫びに耳を傾けてくださいます。ぜひ、この最高のカウンセラーにあなたの思いのすべてを愚痴ってみませんか。愚痴も神に向ければ祈りとなるのですから。
【水曜】 詩篇42篇~46篇
有名な賛美歌に「鹿のように」という曲があります。とてもゆったりとした美しいメロディーから、雄大で美しい渓谷を流れる小川の辺で小鹿が楽しそうに水を飲んでいる、そんなイメージを私は長年抱いて来ました。しかし、この曲の基となった42篇1節の御言葉は決してそのような流暢な状況ではなかったのだということを、恥ずかしながら比較的最近になって知りました。
新改訳聖書では「鹿が・・・」と「鹿」が主語として翻訳されていますが、原文では「牡鹿のように」という副詞が用いられています。英語の聖書でも"As the deer"(鹿のように)と訳されているとおりです。しかし、ここで注目したいのは原文の「鹿」という名詞が男性形であるのにも関わらず、「慕いあえぐ」という動詞には女性形が用いられているということです。このことから本来主語として登場するはずの鹿は「雌」であることが分かります。すなわち、「牝鹿」が「牡鹿のように」谷川の流れを慕いあえいでいるというのです。
さらに注目すべきは、「谷川の流れ」と訳されている「川」が実際には「涸れ川」であったということです(新共同訳聖書ではここを「涸れた谷」と訳しています)。パレスチナ地方には雨季と乾期があり、乾期にはまったくと言ってよいほど雨が降らないそうです。そのため多くの川は干上がってしまうのです。聖書では「川のように裏切る」(ヨブ6章15節)という表現もあるほどに、「川」は裏切り者の象徴として用いられています。喉のカラカラな状態で荒野を放浪していた旅人が、川だと思って近づいてみたらそこには水がなく、まるで裏切られたような気持ちになったことから、このような表現が生まれたそうです。
この牝鹿も、本来ならば女性らしくおしとやかに水を飲むところを、あまりの喉の渇きに耐えきれず、枯渇しきったもはや川とは呼べない谷川のほんの水溜りのような水を、肉食動物に襲われる危険を冒しながら、まさに牡鹿のように荒々しく、お腹をゼーゼー言わせながら激しく貪り飲んでいたのでしょう。
この詩篇の背景は不明ですが、恐らくダビデがサウル王に追われ放浪の身であったときに、エルサレムでの礼拝を慕い求めたことが背景にあったのではないかと言われています。本来臆病な牝鹿が猛獣に襲われる危険を冒してまでも谷川の水を慕い求めるように、エルサレムでの礼拝に参加できない状況を嘆きつつ、自らの命の危険を冒してまでも神に礼拝をささげたいという、詩人の魂の叫びがこの詩篇には込められているのです。
現代日本に生きる私たちにとって、実際に身の危険を冒してまで礼拝をささげるという状況はないかも知れません。しかし、それゆえに私たちは切実にかつ真剣に主を慕いあえぐということを疎かにしてしまってはいないでしょうか? 私たちはどれほど御言葉に対して飢え渇きを覚えているでしょうか? 鹿にとって谷川の流れが唯一の水源であるように、私たちには霊的な糧の源である御言葉が必要なのです。
【木曜】 詩篇47篇~51篇
日本の多くの教会では「神の愛」ばかりが強調され、「神の裁き」や「神の義」についてはあまり語られていない、もしくは避けられる傾向にあるという話を耳にしたことがあります。神は愛の方であると同時に義なる方であるということを私たちは忘れてはいけません。なぜなら神の義なしに神の愛の偉大さは分からないからです。
詩篇50篇16~23節には偽善者に対する厳しい叱責が記されています。偽善の罪、これは私たちクリスチャンが一番陥りやすい罪なのではないでしょうか。これは大変恥ずかしい話ですが、私はクリスチャンになっても自分の罪というものがわかりませんでした。イエス様は「私たちの」罪のために十字架にかかって死んでくださったということは知識としてはわかっていたのですが、「私の」罪のためなのだということが実感として分からなかったのです。しかし、東京基督教大学(TCU)での学びや奉仕など様々なことで揉まれていくなかで、あるとき自分の罪というものがはっきりと示されたのです。今までこれは罪ではないと信じ込んでいたものが、一転して実は大きな罪だったのだということがわかったとき、自分はなんて汚い罪人なのだと思いました。自分は救われるはずなんかない。自分はクリスチャンなんかじゃない。そう思いました。そしてそのときになって初めて、イエス・キリストの十字架の重み、あのキリストの打ち傷や両手両足の釘の痕は、まさに私自身のためであったのだということが信仰生活5年目にしてようやくわかったのです。
詩篇50篇21~22節には特に恐ろしい言葉が並んでいます。かつての私はこのような裁きの言葉は私ではない他の誰かに向けられている言葉だと思っていました。しかし、今ははっきりとこれは私自身に向けられている御言葉であると受けとめています。私たちは洗礼を受けてクリスチャンになればそれで終わりなのではありません。バプテスマとはゴールなのではなく、あくまでスタートなのです。私たちは日々主の前に謙り、悔い改め、いつでもこの救いの原点に立ち返っていくことが必要なのです(51篇)。
数年前にアカデミー賞監督メル・ギブソンの「パッション」という映画が公開され大きな話題となりました。キリストが十字架にかけられるまでの最期の12時間を描いたこの映画は、そのあまりのリアルさに心臓発作で亡くなる方が出たほどでした。私がこの映画を通して教えられたこと、それは「一人の人が救われることの重み」でした。私という一人の人間が救いにあずかるために、こんなにも惨たらしい犠牲が払われなければならなかったのかということを知ったとき、キリストの十字架が迫って来たのでした。罪のない神のひとり子イエス・キリストに鞭を打ち、その両手に釘を打ち込んだのは紛れもなく私自身であり、これを読んでおられるあなたご自身です。しかし、その犠牲のゆえに、私たちは本来決して赦されるはずのないその罪が赦され、神の子として生きる特権が与えられたのです。この恵みを私たちはしっかりと噛みしめ、感謝と感動をもって日々歩んでまいりましょう。
【金曜】 詩篇52篇~56篇
苦難に遭うと私たちは一刻も早くそこから逃げ出したいと思うものです。現にあのイエス様でさえも迫り来る十字架の苦しみを前に「できますならば・・・」(マタイ26章39節)と父なる神に助けを祈り求めたほどです。
詩篇55篇の詩人は敵の迫害による苦しみから、すぐにでも遠くに逃れたいという切実な思いを神に訴えています。詩人にとっての「敵」とは一体どんな人物だったのでしょうか? それは意外なことに、これまで仲良く語り合い共に礼拝を守って来た信仰の友であり、どんなことでも話し合える深い絆で結ばれていたはずの親友であったというのです。長年信頼を寄せていた人に裏切られることほど辛く、苦しいことはないのではないでしょうか。
私たちは日々の歩みのなかで様々な問題(試練)に直面しますが、本当の問題とは、目の前にある問題そのものなのではなく、その問題とどう向き合うのか、その受けとめ方なのではないかと思うことがあります。苦境からの解放とは、場所を変えたり逃げ出すことによって得られるものではありません。この詩人も一時はその問題から逃げ出すことによって自由が得られると考えたようですが、最終的には神ご自身を究極的な逃れ場とし、神に委ねたのでした。その結果、詩人が直面していた問題(迫害)がすぐに解決したということはなかったかも知れません。しかし、神様はその苦難の真只中で私たちの抱える問題に介入してくださるお方です。この詩人は後に自らの体験を踏まえ55篇22節で次のように力強く勧めています。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」
「重荷」とは元来「くじ」に由来し、その人に「与えられたもの」「課せられたもの」という意味があるそうです。すなわち、私たちには各々神様から割り当てられた人生の重荷があるというのです。神様は私たちが耐えられないような試練は与えない(第一コリント10章13節)と言われますが、ときとしてその直面する問題があまりにも大きすぎ、自分一人ではとても抱え切れず、投げ出したくなってしまうことがあります。この詩人もそうでした。しかしそのようなときには、否そんなときだからこそ私たちはこの詩人がしたように、まずその問題を主に背負っていただく、主にお任せしていくということが必要なのではないでしょうか。主はそんな私たちに寄り添い、共にその重荷を背負って支えてくださるお方なのですから。
【土曜】 詩篇57篇~61篇
詩篇59篇はその背景にサムエル記第一19章11節の事件があると表題において言われています。これは、サウルが明朝ダビデを殺害するために夜のうちに使者を彼の家へ遣わし、見張らせることにしたのですが、その妻ミカルがダビデを窓から降ろし何とか難を逃れさせたという話です。そのスリルとサスペンスに満ちた危機的状況のなかで、詩人は困窮しながらも、自分の命をねらう敵からの助けを求めて祈ります(1~5節)。いったい彼はどんな思いでこの夜を過ごしたのでしょうか。命を狙われなければならない理由など何もありませんでした。意味もわからず暗闇の中をただひたすら逃げ回らなければならない恐怖。これは想像を絶するものがあります。彼には敵に向かって自分の正当性を主張することもできたはずです。しかし、彼は聴く耳を持たない相手に対し正論をぶつけるのではなく、文字どおり勇気ある撤退という選択をしたのでした。
私たちも、ときに人に誤解されたり、意味もわからず理不尽なことを言われたりすることがあるかと思います。悲しみとやり場のない怒りに心が押し潰されてしまいそうになることもあるかも知れません。しかし、神様は私たちのすべてをご存知です。人が何と言おうが、どう思われようが、神様だけは真実をご存知であり、すべてを最善に導いてくださるお方です。この詩人はそのことを弁えていました。だからこそ公平に裁かれる主に、主ご自身がこれらの問題の解決をしてくださるようにと祈り求めたのです。もしこのとき詩人自ら相手に正論を振りかざし、その怒りの矛先を向けようものなら事態はもっと悪い方へ行っていたかも知れません。しかし、その怒りと悲しみ、嘆きや相手への裁きなどすべてを主に一任することによって、彼は絶望の夜のなかにありながら先取の信仰をもって希望の朝を迎え、力強く主を賛美することができたのでした。
以前、草原にびっしりと付いた朝露に朝陽が差し込みきらきらと輝いている、本当に美しい光景を目にしたことがあります。その雫の一つ一つがまるでダイヤモンドのような輝きを見せていたのです。私たちが苦しみや悲しみのときに流す涙も、そのときはただ苦しくて、ただ悲しくて、辛く思われるものですが、そのとき流した涙の一滴をも主は決して無駄にはなさらないということを、光り輝く朝露を通して私たちに教えてくださっているように感じました。
どんなに真っ暗な夜にも必ず明るく眩しい朝が来るように、神様はその愛の光を私たちに照らすことによって、あのとき流した苦しみのどん底の涙を喜びと希望の輝きに変え、暗く傷ついた心を感謝と感動の賛美で満たすことのできるお方なのです。あなたもぜひ、この詩人のように、今抱えている悩みや悲しみ、その思いのすべてを神様に聞いていただきましょう。主は必ずやあなたに希望の朝を、喜びの叫びを備えていてくださると信じます。
参考文献
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小林和夫「詩篇1~89篇」『新聖書注解 旧約3』いのちのことば社、1975年
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富井悠夫「詩篇」『実用聖書注解』いのちのことば社、1995年
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『新聖書辞典』いのちのことば社、1985年
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