旧約 第31週 ヨブ記40章~詩篇30篇
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日本長老教会 鈴鹿キリスト教会 牧師 白井 仁
2009年10月31日 初版
【日曜】 ヨブ記40章~42章
ヨブ記には、「苦しみを与える神様は正しいのか」という疑問とそれに対する答えが、語られています。
ついに神様はヨブにあらしの中から語りかけられました。「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」(40章6~7節)。
ところが、ヨブに対する神様の言葉をどんなにていねいに読んでも、神様は一言もヨブの苦難とその原因に触れていません。「さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの」(40章15節)。それから河馬こそ神様のお造りになったものの傑作中の傑作であると言わんばかりに、河馬の姿をほめそやします。私たちが見ると、河馬は口が大きい、本当に不恰好な動物にしか見えないのに・・・。
それから神様は、「あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか」(41章1節)と言われます。「レビヤタン」とは「わに」のことです。そして河馬のとき以上に、こんなにすごい「わに」を造ったわたしはすごいだろうと自慢します。「わに」のあのうろこの整列の見事な様、あの「わに」の力強い有様、これは私が造ったのだぞと。
神様は、私たち人間の美的な判断からすれば、すばらしいとは思えないようなものすら、自慢することによって、神様が造り、支配している世界のなかで起こる出来事を、人間の理解で判断してはいけないということをヨブに示されたのです。
結局ヨブは、「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです」(40章4節)と悔い改め、自分の無知を思い知らされます。「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました」(42章3節)。自分の無知を思い知らされ、神様への絶対的な信仰を取り戻したヨブは、再びもとの状態に戻され、平和にすごします。
ヨブ記は、どんなに大きな苦難のまっただなかに置かれても、心から神様を信じて、神様をあがめる、それが本当の信仰であると教えています。私たちの人生においても、私たちの目で見て、人間の頭で考えて、人間の心ではどうしても受けとめられない、どうしても納得いかない、そういうことがときにあります。
そんなとき、人生の苦難は神様が与えた罰であるという古い考え方を打ち破り、もっと深い神様のみこころと愛に身をゆだねて、苦難を克服する信仰の知恵を、ヨブ記は教えています。
【月曜】 詩篇1篇~6篇
ダビデの歌から始まる150の詩篇がすべて完成したのは、ダビデ王国滅亡の後と考えられています。バビロン捕囚から帰ってきた人々。ソロモンの神殿と比べるならはるかに貧しいが、何とか新しい神殿を建てた人々。ユダヤ教の新しいスタートを切った人々が、昔から大事に礼拝で歌ってきた賛美を集めました。バビロン捕囚から帰ってきた。これからも、神さまを礼拝して行くために。神の言葉に逆らい続け、バビロン捕囚という裁きを受けた自分たち。これからは、神さまの律法にちゃんと従っていくために。彼らは詩篇を集め編集しました。
彼らは詩篇をモーセ五書、創世記、出エジプト記、民数記、申命記の5つの律法の書に合わせて、詩篇を5つの巻に分けて編纂しました。第1巻は1~41篇。第2巻は42~72篇。第3巻は73~89篇。第4巻は90~106篇。第5巻は107~150篇。つまり詩篇は律法の道を歩む者の歌としてまとめられたのです。
今回は特に詩篇1篇を扱いたいと思います。
詩篇1篇1節には、3種類の人が登場します。「悪者」「罪人」「あざける者」。これはみな同じ人々のグループを表しています。神様に逆らう者、律法にそむく者、神様と神様に従う人々をあざける者。そういう者たちです。
この時代、エルサレムの人々の心は2つの方向に分かれて向かって行きました。右の一方は、熱心に神様とその律法に従おうとする人々。「正しい者」「義人」(5・6節)。バビロン捕囚の罪を赦された私たち。これからは神の律法を守っていこうという者たち。左の一方は、神とその律法に従わない「悪者」「あざける者」。今さら神の律法だと!神はイスラエルをバビロンから守れなかったじゃないか。神に従ってもしょうがない。律法など守っても無意味だ。という者たち。
時には、「悪者、罪人」の勢力が強くなって、「正しい者、義人」が少数者となる時代もあったようです。そういうなかでも、義人たちのサークルにとどまる者を神は、詩篇1篇をとおして祝福しているのです。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」。自分の立場が悪くなっても、神様の道に立ち続ける人。罪人の誘惑を退け、律法を喜びとする人。そういう人を神は励ましているのです。「お前の道は正しい。お前こそ本当の幸せを選んだ者だ」と。
この第二神殿時代に、御言葉を愛する少数者を祝福された神は、私たち日本の教会のことも祝福しておられます。「あなたたちの数は今、少ないかもしれない。しかし、よくぞ御言葉の道に留まった。あなたたちこそ幸いな者だ」「もうすぐ、お前たちの<時>が来るぞ。お前たちは、約束どおり栄えるのだ」と。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、日本の教会。まことに、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」と!
【火曜】 詩篇7篇~11篇
今日は詩篇8篇から聞きたいと思います。
4節に「人とは、何者なのでしょう」とあります。人間とは何か?自分とはどんな存在なのか?誰しもが、人生のなかで一度は問う問いです。あるときは、人間の知恵のすばらしさを思って、また人体の不思議さを知って、このすばらしい人間とは何だろう!と。またあるときは、人として生きて行くことの苦しさを覚えるなかで、人間の無力さや醜さを思って、呟きながら「人間ってなんなんだろう?」と。あるいは、普通の生活のなかで、何の気なしにふと「私って、なんだろう?」と。人とは何者か?その問いに答えるのが今日のダビデの詩です。
中東の夜空は本当に美しいそうです。パレスチナは空気が乾燥していて、夜の天体の美しさは格別だといいます。その天の下なる人間の小ささ、弱さ、醜さを信仰の詩人は思わざるを得なかったのです。仏教思想の影響を受けた私たち東洋の詩歌にも、自然の偉大さに対する人生の小ささを思い、物の哀れを唄うものが多くありますが、詩篇8編は、その一歩先を行きます。信仰の詩篇は天の高きより人の小ささを思い、人の小ささから神の恵みに進むのです。そして、その恵みによって万物の支配者の地位に立たせられている自分の栄光と責任を知るのです。5節にあります「栄光と誉れ」は、旧約聖書のなかで王様に相応しいとされる言葉です。神様は人間を世界の王様とされたのです。神様の造られた被造世界の、地上における神の代理者として、人を置かれたのです。これが詩篇の信仰です。聖書のメッセージです。これは驚くべき福音です。
求道者の方と話していて本当だなあ、と思ったことがありました。「聖書の時代の人はどうだかわからないけど、天文学の発展した時代に生きている私たちは、驚くべき宇宙の大きさを知っている。膨張し続ける宇宙空間があって、そのなかにたくさんの銀河があって、さらに、そのなかにたくさんの星の集まりがあって、その1つが太陽系で、地球なんてやっとそのなかの1つにすぎない。そして、その上の豆粒みたいな人間のために、神が世界を造ったなんて、信じられない! まして、その造り主が、独り子を送るなんて、到底信じられない」
私みたいな小さな存在を、造り主は心に留めてくださる! 私のような弱い者を、神は顧みてくださる! そして、こんな罪人を救いに来てくださる神! 確かにこれは、到底信じられないような恵みなのです。常識では考えられない福音です!
この詩篇8篇は、創世記1章と同じ思想を伝えています。神様は、創世記1章と、この詩篇8篇をとおして、私たちに語りかけています。「あなたは世界の王だ」と。私たちは、すぐに自分を小さく考えてしまいます。しかし神様はこう言うのです。「御言葉を思い出せ、お前は大きな者だ」。夜空を見上げて私たちは自分の小ささを思います。しかし神は言われるのです。「いや、お前のために私はあの月や星々を据えたのだ」
【水曜】 詩篇12篇~17篇
今日は詩篇16篇から教えられたいと思います。
本当の幸せとは何でしょうか? 誰にも奪うことのできない喜びはどこにあるのでしょうか? 限りある幸福や一時的な喜びはたくさんあります。人の人生は旅のようです。出会いがあれば、別れもあります。今日の幸せが明日には奪われてしまうことも、しばしばです。流転する人生のなかで、変わらない幸福や永続する喜びが存在するなら、誰もがそれを手に入れたいと願うはずです。今日の詩篇16篇は、実にその、永遠の喜びのことを私たちに教えています。
ダビデは言いました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」(2節)
ダビデはイスラエルの王様でした。たくさんの能力に恵まれた人物でした。有能な戦士であり、魅力的な人柄の持ち主でした。多くの詩篇に彼ダビデの名が冠せられているように、音楽の才能にも恵まれていました。王でしたから、いわばイスラエルの国のすべてが彼の所有物でした。しかし、ダビデの喜びは、そのどれでもありませんでした。自分の能力でも、王国の宝でもなく、「私の幸せは、神様です」とダビデは言いました。
また、ダビデの人生は、いつも、神様に守られた人生でした。前の王サウルをはじめ、様々な敵や困難がダビデの人生に襲いかかってきました。身を避けるところは、神のなかにしかなかった。そういう人生でした。流転する人生のなかで、変わらない幸いは神のなかにしかない。そして、神様こそ、私の人生を守ってくださるご主人だ。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません」これが、イスラエルの王ダビデの悟りでした。神の守りと愛を知っていたダビデは、神をたたえて言います。「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます」(5節)。
これは、神との関係ほどすばらしいものは他にない、という2節の真理の言い換えです。ダビデの時代より、さらに昔、モーセの時代。神はイスラエル人をエジプトから救い出し、約束の地・カナンの地を、イスラエル12部族にプレゼントしてくださいました。その時、昔のイスラエル人たちは、神の導きの下、籤によって12部族にカナンの地を分配しました。その出来事をダビデは、ここで精神化して、言っているのです。私への譲りの地は、他の誰がもらった土地よりもすばらしいところだ。
私に当たったプレゼントは、神様ご自身だ! これ以上の相続地はない! 他のどんな場所も、神様との関係には比べられない! 「土地の分配の譬」を用いてダビデは、神との関係の比類ないすばらしさを歌っているのです。どんな土地をもらうよりも、神のなかにこそ、私の幸せはある。私には、あなただ。5節の「あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます」という言葉は、「あなたは、私の運命を、固く保ってくださいます」とも訳すことができます。「あなたは私の人生をちゃんと保護してくださる」そんな「主が、私へのゆずりの地所、私の受ける杯だ」「神こそが、私の幸い!」これがダビデの信仰の悟りでした。
【木曜】 詩篇18篇~20篇
今日は詩篇19篇に聞きましょう。
この詩篇19篇は大きく2つに分けることができます。まず、前半の1~6節で、自然の世界にあらわされた神の栄光を賛美します。そして後半7~14節では、神様の律法のすばらしさが賛美されています。
この詩篇を注解して明治・大正のクリスチャンリーダー内村鑑三は、「人間には2つの聖書が与えられている」と言いました。1つは、書かれた神の言葉であるこの聖書。もう1つは、書かれざる神の言葉、言葉なく造り主の栄光をあらわす天地自然のことです。
宗教改革者のカルヴァンは、同じ真理をこのように言っています。「どの方向にあなたが目を向けようとも、世界のどんな小さな部分でも、神の栄光の少なくとも何ほどかの輝かしいひらめきをさえ見えないようなところはない」
すばらしいこの世界において、天の大空によって、神は世界の創造者としての御自分の存在をあらしています。
しかし、そのようにすばらしい太陽も、大空も、神の御意志を示すには十分ではありません。3節に「話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない」とあるとおり、昼と夜のこの世界が人間に与える神知識には、欠けた部分があるのです。自然の与える神知識には欠陥があるのです。それは偽りの神知識ではありませんが、不十分な啓示です。自然に優って、神の御心を人間に教えるのは聖書の御言葉です。聖書の御言葉には、はっきりと神の御意志が示されています。自然世界に太陽が命を注ぐのに優って、書かれた神の言葉である聖書には人間の魂を生き返らせる力があります。
7節で「主のみおしえ」と訳されている言葉は、ヘブル語では、主のトーラー、つまり「主の律法は完全」となっています。ここで言う「律法」は、十戒などの狭い意味の律法ではありません。ユダヤ人は、広い意味でも律法(トーラー)という言葉を使います。広い意味の律法(トーラー)とは、旧約聖書の最初の5冊の書を指して言う言い方です。旧約聖書の最初の5冊、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を、ユダヤ人はモーセの5書。あるいはモーセの律法と呼びました。
聖書こそは、人の魂を生き返らせる神の言葉です。聖書は神の御心をはっきりと知ることのできる上からの啓示の書物です。7~9節で、律法・主のトーラーは、「主のあかし・主の戒め・主の仰せ・主への恐れ・主のさばき」と言い換えられていますが、全て同義語であり、主の律法のことを指しています。律法は「完全で、確かで、正しくて、きよくて、まことであり、ことごとく正しい」のです。
そして、律法がこのように完全な神の言葉だからこそ、主の律法は「たましいを生き返らせ、わきまえのない者を賢くし、心を喜ばせ、目を明るくする」のです。このように主の律法、つまり聖書の言葉が、人間を深いところで生かすので、ダビデは聖書を純金よりも好ましく、蜂蜜よりも甘いと賛美します。御言葉、金よりも好ましく、蜜よりも甘い!
【金曜】 詩篇21篇~25篇
今日は詩篇22篇に注目しましょう。
先日コリー・テン・ブームというオランダ人の夫人の生涯を描いた「隠れ家」という映画を見ました。コリー・テン・ブームはナチスの残虐におびえるユダヤ人をかくまい、隣人のために体をはって抵抗したオランダ人の夫人です。ゲシュタポによるユダヤ人狩りのなかで、「私の家の扉をたたく人は、誰でも助ける」とテン・ブーム家の時計店はユダヤ人の隠れ家になります。結局、テン・ブーム一家は全員逮捕され、かくまわれていたユダヤ人たちは助かりました。テン・ブーム家の人々は、殺されるユダヤ人に代わって、十字架を背負ったのです。
父キャスパー・テン・ブームは、捕まって間もなく死亡し、コリーと姉のベッチィ・テン・ブームは女性収容所に送られます。姉のベッチィは収容所で死に、コリーだけが生きて収容所を出ることになりますが、もはや死を待つだけの診療所に入れられる直前に、ベッチィはコリーに一つのことを頼みました。「どんな深い穴にも、神様はおられる。自由になったら、このことを伝えて」。事務処理上の間違いでコリーは奇跡的に釈放され、姉との約束どおり、死の日まで世界中の人々に、人間の作り出した地獄と、そこにも存在された神様を証言し続けました。
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」(1節)
「神様どうして?」そう言いたくなる試練、苦しみは、この詩人だけでなく、私たちにも起こります。理由のわからない苦しみ。解決の道が見つからない試練。「どうして?」そう嘆く他ない苦しみ。
映画「隠れ家」のなかで、私が一番感動したのは、女性収容所の過酷な生活が続くなかでの、ある晩の会話です。「神様がいるなら、どうして私たちを助けてくれないんだい?」こう言って神様を罵る女性に対して、テン・ブーム姉妹は答えます。「わからないことはたくさんあります。でも神様が私たちを愛していることは確かです。神は人となり、私たちと同じ苦しみを味わわれたのだから」
神は人となり、私たちの罪を背負って十字架にかかられたのだから。
詩篇22篇の詩人は、過去のイスラエルの民に対する神の救いを思い出して、信仰を強められました(3~5節)。
私たちには、詩篇の詩人よりもすばらしい恵みが与えられています。私たちにはイエス様の十字架があるのです。私たちの救いのために十字架にかかってくださったイエス様。その御苦しみを思うとき、私たちはどんな試練のなかでも、神とともにいることができるのです。まだ目には見えなくても、ここにも神の確かな導き、良いご計画が存在することを信じることが許されているのです。
新約聖書に至り、福音書の記者たちは、この詩篇22篇がイエス様の十字架を預言する詩篇であったことに気がつきました。この詩篇の1・7~8・18節が、イエス様の十字架の場面で引用されています。イエス様は、私たちの罪の身代わりに、神から見捨てらるという苦しみを苦しんでくださいました。
【土曜】 詩篇26篇~30篇
詩篇29篇を読みましょう。
煌く稲妻、天空に轟く雷鳴。強い光と大きな音で雷がすぐ近くに落ちれば、私のような大人の男性でも恐ろしい気持ちになります。現代のような気象学的知識を持っていなかった大昔の人々は、雷や大雨などの自然現象のなかに、人間にはどうすることもできない、神々の力を感じました。日本語でも「カミナリ」(神鳴り)という言葉に「カミ」がついています。
雷の神様、嵐の神様、雷や嵐を見て、そういう神々を考え、拝んだのは、日本人だけではありませんでした。旧約聖書の時代のイスラエルの周りの国々、カナンの人々の祈りの言葉が発掘されています。
アダド、力強き方、輝く方、卓越する神、
戦慄と恐れを据え、圧倒する方、
稲妻を掲げる方、洪水の主(あるじ)、空と山と海を支配される方。
あなたの名前は栄光に満ち、あなたの仰せは聞き従われる。
あなたの声に山々は喜び、御前に畝は喜び、畑は楽しむ。
カナンの人々は、天候を支配する神を、バアルやアダドと呼び、豊かな雨と実りを求めて、礼拝していました。今日、片手に雷を持った戦士姿のバアル像がたくさん発掘されています。周りの国々が、このような偶像礼拝を行っているのを見て、イスラエルの人々は言いました。「そうじゃない。天候を支配し、雨を降らせ、雷鳴を響かせるのは、世界の創造主、主なる神だ」
それが今日の詩篇29篇です。このように神は、人間を、雨と豊かな実りをもって祝福される方です。「主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される」(11節)。平安・平和、旧約聖書のシャロームという言葉は、命の充実をも意味します。国民を、恵みの雨と豊かな実りで祝福し、命の充実を与えるのは、主なる神様です。
旧約時代のイスラエルの人々は、天候を支配し雷鳴を響かせるのは、バアルではない。天候を支配し雷鳴を響かせるのは主である、と歌い、神を賛美・礼拝しました。私たちはどうでしょうか? 現代のような気象学的知識を持っている私たちは、当然バアルが天候を支配しているとは、考えないかもしれません。
しかし、現代の私たちには、天候を支配しているのが主であるという真理を忘れてしまう危険があるかもしれません。大雨を降らせ雷鳴を響かせるのが主であることを今日、もう一度思い出しましょう。そして今日も、私たちに生活の実りをくださる主を賛美・礼拝・感謝しましょう。「主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される」。私たちもこの主に向かって、天における天使たちの声にあわせて、「栄光」と賛美しましょう。この宮で、すべての神の僕たちとともに。
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