旧約 第30週
ヨブ記19章~39章

日本同盟基督教団 白百合福音教会 牧師
河村 冴

2009年10月31日 初版

 甚大な災難にあったヨブへ、友人たちのお説教が繰り返されます。最初は激励の要素も多くありましたが、それが聞き入れられないと、彼らの言葉は次第にきつくなります。友人たちの主張は「神は善であるから、罪を犯した人は刈り取りをしなければならない。また、刈り取りを強いられている人はどこかで罪を犯したに違いない」との因果応報論。しかしヨブは納得しません。ヨブにとって神は、義人を苦しめ、悪人を幸せにしたとしても、それでも正しい神なのです。災いと幸せを越えて、ひたすら神を礼拝し、神に依り頼むことが真の礼拝だというのが、ヨブ記のテーマでもあります。

【日曜】 ヨブ記19章~21章

 友人たちから徹底的な批判を受け、これは「イジメだ」(19章3節)とヨブは反発します。でも、ヨブの本当の相手は友人たちではなく、このちっぽけな子分の背後にいる大親分、すなわち神様にこそ、反論したいのです。
 神が私をとうせんぼしてしまわれた(8節)から前進できない! かつて眩しいほどの栄光に輝いていたのに、すべて神様によって取り去られてしまいました(9節)。希望が奪われ(10節)、仲間を奪われ(13節)、身内を奪われ(14節)、世話をした奴隷たちからさえ無視をされ(16節)、妻は「息が臭い」と言って近寄らない(17節)、徹底的な孤独に置かれました。

 まさに絶望の極みに置かれたヨブの口から、思いがけない言葉が出ます。
 「私を贖う(買い取って自由を与えてくださる)方」は生きておられる。しかも、その方はヨブが座る「ちり」――正直者がバカを見て、悪者が幸いになる、実に汚れ切った世界―― の上に立たれる(25節)。
 「我がこの皮、この身の、朽ち果てん後、我肉を離れて神を見ん」(26節・文語訳)。痩せ細って骨と皮になって、生死の境を歩んでいるヨブは、やがて皮が剥ぎ取られるだろう、肉体が朽ち果てる日が来るだろう、まもなく肉体を離れる時がくるだろう。けれども私が死んだとしても、私はそれで終わりではない。後の日に、贖い主は必ずこの地に立ってくださる。この塵芥の世界に来てくださる。
 そして、善人が苦しみ、悪人が増長するこの世界のすべてに決着をつけてくださる。そうであるならば、私が生きた記念として鉄の筆を使って岩に書き残した言葉(24節)だって、きっと読んでくださるに違いない。確かに私という一人の人間が存在したことを覚えてくださり、心に留めてくださるだろう。永遠・無限・完全なる神に、覚えられる。万物を支配なさる神が、この私のことを心に留めてくださる。
 そのような贖い主を「私は見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。他の目ではない、私が見る」と言うのです。

 旧約聖書においては異例なほどハッキリと復活信仰が告白されています。
 そしてこの成就は新約聖書のイエス・キリストにおいてクッキリとなるのです。

【月曜】 ヨブ記22章~26章

 エリファズによるヨブへの3度目のお説教。「人は神の役に立つことなどできない」(22章2節)と、信仰者誰もが同意する真理から語り始めます。しかし、その真理を使って、神の天罰が下ったとする悪意に満ちた罵り(5~9節)へと発展させる、酷いお説教です。ヨブが語る神の超越性をわざわざ曲解して(10~14節)、破滅と裁きの宣言を導き出し、「ヨブよ、お前も心を入れ替えろ」と言ったお説教を続けます(21~30節)。
 それに対してヨブは、23~24章で反論します。その声は精神的ダメージによって沈みながら(23章2節)も、ときに上に浮かんで「神様にお会いしたら、思いの丈を述べたい」(3~7節)と、顔を上げて願うのです。しかし、「実際にやってみるとダメだ」(8~9節)と、消極的になったり、「いやいや、試練は金が精錬されるのに必要なことだ、神様に真正面を向いて従っていこう」(10~12節)と、積極的になったり、その心の浮沈は定まりません。
 23章の最後は非常に暗いイメージで終わります(13~17節)。このときのヨブにとって、神は押せども突けども少しも心を変えてくれない頑固者で、「心の欲するところを行なわれる」というのです。
 私たちの信仰生活も、洗礼によって一つの頂点を極めますが、その後、このようにアップダウンを繰り返すのではないでしょうか。その意味で覚えたいことです。

 24章でも、ヨブの3人の友人への不満と、神に裁きを願うことから書き出されます。まるで地境を勝手に動かすような、ヒドイ攻撃をしてきた彼らへ裁きを願い(2~5節)、悪人たちの犠牲になって苦しみの道を辿る弱者たちがいるという世の姿(6~11節)に、ヨブは我慢がなりません。
 その苛立ちは、呻き声をあげているのに、その祈りを聞いてくださらない神への訴えに至ります。
 「知らん顔をなさる神」に向かって、遂にヨブは「彼は暗黒の恐怖と親しい」(17節)と、闇の勢力と神とが癒着していると訴えるのです。
 弱者が傷めつけられ、悪人たちが繁栄している、この世の理不尽の根源に、「沈黙する神」があり、その不満によって、ヨブの心は沈みこみます。
 しかし、いつかこんな理不尽は終わる(25節)という希望も、ヨブは捨てません。

 25章はビルダデによる3度目のお説教。感情的ではなく、教え諭すような口調で、持論をぶつけます。人間の正しさなど、神様の前にはないにも等しい(4節)と、ビルダデは正論を説きながら、徐々にヨブを追い詰めます。一言も返すことのできない言葉ですが、言外には、「ヨブよ、お前が神の正義についてゴチャゴチャ言う権利などない、アダムの末として、罪の中に生れたお前が、どうして清くあり得ようか。どうして神の正義を問う言葉を、口にし得ようか。(まったく図々しい)」という辛辣な皮肉も込められています。
 ヨブは、現実に襲いかかっている、ズキズキと疼くこの身体に対して、机上の神学によって説明される神など不要、生ける真の神がリアルに我が身に迫って欲しい、暖かい温もりのある御手を私に置いて、癒しと助けを与えて欲しい、せめてこの痛みの意味がなんであるのか、そば近くにきて、耳元で、教えていただきたい。そんな生々しい神を渇望していたわけです。
 そんなときに、こんな「お説教」をされても、まったくハートに響かない。虚しい戯言に聞こえてしまうわけです。

【火曜】 ヨブ記27章~29章

 ヨブは神に不満を述べます(27章2節)。しかし、これまで無神論に陥ったことはありません。「神存在」は疑ったことがない。「ただその神が私の権利を取り去り、私の魂を苦しめている」と不満を述べるのです。
 不満とは、あることが認めてもらえないから生じるものです。ヨブにとってそれは「自分の正しさ」です。それは何が何でも譲れません(5~6節)。「自分はこれほどの苦難を受けるような悪いことをしていない、因果応報論で私を責め立ててくる3人には断固譲れない。とにかく私は徹底的に潔白であり、あなたがたの主張を認めることは、私には絶対にできない」と言うのです。
 新約聖書に慣れ親しんだ私たちからすると、このヨブには違和感を持つでしょう。新約のパウロは自分のことを「罪人のかしらだ」と言いました。「人間は皆罪人だと言われるけれど、そのすべての罪人のかしらは、この私だ。私こそ罪人の中の罪人だ」と言うのがパウロの自覚でした。
 そういう自己認識からすると、今日のヨブは正反対です。自分の罪を認めず、自分の正しさを徹底的に主張するわけですから、私たちが親しんだ新約的な罪の捉え方、人間認識、自己認識とは、まったく相容れません。
 ヨブは先に見出した真理が、次第に見えなくなってきました。見出した真理をずっと終わりまで持ち続けていれば、ヨブ記はまさに新約聖書になってしまうことでしょう。
 でもヨブ記は旧約聖書です。最大の違いは実際にイエスが地上に来られる前の書物だということです。神が人として地上に来なければならないほど、人間の罪が甚大であり、神の恵みはそれを覆うほど、もっと甚大だということが、ハッキリとは見えていない。これが旧約聖書の限界であり、ヨブ自身の限界でもあります。限界の中で、どんどんヨブが垣間見た真理は霞んでしまうというのが、今、辿っている箇所です。

 28章に進むと、ヨブの歩みは平地ではなく、もはや地の底に潜ります、ズンズン下って行って地面にめり込んで、ついに地の底にまで沈み込むのです。
 そこには金、銀、サファイヤ、鉄、銅、縞めのう、サンゴ、水晶、真珠、ドパーズ等々様々な鉱物が登場します。そういう鉱物を掘り出すかのように、ヨブは土の下に潜っていきます。
 いや、今のヨブにとってそんな宝石にも勝るほどのものは、現状を弁え受け入れる心です。ヨブは「知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのある所はどこか」と言っています(28章12節)。ヨブが求めているのは、深い知恵と悟りです。そしてそれは地面の上には転がっていません。地表を眺めてみても、そんなものが露出してはいません。13節に「それは生ける者の地では見つけられない」とあります。
 坂道から、地面の中にまでめり込んでいったヨブは、さらにここを掘り進んで、本当の宝物を発掘したいと願っているのです。
 ただし、やっぱりヨブは優れた信仰者です。実はその宝の在りかを知っているのです(23~24節)。宝物は、むやみに地面を掘って発掘できるというもんじゃない、「神が鉱脈を知っておられる、神がその所を知っておられる」だから神に教えられなければならない、ヨブにはそれが分かっているのです。むやみに苦労する、難行苦行するだけじゃダメ。神に近づいて行って、その神に教えていただいてこそ、人生の宝を見出せるということを、ヨブはちゃんと知っているのです。

 29章は過去の述懐から始まっています。本当にすべてが夢だったらいいのに、悪い夢なら早く覚めてくれればいいのに(29章2節)。古き良き時代を思い返し、かつての日を振り返って感無量の思いにふける部分です。
 周りが暗いときもヨブの頭の上だけは明るく(3節)、声が天幕越しに聞こえるほど間近に神と接し、全能の神がヨブと一緒にいて、子どもたちが元気に過ごしていた。7人の息子、3人の娘、目に入れても痛くない、愛する我が子たちが一緒にいた幸せな家庭です(4~5節)。
 また名声もあり(7節)、彼が町の門に座れば、周りの空気は一変し、お喋りは止み、その語る言葉に注目が集まっていました。ヨブは豊かな人格者として多くの人の心を惹きつけ、つかさたちも首長たちも、一目置いていたのです(11節)。
 口だけでなく、実践の人でもありました(12~13節)。貧民、みなしご、病人、やもめ、皆当時の社会は手に負えない、諦められた人たちです。でもいつ自分がその立場になるかわかりませんから、そういう人を救出する人は、やはり誰もが称賛していました。
 ヨブはまた品行方正、正義の実践者でもありました(14~17節)。抑圧された人々を救い出すために、多くの労力を惜しみなくささげました。人権派で、弱者たちの顧問弁護士を、儲けなしで引き受けるような優れた徳の持ち主です。こういう、すばらしい人生を歩んできたのが、かつてのヨブでした。
 だから彼ら周囲の人々は、いつもヨブを待ち望みました(23節)。「後の雨」(新改訳の欄外脚注には「春の雨」)。ヨブ記の舞台は1章1節に「ウツ」という町だとありますが、これはパレスチナとアラビアの国境近くで、春らしい春のない土地柄です。それでも春を告げる雨を人々は心待ちにしていました。それと同じくらいヨブが広場に登場するのも、そこで言葉を発するのも、人々は心待ちにしていたのです。

【水曜】 ヨブ記30章~31章

 懐かしい過去の栄光を述懐しながら語ってきた、それを全否定するように「しかし今は」(30章1節)と続くのです。 春の雨を待つように、自分のことを待ち望んでいた人々が、自分をあざ笑うのです。あざけり、笑い草にし、忌み嫌った上で、唾をかけるというのです(30章9~10節)。
 ヨブの姿のうちに、救い主イエスキリストが十字架にかけられる際の出来事がダブってくるように思えます。イエスも唾をかけられ、あざけられながら、十字架への道を進まれました。
 人間がこういう態度を取るのは、神が彼との間にあった綱を解いたからだ(11節)。神が苦難の道を歩ませることを、良しとされたからだ。
 ヨブの足はもつれて歩けません(12節)。滅びの道を歩むのですが、それすらも転びながら歩くのです。ここは、あまりの拷問のために、十字架を背負っては前へ一歩も歩くことができず、クレネ人シモンの力を借りてゴルゴタへ歩まれたイエスを想起させられます。
 でも、ヨブは天国に近い山のてっぺんで神様の御姿を垣間見てからは、ひたすら神から離れ続けたと思っています。神が関与する場所ではないと思われた、この地上を、さらには地上の下、地面の下を、ひたすら沈み込みながら走り続けているのです。
 ランナーならビリを走っていても、沿道から大声援が送られるでしょう。でも今のヨブはそんなものすらありません。それどころか、ヨブには、あざけりの歌と笑い、唾が沿道から吐きかけられるのです。とてつもなく孤独なランナーです。
 誰が自分を見つめてくれるだろう、ヨブはボロボロ泣きながら走るのです。どんなときも、最後にして唯一の頼りとなるはずの神が、そば近くに感じられない、いやそれどころか、ヨブが知っていた神ではありません。しかし神はそうなってしまった、ヨブに敵対し、泥の中に投げ入れると言うのです(30章19節)。「立っていても」(20節)というのは「途方に暮れていても」というニュアンスです。神様に一生懸命助けを叫び求めながら走っているのに、神様はうんともすんとも仰ってくださらない。
 神は変わられた、別人になってしまわれた。それも残酷な方に変わってしまわれた、ヨブにはそうとしか思えません(21節)。
 「神が残酷な方だ」という表現は、聖書の中で他に見当たりません。それほどヨブは自分の叫びに対して、言い換えれば祈りに対して、沈黙し続ける神にショックを受けているのです。
 いったい神はどうしてしまわれたのでしょうか。神は、ヨブの最も厳しいと思われる人生のレースの最中に、遠く離れてしまわれたのでしょうか。いつも神様と刻まれてきた二組の足跡は、ヨブの目にはたった一つだけになってしまったように見えます。目に涙をいっぱい溜めながら、「私が叫んでもお答えにならない。神様、あなたは残酷だ」とつぶやくのです。
 ヨブは気づいていません。しかし神様はヨブと一緒におられたのです。この世の底辺に沈み込むヨブのような人々と一緒におられたのです。

【木曜】 ヨブ記32章~34章

 エリフという謎の男が登場します(32章2節)。彼の発言がここから延々37章まで続くのですが、エリフが口を開いた理由は、「ヨブが神よりもむしろ自分自身を義とした」という憤りからです。つまり他の3人と同じ理由です。
 「まったく、3人ともだらしがない。こんな天罰が当たったようなみじめになったヨブが、希代の悪人なのは間違いないだろう。もっと徹底的に責め立てて、反論の口を封じさせないとダメじゃないか。3人が束になりながら、ヨブに『申し訳ありませんでした。私が悪うございました』と言わせられないとは、なんてだらしがないんだ」。そう、3人の友人にも怒りを燃やすわけです(3節)。
 今までエリフが沈黙をこらえていたのは若かったからです(4~5節)。一説によれば20代の青年だったのではないかと言われています。今まで発言を控えてきたのは、年配者を立てる一種の敬老精神があったからです。ヨブもエリファズ、ビルダデ、ツォファルも、自分よりずっと年上の長老格だから、自分のような若造がしゃしゃり出るのはおこがましい。そう思って必死に沈黙を守ってきたわけです。
 ところが、ヨブが自分の無罪性の主張において頂点まで達し、3人の友人は疲れて完全に沈黙するという状態になったので、「もう黙っちゃおれない」そう思って口を開いたわけです。
 大変常識的で、エチケットを心得ている青年のようです(6節)。ただ
 思い切って言いました(8~9節)。「私は若造だから、黙ってきたけれど、もう我慢ができない。年長者が正しいとは言い切れません。失礼を承知であえてしゃしゃり出ます」
 「ずいぶんと3人が努力したのは認めるけれど、結局ヨブを打ち負かすことができた者は一人もいないじゃないか。最後の最後まで説得できるのが一人もいないとは、なんてだらしがないんだ。もうあなたたちじゃダメだ。私が言わせてもらう。そう3人の友人に不信任案を突き付けるわけです」(12節)。こうしてエリフが、真打ち登場とばかりに33章以降、ヨブに語りかけるわけです。

 しかし言葉数が多いばかりで、結局エリフの主張も、3人の友人たちの主張の焼き直しのようなもので、まったく新鮮味はありません。
 エリフは言いました(33章8~9節)。「ヨブ、確かにあなた言いましたよね。私は聞きましたよ。『私は潔白だ。神様に罪を犯していない』ということをね」
 確かにヨブの主張は「私は潔白だ」ということでした。体中の腫物を掻き毟りながら、「こんなヒドイ目にあうほど悪いことはしていない」と、これまで一貫して主張し続けていました。
 エリフは、ヨブのその主張に対して、「そこがあなたの間違いだ。あなたの問題はそこにある。あなたの病気はこれだ」と、いわば診断書を書くわけです。そして、この診断書は的確です。
 では、それに対する処方箋、どうすればあなたの問題は解かれるか、あなたの病気は癒されるかということですが、その結論はすぐに出ます(33章12節)。これが結論なのです。後に長々続くエリフの言葉は、この一言に凝縮できるのです。「神は人よりも偉大だ」
 「偉大な神に、ちっぽけな人間ごときが不満を述べるなど、まったくおこがましい。我々人間は、神様のなさろうとしていることなど、掴み切れないんだ」そう言うのです。だからどんな目にあっても「ハイハイ、これも神様のご計画。ちっぽけな私たち人間にはわかりません」と受け入れなさいということです。
 エリフの処方箋、エリフの言っていること。これは間違ってはいません。確かに、その通りです。
 でも、いったいエリフはどんな顔をして、ヨブにこれを言っているのでしょう。灰の上に座ったままホームレス同然になってしまったヨブ。子どもたちが死に、妻からは自殺をすすめられ、幸せな家庭が崩壊してしまったヨブ。そして延々と議論をしている間も、体中の痒みと格闘し、茶碗のかけらで血だらけになるまで掻き毟っているヨブ。
 こんな心身ともに参り切っている、生身の人間であるヨブに向かって、エリフはまるで「教科書にこう書いてあるじゃないか」と言わんばかりの正論をもって、ヨブに切りかかるわけです。
 この議論の場をイメージしてみると、主張の善し悪し以前に、愛がない、コンピューターではじき出した答えをぶつけるような、冷たいものを感じずにはおれません。

【金曜】 ヨブ記35章~37章

 エリフの主張は、長いだけで新しいものがありません。
 エリフは「私たちが見つけることのできない全能者」(37章23節)と語っています。「見つけることができない」というのは、ちっぽけな人間の目には神様ご自身はもちろんのこと、その御計画も見極めることができないということです。
 「ヨブよ、お前のような小さな人間が何を言えようか」と、ヨブの反論をストップさせる言葉です。
 心身ともに痛めつけられたヨブは、さらなる言葉の暴力で、もはや限界です。心も体も悲鳴を上げることすらできません。
 続きに「力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない」とあります。苦しむヨブを皮肉るかのような言葉です。

 エリフの全6章にわたる主張は、要するに「神は正義の神である」ということ、これが第一です。そして、「その正しさを持つ神は人間よりも圧倒的に大きな存在だから、人間には『見つけることができない』、それほど神は偉大なのだ、だから神の正しさとヨブの正しさを突き合わせて論争するなど、人間の分際を超えているからよしなさい」ということです。
 エリフの言っていることは、あっているか間違っているかと言えば、「あっている」と言えましょう。そしてヨブが自分の無罪性をトコトン主張するのは間違っていると言えましょう。はじき出す答えとしてはエリフの主張に軍配が上がると思います。
 ただ、ここには生身の人間に対する愛がありません。言ってることは間違っていない、ただ愛がなきゃ、どんな正論にも価値がないのです。

【土曜】 ヨブ記38章~39章

 ついに、神様がヨブに語りかけられました。ヨブ記の中で神様は、サタンとの会話において登場しました(1~2章)。この世に神様が直接関わりを持つのを、ヨブ記はこれまで記したことがありません。
 さて、あたかも天国にあぐらをかいて、地上に手を伸べてくださらないかに思えた神様ですが、ついにこの38章においてヨブに声を掛けられるのです。神様は、この世界を放っておかれませんでした。この世界で傷つき、苦しみ、悩む人のために、直接の関わりを持たれたのです。
 「主はあらしの中からヨブに答え」た。まさに嵐の中に光る、あの稲妻のように、バサバサッと天から地に向かって、声が垂直的に下るのです。
 覚えておきたいのは、この地上に関わりを持たなくても良いはずの神が、一人の人間となって、やはり、この世に垂直的に降誕されたことです。垂直的にベツレヘムに実現した、あの馬小屋の出来事から始まった恵みとして、そして十字架の贖いの成就も神殿の幕が上から下の真二つに、垂直に裂かれて、神の御前に進みゆくことが許されるようになったことを、感謝したいものです。

 2節はエリフを叱りつける神様の言葉です。クドクドと長いだけで何の新鮮味もない攻撃をヨブにしていたエリフのことを、神が一喝なさるのです。もちろん、エリフに先立って同じ内容の攻撃をした3人の友人たちも、この神の言葉に怯んだことでしょう。「因果応報、勧善懲悪。ベラベラ演説をする小ざかしい、こやつは誰だ!」一喝なさいます。そしてヨブに向かって慰めの言葉をかけるのです。
 3節前半「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」つまり、「エリフの言葉なんかで意気消沈するな、あんな発言、長々しいだけで、まったく無意味な演説だから気にするな。傷ついたかもしれないけれど、ここから腰を据えて立ち上がれ」そう言うわけです。

 そして3節後半「わたしはあなたに尋ねる。私に示せ」そう神様が仰って、残りの箇所が始まるわけです。「私はあなたに尋ねる。神である私があなたに尋ねる。答えられるものなら答えてみなさい」。そう言って4節以降、38~39章と、畳みかけるようにヨブに問い質します。「神である私が、天地を創造したとき、ヨブよ、お前は一体どこにいたのか。言ってみろ」(4節)。これは大変な質問です。もちろんヨブはまだ存在しません。影も形もありません。
 「あなたは知っているか。だれが地球の大きさを『これだ』と定め、だれが測りなわ、メジャーをその上に張って測量したかを」(5節)
 地球の創造を終えたとき、全宇宙が喜び叫んだというのです(7節)。それは「人間が住む、そしてヨブ、あなたが住む特別な星が完成したからだ」というのです。神様がこの世界を創造したのは前向き、肯定的な思いからでした。その祝福と肯定のうちに、ヨブもまた一人の被造物として造られたのでした。
 天地を創造された神は、陸地と海とを造られました(16節)。海がどうやってできたのか、あのバケツで何万回、何億回汲みだしたって、ちっとも減らないであろう、あの大海がどこから始まったのか、わかるか。
 聖書の舞台で雪が降るというのは、非常に珍しいのですが、ごく稀に雪が降り、ひょうが降ることもあったようです(22節)。
 さらに天体に目が向けられます。「ヨブよ、夜空を見上げてみなさい」(31~33節)。すばる、オリオン、牡牛座、あまたの星々を見上げながら、「あなたは天の法令を知っているか」、知るどころじゃない「地にその法則を立てることができるか、実施する力があるか」。
 天体に向けた目は、今度はジャングルに向かいます(39節)。いったい、ライオンに誰が食物を与えているのか。誰が養っているのかわかるか。そして数々の動物たちに、食べ物を与えているのは誰かわかるか、お前にそういうことができるのか。
 空を飛ぶ鳥たちに餌を与えるのはいったい誰なのか(41節)。
 「野生のヤギが、いつ臨月になるのか知っているか」(39章1節)ヨブは非常に賢い男だったようですが、賢いヨブでも知っているはずがありません。これも人間は手の出ない問題です。
 古今東西、馬といえば力持ちの代表です。その力は誰が与えたのか、そして誰があのたてがみを付けたのか(19節)。

 さて、あちこち視点を移しながら、話しが進められてきました。からすからオリオン座まで、低きから高きまで、縦横無尽に筆が進められました。
 そして、一つ一つ神様から問われますと、結局人間は何も知らないということに思い至ります。
 現代人は古代人に比べると、いろいろなことがわかってきました。雌鹿の臨月を目撃した人もいるかもしれません。でも謎が減ったのかというと、全然減っておらず、むしろ次から次に謎が増える一方なのです。
 物理学一つとってもそうです。「質量同士はなぜ引き合うのか。素粒子はどこまで小さいものがあるか。同電荷同士はなぜ反発しあうのか。異電荷同士はなぜ引き合うのか。波の伝播速度はなぜエネルギーには無関係なのか。運動量はなぜ保存されるのか。エントロピーが極大になるとどんなことが起こるのか。すべての質量が消滅するとどうなるのか」などなど、古代人は知らなかった謎を、現代人は新たに抱えることになっていましました。
 ですから本当の科学者は、人間がまったくの無知であることを、謙遜に弁えています。科学の進歩によって、幾つかの謎が解明されることはあっても、そこからまた新たな謎が生まれ、謎の数が減りはしないということを、謙遜に弁えています。
 ヨブ自身も、当時の賢者だったようですが、いよいよとなると無知であることを告白せざるを得ない、それが実情でした。神様はそれを口をきわめてヨブに語るのです。

参考文献

  • 北森嘉蔵『ヨブ記講話』教文館、2006年
  • 内坂晃『ヨブ記』教文館、1999年