旧約 第27週
歴代誌第二33章~ネヘミヤ記2章

カンバーランド長老キリスト教会日本中会 主事
古畑 和彦

2009年10月31日 初版

【日曜】 歴代誌第二33章~34章

【33章】

 マナセ王は、著しい偶像礼拝のゆえに、ユダ王国最悪の王とされている。「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈った・・・」(12~13節)。彼は悔い改めて「主の宮から外国の神々と偶像、および・・・祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨てた。そして、主の祭壇を築いた」(15~16節)。しかし、残りの生涯で失われたものを元に戻すには、あまりにも罪の爪痕が大きかった。ましてその子アモンが悔い改め以前の父マナセの行いに戻るに及んでは、ほとんどマナセの回復はユダの王国に効果を現さなかった。
 最悪の王マナセですら悔い改めたことは、私たちに大きな希望を与える。しかし、悔い改めがもう少し早かったら、彼の家庭もユダ王国の未来も明るくなったことであろう。私たちは、罪を示されたら、悔い改めを遅らせるようなことがあってはならない。

【34章】

 ヨシヤ王は、16歳の若さで「ダビデの神に求め始め」(3節)、20歳で偶像を取り除いて「ユダとエルサレムをきよめ」(3節)、26歳の時に神殿の修復にとりかかった。そのとき神殿の中で「祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された主の律法の書を発見した」(14節)。王は、ユダのすべての住民に「発見された契約の書のことばをみな・・・読み聞かせた」(30節)。そして、王自ら「この書物にしるされている契約のことばを行うことを誓った」(31節)。そのうえで、「イスラエルにいるすべての者を、その神、主に仕えさせた」(33節)。王は、このように改革を断行した。
 私たちの「神の宮」には綻びはないだろうか。点検を行い、繕い、修復をしよう。そうすれば、きっと長く忘れられていた御言葉を発見することになるだろう。私たちもその御言葉によって、私たちの信仰を改革しよう。

【月曜】 歴代誌第二35章~36章

【35章】

 ヨシヤ王は、改革の集大成として、エルサレムで祭司やレビ人を力づけて「主に過越のいけにえをささげた」(1節)。「過越」は、単なる年中行事ではなく、神への献身を堅固なものにする重要な儀式であった。今日、私たちが教会で守っている聖餐は、それほどの意識で守っているだろうか。
 この章の終りの部分は、ヨシヤ王がしなくてもよい余計なことをしたために自滅するという記事である。ヨシヤほどの人でも、自分の考えを優先させてしまい、「神の御口から出た〔エジプト王〕ネコのことばを聞かなかった」(22節)。神の言葉に従うことができなかたのである。もしここでヨシヤが静まって神に祈っていたらと考えると残念である。
 自己中心と不従順、この2つこそ、御言葉に生きようとする者に立ち向かってくるサタンの武器である。私たちは行動の前に神の御心を確認することを忘れないようにしたい。

【36章】

 ヨシヤ王以後の歴史は、急坂を転げ落ちるかのように、もはやとどめようのない状態になっていった。しかし「神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた」(15節)。その預言者のなかでも際立つのは、エレミヤである(12節)。ほかにも、この時代に、ダニエル、エゼキエルが遣わされている。いかにこの時代に、神は情熱を傾けて、滅びゆく神の民に語りかけられていたかがわかる。時代が悪いときほど、神は、心を痛めておられたのである。しかし、神の民は悔い改めることはなかった。そのため、徹底的な滅びが彼らを襲った(17~20節)。しかし、それでも神は見捨てることなく、ペルシヤの王クロスを用いて、回復の希望を与えてくださったのである。
 滅びゆく魂への神の情熱は、今も変わっていない。今日、神がその魂のもとに遣わそうとされているのは私かもしれない。

【火曜】 エズラ記1章~3章

【1章】

 「主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので・・・」(1節)。紀元前538年、歴史の主である神の御手は今、王の心を動かされた。イスラエルの民は、神殿の再建のために捕囚からの帰還を許されたのである。「神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった」(5節)。
 家族をあげてエルサレムに帰るには、勇気と信仰が必要である。それほどの決意のない人々 ―─「残る者」(4節)―― にも役割があった。それは、ささげものによって、帰還する人々を「援助」(4節)するという責任である。それも「進んでささげる」(6節)という自発的なささげものによってであった。そのささげものが帰還する人々を「力づけた」(6節)。
 神の働きには、自らの生涯をかけて献身する者と、その人を物心両面にわたって支える者とが必要である。宣教団体を覚え祈ろう。

【2章】

 なぜ、聖書はこのような人名リストを長々と記すのであろうか。それは、神が一人一人の人間に関心を持たれるということを表している。
 エルサレムに帰還した人々は、「神の宮のために自分から進んでささげ物をした」(68節)。捕囚から帰還した民が経済的に豊かであるはずがない。これからどうなるかわからない、将来の蓄えも必要である。そのなかで、神殿再建のために、自分たちの「できることとして」(69節)ささげたのである。
 彼らは、まだ、神殿が再建されていないのに「祭司の長服百着をささげた」(69節)。このことは、彼らがいかに神殿における礼拝を熱心に求めていたかを示している。神殿再建は、単に「箱もの」を建てることではなく、礼拝再建であった。真実な礼拝を求める思いから、真心からのささげものが生まれる。
 私たちの礼拝への思いはどうだろうか。

【3章】

 「民はいっせいにエルサレムに集まって来た」(1節)。口語訳「民はひとりのようにエルサレムに集まった」。彼らがひとりの人のようになって、最初にとりかかったことは祭壇を築くことであった。その祭壇で献身を表す「全焼のいけにえ」を「朝ごと夕ごと・・・ささげた」(3節)。「霊的一致」と「全き献身」、それなしに、いかなる神の業も進むことはない。心に刻みつけたいことである。
 神殿の基礎工事が忠実な働き人によって成し遂げられた。それを見て、老人たちは、絢爛豪華であったソロモンの神殿と比べて、あまりのみすぼらしさに「大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた」(12節)。神の導きを信じる者は、他と比べることなどしない。ただ、目前の神の御業を見て「喜びにあふれる」。
 私たちも、過去や他人と比べることはやめよう。

【水曜】 エズラ記4章~6章

【4章】

 6節の「告訴状」のヘブル語は「サタン」と同じ語源である。サタンは、最初「私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです」(2節)と仲間の顔をしてやってきた。そして、神殿を「いっしょに建てたい」と申し出てきたのである。多くの協力者が得られれば、それだけ早く工事は進むし、経済的にも楽である。しかし、民の指導者たちは「あなたがたと私たちとは何の関係もない」(3節)と退けた。簡単に、サタンの巧妙な罠にかからないように気をつけたい。
 すると、サタンは、次に神殿を「建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした」(4節)。「さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした」(5節)。そのため16年にわたって「工事は中止」させられることになった。
 私たちは、神の御業を達成していくとき、多くの誘惑、試練があることを心にとめたい。

【5章】

 サタンの妨害工作のために、民はやむなく工事を中止して、時を待つことになった。待つことは辛く、忍耐のいることである。そのなかで民は次第に、神殿再建よりも自分たちの生活を中心に考えるようになっていった。このようなイスラエル人に、神は「預言者ハガイとイドの子ゼカリヤ」(1節)を送り、彼らに警告と励ましを与えられた。神の御言葉が語られるとき、神の民は悔い改め、力を与えられて「立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた」(2節)。
 総督たちは「ユダヤ人の長老たちの上には神の目が注がれていたので・・・彼らの働きをやめさせることができなかった」(5節)。神の見守りと保護のあるところ、試練のなかにあっても、神の御業を行う力が与えられる。イスラエル人が、単なる熱心によってではなく、預言者の言葉と神の注目によって力づけられていたことに注意したい。

【6章】

 神が「王の心」(22節)を動かし、ペルシヤ王家の全面的な協力のもとに、神殿再建は完成した。敵の妨害による中断、民の信仰の弱さと自己中心による遅延にもかかわらず、神の目は神への信頼に生きる者の上に注がれていた。
 私たちが困難ななかにあるときにも、神は変わりなく私たちを導いてくださるのである。時間はかかるかもしれないが、神の御計画は必ず実現する。
 神殿再建に携わった人々のなかには、「主を求めて、この国の異邦人の汚れから縁を絶って」(21節)イスラエルの民に加わった異邦人もいた。信仰を与えられた異邦人は、そのような決断を経て民に加えられ、共に過越の食事にあずかることができた。神は、このような異邦人を「喜ばせ・・・力づけるようにされた」(22節)。
 私たちが「主を求めて」「汚れから縁を絶つ」とき、神は真実な喜びを与えてくださることを覚えよう。

【木曜】 エズラ記7章~8章

【7章】

 学者エズラは、王の許可を受け、帰還を希望する者たちと共に「エルサレムに上って来た」(7節)。それは「イスラエルでおきてと定めを教える」(10節)ためであった。御言葉によらなければ、神の民は養われないし、成長もしない。見える神殿は建てられたが、「生ける石」である信仰者一人一人によって、「霊の家」(第一ペテロ2章5節)を築くのはこれからであった。
 エズラは、「主の律法を調べ、これを実行」(10節)する人であった。御言葉の学びは、実践に結び付いたものでなければならない。エズラが王から信頼され、民を導くことができたのは、彼の言行一致の精神、御言葉への忠実さがあったからである。このように生きる者に神の恵みの御手が確かにあったのである(28節)。
 今日、私たちは、御言葉の学びの姿勢を振りかえってみたい。

【8章】

 エルサレム行きの準備が整ったところで、エズラは「断食を布告した」(21節)。その目的は、「神の前でへりくだり・・・道中の無事を神に願い求める」ことであった。莫大な「銀、金」(25~27節)を携えての旅は、かなりの危険がつきまとった。エズラとその一行が最も安全確実にエルサレムに到達する方法は、ペルシヤ王により頼んで「部隊と騎兵たち」(22節)に同行してもらうことである。しかしエズラは、それを恥と考えた。ただ神の御守りのみにより頼むべきであると考えたのである。エズラは、このことが自分の思いか、それとも神の御心かを、断食と祈りによって神に問うた。その結果、エズラは「神は私たちの願いを聞き入れてくださった」(23節)という確信を得た。その確信を持って、エズラと民は、困難な旅を始めた。
 私たちの信仰の旅路も、そのように祈りによって与えられた確信を持って歩む旅でありたい。

【金曜】 エズラ記9章~10章

【9章】

 旅の後始末や必要な事務的な働きが一段落したとき、エズラにイスラエルの「不信の罪」(2節)の報告がもたらされた。それは、イスラエルの民が周辺の「忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく」(1節)結婚しているというのである。当時、異邦人であっても、イスラエルの民に加わることができなかったわけではない(6章21節参照)。ここで問題になっているのは「血のつながり」よりも「信仰の純粋さ」であった。偶像礼拝と不道徳が民に広がることに問題があった。
 エズラと彼のもとに集まった人々は「夕方のささげ物の時刻」(4節)まで沈黙のうちに時を過した。神は、エズラに絶望のなかから「気を取り戻して」(5節)祈る力を与えられた。
 祈りこそ信仰者に与えられた特権である。私たちが絶望し沈黙しているとき、すでに神は祈りの霊を注いでおられる(ローマ8章26節参照)ことを覚えたい。

【10章】

 イスラエルの信仰再建のために、他民族の「妻たちと、その子どもたちをみな、追い出す」(3節)ことが提案された。そして、その決断を、明日ではなく「今」しよう、と言うのである。この提案は、非人間的で非情な感じを与える。しかし、イスラエルの実情は、このような処置をとらなければ神の民として存続し得ないところまで来ていた。
 本書の最後は、悔い改めの実を結んだ人たちのリストである。神殿の再建のためにエルサレムにのぼってきた人たちのリストも尊いが、人情、愛情の絆を断ち切って、悔い改めの実を結ぼうとした人たちのリストも尊い。
 エズラが始めた働きは、このようにして、最初から大きな試練に直面した。しかし、主の前に心を注ぎ出し、助けを求めるならば、絶望することはない。どのようなときにも、「なお、望みはある」(2節)ということを、私たちも忘れないようにしたい。

【土曜】 ネヘミヤ記1章~2章

【1章】

 「ネヘミヤ」とは、「主は慰めたもう」という意味である。ネヘミヤはいかにして主から慰めをいただいたのであろうか。
 ペルシヤの王宮にいたネヘミヤのもとにエルサレムから悲しい知らせが届いた。それは、イスラエルの民は「非常な困難の中にあり、またそしりを受けている」(3節)というのである。ネヘミヤはこのことを聞くと「すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈った」(4節)。悲惨なニュースを聞くとき嘆く人は多い。しかし、それを自分のこととして悲しむ人は少ない。まして、「断食して」神に祈る人はほとんどいない。祈りによって、喜びだけでなく、悲しみを共にするとき、私たちは悩み苦しむ人々との深い連帯感が生まれる。そして、神が与えてくださる慰めを経験することができる。
 今日、困難のなかにあって労苦している方々を覚えて祈ろう。

【2章】

 ネヘミヤは、エルサレムへ帰還し、城壁を再建することを祈っていた。しかし、そのためには気難しい王の許可が必要であった。チャンスは突然やってきた。王のほうからネヘミヤに「あなたは何を願うのか」(4節)と聞いてくれたのである。ネヘミヤは、「神に祈ってから」自分の希望を答えた。すると、王は好意的に「旅はどのくらいかかるのか。いつ戻って来るのか」(6節)と聞いてくれたのである。もしも、ここで口籠るようであったら、王の気が変っていたかもしれない。しかし、ネヘミヤは、即座に「その期間」(6節)を申し出たのであった。さらに、城壁再建に必要な物を次々と王に申し出たのであった。ネヘミヤは、祈りつつ、祈りが聞かれることを確信して十分な準備をしていたのである。
 私たちの祈りはどうだろうか。いつ神が祈りを聞いてくださってもいいように、十分な準備をしているだろうか。