旧約 第25週
歴代誌第一23章~歴代誌第二15章

日本同盟基督教団 新船橋キリスト教会 牧師
下川 羊和

2009年10月31日 初版

【日曜】 歴代誌第一23章~27章

 23~27章では、晩年のダビデが神殿建設後の各部署の分担を定めたことが記される。初めに23章でレビ人の大別がなされ、24章では祭司、アロンの子らの組分け、25章では楽器をもって仕える者の組分け、26章では門衛その他の組分け、27章では軍隊、王の役人の組分けが記されている。
 この順序はダビデの意図するイスラエルの国の在り方を表しているだろう。戦世にあって勇士たちをかしらとする12の軍団が務めを果たし、国の安全が保障されることの必要はわりやすい。しかし、彼らの名の記される前に、4章にわたって神殿の奉仕分担が記される。
 人事・軍事の心遣いの前に神事の務めを果たす。これがダビデの優先順位だった。とりわけ、アロンの子らがしかるべき務めを果たすことがイスラエル王国の祝福にとって最重要とダビデは考えていた。

 彼らが働く至聖所とは何か。それは十戒を入れた契約の箱が安置される場所。神がモーセを通して賜った戒めの言葉こそ、神ご自身の臨在を象徴するものに他ならない。
 神の言葉に従わずに香を炊くことに何の意味があるだろう。アロンの子らは、芳ばしい香りをそこに漂わせつつ、何が神を喜ばせることなのか思い巡らし、教え、実践しつつ生きることを期待されただろう。そして御言葉に従う民にこそ平和があるようにと、民の祝福を祈ったのではないか。
 他のレビ人の務めの重要性は、アロンの子らを助けることに位置づけられている(23章28節)。彼らの助けがあってこそ、アロンの子らは至聖所の奉仕を全うすることができた。

 25章で音楽奉仕に重要な位置付けが与えられていることも驚嘆させられる。それらは賛美及び預言を助け、力づけるものとして用いられた。まず立琴と十弦の琴は指でつまびく撥弦楽器。ついで打楽器シンバル、さらに角笛。礼拝に楽器が用いられたということは、礼拝が秩序ある公の行為であり、調和とリズムを大切にしていたことを想像させられる。
 弦楽器は、正確な調弦をいつも要求しただろう。音楽を奏でる前に調子を整えること。礼拝者は、自分の霊が神に向けて整えられ、その後、神を礼拝するのだ。
 シンバル、角笛は、合図を示し、人々を一斉にある行為へ、別の行為へと仕向けただろう。礼拝とは、共に歩調を合わせ神の前に進み出る行為である。神の前で共に生きる共同体としての「我々」を体験する時であったと思う。

 神殿歌人はみな達人であった(25章7節)が、それは個性発揮の賜物ではなく、礼拝の歌の目的を知って技術を錬磨している専門家という意味であろう。そして実際の奉仕当番はくじ引きによる。技能の優劣でない、練達は期待されるが、奉仕は皆同じように交代で担うという、これが礼拝奉仕者に要求される技量と責任のバランスだった。

【月曜】 歴代誌第一28章~29章

 28章と29章はダビデの生涯の結び。それは、民への呼びかけ、ソロモンへの励まし、神への祈りからなる。

 民への呼びかけは、いきさつの回顧から始められた。ダビデがただ主の契約の箱のために建築を用意したこと。しかし血を流した戦士である彼は退けられたこと。ゆえに事業はソロモンに委ねられたこと。
 自分の手による達成を神から拒まれてなお準備の手を緩めず、事業を息子に委ねる。それは自分の血を引く者が完成することによって満足するというエゴではなく、ただ神礼拝が神の民の生活の中心に置かれることへの切なる願いだった。神を第一とするこの願いに民は喜んで応じ、おびただしいささげものを携えてくることになる。

 ダビデが民と一つ心に成り得たのは、彼の心が神と一つになっていたからではないか。それがダビデ王の魅力と思う。ゆえにダビデは息子ソロモンに「あなたの父の神を知りなさい」と語りかける。神を求めて王としての務めを果たし得たダビデにして語りうる帝王学であろう。世界の多くの指導者が、仕えられる者となっているのに対して、ダビデはソロモンに「神に仕えなさい」と命じる。神に仕え、そして、人に仕えよ、と言葉を補ってもいいのではないか。仕え人となること。
 そして「神を求めるなら、神はご自身を現される。あなたが神から離れるなら、神はあなたを退けられる」と語る。人々の上に立つ力を持った王だからこそ、基準を自分に置かないということが、いっそう必要とされたのだ。まして私たちは。

 29章25節ではソロモンの治世が一旦総括され、26節のダビデの生涯の結びに続く。ソロモンに事業を引き継いだところまでがダビデの功績なのだ。

 29章10節、主をほめたたえつつ祈りかけるダビデの姿は、彼の神殿建設事業が、神礼拝を心から慕う動機から生まれたものであることの証拠。費やされた神賛美の言葉。これにリアリティを与えるのは14節以降、神の偉大さを認めつつ、自分の乏しさを見つめる眼差しにある。
 15節の言葉は含蓄深い。神殿建設を準備させていただいたというのに、ダビデは「わたしたちは異国人であり」と語る。神に選ばれたということを本当にわきまえた人は、値しないのに選ばれた、本来ならば神と無関係であった者が、と悟って感謝できるのだろう。
 建設を前に生涯を閉じる運命を愚痴ってもおかしくない場面。しかしダビデは、用意されたものはすべてあなたの御手から出たものだと認め、告白する。神の前での謙遜を知る彼の生涯の評価は28節、長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ、という他の誰にも与えられなかった言葉が記された。

【火曜】 歴代誌第二1章~4章

 歴代誌第二の1~4章は神殿完成に至る過程を示す。2章はツロの王フラムの協力を得たこと。3章は着工。4章は内装と用具の製作。

 1章では、神から「何を与えようか。願え」と問われたソロモンが知恵と知識を求め、さらに富、財宝、誉れも約束されたことが記されている。神の御心にかなう祈りは、必ず聞かれ、それ以上のものが与えられる。
 では何が神の御心にかなう祈りなのだろう。ソロモンは神が自分を王としたことを認めている。そして任命された王としての必要を求めた。神が私をどのような務めに招いておられるのかわきまえて、その務めに必要なものを求める、これが御心にかなう祈りなのだろう。
 自分が召されている働きをわきまえたい。そして、そのために必要なものを求め、実りと祝福を受けるものとさせていただきたい。

 2章、ツロの王フラムの援助は、イスラエルの事業に外国から協力が与えられたことを示す。ソロモンの時代、諸外国との交流が祝福された例は他にもあるが、神殿建設前、ソロモン王の治世初期の段階での協力が特筆に値した。ソロモンは「主のために宮を建てる」(6節)そのために「人を送ってください」(7節)と願い、フラムはイスラエルの神を賛美しつつ、ソロモンの援助を決める。
 目的が神のためにであるということを明確にし、それに同意するフラムからソロモンは援助を受けた。神のためという良き意志が、賛同者、協力者を得たのである。それは欠けが満たされるという以上に、才知に恵まれた熟練工(2章13節)の優れた技を借り得たことであった。

 かくして、必要は備えられ事業は果たされる。3章に礎、その他の寸法が記されている平面図の広さくらいは想像してみたい。1キュビトおよそ50cmで計算すると、長さ30m、幅10m。王の宮殿と比べると、さほど巨大ではない。25mプールを想像してみると身近に感じられる広さだ。
 しかし、これを王宮に先んじて完成させたということが重要。またこれまでの歴史、幕屋での礼拝を引き継ぐという意図が優先した。偉容を誇りとしたのではない。

 4章には、青銅と金による用具の完成が記されている。使用した青銅は計り知れぬ量で、至聖所のあたりの用具は、金、純金によった。混じりけのない純金という言葉が印象的。神礼拝の道具が、試された金で造られたこと、それが記録されたことによって、それを用いる人々の礼拝者としてのありようを教えることになったのではないか。真の神に対して、混じりけのない思いで近づくこと、最善を携えて近づくこと、それを求めることを教えられる。
 ただし、イスラエルのいつの時代もそのような礼拝が備えられていたのではない。

【水曜】 歴代誌第二5章~6章

 主の宮はついに完成し、イスラエルの全会衆がそこに集い、いけにえをささげる。その数はおびただしく、「数えることも調べることもできなかった」(5章6節)。他方、宮の中心をなす契約の箱の中には「2枚の板のほかには何も入っていなかった」(5章10節)。この対比が印象的である。

 イスラエルの民は神殿の完成を喜び、持てるものをささげた。しかし、それらのものが神の偉大さを代弁することはない。材料を選び、技術をこらした建築物もそうである。2枚の板の他なにもない契約の箱、それは、神ご自身をここにお入れすることなどできないという認識を示す。しかし目に見えない神がイスラエルと契約を交わし我らの神となってくださったことこそ驚くべきこと。その神が共におられることこそ感謝すべき。十の言葉に象徴される戒めを賜ったことこそ、憶えらるべきことだった。

 選ばれたレビ人の歌うたいたちは「まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ」る(5章13節)。彼らの巧みさは、一致への技術でもあった。
 私たちは芸術において、スポーツにおいて、複数のメンバーが驚くほどに一致した動きをするのを見る機会がある。一致ということが並々ならぬ技術を要することを教えられ、またそこには一つの美や力といった価値が生じるのを見る。
 キリストのからだなる教会は、一致のためにどれだけ心と力を割いているだろうか。神の民が一つとなって(かつへりくだって)神の御前に進み出る時、神はご自身の栄光を表されるのである。また礼拝という行為は一致を求めるとも教えられる。他の場面でない、神に対する時、人は一つであるべきなのだ。礼拝においてひとりの神の御声を聴き、そしてそれぞれの活動の場、生活の場においては、それぞれの務めに励むということだろう。

 主の栄光が宮に満ちた時、ソロモンは主をほめたたえつつ語り祈る。とりわけ重要なのは6章18節以降の神殿の機能を語る言葉だろう。
 神は地上に住まれない、天も神を入れることはできない、ましてこの宮は、と語るソロモンは、神殿が完成すればそこに神はおられるとは思っていなかった。しかしこの所で御目を開いてしもべのささげる祈りを聞いてくださいというのが彼の正直な祈りだった。神の超越者たることをわきまえて、有限な人間である自分をわきまえて祈る祈りの正しさを教えられる。
 そしてこれから起こる様々な試練に際して祈る祈りを聞いてくださいと願う。神殿が祈りのために用いられ、神の民の向き合う現実のなかで機能すべき場所であったことを教えられる。神礼拝を中心とする信仰は、現実を生き抜く力として働くことを期待された。

【木曜】 歴代誌第二7章~9章

 礼拝は、人の一方的な行為ではない。神ご自身が火を送りいけにえを焼き尽くすことで成就する。私たちの心と言葉と行いが、心からささげられた後、神によって清められ用いられることを求めたい。それを可能にするのも神の恩恵であり、私たちはささげ得た時に神を賛美するほかなくなる。これは新約の時代イエスキリストによって完全に成就する。

 ダビデの定めた通り、祭司たちは楽器を携えて務めを果たす。その手にした楽器が主をほめたたえるために作られた楽器であったということがもう一度確認される。
 多くの人にとって音楽や楽器というものは、そもそもそのような形として初めから存在していたように思われるものだが、実際には目的にしたがって作られたものであり、用途にしたがった特性を備えるようになっている。
 一方では、どのような音楽も、どのような楽器も、神礼拝に用いられるものだが、他方、用途をわきまえ、神礼拝のためによりふさわしくかたちを整える、そのようなことを今日の私たちも考えるべきである。そのようにして備えられた音楽、楽器からは、礼拝がそもそもどういうものなのかということを私たちは教えられることさえある。

 完成記念礼拝を終えた夜、神はソロモンに語られる。祝福と呪いの言葉だった。神殿を建設すればそれでよいということではない。この宮を用いて神の御前を歩み続けることこそ、民の務めであり、そうであれば祝福を受け、そうでなければ投げ捨てられるということが明言された。真の信仰から逸脱することになる後の時代を予告しているようである。イスラエルは祝福の約束を全うしえなかった。

 8章、町々の再建は、主の宮と王宮の建設終了の後に行われた。足場固めの順序である。まず神、そして自分、その後、他の事柄へと順序をわきまえた時、着実に正しい力を行使することができる。
 生粋のイスラエル人でない異邦人たちは苦役に徴用された。今日の視点からすれば人種差別だが、当時の様々な必要から、ソロモンが判断を下したことであろう。私たちは差別のない平等な世界を目指すべきだが、それを容易に実現できない人間の現実を知らずに理想を振りかざすだけではだめなのだと思う。新約時代、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つとされて行くとき、まさにキリストの平和が必要とされた。
 そして記念礼拝でない通常の礼拝が、定められたように行われていく。聖書はこの宮が完全であったと評価する。

 9章は、シェバの女王を初めとする諸外国の膨大な富がイスラエルにもたらされたことを告げる。その富は、ソロモンの知恵に驚嘆する者が惜しみなくささげたものだった。神がソロモンに与えた知恵の尊さを聖書は強調している。

【金曜】 歴代誌第二10章~12章

 10章はイスラエル王国の歴史の転換。下り坂の始まり。ソロモンに代わって王となったレハブアムが民意を束ね得ず、ヤロブアムの介在によって王国は分裂する。ダビデが用意し、ソロモンが完成した神殿はなんだったのか。
 10章で最も重要な言葉は「神がそうしむけられたからである」(15節)という言葉。聖書は神が歴史を支配しておられると告げる。それは歴史のなかで行動する人間の責任を問わないものではない。レハブアムは長老たちに相談しているのだから民に「親切なことばをかける」べきだっただろうし、ヤロブアムのような隠れた敵意を実行に移す人物に注意すべきだっただろう。
 私たちは歴史の人物を通して学びうる。しかし、それらを超えて聖書が示そうとしているのは、まことの神礼拝がどこにあるのか、ここには存続しえなかった、しかし、やがて実現するということではないか。神はそのことを長い歴史を通して語ろうとしておられる。そしてその歴史は神が支配しておられるということである。

 11章、レハブアム王は反乱を鎮圧せんと兵士を募る。しかし神の人シェマヤが「兄弟たちと戦ってはならない」と神の言葉を告げて、レハブアムはこれに従う。与えられる人生のなかで人がなし得ることは、神が定めておられることを悟ること、そのなかで正しい行為を選び取ること。戦を禁じられたレハブアムは防備の町々を建て、それらを強固なものにした。
 心を神にささげ、神を尋ねる者たちが、彼のもとに集まったことは幸いであった。父たちの道に歩んだ結果であった(16・17節)。

 12章、しかしレハブアムは自分が強くなると神の律法を捨て、神への不信の罪はエジプトからの攻撃をもたらす。王たちは神の人シェマヤの警告を聞いて神の前にへりくだるが、エジプトの脅威は去らず、警告は残る。人として真の自由を得る道は、神のしもべとなること、神のことばに従うことであると聖書は告げている。また怒りを思い直される神、完全ではない私たちも(人も)神の前に幾らかの良いことをなしうる、ということも忘れてはならない事実である(12節)。

【土曜】 歴代誌第二13章~15章

 13章、レハブアムの息子アビヤの治世。ヤロブアムとの戦が記されている。どちらも精鋭を率いたがアビヤは40万、ヤロブアムは倍の80万。数だけ見るならヤロブアム圧倒的優勢、にもかかわらず、勝敗は予期せぬ方向へ。勝敗を決した要因は何か。これを読み取るべきであろう。18節、ユダが彼らの父祖の神に拠り頼んだからだと聖書は記す。
 アビヤは戦いの前に神が王国をダビデとその子らとに与えたことを知らぬはずはなかろうと問いかける。神がダビデ及びその子孫と契約を結んだのだということこそ、思い起こされるべきことであった。また、ヤロブアムの造った金の子牛礼拝に参加する祭司は、神ならぬものの祭司となることであり、それは自ずから自分を神との契約の外に置く行為であるといえよう。比べてユダは、父祖の神を神とし、その戒めを守っている。ユダに戦いを挑むことはその神に戦いを挑むこと、ヤロブアムに向かって「主と戦ってはならない」(12節)と戒めた。にもかかわらず、ヤロブアムは、多勢にまかせてユダに対し伏兵を置いて、前後からはさみうちを仕掛けた。その結果、神がヤロブアムを打ち破られたのだ。

 14章、アビヤの子アサの治世。彼は偶像礼拝を排除し、主の律法と命令とを守り行わせ、ゆえに主は、ユダに平安をもたらした。クシュ人ゼラフが、100万の軍勢、300台の戦車を率いて攻撃をしかけるが、アサは主に祈り勝利をおさめる。この時も、神に拠り頼む者が大軍を打ち破った。

 15章、さらにアサは、オデデの子アザルヤを通して語られた言葉に従い、偶像礼拝を排除する。ユダ王国は、正統なダビデ王家の王国であるからといって、王の独裁ではなかった。誰であっても神からの言葉を取り次ぐ者の言葉には、従う価値があると示された。逆にアサの母マアカがアシェラ信仰を行った時には、実の母を王母の位から退ける英断も見せた。
 ユダ王国の祝福は、血筋によるのではなく、イスラエルの神、主に対する信仰にあった。