旧約 第21週
列王記第一12章~列王記第二2章

日本福音キリスト教会連合 かもい聖書教会 牧師
熊久保 公義

2009年10月31日 初版
2009年11月28日 第2版

【日曜】 列王記第一12章~13章

【12章1~19節】 仕えることを退けたレハブアム

 王国が分裂する経緯が描かれる。レハブアムがシェケムへ行ったのは、このときすでに表面化していた、北部族との溝を埋めるためであった。北側は、特別な召しを受けた(第一列王11章31節)ヤロブアムを代表に立て、苦情を訴える。レハブアムにしてみれば、決定済みの課税を軽減させることは容易な作業ではなかったし、何よりもヤロブアムを代表とする北側の苦情を聞き入れることは受け止め難い選択。彼は長老たちの「仕えよ」との助言よりも、若者たちの「懲らしめよう」との力強さに共感した。
 以降、北と南の分裂は決定的なものとなり、「ユダ」は南ユダ王国を、「イスラエル」とは北イスラエル王国をさす言葉となる。仕える王のモデルから離れるとき、神の民は分裂へと向かう。

【12章20~33節】 ヤロブアムの罪

 北イスラエルの滅亡の原因は、その後次々と不信の王が立てられるにもかかわらず、本章のネバテの子ヤロブアムに帰せられている(第二列王13章2節ほか)。普通王国の評価は政治手腕によって判断されるところであるが、聖書の評価はそれと違う。
 北王国成立後、政治能力の高いヤロブアム(第一列王11章28節)が取りかかったことは、南との完全な決別だった。シェケムとペヌエルの再建は南からの侵略を防ぐ、軍事的な意味を持っていた。さらに彼は精神面でも南からの脱却を図り、エルサレムに行かずとも祭儀が執り行えるよう、自国の南北にそれぞれ礼拝所を設け、一般人を祭司としてたてる。
 祭儀の日にちに関して比較的詳細に説明されている(32・33節)。祭りの日を第8の月の15日(それまでは第7の月の15日)に変えたのは、エジプトで月の新しい数え方を学んだと思われるヤロブアムらしい考案である。彼は新宗教を造りだしたのではなく、エルサレムからの独立を企てた。
 本来神への信仰に従って国が成立されるべきところを、自らの政治的関心のために信仰を利用した点こそが彼の最大の罪である。ヤロブアムの失敗に注意しなければならない。

【13章】 主のことばをどのように聞くか

 誤った礼拝の在り方そのものを裁くため、神の人は祭壇に向けて主のことばを告げる(2節)。ヤロブアムの王としての命令も、この主のことばの前では何の力も持たない(4節)。
 11節以降、「主のことばをいかに聞くか」とのテーマが続く。ベテルの老預言者は、南から来た神の人に魅力を感じ、偽りをついてまでも自らの家に彼を招き入れた。結局主の真実のことばのみが実現し、神の人は裁かれる。老預言者も、真に与えられた神のことばを語らざるを得なかった。この難解な出来事は、将来イスラエルがたどる、破局への道を示している。神のことばから離れるとき、滅亡が訪れる。しかしこれらの出来事を見ても、ヤロブアムは立ち返ることをしない(34節)。

【月曜】 列王記第一14章~15章

【14章1~16節】 王の責任の重さ

 ヤロブアムの息子の病を通し、イスラエル王国の滅亡が伝えられる。ヤロブアムは、かつて自分が王となることを預言したアヒヤのもとに妻を遣わす。よい結果を聞きたいとの動機のためだろう、彼女に変装を施すが、皮肉にもアヒヤの視力は失われており、ただ主によって彼女の本性は暴かれる。
 ヤロブアムへの宣告は次の4点。
【1】 君主であった事実確認(7節)。「君主」とは、神的な任命を連想させる語。神が任命したリーダーであったことを確認させる。
【2】 神を後ろに投げ捨てたことの非難(9節)。任職を受けたにもかかわらず神を捨て政治的判断により神を利用した点への責め。
【3】 こども及びヤロブアム家への厳しい裁き。10節は原文において汚い言葉で綴られる。
【4】 イスラエル王国全体への裁き。
 彼は厳かな任命を受けたにもかかわらず、神を無視し続けた結果、イスラエル国中にアシェラ信仰(カナンの豊穣の母神、バアルの妻)をはびこらせ、イスラエル王国の滅びを招くのである。任職を受けた者の背信の罪は重い。

注) 変装する行為に関して、聖書は常に厳しい態度をとり続けている。たとえば、サウル王、アハブ王、ヨシア王。神を欺く行為は危険。

【15章1~24節】 アビヤムとアサの評価の違い

・レハブアムの子アビヤム
 2節のアビヤムの母マアカは、10節でアサの母としても紹介されている。これはマアカが王の母を形容する名前として用いられていたか、アビヤムの母マアカがアサの支配する時代にも王母としての権力を持ち続けていたかのどちらか(アビヤムの支配が短い期間であったことを考えると後者が有力)。
 アビヤムの評価は「彼の心は・・・主と全く一つにはなっていなかった」(3節)。彼は父レハブアムの影響をそのまま受け、政治的判断と信仰的判断の2つの基準によって行動した。このような王にもかかわらず、このときユダ王国に滅びの宣告がなされないのは、ダビデの信仰のゆえ(4節)。
・アビヤムの子アサ
 一方のアサの評価は、「一生涯、主と全く一つになっていた」(14節)。これは彼が完全な人であったことを表すものではなく(歴代誌には、彼がアラムの王の援助を求めた行為が非難されている)、彼の行動の核心部分に主が置かれていたことを表現したものである。主がご覧になるのは、心のありようである。

【15章25~34節】 ヤロブアムの罪から逃れられないイスラエル王国

 ヤロブアムの子ナダブが、家臣バシャによって殺害される。これはペリシテ人と対峙している最中のクーデターだった(27節)。家来による謀反は、これまでなかった卑劣な犯行だが、北イスラエルではその後も同じような反逆が繰り返される。謀反は王位を権力の座として捉える態度から起きてくる。この点で、続く王たちにもヤロブアム的な性質が引き継がれると言える。

【火曜】 列王記第一16章~17章

【16章】 転げ落ちるイスラエル

 続く王の統治した年数はバシャ24年、エラ2年、ジムリ7日。統治年数の違いにかかわらず、主の王たちに対する評価は一定である。バシャ家の滅亡は「彼が罪を犯し、イスラエルに罪を犯させ、主の怒りを引き起こしたため」(2・7・13節)であり、ジムリもまた「悪を行い、ヤロブアムの罪を引き継ぎ、イスラエルに罪を犯させた」(19節)ゆえに滅びる。指導者の罪は民にも影響を与え、それゆえ主の怒りが引き起こされる。
 政局が揺れ動くなか、二大勢力が残る(21節)。王は本来主の召しによって立てられるが、ここでは力の強さによって決定される。悪名高いオムリ王朝のスタートらしい。
 オムリの時代には脅威も存在した。ダマスコのアラム人の王ベン・ハダデ1世はバシャを襲い、北ガリラヤを荒らした。アレッポで見つかった記念碑には、ベン・ハダデの支配がシリアの北まで達していたことを示している。内乱におけるイスラエルの弱体化に付け込み、襲ったのだろう。さらにアッシリアの脅威も徐々に広がっており、オムリの時代にはレバノンまで勢力を広げている。オムリはこれらの脅威に対し、内部の平和の優先、ユダとの友好関係、フェニキア人との親密な結びつき、アラム人たちに対する厳しい姿勢をもって臨んだ。彼の政策は功を奏し、イスラエルは一時的に経済的安定期を迎える。モアブを属国とすることに成功したことを示す歴史資料「メシャ石碑」などからもその様子はうかがえるし、都をティルツァから戦略的な視点によりサマリヤに移したこと(24節)もまた、力の表れと言えるだろう。しかし聖書のオムリへの評価は低く、「主の目の前に悪を行った」という一語に尽きる。主がご覧になる点は、主の前での姿勢にある。
 アハブの出現は、これまでの悪のピークとも言える(30~33節)。その時代の極度の霊的荒廃ぶりを示すかのように、主のことばをないがしろにするエリコの再建とその裁きが描かれる。こうした惨憺たる状況のなかで、神はなおもイスラエルをあわれみ、神の人エリヤを表舞台に登場させる。主は泥沼に陥る私たちに御手をさしのばしてくださるお方である。

【17章】 主のことばのとおりになる

 神はエリヤを通して、イスラエルに「主のことばは実現する」(1節)とのメッセージを伝える。主のことばの確かさを知るとき、人は主を恐れることを学ぶのである。事実エリヤの歩みは主のことばのみが実現することを表すような生涯であった。
 「鳥がエリヤを養う」(4節)、「異国のやもめが神の人を養う」(9節)とのことばは、人間的な視点からすれば信じ難い出来事であるが、結果は16節の通り。17節以降のやもめの息子の死は、やもめ自身も取り扱われるきっかけとなる。死体の上に身を伏せる行為(21節)は、息子の死と自分のいのちを重ね合わせていることを象徴しているか。これらの出来事により、やもめは自分の罪を知り(18節)、17章のまとめとしてふさわしい信仰告白へと至る(24節)。

【水曜】 列王記第一18章~19章

【18章1~19節】 罪に気づかぬアハブ

 アハブはエリヤに会うなり、「煩わす者」と発言し、苦難の原因をエリヤに帰す。干ばつは、アハブに悔い改めを迫るものであったが、彼は自らの罪に気づかない。エリヤは「あなたこそ」と諭し、雨が降ることの告知前に、根本的な罪(バアル崇拝の誤り)を指摘するため、バアルの預言者との対決に臨む。

【18章20~46節】 バアルの預言者との対決

 イスラエルの惨憺たる状態と、バアル神のむなしさが浮き彫りにされる。
・イスラエルの状態
 民はどっちつかずによろめいている(元の意味は「足を引きずる」)。王の手前、決断することもできない(21節)。バアルの預言者450人に対し、対決する主の預言者はエリヤ1人(22節。主の預言者に対する大迫害のため)。目の前には壊れた主の祭壇(30節)。
・バアル神のむなしさ
 そもそも豊穣をもたらす雨季と関連するバアル信仰が、干ばつの被害に見舞われていること自体、矛盾。対決の際、手には雷を持つとされるバアルが、火をつけることなど容易と思われるのに、無反応。エリヤはバアルがただの人であるかのように皮肉る(27節)。26節の「踊り回った」は、21節の「よろめいている」(足を引きずる)と同じ語源。バアル信仰はよろめきにすぎない。一方エリヤは、祭壇と溝に水を満たし、神以外の一切の原因を排除する。単純な祈りは、うるさい行為と対照的。主が神であることが示されることと、民の回心とを求める祈りが聞かれる(38~39節)。

 干ばつの根本原因が対処された後、大雨がもたらされる。エリヤの行為は彼の謙虚で忍耐強い祈りの姿勢を表しているものと思われる(42・43節)。勝利の凱旋のようにしてエリヤはアハブを引き連れイズレエルの門へ。

【19章】 神の臨在を体験することにより力を得る

 父オムリのフェニキア人との友好政策を引き継ぎ、アハブはイゼベルと結婚した。このイゼベルはバアルの宣教者と言えるほど熱心な信奉者であり、エリヤを激しく迫害する。エリヤは孤独感と被害者意識とを抱え洞窟に入る。これは迫害者からの逃亡を示すとともに神との出会いを待ち望んでいる姿勢。
 9・13節の主の問いは、場所とともに主との関係を問うている。エリヤ自身に自らの状況を確認させたのである。聖書中、似た問いは、通常の心理状態にない者たちに語られている点で共通する。エリヤへの神の取り扱いが始まる。
 エリヤは現状を述べる。そのエリヤに対して主は自然現象の脅威とともに、最終的にはみことばによって神の臨在を体験させた。エリヤは恐れ、主の姿を直接見ないようにと顔を隠して主の前に立った。神を間近で体験した聖書の人物としてアブラハム、ハガル、モーセ、ハンナなどを挙げることができるが、彼らは皆臨在を体験し、自らの状況を確認、新たな行動への力を得る。エリヤも然り。
 信仰者は、みことばを通して神がおられることを確認することによって、力を得る。主の臨在を前に、人は恐れおののき、自らの存在の小ささと、主の偉大さを知るに至る。そこに向かう力(パン菓子と水)も主が与えてくださることは恵み。

【木曜】 列王記第一20章~21章

【20章1~30節】 主を知らせるための主の戦い

 これはアッシリアの北からの脅威によって南に展開せざるえを得なくなったアラムが領地拡大のためにしかけてきた戦争であろう。しかし聖書は本戦いを神に対する挑戦として捉え、神ご自身が戦われる様子を記す。
 アラムの脅威は北イスラエルの首都サマリアを取り囲むほどになり(1節)、アハブはアラムに対し、一旦は弱さを認めて服従の姿勢を見せる。しかしなおも高圧的にでるアラムに対し、戦うことを決意する。11節のアハブの言葉は、まだ戦いもしないのに誇るな、との警告。
 13節以降、無力を自覚するアハブの、主に対する素直な姿勢が続く。諸国の首長に属する若い者とは、まだ力が乏しいと捉えられていた者たちのこと。アハブは主のことばどおり事を進める。一方のアラムは、数を理由におごり高ぶっており、その姿勢は王の酒を飲む姿に象徴されている(12・16節)。この戦いで北イスラエル軍はアラムに大損害を与える。悪王アハブの治めるイスラエルとは言え、神が契約を結ばれた国であるがゆえに、神は「主を知らせるため」立ちあがられた(13節)。
 続く戦いも神を侮るアラムに対する裁きを記す。アラムは先の戦いでイスラエルの背後に神がいることを知るが、あくまで山地の神としての理解にとどまる(23節。イスラエルの重要地点は山頂にある)。平地において有利な武器を揃えていたアラム軍はアフェク(ガリラヤ湖東側)に陣を敷き、戦いに備える。神は、ご自身が地域に限定されず、唯一の主であることをさらに知らせるため(28節)、徹底的に敵の軍を打ち破られた。

【20章31~43節】 知らされたはずの主を忘れる

 この戦いはそのように、主が戦われた主のための戦いであったにも関わらず、アハブは自分の功績によったかのごとくに誇り、ベン・ハダデを生かして帰らせる。提示された条件に魅力を感じたのだろう。知らされたはずの主に対する視点が欠落している。
 預言者の出来事(35節以降)は、主をないがしろにする行為の危険を伝える。主のことばに聞き従わず獅子に殺される人の姿も、見張りの役目を怠った行為の結末を伝える預言も、共に主を無視した当然の裁きを伝えている。

【21章】 ナボテの葡萄畑

 アハブの愚行はピークを迎える。今度は土地をめぐる罪である。イスラエルにおいて土地は主から与えられたものであり、神の民に属していることを示す証拠でもあった。いたずらに売買することはできない。
 しかし外国の王のモデルしか知らぬイゼベルにとっては、信仰的なことばを使ってナボテを殺し(10節)、土地を奪い取ることなどは容易なことであった。イゼベルの行為を容認したアハブは同罪とみなされ、ここにアハブの家の罪が満ちる。
 20節以降のアハブへの宣告はエリヤの言葉と主のことばが重なり合うように書かれており、取り消すことのできない実現する言葉となる。この宣告を聞き、アハブはへりくだるよりほかなかった。
 なんと神はこのアハブを見て、あわれまれ、彼の後の時代に裁きを延期される。神のあわれみは尽きない。

【金曜】 列王記第一22章

【22章1~4節】 ラモテ・ギルアデの戦い

 イスラエルの東の境界線の町ラモテ・ギルアデは、戦略上、宗教上、重要な地であり、かつてアラムの王ベン・ハダデが戦いに敗れた際「お返しします」とアハブに約束した町であった(第一列王20章34節)。しかしその後3年が経過しても一向に町は戻ってこない。怒りを募らせたアハブは決断に出る。南ユダの王ヨシャパテがアハブのもとを訪ねた際、この時とばかりにアラムへの合同攻撃を提案する。
 ヨシャパテはまず主のことばを伺いたいと述べる(5節)。その申し出により、多くの預言者たちが、サマリヤの門の入口に集まってきた。

【22章5~28節】 偽預言者とミカヤ

 偽預言者は、自分が偽者だと気づかぬ点で悲劇である。王の気を悪くせぬようにとおもねる動機もあるが、彼らは自分が主のことばを本当に受けているものと錯覚していた。
 預言者ミカヤはそのような悲惨な状態をも預言する。彼はまず王が喜びそうな言葉を述べる(15節)。アハブはミカヤが本心から預言していないと気づき、真実だけを語るよう促す(16節)。それでミカヤは、イスラエルの霊的状態を伝え、さらに現状のイスラエルは惑わしの霊によって遣わされた偽預言者のことばを通して敗北に至る道を進んでいると語った。15節の振る舞いは、この状態を預言したものであり、偽りではない。

【22章29~40節】 あわれなアハブ

 アハブは、ミカヤを牢につなぎ、無事に帰って彼の預言が誤っていたことを証明しようと意気込んだ。しかし、アハブの取った卑劣な変装行為は、彼がゼデキヤに代表されるおかかえ預言者集団の言葉にも信頼をおけずにいる、哀れな姿を露呈している。
 戦いの結果、敵の兵士が何気なく放った弓によって、アハブの命は尽きる。彼の死に様は預言の成就を指し示す(21章19節)。彼の変装は全く役に立たず、ただ主のことばのみが実現したのである。神のことばを基軸に置かぬ者の末路がここにある。

【22章41~53節】 ヨシャパテとアハズヤ

 南の王ヨシャパテと、北の王アハズヤの紹介が続く。ヨシャパテが主の道から逸れることがなかったのに対し、アハブの子アハズヤは、父と母の道、ヤロブアムの道に歩み、バアルの崇拝者であったという記述で終わっている。
 ヨシャパテは分裂王国時代に入ってから、初めて北王国のアハブ王と友好関係を結び、アハブの子アハズヤの時代になっても、その関係が継続されていたことが49節から分かる。事実ヨシャパテの息子はアハブの娘と結婚した(第二列王8章18節)。ここにユダ王国の堕落を予感させる影が見える。政治手腕に長け、しかし信仰的には全く的外れであったアハブの存在は、北イスラエル王国だけでなく、南ユダにも影響を与えていくのである。

【土曜】 列王記第二1章~2章

【1章1~18節】 アハズヤの選択

 人は、危機を通して神に出会うチャンスが与えられる。苦しみは神に求める必要性を覚えさせる主の介入である。にもかかわらず、アハズヤは弱さを覚えた際、癒しに効果があるとされていた偶像に頼る。バアル・ゼブブは、それまで彼が信奉していたところのバアル神とは異なる。なんでもよいから解決を得たいとの藁にもすがるような思いが表れている。
 エリヤは主のことばを使者に告げる(3~4節)。天からの火とは、主に求めなかったアハズヤの行為に対する神の怒り。エリヤがアハズヤに直接宣言した言葉は、これまでの預言とぶれがない。三度同じ言葉が語られる点と、エリヤと使者とのやりとりからわかるのは、イスラエルに命をも支配するところの真の神がおられるとの事実である。

【2章1~18節】 エリヤからエリシャへ

 エリヤが天に上げられる際、エリヤは、ギルガル→ベテル→エリコ→ヨルダン川へと向かう。ぐるっと一周するかのようなコースである。これは、それぞれの地に住む預言者集団に後継者エリシャを紹介するためか、エリシャが後をついてくるかをテストしたためか、あるいはイスラエル史における重要地点(*注)を巡ることにより主の御業を回顧させたためか、意見が分かれるところである。いずれにせよこの旅を通し、エリシャはエリヤの後継者として、備えと引き継ぎを受けることになる。
 エリシャの求めた「二つの分け前」(9節)とは、相続財産の2倍の分け前を受ける長子の権利と重ね合わせた要求であり、後継者としての霊的立場を求めたものである。エリシャは己の乏しさに気づいていたのだろう。エリヤは、それは主が与えるものであり、もし天に上げられる様子を見ることができれば与えられると答える。
 エリヤが天に上ったのは竜巻による。火の戦車と馬とは、二人の間を裂いたものであって、天と地の厳かな区別を意味する。エリシャは事の霊的様子を見ることが許され、神がともにいてくださることを体験するに至った。神の霊が留まる様子は他者にも明らかにされる。

注) いずれの地も重要地点。イスラエルの民がヨルダン川を渡った後に足を踏み入れた最初の地ギルガル、アブラハムとヤコブに神がご自身を表されたベテル、主の戦いの勝利を体験したエリコ、モーセからヨシュアへの交代を表すモーセが葬られた地ヨルダン川東岸。

【2章19~25節】 エリシャによるきよめ

 エリコ、ベテルをめぐるエリシャの姿から、不信仰がはびこる地のきよめを見る。エリコは、過去に神のさばきによりのろわれていた地。のろいの象徴のようにしてその地の水は汚れていた。エリシャは水の源を癒し、その地に住む者が再び生きられるようにした。
 ベテルはかつて神が臨在を示された地であるが、皮肉にもヤロブアム王以降、金の子牛が置かれ、霊的衰退を辿る。バアル信仰がはびこる様子を象徴するかのように、神の預言者を愚弄する子どもたちが登場する。エリシャは主の名によってそれを厳しく裁いた。どちらの地でなされたことも、神のきよさを表す業である。

参考文献

  • S. J. DeVries, 1 Kings (Word Biblical Commentary 12). Nashville: Thomas Nelson Publishers, 2003.
  • T. R. Hobbs, 2 Kings (Word Biblical Commentary 13). Dallas: Words Books, 1985.
  • 久利英二「列王記」『実用聖書注解』いのちのことば社、1995年

本箇所を扱ったお薦めの本

  • 高橋秀典『哀れみに胸を熱くする神』いのちのことば社、2008年
  • 藤本満『エリヤとエリシャ』いのちのことば社、1999年
  • 舟喜信『列王記』(新聖書講解シリーズ 旧約7)いのちのことば社、1988年