旧約 第20週
列王記第一1章~11章

日本同盟基督教団 藤枝中央キリスト教会 牧師
園 信吾

2009年10月31日 初版

【日曜】 列王記第一1章
「ソロモン王の誕生」

【概要】

 ダビデはこの頃、70歳くらいであったと思われます。彼の晩年は国の政治にあまり関心を示さなかったようです。そんななか、アドニヤが王になろうと画策し、それに与する者も現れました。しかし預言者ナタンの活躍によりソロモン王が誕生します。ナタンは知恵を駆使して主のみこころの実現のために奔走します。1章50節の祭壇の角をつかむという表現は2章28節にも出てきますが、いのちごいをする表現です。

【適用】

 これまでダビデは、アドニヤのことで心を痛めたことはなかったとあります(1章6節)。外見が良かっただけでなく、特に問題のない人物だったのでしょう。しかし野心を抱いた結果、とんでもない騒動を引き起こしました。富や名誉を追い求めると、人は正しい判断が奪われてしまうことがあります。私たちの日々の生活において、折にかなった判断がなされているでしょうか。もしそうでないとしたら、その原因はどこにあるのか、へりくだって吟味することも大切です。

 ある人たちはアドニヤの味方をしました。それは現状から判断すると、アドニヤは生存している王子の最年長であり、美男子でもあり、一番王にふさわしいと考えたからでしょう。しかし、神のみこころはソロモンとされていたのに(1章17節。第一歴代22章9~10節も参照)、そのことには気をとめないで、現状からだけ判断してしまったのです。私たちは目に見える現状からだけで物事を判断していませんか。現状だけを見て安易に考えたり、反対に現状だけを見て失望していませんか。私たちの判断の基準は、みことばとなっているでしょうか。そして目に見えない神に信頼し、希望をもって歩んでいるでしょうか(第二コリント4章18節参照)。

 ナタンの行動は私たちのお手本とも言えるでしょう。預言者でありながら国の政治的なことに関しても無関心ではなく、主のみこころがなされるために積極的に行動しました。また、目に見える状況によって事を判断するのではなく、何よりも主のみことばを第一としていました。そして、自分を前面に出すのではなく、まずバテ・シェバに王の前に立ってもらう冷静さを持っていました。私たちは国の政治にも関心を持って祈っているでしょうか。また、感情に身を任せるのではなく、恐れるのでもなく、冷静に物事に対処しているでしょうか。

【月曜】 列王記第一2章
「王権の確立」

【概要】

 ダビデの死がいよいよ近づき、最後にダビデは次の王となるソロモンに遺言を託して亡くなりました。そしてダビデに代わってソロモンが王となりました。ソロモン王になってからの最初の頃の出来事として、王の地位が確立する上で、妨げとなる恐れのある3人の死が記されています。アドニヤはバテ・シェバに願った言葉から死を招き、ヨアブとシムイはダビデの遺言との関連で死を迎えます。こうしてソロモン王の力は国内において確かなものとされていきます。

【適用】

 ダビデは死を前にして次の王であるソロモンに助言を与えます。王権の確立のために政治的な事柄も話しますが、まずダビデがソロモンに語ったことは、「主の道を歩まなければならない」(2章3節)ということでした。私たちも子どもや次の世代にまず語らなければならないことは、この世の知恵や処世術ではなく、「主の道を歩まなければならない」ことです。

 アドニヤがアビシャグを求めたのは王位を求めてのことである、と受けとめられました。ダビデ王に仕えたアビシャグを求めたことは、明らかに誤解を招く行為であったと言えるでしょう。私たちは、むやみに人に誤解を与えるような言動によって、周りの人に不安を与えていないでしょうか。誤解から人間関係のトラブルに巻き込まれることは避けられませんが、自らが煽るべきではありません。

 シムイは王との約束を守らなかったために死にました。人は約束をしてもしばらくすると忘れることが多いものです。あるいは、時間が経つと「少しくらいなら」と約束を軽視するようになることもあります。過去にした大事な約束は守られているでしょうか。また、年月が経っていたとしても、その約束に対して忠実さを持っているでしょうか。

【火曜】 列王記第一3章~5章
「ソロモンの治世 1」

【並行記事】

 歴代誌第二1~2章

【概要】

 3章では、主とソロモンの夢の中での会話が記されています。ソロモンは富や名誉ではなく、イスラエルを治めるための知恵を求め、そのことを主は喜びソロモンに祝福を与えます。また、ソロモンの裁きのエピソードは、日本で大岡裁きとして知られている内容と似ています。
 4章では、ソロモン王の治世とその繁栄について記されています。
 5章では、神殿を建てるための準備が記されています。ソロモン王はツロの王ヒラムの協力を得て、神殿建設に必要な木材、石材、熟練工を調達しています。

【適用】

 夢にはその人の本当の願いがあらわれることも多いでしょう。ソロモンは、夢の中でも富を求めず、主に知恵を求めました。私たちの本当の願いは何でしょうか。富や名誉が、私たちの本当の願いになっていないでしょうか。

 ソロモンは海辺の砂浜のように広い心を持っていました。しかし、それは神様から与えられたものと書かれています(4章29節)。私たちは、狭い心で身勝手な判断をしたり、人の話を聞こうとせず、理解しようとしないことがあります。自分の心の狭さや知恵の足りなさを認めて、広い心と知恵を主に求めるなら、それらのものは主によって与えられるのです(ヤコブ1章5節参照)。

 4章に記されている国の政治組織を見ると、ソロモンが、主に与えられた知恵を用いてすばらしい政治手腕を発揮し、国を統治していたことがうかがえます。私たち一人一人も主から賜物をいただいています。「自分は何もできない」とふてくされるのは自己卑下であり、謙遜とは異なります。主が与えてくださっている賜物を知り、その賜物を自慢するのではなく、主に感謝しつつ存分に用いる人こそ、主の前に謙遜な人なのです。

 ソロモンがツロの王ヒラムに神殿建設への協力を要請したことは、ヒラムを喜ばせました(5章7節)。私たちの周りには、信仰を持っていなくても喜んで主の働きに協力してくれる人もいます。未信者に遠慮しすぎて、かえって、主のもとに行くために心を開いている人に伝道するチャンスを失っていることがあるかもしれません。求めに喜んで応じてくださる方には積極的に声をかけて、ともに主の喜びにあずかる者となる日を待ち望みましょう。

 神殿建設には何万人もの協力が必要でした(5章15節)。キリストのからだである教会を建て上げるためにも、教会に集う一人一人の協力が不可欠です。牧師だけが教会を建て上げるのではありません。皆の協力によって教会が建て上げられるときに、教会は祝福され、成長していくのです。

【水曜】 列王記第一6章~7章
「神殿の完成」

【並行記事】

 歴代誌第二3~4章

【概要】

 6章では神殿の建設について、7章では王宮の建設と神殿内部の装飾品等について記されています。神殿に7年、宮殿に13年。竣工までに、それぞれ長い時間を費やしました。周到な資材の準備がなされ、神殿にも内部の装飾品にも英知が結集されて、壮麗に建設されました。

【適用】

 神殿の工事中に音は聞かれなかったとあります(6章7節)。仕事に携わる人たちが、主に対して厳粛な思いを持ち、主の神殿を真剣に心を込めて建設していた表れでしょう。私たちは主を礼拝することに対して厳粛な思いを持っているでしょうか。礼拝で泣き続ける赤ちゃんをにらみつけるのではなく、自分自身が心を静めて、厳粛な思いで主との交わりのときを存分に満喫しましょう。

 神殿建設中に主はソロモンに現れました。そして、神殿建設が主の御心にかなっていることをソロモンに知らせました(6章12節)。主は私たちが新しい取り組みをはじめるとき、そのことが主の御心にかなっているのかを教えてくださる方です。はじめたことに不安があるのなら、主に祈り、みことばをとおして主の御心を求めましょう。主はみことばによって、私たちの進むべき道を示してくださいます(ヘブル4章12節参照)。

 神殿完成には7年もかかりました。私たちが主の働きをするときに、長い年月をかけて計画を立てなくてはならないこともあります。長くかかるものほど労力も必要であり、真剣さも必要です。しかし、やがて完成したときには、長くかかったことのほうが喜びもひとしおでしょう。時間のかかることこそ、主から知恵をいただいて、入念に計画を立てて、よい準備をしたいものです。

 ソロモンは神殿を建てた後で、王の宮殿を建設しました。ソロモンはまず主を第一とすることを自らの行動によっても民に示したのです。私たちも、主を第一とするということを、口で言うだけでなく、人に強要するのでもなく、自らの行動として示しているでしょうか。

 神殿が完成してから、ソロモンは父ダビデが聖別した物を納めました(7章51節)。それらはダビデが敵に勝利して得た戦利品でした(第二サムエル8章11節参照)。ダビデは主によって勝利して得たものを、主のものとして聖別していました。それは当時の他の国とは大きく異なっていたことでしょう。自分のものとするのではなく、主のものとしていたのです。私たちは主によって得たものを、主のものとしているでしょうか。それとも自分だけのものとしているでしょうか。

【木曜】 列王記第一8章
「ソロモンの祈り」

【並行記事】

 歴代誌第二5~7章

【概要】

 神殿が完成すると、祭司たちによって運ばれてきた契約の箱が神殿に安置されました。すると、雲が主の宮に満ち、主の栄光が宮に満ちました。ソロモンは感動のなかで民の前で主に祈りをささげます。

【適用】

 完成してまずソロモンによって感謝の祈りがささげられました。私たちが事を成したとき、まずするべきことは、主への感謝の祈りです。

 ソロモンは、「神ははたして地の上に住まわれるでしょうか」(8章27節)と述べ、主が建物に入るような小さなお方ではないことを告白しています。偶像の神とは違う大きな神観をソロモンは持っていました。私たちも神様を小さく見るのではなく、ソロモンのように「上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません」(8章23節)と、この天地万物を造られた大きな神様をほめたたえましょう。

 ソロモンの祈りはイスラエルのためだけではなく、外国人が宮に来て祈るときのことにまで及んでいました(8章41節)。自分の家族、自分の教会、自分の国についてだけ祈っていませんか。隣の家族、隣の教会、隣の国や日本に来ている外国人のためにも祈りましょう。

 ソロモンの祈りは、罪の赦しについて多く述べられています。「罪を犯さない人間はひとりもいないのですから」(8章46節)。私たちは罪を犯しやすい人間であることを認めて、一日一日主に罪を告白して、キリストの十字架の血潮による赦しの恵みを覚えつつ歩んでいきましょう。

 民は神殿完成礼拝の後、心楽しく帰って行きました(8章66節)。私たちが主への感謝をもって心を一つにして礼拝をささげるなら、帰り道は決して重い足取りとはならず、心楽しく軽やかな足取りになります。礼拝とはそのような場所です。心に重荷を抱えて礼拝に行ったとしても、主に礼拝をささげることにより私たちの心は軽やかにされるのです。ぜひ教会の礼拝に行ってみませんか。
 また、すでに礼拝に集っている方は、帰り道がどのような足取りになっているのか考えてみましょう。奉仕が重荷となり、または人を見て腹を立てて、重い足取りになっているでしょうか。それとも主を見あげ、主への礼拝によって心が変えられ、軽い足取りとなっていますか。

【金曜】 列王記第一9章~10章
「ソロモンの治世 2」

【並行記事】

 歴代誌第二7~9章

【概要】

 9章では、神殿完成の後で、再び主がソロモンに現れ、主とともに歩むことの祝福を語ります。その後は4章に続いてその他のソロモンの治世の出来事が記されています。
 10章でも王国の繁栄が記され、シェバの女王の来訪が記されています。

【適用】

 主は、すべての建築物が完成した後でもう一度、ソロモンに現れました。そして、主に従う者への祝福と、主に従わない者への災いを述べました。主のことばは簡潔明瞭です。従うか、従わないかです。さまざまな言い訳を考えて、主に従うことを後回しにしていませんか。主は、従う者に豊かな祝福を与えてくださいます。

 ツロの王ヒラムはソロモンから神殿を建てるための木材を依頼されたときには、ソロモンにとても友好的でした(5章)。しかし20年以上が経った後、ソロモンがヒラムに与えようとした町は受け取ってもらえず、その関係は変わってしまったようです。それらの町々は良い場所とは言えない所だったようで、長らく繁栄を謳歌しているうちにソロモンの心に奢りが生じたのかもしれません。また、ヒラムに真心から誠意をもって友好関係を示そうとする姿勢に欠けていたのかもしれません。高慢は人間関係を破壊していく大きな要因となります。もし人間関係のトラブルがあるのなら、謙遜になって自分のほうにも問題がないか、吟味してみましょう。

 シェバの女王はソロモンを訪問し、「イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな」(10章9節)と言いました。シェバの女王は、イスラエルの繁栄やソロモンの知恵を見聞きし、主をほめたたえたのです。私たちが主から与えられた賜物を用いて主とともに歩むなら、周りの人が主をほめたたえるようになることもあるのです。

【土曜】 列王記第一11章
「ソロモンの堕落」

【概要】

 ソロモンはダビデのようではなく、その治世の後半においては神に従いませんでした。すると、周辺の国々がイスラエルを悩ますようになり、ハダデやレゾンが敵対するものとして現れました。内部からも家来であったヤロブアムが台頭します。イスラエルは主と離れた結果、外にも内にも問題を抱えるようになりました。

【適用】

 ソロモンはダビデのように最後まで主に従い通しませんでした。たとえ、その人が過去にどんなにすばらしい主の働きをしたからといって、その功績によって後はどんなに悪いことをしても大目に見てもらえる、ということにはなりません。神様が私たちに問われているのは今です。過去にどんなにすばらしい働きをしたかではなく、今、主とともに歩んでいるかが問われているのです。反対に言えば、過去どんなに神様から離れていたとしても、今、主に立ち返るなら、神様は私たちを喜んで迎え、祝福してくださいます。

 700人の妻と300人のそばめはソロモンにとって明らかに必要ではありませんでした。外国との友好関係のためなどと、もっともらしい言い訳をしていたかもしれませんが、明らかに正常な夫婦の状態とはかけ離れています。金銭的にはどの女性も満足していたかもしれませんが、心のふれあいのなさが、女性たちをより熱心な偶像礼拝へと駆り立てた可能性もあります。私たちの夫婦関係はどうでしょうか。経済的に満たされているとしても、心が通い合っていないなら、そこから様々な問題を抱えることになるのです。

 ソロモンを主から離れさせたのは妻とそばめたちでした。外国からやってきたソロモンの妻たちが、偶像礼拝をイスラエルに持ち込んだのです。ソロモンは、主のみことばよりも妻たちを愛して離れませんでした。彼女たちから離れないことが、主と離れることになったのです。私たちが今、離れなければならないものはありませんか。主と離れることにつながるものを愛していませんか。

 主と離れた結果、イスラエルは内外に問題を抱えるようになりました。すべてのことが因果応報であるとは言えませんが、苦難のなかで自分の置かれている状況を謙虚に受けとめ、主との関係をもう一度確認するときを持つことも大切です。苦難にあったとき、かたくなな心にならず、素直に自分の罪を主に告白し、主に近づきましょう。

参考文献

  • ワイズマン/吉本牧人:訳『列王記』(ティンデル聖書注解)いのちのことば社、2009
  • マイアー:原著/小畑進:編著『きょうの力』いのちのことば社、2002
  • 久利英二「列王記」『実用聖書注解』いのちのことば社、1995