旧約 第19週
サムエル記第二12章~24章

聖書教会連盟 内灘聖書教会 児童伝道師
竹中 由季

2009年10月31日 初版

【日曜】 サムエル記第二12章~13章

【12章】

 11章のバテ・シェバ事件の後、預言者ナタンはダビデのところに、たとえ話をもってその罪を指摘しに行った。人は、他人の罪はよく見えるが、自分の罪には気づかないことが多い。
 ダビデは神に「私は主に対して罪を犯した」と自分の罪を認め、心から悔い改めたが、犯した罪によって、アムノン暗殺、アブシャロム戦死、アドニヤ処刑、アタルヤによる虐殺と、これまでのダビデの祝福と繁栄のとは全く逆の人生を歩むことになる。
 神はダビデの罪を赦してくださったが、その罪の罰は消えない。しかし、バテ・シェバとダビデの子は、また与えられた。神がこの事件を完全に赦してくださったのである。その子ソロモンは「平和」という意味である。

【13章】

 ダビデの子アムノンとタマルとの事件が描かれている。それに対するダビデの姿はバテ・シェバ事件から来るものである。王としてアムノンを裁くべきであるのに、自分の罪を思い出し、2年が経っても何もできないでいた。それによって、アブシャロムによるアムノン殺害を引き起こした。
 神のみこころは何か、なぜダビデのバテ・シェバ事件が赦されたのか、私たち人間には神のなさることが不公平に見えることがよくある。しかし、神は、私たちがどう感じようとも絶対である。自分の罪が神によって示されたとき、神の前から逃げず、「私は主に対して罪を犯した」と悔い改める者でありたいと思う。

【月曜】 サムエル記第二14章

 14章のテコアの女の訴えは、預言者ナタンのたとえと似ている。共に仮想事件であり、王の究極的な判決を求めるものであり、皮肉にも王自身に判決が下されるものである。しかし、ナタンの訴えは、王の正義感をかき立て厳罰を宣告させたのに対して、テコアの女の訴えは、あわれみを引き出して恩赦を宣告させた。
 ダビデはアブシャロムの帰還を許した。しかし、帰還を許可しただけであって、アブシャロムは家から出ることはできず、王の顔を見ることもなかった。3年間の亡命、2年間の謹慎処分の後、王とアブシャロムは口づけを交わす。これは和解を表すことであるが、表面的なものであった。
 ダビデは、自分の大きな罪ゆえにしっかりと立つことができなくなり、神の指示を仰ぐこともしなくなったようである。私たちも罪を犯してしまったとき、下を向き、神を仰ぎ見るのが怖くなり、逃げ、沈黙してしまうことがしばしばある。しかし、神はそれを望んではいない。失敗や挫折のなかにあっても、神との関係を続けていくことこそ、神が望んでおられることだと思う。

【火曜】 サムエル記第二15章~16章

【15章】

 アブシャロムは王に対して謀反を企てた。親衛隊を設置し、利益誘導作戦で、地道にイスラエルの人心を盗み、仲間を増やしていった。しかし、これは信仰者のやり方とは違った。信仰者は、人の心を獲得し、神にその目を向けさせていくからだ。
 ダビデはエルサレムを出て行った。王宮の生活からあてのない旅に出る悲しみ、追われる苦しみ、アヒトフェルの裏切り、アブシャロムへの対応の失敗の後悔、息子から反逆される悲しみ・・・、しかもそのすべての原因は自分にあると思うと、ますますどうしようもない思いに苛まれる。
 しかし、そこにも神のあわれみはあった。アブシャロム陣営の中枢にフシャイが置かれたのである。

【16章】

 ダビデの親友ヨナタンの息子メフィボシェテのしもべツィバ、ゲラの子シムイ、ツェルヤの子アビシャイ、フシャイと、次々に登場する。そのなかの誰が味方で誰が敵なのか、ダビデにとってもアブシャロムにとっても大きな関心事であった。
 しかし、信仰者ダビデにとっては、それ以上に、神のことばが誰にあり、神が誰と共におられるのか、ということが重要であった。ダビデとアブシャロムの大きな違いは、ダビデは主のあわれみを求め主に期待し、アブシャロムは自分を信じ神の導きを求めないということである。
 私たちも常に、自分が誰といるのか、誰のことばを信じ歩むのか、問われているように思う。

【水曜】 サムエル記第二17章~18章

【17章】

 アヒトフェルは、ダビデ追討の速攻作戦を打ち出した。それはまさに完璧とも思える作戦であった。しかし、アブシャロムはフシャイに助言を求め、その助言が気に入ると、アヒトフェルのことばを受け入れなかった。フシャイの作戦がアヒトフェルを上回る完璧な作戦だったからではない。おそらく、第一段階の成功で自信がつき、フシャイの雄弁な心理作戦に乗せられたのだろう。アブシャロムはこの選択を誤り、アヒトフェルを退けたことで、滅亡へと走り出していった。

【18章】

 ダビデとアブシャロムの戦いは、敗戦そしてアブシャロムの不名誉な死をもって終わる。ダビデ軍の勝利となったが、子を失ったダビデは泣き悲しみ落胆した。
 11章のバテ・シェバ事件のとき、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」との神の赦しがあまりにもあっけないと思ったかもしれない。しかし「あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」のことばは、バテ・シェバの子だけではなく、アムノン、アブシャロムにまで及んでいた。
 神のことばはすべて真実であり、必ず成就する。私たちが手にしているこの聖書は、すべて神のことばである。

【木曜】 サムエル記第二19章~20章

【19章】

 アブシャロムの死を悲しみ嘆くダビデのために、ダビデ軍の劇的な勝利が、まるで敗北のように描かれている。その後、ダビデの復位へと移っていく。ユダ以外の全イスラエルがダビデを支持したのに、ダビデはユダを求めた。
 そして16章でダビデをバカにしたシムイが登場する。シムイが赦しを求めたのに対して、ダビデの仲間たちは死罪を主張したが、ダビデは赦した。王はここで、「あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれる」と非難した者たちに、「自分を憎む者を愛する」道を示したのかもしれない。

【20章】

 王の周りには王位継承の混乱が続いている。よこしまな者と書かれるシェバ、ヨアブによるアマサ暗殺、最後に知恵ある女が用いられた。「あなたはなぜ、主の譲りの地を、のみ尽くそうとされるのですか」(19節)
 サムエル記は、最後に新しい王国の閣僚名簿を載せている。「役務長官」という新しい職名は、強制労働に関わる職務である。このことはサムエルによって預言されていた。「あなたがたは王の奴隷となる。その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王のゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない」(第一サムエル8章17~18節)。

【金曜】 サムエル記第二21章~22章

 21章から24章までは、一般的に付録と考えられている。物語が時代順でないことや、時代背景が不明なこと、回想的記述やダビデの歌、勇者名簿などの内容から、そう推測されている。

【21章】

 21章は、サウルの子孫7人の処刑、ぺリシテ戦の英雄について書かれている。
 1~14節に記されているサウルの子孫の処刑は、9章のメフィボシェテを宮廷に迎えた出来事より前か後か、意見が分かれるところである。
 15~22節はペリシテとの戦いの記録である。時代的には、ダビデが王に即位して間もなくの5章17~25節のことか、7章1節前のものか、8章1節に記されている戦いの付録記事か、または晩年のものか、あるいは現在の聖書には記されていない戦いの事件か、多くの意見がある。

【22章】

 ダビデがサウルから「救い出された日」を定めることは困難である。
 この章と詩篇18篇は、ほぼ同じ内容である。サウルからの解放、イスラエルの敵との戦いにおける神の助けについての感謝が記されている。
 本詩に歌われたダビデの、神との関係の自覚は、注意深く読まなければいけない。ダビデは勝利を徹底的に神の手に帰し、それどころか戦い方の習得まで神の恵みに帰する。自己義認と自己過信がなく、高ぶらないで悩む心のきよさが、新約聖書の信仰に近いものである。

【土曜】 サムエル記第二23章~24章

【23章】

 信仰偉人ダビデの「最後のことば」は、一種の預言と考えられた(申命33章1節参照)。ダビデの遺言歌は、「すべては備えられ、また守られる」(5節)というダビデ契約を歌い上げたもので、ダビデの神に対する信仰をよく表した重要なものである。
 また、ダビデの勇士たちの名簿は、宮廷史を中心に描かれてきたサムエル記の物語を、軍隊の面から傍証してくれるので、歴史的にも重要である。

【24章】

 ダビデは人口調査を行なった。1節に「主は言った」と記されているが、歴代誌第一21章1節では「サタン」となっている。直接の働きはサタンであるが、神の許しのもとにある出来事だったようである。
 人口調査は、それ自体は罪ではない。しかし、ダビデが良心の咎めを感じたのは、130万の兵力とその頂点に立つ権力を味わい、己の力を誇ってしまった、その霊的堕落を意識したからかもしれない。
 人は成功すると、自分の力を誇ってしまいがちになる。周囲の「すごい!さすが!」と褒めてくれる言葉に心を奪われやすい。人は息することさえも自分の力ではできない。神のくださる恵みを数え、いつも神に帰ることを忘れないでいたい。

参考文献

  • 榊原康夫「サムエル記」『新聖書注解 旧約2』いのちのことば社、1977年
  • 久利英二『サムエル記』(新聖書講解 旧約6)いのちのことば社、1988年