旧約 第18週
サムエル記第一25章~サムエル記第二11章

日本同盟基督教団 麻布霞町教会 牧師
大瀧 恵理也

2009年10月31日 初版

【日曜】 サムエル記第一25章~26章

【25章】 いのちの袋に守られている

 ダビデ一行は、サウルと別れた後、パランという荒野に下って行きます(1節)。一行は変わらず600人という、決して少なくない人数。洞穴のあるごつごつとした山を越え、荒野を進む生活では、食料を得ることが切実な問題でありました。
 かつてダビデとそのしもべたちは、カルメルの事業家ナバルのしもべたちに、良きことを行ないました(15~16節)。そのナバルの家で羊の毛を刈る祝いが執り行われることを知ったダビデは(4節)、ある期待をしたわけです。「自分たちのかつての恩に報いて、きっと食事をわけてくれるだろう」と。しかし、期待を裏切るナバルの返事に、ダビデは憤り「めいめい自分の剣を身につけよ」と部下に命じるのでありました(21~22節)。
 しかし、復讐心でいきり立つダビデをなだめたのが、ナバルの妻アビガエル。彼女は、すぐさま食料を用意し、血を流す愚かさをダビデに説くのでありました(26節)。そして機知に富んだ彼女のことばを介して、実に主は、ご自身の約束をダビデに思い起こさせるのでありました。
 28節「主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう」
 29節「ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう」
 「いのちの袋」。それは羊飼いが食べ物を大切に入れて持ち運んだ小袋のこと。すなわち主は、ご自分の「いのちの袋」に、しっかりとあなたのいのちを守ってくださるお方ではないか。だから、あなたの手で復讐するのは愚かではないか、と。こんな具合に、主はダビデを諭すのでありました。こうしてダビデは、主のしもべの道を悟らされ、主のさばきに信頼することを学び、復讐という手段を思いとどまるのでありました。
 善に対し善が返って来ない。むしろ、善に対して悪しか返って来ないこともしばしばでしょう。しかし、憤りに満たされそうになるその時こそ、主の御手にすべてを任せ、自らは手を上げない。この訓練をダビデのようにいただきましょう。主に信頼するしもべを、主はご自分の「いのちの袋」に守ってくださるお方だからです。

【26章】 主の慈しみを確信する

 さて、主に委ね、主に信頼するしもべの道を学んだダビデに、再びサウルのいのちを奪うタイミングが訪れます。洞窟でのとき(24章)とは異なり、場面はサウル陣営の中。しかも側近がそば近くにおり、兵士も3,000人いる。しかしサウルのいのちを守った人物は、サウル陣営に一人もいません。みな眠りこけていたからです。寝床近くでアビシャイがサウルのいのちを打とうとすると「殺してはならない」と、唯一サウルのいのちを守るのはダビデただ一人。
 そのダビデはサウルに言います。24節「きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます」と。主に対するダビデの信頼がいかに深くされているかがわかることばです。
 「他の誰もが守ってくれない、絶体絶命の場面でも、主は私のいのちを守ってくださり、救ってくださる」と、主の慈しみをダビデは信じた。だからねたみにかられ、自分のいのちを狙うサウルをダビデは打たないのです。
 さて、この主の慈しみは、サウルにも注がれていたと言えるでしょう。かつて主に油注がれたサウル王。彼は主の御声を聞くのをやめ、自らの道に進み、ねたみにかられ、ダビデのいのちを狙い続けてきた人物。しかし、そのサウルに、今一度主は、いのちを守る出来事をもって、ご自分の心をサウルに伝えられたとも言えるでしょう。誰よりもあなたを慈しむわたしを見上げ、帰ってきなさい、との主の招きが聞こえる26章でした。

【月曜】 サムエル記第一27章~28章

【27章】 燃え尽きと恐れ

 26章では主の守りの確信を告白したダビデでありましたが、27章は彼の不可解な行動を記します。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう」(1節)。ガテに逃れ、ペリシテの一員になる出来事は、この突然のように襲ってきた恐怖からスタートしました。
 ダビデがここで経験していることは「疲れ」でありました。イスラエルにとっての敵国ペリシテに逃げ込み、協力者となったのは、サウルからの追跡があったからではありません。むしろ、サウルのもとに乗り込み、無事にそこから戻り、身の潔白を証言することができた、という成功体験のあと。それだけに不可解に見えるのですが、成功体験のあとにくる疲れ、いわゆる燃え尽き症候群を味わったのではないかと思われます。人を欺き続け、身を隠し続ける。しかし、先を見据えた長続きする選択ではありません。
 疲れからくる恐れに見舞われたとき、確かな主のもとにいき、確かな主の御力にお頼りしたいと願わされます。
 「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。『立ち帰って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。』 しかし、あなたがたは、これを望まなかった。あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』」(イザヤ30章15~16節)

【28章】 聞き従わない代償

 ペリシテ人の陣営に恐れを感じたサウルは、主に伺います(5節)。しかし一向に主の御声が聞こえない。そのため、サウルは主の禁じておられた霊媒に足を運び、天に召されたサムエルの声を求めます。すると神様は、特別に霊媒に介入されて、サムエルの声をとおしてサウルの現状を語られるのでした(御心にかなわない霊媒という方法であるにもかかわらず!)。
 「主は、あなたの手から王位をはぎ取って、あなたの友ダビデに与えられた。あなたは主の御声に聞き従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、主は、きょう、このことをあなたにされたのだ」(17~18節)。19節ではイスラエルの敗北が語られます。
 思えば、サウルの登場は9章でした。イスラエル王に就任直後、全焼のいけにえをささげる場面(13章)においても、アマレクへの聖絶命令の場面(15章)においても、彼は主の御声を退け、自分の思いを実行しました。それ以来28章に至るまで、真の悔い改め、主への従順の姿は彼のうちに見られなかったのでありました。
 「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(第一サムエル15章22節)

【火曜】 サムエル記第一29章~31章

【29章】 摂理の御手

 ダビデは、イスラエルの敵ペリシテ人の地に身を寄せ、自らの安全を確保していました。彼の家族も、彼の従える部下たちも、ダビデに引きいられ、ペリシテの地、ツィケラグでの生活を始めていました。ダビデはイスラエル人から略奪行為をするポーズをとって、ペリシテ人の王アキシュの信用を勝ち取っていきました。28章1~2節によれば、王アキシュの護衛に任命されるほどにもなっていました。しかし問題は、王の護衛に任命され、これから向かうこととなったのが、イスラエルに対する戦いであったということでした。
 この章では、主のことばは記されません。しかし、一度踏み込んでしまったために、その穴から足を引き上げられなくなって、どうしようもなくなっているダビデは、不思議な方法で最悪の事態から守られていく様子がつづられます。そこに神の大きな摂理の御手を覚える29章です。

【30章】 主によって奮い立つ

 一方、ダビデ一行が、家族のいるツィケラグに戻ると、妻、子どもたちがアマレク人によって連れ去られておりました。そのため民はダビデを殺そうと言い出し、ダビデは非常に悩みます。今一度自分の歩みをふりかえざるを得なかったでしょう。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるより他に道はない」そう心に思い、突然のようにして自らの正しいとする道に飛び出したダビデ。しかし今、民からも命を狙われる始末。すべてがなくなろうとしたその時に、彼は本当に戻るべき、信頼すべき方に気づかされるのでした。6節の「主によって奮い立った」は、直訳すると「主にあって堅固にされる。強くなる」といった意味です。
 主の導きを求めて臨んだアマレクへの戦いは、疲れた200名を残した400名であったにもかかわらず、大勝利をおさめ、分捕りものはすべて返って来ました。戦利品の分け方について不一致が起こりますが、勝利を与えてくださった主の栄光を見上げ、ともに恵みを分け合うように、とダビデは主にある秩序を教えます。前線に出て戦いに参加する人がいる。しかし面に出なくても、背後で戦いに参加している人がいる。「主が」備えてくださった御業・報酬を「共に」喜び、「共に」分かち合う麗しい主の共同体の姿を見る30章です。

【31章】 不従順の結末

 ペリシテとの戦いに敗れた末、サウルの武具は偶像アシュタロテの宮に奉納され、その亡骸はさらしものになりました(9~10節)。イスラエルの霊的な敗北をもあらわすような出来事です。
 サムエル記第一のはじめでは、主の宮で悩み祈るハンナと、彼女を覚えてくださる主のあわれみを見ました。しかし、サムエル記第一の最後は、主の宮ではなく、偶像アシュタロテの宮。イスラエルをペリシテ人から救うために、民は王を求めました。しかし、その王がペリシテ人によって命を奪われていくイスラエルの敗北。不従順に対する主の応答の厳粛さを覚えて、12章14~15・25節の主のみことばをもう一度読み返したいと思います。
 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6章23節)

【水曜】 サムエル記第二1章~2章

【1章】 人と自分の間に立つ方

 振り返ればダビデは、サウル王にねたまれ、命を狙われました。追跡されていないときさえ彼は、サウルに追われているように感じ不安に襲われました。しかしサウルを王としておられたのは主ご自身。それゆえ、たとえ自分のいのちを狙う王であったとしても、自分は、王の命を奪うことなどできない。それは私の領分ではないのだからと。ダビデは最後まで、サウルという人物と自分との間に、主ご自身を見ていたのでありました(14・16節)。ここに、主を恐れて行動するダビデの姿があります。
 長い期間をかけて、主はダビデを練り上げ、様々な境遇を用いて、主の目にかなう王として整えてこられました。そのようにして主の期待する王がイスラエルに立てられていく様子をサムエル記第二は記していきます。
 主を恐れること。それは、人と自分の間に主がおられることを知ること。主はダビデになされたように、私たちをも、主に用いられる器となるよう練り上げてくださるお方です。
 「恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる」(箴言16章6節)

【2章】 主のご計画を信頼する

 主の御声に従ってダビデ一行がヘブロンに移り住むと、ユダの人々がやって来て、彼に油を注ぎ、ユダの王に任命しました(4節)。確かに彼は、イスラエル「全土」の王となるべく、サムエルによって油そそぎを受けた人物でした。しかし、彼が王として任命されたのは12のイスラエル部族の一部族ユダの家においてのみです。イスラエル全土ではサウルの子イシュ・ボシェテが王となります(9節)。
 ダビデは、不平を言えたかもしれません。「私は、こんな小さな部族、ユダの王ではなく、イスラエル全土を治めるほどの者」と。しかし、彼は、全貌を知ることはないとしても、主のご計画に期待しながら、主の開いて下さった状況を、感謝して受けとめていくのでした。ユダの王となった期間は7年半(11節)、主のご計画を求め、従い、満足しながら時を過ごしていったでしょう。
 実はこの期間、様々な内乱がありました。その皮切りが12~32節の部下たちの対立です。しかし、ダビデは5章3節で、イスラエルの王とされるに至るまで、決して力に訴えて事を行おうとはしません。主のご計画を信じ、主の導きを求め、示される道に従うダビデの姿がまぶしく映ります。

【木曜】 サムエル記第二3章~5章

【3章】 人間の愚かさ

 この章で注目されている2人の人物、アブネルとヨアブ。いずれもすでにサムエル記第一に登場していました。2章の後半では、両者が互いに戦いをかわしている様子が記されていました。3章6節はじめに「サウルの家とダビデの家とが戦っている間」とありますが、それはアブネル一行とヨアブ一行の間に行われていた争いでした。
 アブネルは、イシュ・ボシェテをイスラエルの王として立てた人物です。しかし自らが立てた王に将来性のないことを見た彼は、王を捨て、鞍替えしようとダビデに接近していきます。ところが兄弟をアブネルに殺されたダビデの部下ヨアブは、この状況を危惧し、アブネルを殺害します。サウルの側近であったアブネルではありましたが、ダビデはヨアブの行動を呪い、アブネルの死を悼み悲しむのでした。権力を求める姿、復讐に燃える姿。嘆かわしい人間の愚かさを記す3章でした。

【4章】 誓い尊ぶダビデ

 アブネルが殺されたことを知り、イスラエルの王イシュ・ボシェテはさらに力を失い、イスラエルの民も動揺します。この混乱のどさくさに紛れ、この時ぞとばかりに行動を起こしたのが、バアナとレカブという2人の兄弟です。彼らはイシュ・ボシェテの首を、ダビデのもとに持って来ます。しかしダビデは、正しい人の血の責任を問い、2人を処罰します。
 ダビデが断固、2人に同意できなかったのには理由がありました。それは彼がサウルとかわした約束です。洞穴の中で、サウルを打とうとする部下たちを制したダビデの姿が、サムエル記第一24章の場面でした。その最後に、命拾いをしたことを知ったサウルは、ダビデにこう告げます。「あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った」「さあ、主にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを」(24章20~21節)。そして「ダビデはこれをサウルに誓った」(22節)とあります。誓いを尊ぶダビデの姿に、約束を違わず実現される私たちの主の誠実を思い起こす4章です。

【5章】 主が先立ってくださる

 ダビデはいよいよ全イスラエルの王とされました。困難のあるなかでもエルサレムを攻めとり、全イスラエルを治める拠点として、王宮を建てます。ツロの王ヒラムの贈り物が届き、ダビデが王となることが、まさに主の御心であることを裏付けるように、道は開かれ、状況が整って進んでいきます。しかし、これら喜ばしきことのなかで、ダビデが見つめていたのは主ご自身でした(12節)。「主がこれらのことをしてくださったのだ」と、ダビデは栄光を主に帰しています。
 17節以下の戦いにおいても、ダビデは主に伺いながら行動します。そんなダビデに主は言われました。「あなたより先に出ているから」(24節)と。この確かな主のご臨在の約束を確認し、ダビデは、主の命じられるとおりに行動するのでした。
 進むべき道がゴールまですべて見えるようにする。主はそのようなことをなさいません。ダビデはことあるごとに主に伺います。そしてそのつど、主は進むべき扉をダビデに示し、前に進んでいくようにされました。主は私たちの歩みに先立ってくださるお方です。だから信頼して一歩前に進めるのです。

【金曜】 サムエル記第二6章~8章

【6章】 神の聖を知る

 神の箱は「ケルビムの上に座しておられる万軍の主の名で呼ばれている」と2節にあるように、神のご臨在を表す「神の箱」をエルサレムに迎える。それはダビデにまさって、主なる神様こそが、イスラエルの本当の王であることを宣言し、受け入れる行為でした。ここにダビデの信仰が表されています。しかしそこでウザの事件が起こります。ダビデは、この事件を忘れないようにと、その場所を「ペレツ・ウザ」と名付けたほどです(8節)。「待った」がかかるように起こったこの事件の原因は「不敬の罪」でした(7節)。
 イスラエルの民は、長らく主の箱をないがしろにしていましたが、この祭司ウザは長らく主の箱とともに生活をしていたと考えられます。しかし、いつしか彼は聖なる主を忘れてしまっていたと言えます。当時祭司は、モーセに主が語られたみことばに従って仕えることが求められていました。主の箱にはポールをつけ、そこに棒を差し込み、その棒を決してはずしてはならないと主は言われました(出エジプト25章)。また主の箱についた棒を、肩に背負うという形で運ぶべきだ、と主は言われていました(民数4章)。しかも、その箱を運ぶ祭司は、決して箱に触れてはいけないとさえ念を押して主は語っておられたのでした(民数7章9節)。それは、主ご自身が聖なるお方であることを祭司にも、民にもわからせるためでした。
 ウザの事件をとおして、主の聖なることを知ったダビデと民は、主に対する適切な恐れをもって神の箱を迎えます。主が聖であられると覚えるからこそ、ご臨在くださる主に対して喜びが増し加わるのです(12~15節)。

注) ヨセフォス『ユダヤ古代誌』には、アビナダブがレビ人であったと記されています。長らく神の箱を守っていた家であることを考慮すると、レビ人のなかでも、さらに祭司の家であったと推測できます。

【7章】 はるかに優るご計画

 主の与えてくださった安息のなかでダビデは、新しく建てられた王宮の窓から周囲を見回します。すると目に留まったのが、神の箱。あのウザの出来事があって後、主の箱は幕屋に納められていました。方や自分は杉材でできた王宮にいる。方や主の箱は布で覆われた借宿のような建物にある。この大きな差を感じたダビデは、もう一つの宮を主の箱のために作ろうと考えます。しかし主の御心はむしろダビデの家を立てることでした。
 「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(12~13節)
 ダビデの家、王国がとこしえに堅く立つことは、最終的には、主イエス様において成就するに至ります。このダビデに対する約束は、今も私たちのうちに行われているキリストのご支配をも意味しています。究極的にすべてを主導するのは、私たちの業ではなく,壮大なご計画を進める主。それゆえ私たちもダビデのように、はるかに優る主のご計画に心を開き、受け入れましょう(25~29節)。

【8章】 約束の実現

 祝福の約束を受け取ったダビデは、その約束のとおりに、力を増し加えられ、王国の領土を広げていきます。西のペリシテ人の地(1節)、東のモアブの地(2節)、北のユーフラテス川(3節)、ダマスコとアラム(5節)、そして南のエドム全土(13節)と、ダビデはエルサレムを中心に勢力を広げていきます。その背後には主の御手がありました(6・14節)。ここに挙げられた領土は、かつて主がアブラハムに約束されたカナンの地と重なります。「祝福の基になる」と主がアブラハムに語られた約束が、確実にダビデに継承されていく様子を8章はつづります。

【土曜】 サムエル記第二9章~11章

【9章】 恵みを施す王

 ダビデは、かつてヨナタンと交わした契約(第一サムエル20章)を履行しようとします。探し出されたヨナタンの子メフィボシェテ。3節のことばから彼は「足」にハンディを持っていたことが分かります。
 ダビデの前に連れてこられ、ダビデにひれ伏して礼をしているメフィボシェテの心臓の鼓動。その音はここには当然ながら記されていません。しかし、その鼓動が聞こえたならそれは相当なものであったと考えられます。彼の叔父はかつてのサウルの子イシュ・ボシェテ。彼の首がダビデのもとに運ばれたことをメフィボシェテは知っていたでしょう。何をされるかわからない恐れに震える彼が聞いたダビデの言葉は7節です。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい」。このようにダビデはヨナタンとの契約ゆえに、恵みを施し、土地を返し、食事を用意することを約束したのでした。
 私たちは生まれながらに神様と敵対していた者でした。しかし当然滅びに向かう私たちを、神様は憐れみ、キリストのゆえに罪を赦し、神の子どもとして迎えてくださいました。ちょうどメフィボシェテがダビデから「恵み」を受けたようにです。

【10章】 顧みる王

 2種類の人々が登場します。1つめは、恵みを携える人々です。アモンの王に真実を尽くそうと、慰めを伝えようとしたダビデがいました。さらに、そのことばを伝えるために使者として遣わされた家来たちがそうでした。彼らは王のことばを預かって、アモンの王ハヌンのもとに向かったのでした。しかし、そのハヌンからは屈辱を受けた人々です。
 もう1つの人々は、恵みを拒否する人たちです。アモンの王ハヌンがそうでした。アモンのつかさたちがそうでした。真実を尽くそう、恵みを施そう、慰めをかけよう、そのようなダビデの行為を、この人々は疑い、拒絶します。
 恵みを携え、慰めを携えたダビデの家来たちは、誤解され、辱めを受けます。彼らに対して、王ダビデは、彼らに適切な場所を設け、恥に恥が重なることのないよう配慮します(5節)。しかし、恵みを拒否した人たちはどうだったでしょうか。ダビデの真実を拒否したアモン人の勢力は、ここで弱められ、破られます(6~19節)。主に仕え、主を伝えるうえで私たちの味わう辱めを、私たちの王キリストはよく知って、まことに配慮を備えてくださるお方です。

【11章】 順境における失敗

 ここでダビデがおこなったこと。それは、夫のいる女性と関係を結ぶ行為、姦淫です。そしてそれを実現させるために、彼は主から与えられた王としての権力を用いたのでした。
 6節以降、ダビデは自分の罪を隠すために、バテシェバの夫を戦場から呼び戻し、妻と時を過ごすようにし、生まれて来る子をウリヤとの間の子にしようとします。しかし、これがうまくいかないと知ると、ウリヤを戦地で死ぬように前線に送ります。このダビデの隠蔽工作は成功し、ウリヤは死に、バテシェバはダビデの妻に迎えられます。しかし27節の最後には「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」とあります。直訳すれば「ダビデの行ったことは主の目に、悪となった」となります。
 勝利を重ね、イスラエルの領土は広げられ、そして王宮も備えられていました。1節にあるように、戦地に将軍を遣わし、家来を遣わし、イスラエル全軍を遣わしていました。王としての権力は最高点。しかし順境のときにダビデは、あっけなく罪に陥っていった様子を11章は記します。ものごとがうまくいっているときこそ、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(第一コリント10章12節)のみことばを思い出しましょう。