旧約 第16週 士師記20章~サムエル記第一10章
BibleStyle.com
いのちのことば社
金子 美香
2009年10月31日 初版
【日曜】 士師記20章~21章
19章におけるギブアでの暴行事件は、大きな波紋を呼ぶこととなりました。
「イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない」(19章30節)と言われるほどの残虐で不道徳な行為に対して、ベニヤミン族以外の部族は「イスラエルから悪を除き去ろう」(20章13節)とベニヤミン族に迫りました。しかし、ベニヤミン族は「自分たちの同族イスラエル人の言うことに聞き従おうとしなかった」(20章13節)うえに、「イスラエル人との戦いに出て行」くことになってしまいました(20章14節)。
ここに、「ベニヤミン族以外のイスラエル人」対「ベニヤミン族&ギブアの住民」という、痛むべき戦いが勃発してしまいます。
しかし、問題はそれだけではありませんでした。この戦いは、3回繰り広げられた結果、最終的にはイスラエル側の大勝利となりましたが、その後、新たな問題に思い至ったのです。
それは、イスラエル人たちが「私たちはだれも、娘をベニヤミンにとつがせない」と言って誓っていたことでした(21章1節)。この戦いでベニヤミン族のうちから女性が根絶やしにされた今(21章16節)、イスラエル人の他の部族からも誰もとつがせないとなれば、当然「一つの部族が欠ける」(21章3節)ようになることが予測されるのです。
そこで彼らは自分たちの知恵により、2つの解決策を搾り出しました。
一つは、ヤベシュ・ギルアデの住民のうちから若い処女をベニヤミン族に与えるということ。そしてもう一つは、シロの娘たちを略奪する、ということでした。そうして、ベニヤミン族の残りの者、600人に対し600人の女性を与え、それぞれ自分の相続地に帰ったことが記されています。
ざっと20・21章をまとめただけでも、いかにこの時代が混沌とした時代であったかが分かります。まさに、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(21章25節)状態だったのです。
そして、このみことばを読むときに、私たちもはっとさせられるのです。
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」
王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた結果が、この残虐な事件を生み、それを受けての様々な問題を生じさせていたのだとすれば、私たちはどうなのでしょうか? 私たちの心を正しく治めてくれる王様は、今いるでしょうか? 自分の判断に任せ、自分の正しいと思うことだけをしてしまってはいませんか? この士師記の20・21章は他人事ではありません。王の王である主イエス様に私たちの心を治めていただかなければ。
【月曜】 ルツ記1章~2章
「さばきつかさが治めていたころ」(1章1節)とありますから、時代は士師記と同時代であったことがわかります。昨日まで読んできたあの混沌とした時代のなかにも、このルツ記に描かれているような、信仰に歩んだ人々の記録があることは、現代に生きる私たちにとっても大きな慰めです。
とは言え、ルツ記はその最初から、ナオミの夫エリメレクの死、そして2人の息子であるマフロンとキルヨンの死という、大きな痛み、悲しみの記述をもって幕を開けます。
しかし、このなかでやはり注目したいのは、この悲しみのなかにあっても、信仰をもって誠実に歩んだルツの姿と、その誠実な人に与えられた祝福です。
ルツという女性はもともとモアブの女性であり、ナオミとともにベツレヘムに向かうということは、ルツにとって見知らぬ異国の地に移り住むことを意味していました。しかし、ルツは、信仰においても、「あなたの神は私の神」と、イスラエルの神様を信じて歩んでいく決心をし、亡くした夫の母であるナオミとともにベツレヘムへ帰る決心をしたのです。
それだけではありません。彼女はベツレヘムの地に着くと、「私はこんなに苦しんでいるのだから・・・」とふさぎこみ続けることなく、義母と自分の生活のために、自ら進んで働きに出かけたのでした。
この、誰の目から見ても苦しみのなかにありながら、「こんな苦しみを与える神など・・・」とつぶやくことをせず、むしろ「あなたの神は私の神」と信仰を告白し、与えられた場所で誠実に生きていこうとするルツ。このルツに神様は祝福を用意してくださっていたのです! それが、ボアズの畑に、そしてボアズ自身との出会いに導かれるということでした。
これは、ナオミやルツが、自ら進んで策略を張り巡らしたものではありません。聖書は、ボアズの畑に行ったこと自体「はからずも」(新共同訳では「たまたま」)であった、と語っています(2章3節)。
「はからずも」だったのです。ルツはただ、信じて誠実に歩んでいただけでした。この畑に行けば、いろいろうまいこと話が進むかもしれない、と策略を張り巡らしていたのではありません。ただただ、信じて、今できることを誠実にしていたのです。そこに、神様が、人の策略ではない、人にとっては「はからずも」な「神様の計画」を、この誠実な人のうえになしてくださっていたのです。
策略ばかりを張り巡らす必要はありません。神様を信じ誠実に歩むなかに、人にとっては「はからずも」な「神様の計画」へと導かれていくこともあるでしょう。この「はからずも」な「神様の計画」という恵みを発見する者でありたいものです。
【火曜】 ルツ記3章~4章
ナオミは、ルツが「はからずも」ボアズの畑へ行ったということを、神様からの導きであったと感じていたようです(2章20節)。そこで彼女はルツの幸せを考えて、ボアズとルツが結婚したらよいのではないだろうか?と、ルツに行動を起こすように指示をしました。
ナオミの話を聞き、ルツはナオミの指示に従うことを決心します。つまり、それはルツにとって、ボアズとの結婚にむけて歩んでいくことを意味しました。ルツはボアズに求婚を意味する行動を起こしたのです。
これを受けたボアズの対応はまさに誠実そのものでした。ルツに恐れることはない旨を伝え、彼女の申し出に対して曖昧な態度をとることもなく、これからどのようにことを進めていく必要があるのか彼女に説明をしました。さらには、自分に結婚を求めてきた素敵な女性であるルツが夜にそばにいたとしても、正しく自制し、翌日になると即座に行動を起こし、その結果を生きておられる神様に委ねました。これらの対応に、ルツがどれだけボアズに対する信頼を増し加えたかわかりません。
それだけではありませんでした。実は、エリメレクの畑を買い戻し、ルツと結婚するということは、自分の財産を損ないかねないものでした。それゆえに、ボアズ以前に買い戻しの権利がある親類は、ルツをも買わなければならないと聞くと、さっきまで買い戻すと言っていた意見を即撤回しました。常識的な判断です。しかし、ボアズは自分の富にこだわることなく、自分の利益を追求することなく、ルツとの結婚を決断したのです。
それぞれがいかに誠実であったのか、今日の箇所からよくわかります。神様は、この誠実に歩む人たちを大いに祝福してくださいました。ボアズとルツは結婚へと導かれ、神様は二人に子どもをお与えくださいました。そしてこの息子、オベデがダビデ王のおじいちゃんにあたる人となり、ひいてはイエス・キリストの系図に名を連ねることとなったのです(マタイ1章5節)。
ルツ記の冒頭を思い起こしましょう。それは、人の目に決して幸せとは見えない始まりでした。しかし、今やその顔には悲しみの色はなく、神様からの祝福を全身で味わっています! しかも、オベデをその胸に抱いたとき、この末にキリストが生まれると誰が想像できたでしょうか? さらには、彼らが苦しみをとおして見出した神様の恵みと祝福が、数千年のときを経ても、多くの人を慰め、励まし、信仰による歩みを促し続けることになると、このときのボアズやナオミやルツの考えに及んでいたでしょうか??
この視点を与えられたく願います。苦しみのなかにも神様に信頼して誠実に歩む人たちを、神様は放っておかれることはありません。祝福はあるのです。そして、私たちに見える祝福は、実は永遠という視点からしてみたら、ごくごく一部なのかもしれません。その視点をもって、遥かな御国を仰ぎつつ、今日の一日を誠実に歩ませていただきましょう。
【水曜】 サムエル記第一1章~2章
今日からサムエル記に入ります。サムエル記には、傑出した3人の登場人物、サムエル、サウル、ダビデが出てきます。そのうちの一人である預言者サムエルの誕生は、一人の女性、ハンナが苦しみのうちに心を痛めつつ祈ったところから始まります。
ハンナにはハンナを愛してくれる夫、エルカナがいましたが、子どもは与えられていませんでした。一方、エルカナのもう一人の妻であるペニンナには子どもが与えられていました。しかし、ペニンナは、夫が自分よりもハンナのことを愛していることに気づいていました。それゆえでしょう、ペニンナはハンナを憎み、ハンナはいらだって食事をとることもできず、またその心は痛んでいました。
そんな苦しみのなか、ハンナは必死に、激しく泣いて祈りました(1章10節)。彼女が苦しみのなかで、誰よりも神様のもとに近づき、求めていった姿勢にはやはり教えられます。しかし、それと同時に目を見張ることには、彼女が祈った後、食事をとることができるようになり、その顔ももはや以前のようではなかった、ということです(1章18節)。このとき、彼女の願いである男の子が、お腹の中に宿っているわけではありませんでした。しかしハンナは、問題を神様のもとに持っていったゆえに、回復されていたのです。
しかも、ハンナの信仰はこれだけでは終わりません。彼女は事実子どもが与えられた後、神様に立てていた請願を果たします。つまり、ようやく与えられた男の子、サムエルを神様に一生涯お渡ししたのです。
ハンナにとってサムエルは、ずっとずっと願ってきて、ようやく手に入れた彼女の願いでした。普通に考えれば、最も手放したくないものの一つであったに違いありません。しかし、ハンナはペニンナから受けていた苦しみを神様にあって乗り越えたとき、「これさえあれば私は幸せになれる」という思いからは離れていました。彼女は、神様から与えられたものを我がものとして握り締めることなく、神様にお渡しすることができたのです。
しかも、いやいやながらではありません。賛美しながら、神様にお渡ししているのです(2章1~11節)。神様は、ハンナのことをこの後も祝福してくださいました(2章21節)。
このハンナの信仰の姿を見るときに、はっとさせられます。自分の子どもはもちろんのことですが、私たちは神様から多くの祝福をいただいています。しかし、私たちは普段の生活でどれだけそれらのものを神様からのものとして、自分の手で握らずに歩んでいるでしょうか。
私たちは「もし~~だったら捧げます。」という請願を立てていることは少ないかもしれません。しかし本来、すべての祝福は神様からのものであったのではないのか?と思い至るのです。ハンナのように、神様のもとに問題を持っていくことで平安を見出し、神様にお返しするときにも賛美をささげる、そのような神様に対する信頼が私たちにも、与えられますように。
【木曜】 サムエル記第一3章~5章
少年サムエルが神様に何度も呼ばれ、最後には「お話ください。しもべは聞いております」と応える話は、教会学校に通っていた人なら一度は聞いたことのある、聖書の名場面です。
しかし、この少年サムエルが「お話ください。しもべは聞いております」と答えたことによって神様から聞いたことばは、サムエルにとって、耳に心地よいものではありませんでした。それは、サムエルにとって師であるエリへのさばきのことばだったのです。
少年であるサムエルが、このことばを聞いて、どれだけ心が重かったことだろうかと思います。事実、サムエルは神様から聞いたことばをエリに語るのを恐れていました(3章15節)。考えてみれば当然です。幼い頃からエリのもとで育てられてきたサムエルにとって、エリはとても大切な存在であったはずです。しかし、そのエリに対するさばきのことばを聞いてしまったのです。そのことばをエリに伝えることを恐れるのは、想像に難くありません。
しかし、エリに伝えるように言われたサムエルは、すべてのことを話して、何も隠しませんでした(3章18節)。この少年サムエルの姿は、少年とは思えないほど立派です。サムエルにとって、これが預言者として初めての神様からお預かりしたことばでした。預言者としての初めの一歩が、サムエルにとってどれだけ苦しい決断の迫られるものであったか、わかりません。しかし、サムエルは一言も曲げることなく、真実を伝えました。
これが、神様に用いられた人、サムエルの若き日からの姿です。初めの一歩を踏み出すのには、サムエルも恐れを経験しましたが、しかし、どんなに難しいことでも、彼は神様のことばをまっすぐに伝えました。
このサムエルと神様はともにおられ、サムエルにご自身のことばを告げ、預言者として成長をお与えになりました。主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった(3章1節)この時代において、主は再び現れてくださいました(3章21節)。彼が語ることばは一つも地に落ちることはなく、かくしてエリに告げたことばも4章において現実のものとなっていきました。
神様に用いられるということは、決して私たちが自分の楽しいこと、やりやすいことだけをやっていれば良いというのではありません。ときとして、できればやりたくないこと、やることに恐れを感じることに直面することもあると思います。しかし神様は、神様に従って恐れを乗り越え、真実を伝えたサムエルを喜び、その生涯を大いに用いてくださいました。少年サムエルにとっては厳しいテストだったことは間違いありません。しかし、そんな彼とともにいてくださったのは、他でもない、主でした(3章19節)。このことを覚えつつ、今日の一日を歩めますように。
【金曜】 サムエル記第一6章~8章
すでに5章から始まっていた神の箱にまつわる描写ですが、その一連の騒動も7章でひとまずの終息を迎えています。それから20年の月日が経ち、この頃イスラエルの全家は、主を慕い求めていました(7章2節)。
そのようなときに、預言者サムエルは神様からのことばを語ります(7章3節)。
この7章3節のことばからも、長い間イスラエルの人々が、偶像にも心を向け、仕えていたことがわかります。主を慕い求めていたことからして、イスラエルの神様をまったく忘れてしまっていたわけではなかったのでしょうが、しかしその心は主にのみ定まっているわけではありませんでした。
彼らは、劣勢続きの状況に、「おかしい?なぜだろう?」と違和感を覚えていたのでしょう。しかしここに至って、その状況は彼らの罪によることが、はっきり知らされたのです。
イスラエル人は、このサムエルのことばを聞いて、実際に彼らのうちからバアルやアシュタロテを取り除き、主にのみ仕えるようになりました。自分たちの罪を認め、断食をし、悔い改めたのです。
そのときでした。彼らはペリシテ人がイスラエルに攻め上ってきたことを耳にします。これを聞いたイスラエル人たちは、サムエルに、主に叫び続けていてほしいと願い出ます。これは彼らにとって、大きな変化でした。以前は、神の箱を持ってきたことによって満足し、勝利をつかめると思っていたイスラエル。しかし今は、形式的にではなく、本当に神様の力により頼まなければ、主に叫び続けなければ勝利はないことを謙虚に認めています。サムエルは、焼き尽くす全焼のいけにえをささげ、主に叫びました。そして、主は答えてくださったのです(7章9節)。
この一連のことを思い巡らしましょう。かつて彼らは、神様に対して謙虚に求めることをせず、神の箱をどこに置くかということに関心を払っていました。神の箱を持ってくることによって、彼らの感情は鼓舞されましたが、その心は主に定まってはいませんでした。しかし、神の箱騒動があり、20年間にもわたるどうにもうまくいかない時期があり、その期間をとおして彼らは主を慕い求めるようになりました。そのとき、神様はサムエルをとおして彼らの問題点を指摘してくださり、イスラエル人はそれを受けとめ、罪を認め、他の神々を取り除き、主にのみ仕えました。そして、神様の力を謙虚に求めたときに、神様の力は彼らのうえにあらわれたのです。
もちろん、形式はどうでもよいと言っているわけではありません。ただ、大切なのは形式的なことではないのです。
神の民がまず、その心を神様にもう一度向け直していったように、今日一日のうちに私たちがなす一つ一つのことが、神様に心を向け、神様にのみ仕えるゆえの一つ一つの行動でありますように。
【土曜】 サムエル記第一9章~10章
昨日の箇所である8章から、また新たな動きが起きていました。それは、王制への願いです。
イスラエルの長老たちは、サムエルが歳をとり、その息子たちはサムエルの道を歩まず、適切な後継者がいないこと、そして他の国も王制をとっていることを理由に挙げて、イスラエルをさばく王様を立ててほしいと願ったのでした。
今日の箇所である9章から、この民の強い願いである一人の王が選ばれて行く過程が記されています。その初代の王様というのが、サウルでした。サウルは見た目もよく、さらには人格的にも問題なく思われる人物でした。サムエルは神様から告げられたとおりに、彼をイスラエルの王とし、民もみな大喜びします。
民の願いがかない、みんなこぞって大喜びしていますが、この喜びの席にしてはとても気になることばをもって、サムエルはイスラエル会衆の前での、王の選出を行なっています。
「ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った」(10章19節)
このことばは、話がどんどん進んで行くなかにあって、どうしても気になることばです。彼らイスラエルの長老たちは、自分たちよりも繁栄しているように見える他国の制度と同じように、自分たちにも王がほしいと願いました。しかし、彼らには今まで真実に導き続けてくださった、他に並ぶものなど決してない神様がいたのです。けれども、彼らは神様ご自身に助けを求め続けていくよりは、他国のように王を下さるようにと願っていた、ということがここでも明らかにされています。
すべてのわざわいと苦しみから救ってくださる神様ご自身を求めるよりも、自分の願いを神様に求める。彼らの願いである王制が一気に現実のものとなろうとしている今、この姿勢は問われるのです。
そしてこの姿は、神様に「これをください、あれをください。どうしてもあれがなければ、これがなければ」と求めがちな私たちの姿と重なるような気もします。
私たちも多くのことを願います。悪いことではありません。しかし、すべてのわざわいと苦しみから救ってくださる神様を信じて、その神様ご自身を求めているのでしょうか? それとも、ただ神様に、自分のことを求めているのでしょうか? 自らの祈りの姿勢、求めている姿勢をもう一度振り返らされる思いがします。
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