旧約 第14週
ヨシュア記12章~士師記4章

日本同盟基督教団 中野キリスト教会 牧師
廣田 信之

2009年10月31日 初版

【日曜】 ヨシュア記12章~14章

 12章までは、主が与えると約束されたカナンの地を征服してきた記録です。ここにイスラエルに征服されたカナンの王たちの名が挙げられています。パランの荒野から偵察隊を遣わした時は、主の約束を信頼し、与えてくださると確信したのはヨシュアとカレブの2人だけ。それから40数年後、ここに記されている名は、主の約束を信じる者だけが受けることができた祝福の記録です。

 しかし、主の祝福はまだ終わりません。主は、残っている地をそのままにせず、取りなさいと言われました。神が与えてくださるものは、私たちが期待する以上のものなのです。
 「主は彼に仰せられた『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている』」(13章1節)。年を重ねても、主が言われた約束は変わりません。
 「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」(ヨシュア1章3節)と言われた主は真実なる神です。
 だから主は再び、「わたしは彼らをイスラエル人の前から追い払おう。わたしが命じたとおりに、ただあなたはその地をイスラエルに相続地としてくじで分けよ」(13章6節)と繰り返されたのです。「くじ」は、利己的な希望を持たず、ただ主の御心を求め、主が与えてくださるものを受けることです。レビの部族にはこの世に相続地はなく、祭司としての奉仕が相続地でした(13章14節)。主が仰せられるものを喜んで受け取るのが幸いの道です。

 さらに主の言葉を信じて生きる人は、カレブのように主の約束を実行します。
 カレブは言いました。「主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう」(14章12節)
 主が約束されたなら実行できる。と主の言葉を信頼して歩んで行きましょう。あなたに主が与えようとしておられる地は、どこでしょうか。何でしょうか。
 みことばのとおりに生きること、愛すること、信じること、赦すこと、罪から離れること・・・。あなたは、主が与えようとしている祝福を確かに受け続けているでしょうか。
 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(ピリピ3章12節)
 もう十分と言う自己満足、あるいは私にはこれ以上無理ですという自己卑下は、聖書の言う謙遜ではありません。「与えよう」と言われる主の言葉を確かなものと信じ、主の日を過ごしましょう。

【月曜】 ヨシュア記15章~17章

 くじで土地が割り当てられていくなか、カレブと彼の属するユダ族の記録が目立ちます。カレブの求めは、私的な欲にも見えますが、それは神の約束に基づくものでした。
 「わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる」(民数14章24節)
 カレブが主の前に持ち出したのは、わがままではなく信仰です。彼を突き動かしていたのは、思い上がりと言うよりはむしろ神への絶対的信頼でした。巨人アナクたちが住んでいようと、恐れずにヘブロンを選んだのも彼の信仰のあらわれです。カレブの信仰は、あの偵察に行った時と何ら変わっていなかったのです。
 ヘブロンの地は、創世記13章でアブラハムが甥ロトに選択権をゆずり、目の前に広がる肥沃な土地を放棄した後の残りの地域でした。結果を神に委ねたアブラハムに、神はこのヘブロンで「子孫を地のちりのようにならせる。・・・立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから」(創世13章16~17節)と言われました。主の約束を信じて進みゆく場所としては、これ以上ふさわしい場所は他にありません。
 しかし、あくまでも結論を出すのは、人間ではなく主です。
 「ヨシュアは、主の命令で、エフネの子カレブに、・・・ヘブロンを割り当て地として与えた」(15章13節)とあります。神の約束を土台にした願いであっても、事を実現するのは「主の命令」です。カレブの属するユダ族の占有した地は広大です(ぜひ、聖書地図で確認してみてください)。15章後半に、その町の名が挙げ連ねられています。

 次にヨセフ族の割り当て地が16章と17章に記録されています。ここでも目を引くのは、私的と思われる訴えです(17章4節)。これは、民数記27章1~7節の記録に関連しています。ツェロフハデの娘たちには男の子がなく、そのために相続地を与えられないのかと訴え、それに対し主はモーセに告げて仰せられました。彼女たちの言い分は正しい、と。そうして、家族に男の子がいない場合でも、相続地が他人の手に渡って失われるということのない制度ができました。ツェロフハデの娘たちは、その時の主の約束をもとに訴え出たのです。
 このように、訴えを申告すること自体は、それが正しい信仰に基づいた求めであれば不遜なことではありません。クリスチャンは、時に謙遜をはき違えて、この世のことをおろそかにしてしまうことがないでしょうか。主が与えると言われた祝福をしっかり受け取るために、主の約束を忘れず、それに基づいて行動しましょう。
 多くの割り当て地を受けながらも、ヨセフ族はそれを不十分と言います。それに対し、ヨシュアは大きな力を持っているのだから、自分で切り開くように、と言われます(17章15~18節)。能力を持った者には、それを正しく行使する責務があるのです。神の祝福を取りこぼすことのないように、御言葉に約束されていることなら信仰をもって遠慮せず、今週もそれぞれの務めに励んでいきましょう。

【火曜】 ヨシュア記18章~20章

 ユダ族とヨセフ族(マナセとエフライム)に相続地の割り当てが終わったところで、残りの相続地の割り当てについての記録が18章と19章です。まだ、相続地が割り当てられていないのは7部族。彼らはカナンの地に攻め込んでいながら、祝福の地を自分たちのものとすることを躊躇していました。先のユダ族のカレブとヨセフ族のツェロフハデの娘たちが、主の約束を覚えて、熱心に神の祝福を受ける特権を主張した姿に比べ、何と消極的な歩みでしょう。
 ヨシュアは彼らに「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか」(18章3節)と言って、残りの地に偵察隊を送り出します。主の約束の地を調査した情報が書き記されるのは人の業です。相手の大きさに躊躇してはならない、これを与えると言われた神の約束の偉大さを思え。だから分割は、人の計算によらず、くじを引くことで、すべてを主に委ねて行われました。

 彼らは、くじによって示された答えを、神の御心として厳粛に受けとめたことでしょう。注目しておきたいのは、19章の最初に出てくるシメオン族への割り当てです。
 「彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった」(19章1節)
 この理由は、創世記34章のディナ事件で、シメオンがシェケムの人々を殺戮した残虐行為にあったと思われます。聖書の神は、憐れみと恵みに富み、罪を赦してくださるお方ですが、「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」(ローマ2章6節)。
 しかし聖書は、すべてが因果応報であると教えているわけではありません。因果応報では、すべては滅ぶことになります。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6章23節)
 罪の報いは死。しかし神は、信じる者に賜物(恵み)として永遠のいのちを与えられる。悔い改める者には慰めを与え、救いに導いてくださるというのが、聖書全体をとおしてのイエス・キリストの福音です。だから、シメオン族も滅ぼされることなく、ユダの相続地のなかにあって悔い改めつつ生きる道が備えられたのです。

 悔い改めて生きる者のため、「あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる」(20章3節)と、神は逃れの町を定められました。会衆の前に立って公のさばきを受ける前に、復讐によって殺されないように。神は、人が失敗することと、怒りに支配されて復讐に急いでしまうことをご存知なので、事前に逃れる道を備えられたのです。
 私たちは、この神の御前に歩んでいます。主は、神の約束に躊躇する者に、御声をかけてくださいます。人殺しのような失敗をしてしまう者にも、逃れの町を備えておられます。人の失敗に対する怒りを治めきれない者が、先走ってしまうことのないように。
 自分のことでも他人のことでも、失敗を恐れず、失敗をさばかず、そして相手がどんなに大きくても、確かな神の約束を信じ誠実に歩みましょう。

【水曜】 ヨシュア記21章~22章

 最後、レビ人に相続地が割り当てられます。これは、主がモーセに告げられた民数記35章1~8節のとおりでした。
 「大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない」(民数35章8節)
 レビ人の相続地は、他の部族に割り当てられた相続地から、おのおのが分に応じてレビ人に与えるよう、主から命令されていたからです。地上で得るものはすべて、自分のものではなく神のものある。最後に主の奉仕者である祭司レビ族に、自分たちの町を分け与えることで、改めて確かめさせられます。そうして各部族のうちからレビ族へ与えられる土地が決定し、聖書は主の約束がすべてそのとおりになったと言います。「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した」(21章45節)

 そうは言っても、この時はまだ相続地を占領できていません(23章5節)。しかし、聖書は常に、神の約束は必ずそのとおりになると記します。まだ、手に入っていなくとも、神の約束に従って相続地が割り当てられた今、イスラエルはそれぞれ約束のものを神から与えられたも同然なのです。
 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16章33節)とイエスは言われました。主が勝ったと言われるので、たとえ自分の歩みやこの世の現実がどんなに絶望的に見えたとしても、勝利はすでに与えられているのです。

 相続地の割り当てが終わり、これまでヨルダン川の東側の相続地を受けながらも戦いに協力してきたルベン族、ガド族、マナセの半部族は、彼ら自身の相続地に戻っていきます(22章)。相続地に戻った彼らは、そこで自分たちのために大きな祭壇を築きました。これが問題となったのは、別の祭壇を造ることが主に禁止されていたからです(申命記12章13~14節)。西側のイスラエル人たちは、神への反逆と見なし、いくさの準備をはじめました。
 神への不従順は決してあってはならない。イスラエルの民は、「ペオルで犯した不義」(22章17節。民数25章参照)、「アカンの犯した罪」(22章20節。7章参照)の経験で、主への不義は民全体を滅ぼしかねないと学んだのです。
 けれどもヨシュアは、まず慎重に使いを送ります。そこでルベン族、ガド族、マナセの半部族は、22章22節以降で弁明します。このことは、自分たちの子孫が主を恐れることを忘れないためであり、主に反逆するためではない、と。ピネハスたちは、これを聞いて満足し、言いました。「・・・あなたがたは、今、イスラエル人を主の手から救い出したのだ」(22章31節)。一部の人たちの罪によって民全体が滅ぶことがなかったという安心です。
 不従順は何としても避けなければなりません。でも、見た目だけで人をさばいてはいけません。相手の動機についてよく話しを聞いて、先走らないことです。

【木曜】 ヨシュア記23章~24章

 ヨシュアが死を前にして、最後に大切なことを語る場面です。23章で繰り返されている言葉に注目しましょう。――戦ったのは、主である。主が敵を追い払われる――という内容が、3節、5節、9節、10節で繰り返されています。この主なる神がともにおられるのだから、恐れずに主の約束を信じて行きなさい、というのがヨシュア記のメインテーマです。
 ヨシュア記は1章5~9節で告げられた主の約束が、ひとつもたがわずそのとおりになったことの記録です。神の約束はそのとおりに実現したから、これからも主なる神に応答し、主があなたがたに告げたように、約束の地を受け継ぎなさい。カナンの住民を恐れるのではなく、主の言葉に従いなさい。という勧めで締めくくられています。

 神の御業を思い起こしつつ、民には具体的な応答が求められています。主が告げたように約束の地を占領しなさい(5節)、律法に記されていることを断固として守り行いなさい(6節)、あなたがたの神、主にすがれ(8節)、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい(11節)。
 クリスチャンは、神がともにおられることを信じます。その信仰は、罪が赦されているという安心だけでなく、神のことばに従って積極的に生きる力をもたらすものです。神は約束を実現される力のあるお方だからです。この神がともにいてくださるなら、御言葉に従って生きることを後回しにしたり、結果を恐れたりすることはありえません。
 「あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを」(23章14節)

 ヨシュアは、もし主に従わず、他の神々を拝むなら、まったく逆のことが起こるという呪いも宣言します。このような厳しい言葉は、心に留めるより読み飛ばしたくなるものでしょう。けれども、これは脅しの言葉ではありません。不従順の報いは滅びです。しかし、神は不敬虔な者を選び、守り導き、祝福を与えてくださったのです。神に不従順になり、その恵みを無駄にするなら、自らに滅びを招く、そんなことがあってはならないという愛の警告です。

 ヨシュアは、24章でも神の恵みを思い返します。2節で、アブラハムの父テラは昔、ほかの神々に仕えていたことに触れています。神に従順だったから選ばれたのではない。相応しくない者が、一方的に選ばれ、導かれてきたのです。それだから!「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい」(24章14節)と命じているのです。
 私たちも、人生を思い返すとき、自分が不従順な者であるにもかかわらず、神がどれほどの恵みと憐れみを注いでくださったか、言い表したいものです。
 今はまだ手に入っておらず、おぼろげにしか見えないかもしれませんが、主の約束は、一つもたがわずみな実現した、という信仰に生きることを、心からお勧めします。

【金曜】 士師記1章~2章

 ヨシュア記は、神の約束が実現していった記録であり、失敗もありましたが、大枠としては成功の歩みで、信仰による勝利の歩みでした。それに比べて士師記は、神を見失い、外からの患難、内からの患難、誘惑に負け、挫折の経験の記録です。異教の文化のなかにある日本の教会は、この書の記録から多くのことを学べると思います。
 士師とは、苦しみのなかでイスラエル人が主に叫び求めたとき、主によって遣わされた、さばきつかさのことです。これから12人の士師たちが登場して来くるので楽しみに読み進めてください。

 士師記は、約束の地カナンを占領していく場面(ヨシュア記の記録の繰り返し)から始まります。イスラエルは、主の御心を求め、相続地を攻め取りながらも、追い払わないカナン人を残し(1章19・21・25・28~35節)、占領しない地を残してしまいます(1章27節)。この不従順のため、主の使いによってさばきが宣告されます。
 「あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえわたしは言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる』」(2章2~3節)

 この言葉どおり、主がイスラエルのためにされたわざについて知らない世代になると、彼らは他の神々、バアルとアシュタロテに仕えるようになっていきます。
 そのために、イスラエルは長く苦しむことになります。民の不従順が神を怒らせ(2章12節)、主の手によってわざわいがもたらされ、民は懲らしめられ非常に苦しみます(2章13~15節)。
 「そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた」(2章16節)
 「しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった」(2章19節)

 どうして、こんなに愚かなのだろうか、と不思議に思います。しかし、これが罪に堕落した人間の姿なのであり、私たち自身の姿でもあるのです。
 主の言葉に対して、「これくらい小さなことではないか」と罪を取り除かないなら、その罪のために、主の祝福に浴することから自分を遠ざけてしまうことになるのです。罪ある者は恐れから主を避けるので、他の偶像に安息を求めます。それは滅びへ向かう道です。

 ここで神が罪人を懲らしめるのは、罪深い人を滅びるままにせず、立ち返らせるためなのです。聖書の中で、神がイスラエルを懲らしめるところに、主の恵みがあることを読み取ってください。そうすれば、この世界における忍耐と希望を得ることができます。全知全能の神は、人には計り知れない御旨をもって、あなたを最善へと導いておられます。
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8章28節)

【土曜】 士師記3章~4章

 4人の士師、オテニエル、エフデ、シャムガル、(デボラと)バラクの登場です。
 残念なことに、2章後半にまとめられていたことが、現実となっていきます。ヨシュア記では、神ご自身が戦ってくださるから、追い払わなければならない、と繰り返し命じられていたのに、イスラエル人はそうしなかった。イスラエル人は、カナン人たちと結婚し、交流するようになり、それだけでなくカナン人の神々バアルやアシェラとも交流するようになります。このことは民の不従順でありましたが、聖書はそれさえも神様の御手の中にあることとして、3章1~4節に記しています。
 ペリシテ人をはじめカナンの領主たちは、「主が残しておかれた」(1節)のです。それは、戦いを教えるためであり(2節)、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためでした(4節)。
 これらの民の失敗も、神にとっては不測の事態ではなく、それを用いてイスラエルの民を、またこの書を読む私たちを教え導くためでした。

 神は、主の目の前に悪を行う者に怒りを燃やされ、敵の手による支配に引き渡されます(3章7~8・12~14節、4章1~3節)。しかし、敵の手によって苦しめられるイスラエルは、そのままに放置されるわけではありません。
 「イスラエル人が主に叫び求めたとき」(3章9・15節、4章3節)、主は彼らのために、彼らを救う救助者を起こしてくださいました。それは、神がともにおられることを知らせるであり、また神が力をもって戦ってくださることを知らせるためです。4章では女性が用いられていることからも、人間の力強さではなく、神の力に信頼する信仰による戦いであることが教えられています。

 さらに、これらは聖書にしてみれば数行の出来事ですが、不従順の罪に対する取り扱いには長い期間があることを見逃してはなりません。頑ななイスラエルの民が、自分たちの罪に気づき、悔い改めて主に叫ぶまで、あるいは悔い改めの期間が満ちて士師が送られるまで、オテニエルの前には8年間、エフデの前には18年間、バラクの前には20年間、イスラエルは敵に圧迫され惨めさを味わっています。
 現在の私たちは、何でも早く解決されることばかり求めて、主を待ち望むことを忘れているのではないでしょうか。祈りが聞かれないからといって、神の取り扱いの期間があることを無視して、あまりにも早くあきらめていないでしょうか。あなたの今週の歩みはいかがだったでしょうか。
 「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5章3~5節)