旧約 第13週 申命記32章~ヨシュア記11章
BibleStyle.com
市原福音キリスト教会 牧師
山田 瑞穂
2009年11月1日 初版
【日曜】 申命記32章
モーセの死後、不信仰な道に向かい歩んでいくイスラエルに対し、主はモーセを通して一つの歌を授けました。それは、この歌が彼らの間にあって主をあかしし、神から離れたイスラエルの民がもう一度主に立ち返るためで、主がイスラエルにあらかじめ用意した救いの道でした。
モーセは主から与えられたこの歌を、すべての人の前で歌いました。彼はまず天と地に呼びかけ、自分の語る言葉と教えが若草や青草の上に落ちる雨や露のように浸透するように、そして、主の御名を告げ知らせるのだからと、栄光を主に帰すように命じました。
真実で正しい主に反し、受けた数々の恩を忘れ、罪を犯すイスラエルに、主から受けた恵みをもう一度思い起こすように、数々の恵みが歌われます。主が彼らを造られ堅く建て上げられたこと。主が彼らに相続地を与え、主が彼らを荒野で見つけ、抱き、世話し、守られ、主が彼らを最良のもので養ってこられたことを。にもかかわらず、肥え太ったエシュルン(イスラエルの愛称:正しい者の意)は、神を捨て、救いの岩を軽んじ、異なる神々、神でない悪霊、彼らの知らなかった神々、新しい神々にいけにえをささげ、主のねたみを引き起こし、主の怒りを燃えさせ、彼らは主から退けられ、その報いを受ける。神の怒りによってすべてが焼き尽くされ、数々の災いが彼らに送られ、外には剣、内には恐れがすべての者を襲います。しかしここで主は、イスラエルが懲らしめられることで、敵(主を神としない者、異邦人、異教徒たち)が神をののしり誤解することを気づかい、イスラエルを粉々に消し去ることを思いとどまった、と歌われます。
イスラエルはイスラエルでその不信仰のゆえに神の前にさばきを受け、敵は敵でその愚かさ、思慮の欠けた国民であるゆえに神の復讐とさばきを受けることになるのです。そして、イスラエルの力が去り、奴隷も、自由の者もいなくなったとき、主はイスラエルに語りかけられます。彼らを立たせ、助け、盾となるのはわたしだと。わたしのほかに神はいないと。神がその仇に復讐し、神を憎む者に報いを与え、ご自分の民を贖われる。
モーセはこの歌をすべての民に聞こえるように唱え、この歌は命のことばであり、このことばを心に納め、子どもたちに命じ、この教えのすべてを守り行うように命じました。
モーセはこの歌を民に語り、最後の役割である、命に至る教えをイスラエルのすべての人々に語り終えた後、ネボ山に登り、主のお与えになるカナンの地を見るよう命じられ、改めて約束の地に入れずその山で死ぬことが告げられました。
【今日の黙想】
この32章では、これから罪を犯し神から離れていくイスラエルに向けられた、神の愛と憐れみを知ることができます。同時に、主の働き人であるモーセの与えられた役割についても考えさせられます。
神の愛は計り知れません。いくら恵みを与えてもそれを忘れて罪を犯すイスラエルに、「何をしても無駄」と諦めて、恵みを注ぐのをやめるのではなく、むしろ罪を犯した後の彼らが回復するための道をあらかじめ用意される。なんという愛でしょうか。裏切られることがわかっていて、イスラエルを愛し恵みを与えたのです。それだけではなく、裏切られた後の和解の道まで用意して。
これが私たちの神の愛です。そして、これが私たちの信頼する神の御姿です。私たちの弱さを知っていて、私たちのために救いの道を用意されている。私たちが神様から離れたとき、そして私たちがもう一度神の恵みを思い起こすとき、そこに救いがあります。自分の罪を悔い改め、神が神であることをもう一度告白するとき、神は私たちを拒まれません。いえ、むしろ、主のもとに立ち返るのを、私たちが罪を犯す前から願い、救いの道を用意し、待っていてくださっています。
【月曜】 申命記33章~34章
【33章】
モーセは死を前にして、イスラエル12部族(シメオンを除く)を祝福しました。彼はまず、荒野の40年間を振り返り、主を賛美し、その栄光と導きを語りました。そして、各部族に祝福の言葉を与えました。
ルベンには存続を。
ユダには神の助けを。
レビには祭司の務めを果たすものとして、果たすべき2つの役割(主の定めとみおしえをイスラエルに教え、主の御前でなされる祭儀を守ること)と祭司職の祝福を。
ベニヤミンは主に愛されている者。
ヨセフには、地上のあらゆる祝福があり、彼の牛の初子(エフライムを指すと思われる)は誰も阻止することはできないと語られます。
ゼブルンとイッサカルはともに語られ、ゼブルンは外に出て行き、イッサカルは天幕の中にいて喜ぶようにと語られます。
ガドはヨルダン川東岸に最初に相続地を求めた勇猛で最強の部族として、イスラエルの先頭に立って主の正義と公正を行います。
ダンは獅子の子と呼ばれ、獅子の生息地だったバシャンからおどり出て勝利を得るまで戦いに出ます。
ナフタリは恵みに満たされ、西と南を所有するように言われます。
アシェルは最も祝福され、兄弟たちに愛され、その足を油で浸すほどに、そして彼らの住む町の防御が堅固であるようにと祝福を受けました。
モーセは祝福の言葉の結びとして、イスラエルをエシュルン(正しい者)と呼び、これほどの祝福を受けた者は他にないと述べ、祝福の言葉を閉じました。並ぶもののない永遠の神がイスラエルを守り、豊かな祝福を与え、主によって救われ勝利を得るのです。
【34章】
いよいよモーセは終わりのときを迎え、主が仰せられたようにネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂から約束の地を見渡し、主の命令どおりモアブの地で死にました。モーセは120歳でしたが、最後まで彼の目はかすまず、気力も衰えませんでした。しかし、モーセは約束の地に入らず、ここで彼の役割を終え、永遠の休息を得たのです。しかも主ご自身がモーセを葬りました。彼の40年の労苦に対する報いと慰めがここにあります。
そして30日の喪が明けた後、モーセの後継者であるヨシュアが知恵の霊に満たされ、イスラエルの指導者として立ち、イスラエルはヨシュアに従い、主がモーセに命じられるとおりに行いました。
しかし主と顔と顔を合わせて選び出されるような預言者はモーセだけであり、主がイスラエルを贖いだすためのあらゆるしるしと不思議のためだったことが最後に語られています。
【今日の黙想】
モーセがその使命を終え、この地上を離れるとき、最後にしたのは、32章の救いの道としての歌をイスラエルの民に伝えることであり、また、イスラエルを祝福することでした(33章)。モーセにとって、うなじのこわい民イスラエル、すぐに道を誤り不信仰に陥るイスラエルがいよいよ約束の地に入るというときに、彼らから離れこの地上を去ることは、モーセにとっては心配だったことでしょう。しかし、モーセは最後の最後まで、イスラエルの導き手としての役割を果たしていきました。
どんな人もいずれこの地上を去る時が来る。その時にどのようにして地上を去るのか。どのような姿勢で、主の前の歩みを終えるのかは、それぞれにゆだねられています。モーセが約束の地に入れなかったのは、彼のかつての失敗に理由がある語られています。しかし、入れなかったのではなく、主が彼の働きをよしとし、その役割を十分に果たしたとして、彼をその任から解放されたと見ることもできます。これから始まる新たな戦いまで、モーセが先頭に立っていくのではなく、約束の地を前に、後継者ヨシュアに託していく。
私たちもしたいことがすべて自分の人生で達成できるとは限りません。しかし、モーセのように、主がよしとされるまで精一杯、自分の役割を果たし、最後まで主に従い通したいものです。
【火曜】 ヨシュア記1章~2章
【1章】
ヨシュア記に記されているヨシュア率いるイスラエルの民の歩みは、まさに私たちの信仰の戦いに似ています。モーセに導かれてエジプトを脱出し、荒野を40年間さまよってきたイスラエルは、ついに約束の地に足を踏み入れるときを迎えました。しかし、イスラエルを導くのはモーセではなく後継者のヨシュアでした。
ヨシュアがこれからイスラエルの民を率いていくというとき、主はヨシュアに直接勝利の約束を与え、「強くあれ。雄々しくあれ」と語られました。そしてその言葉を得たとき、彼は民のつかさたちにヨルダン川を渡る準備を命じ、ヨルダン川東岸にすでに相続地を得ていたルベン人、ガド人、マナセの半部族に、民の先頭に立って戦いに出ることを命じます。彼らはモーセに従ったようにヨシュアに従うことを約束し、ヨシュアに「ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたと共におられますように」と、そして「ただ強く、雄々しくあってください」と願いました。
【2章】
ヨシュアはヨルダン川の対岸の町、エリコに2人の斥候(スパイ)を送りました。彼らはエリコの町でラハブという名の遊女と出会い、助けられました。ラハブは命の危険を冒して2人を助け、イスラエルがエジプトから出てからの歩みを聞き、イスラエルの神が神であると告白します。そして自分が彼らに真実を尽くしたように自分の父の家に真実を尽くし、いのちを死から救い出してほしいと願い出ます。彼らはラハブに誓い、窓に赤いひもを結ぶように言いました。そして、もしラハブが彼らのことをしゃべればその誓いから解かれることを告げ、エリコの町を後にしました。このようにして、ヨシュアが送った2人の斥候は守られ、ヨシュアに「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました」と報告することができました。
【今日の黙想】
ヨシュアはモーセの後継者として誰が見ても申し分のない人でした。ヨシュア自身、モーセに従い、イスラエルの民をどのように導いていけばよいかもずっと見てきました。とはいえ、荒野の40年間民を導いてきたモーセが去り、いよいよ自分一人の手にイスラエルの歩みがゆだねられたとき、彼は何よりも主の約束の言葉を必要としました。主が直接語られた言葉「強くあれ。雄々しくあれ」、そして、ヨシュアに従いサポートするものとしてルベン人、ガド人、マナセの半部族がヨシュアに語った言葉は、何よりもヨシュアを支えていくものになりました。そして実際に歩み始めたとき、エリコの町で斥候たちが出会ったラハブの出来事も、主がすべてを最善に備えてくださっている証拠としてヨシュアの目に映ったことでしょう。私たちが主の前に一歩を踏み出すときに必要なのは、自信や経験ではなく、主の約束のみことば、そして主が導いてくださるという信仰であることを心に刻みましょう。
【水曜】 ヨシュア記3章~5章
【3章】
ヨシュアはいよいよヨルダン川を渡るために出発します。2人の斥候がヨシュアのもとに戻った翌朝、シティムを出発し、ヨルダン川の川岸まで移動しました。3日経ってからつかさたちが宿営の中をめぐり、どのようにしてヨルダン川を渡るのかを伝えました。それは、契約の箱を担いでいるレビ人たちの後を約2,000キュビト(約900m)の距離を置いて続くというものでした。これは、ヨルダン渡河が、人間的な力ではなく、神の約束が神のみ技によって成就することを意味しています。民は身をきよめることを命じられ、祭司たちは民の先に進み、ヨルダン川の中に立たなければなりませんでした。命じられたとおり祭司たちの足が水際に浸ったとき、川の流れはアダムの町のあたりでせき止められ、すべての民は乾いた地を通って川を渡ることができました。
【4章】
そして、川がせき止められた記念として、選ばれた12部族の各代表によってヨルダン川の真ん中から石が取られ、宿営地に据えられました。それらの石によって、主の御手の強いことを思い出し、恐れるためであり、永久の記念として子どもたちに伝えるためでした。
【5章】
ヨルダン川を渡り終えてギルガルに宿営したイスラエルに、主はもう一度割礼を施すようヨシュアに命じます。なぜなら、荒野で生まれた民は誰も割礼を受けておらず、割礼を受けていてエジプトから出てきた民は彼ら自身の罪のために荒野で死に絶えていたからです。ヨシュアは主が命じられたとおりそれを行い、すべての民が割礼を受けました。そして、カナンの地における最初の過越が祝われ、エリコの草原で過越のいけにえがささげられました。民はこの地の産物を食べ、その翌日からマナの降るのがやみ、出エジプト後の放浪の期間は正式に終わりました。
ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目をあげると、そこには抜き身の剣を持つ一人の人が立っていました。驚いたヨシュアはその人に敵か味方かと尋ねますが、その人は「いや、私は主の軍の将として、今、来たのだ」と答え、ヨシュアの足のはきものを脱ぐように命じました。つまり、これから始まる戦いは主の戦いであり、今、ヨシュアの前に立っているこのお方が、主の軍の将としてヨシュアのもとに来られたのです。ヨシュアは「あなたの足のはきものを脱げ」と命じられ、地上に足を置いている罪に汚れたヨシュアが、神の一方的な宣言により神の領域に属するものとして立たされました。今や、ただ主の命令に従っていくしかない主のしもべとして。
【今日の黙想】
いざ、約束の地に踏み出すとき、彼らに指示された方法は、契約の箱を担ぐ祭司たちのあとに従って、ついていくという方法でした。主が先立って行かれる。まさにそれを具体的に表している光景でした。紅海を渡るときのように追い立てられてではなく、一人ひとりが自分の意思で前進していく。そして主の業は彼らの間で記念となり、子どもたちに語り継がれていく。そして長い間行われていなかった割礼の実施によって、もう一度神との関係が正され、契約が確認される。
私たちが信仰の歩みを進めるとき、そこには色々な状況があります。ときに、主に助けを求め、すがるしかないような状態もあれば、ヨルダン渡河のように前進することが新たな戦いに踏み出すことであることもあります。しかし、どのようなときであっても、主の守りと約束は常に変わらず私たちから離れることはない。このことを私たちも心に刻み、しっかりと主に従って歩んでまいりましょう。
【木曜】 ヨシュア記6章~7章
【6章】
エリコの町は堅固な城壁に囲まれてその門を堅く閉ざしていましたが、主はヨシュアにエリコをあなたの手に渡したといわれました。主が命じる戦いの方法は、7人の祭司たちが7つの雄羊の角笛を持って契約の箱の前を行き、戦士たちすべてが町の周りを7日間回るというものでした。6日間は1度ずつ、7日目には7度町を回り、祭司たちが角笛を長く吹きならしたとき、民はみな大声で鬨の声をあげる。そして町の城壁が崩れたら、おのおのまっすぐ登っていくという方法でした。しかも、鬨の声をあげるときまで、声を聞かせても、口からことばを出してもならず、ただ沈黙を守り、黙々と町の周りを回らなければなりませんでした。
ヨシュアと民は主に命じられたとおり、これを守り行い、7日目を迎え、祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に鬨の声をあげるよう命じ、エリコの町の城壁は崩れ落ちました。そして、ラハブとその家にともにいる者たちをすべて生かし、聖絶のものに手を出さず、主のために聖別された、銀、金、青銅の器、鉄の器は主の宝物倉に持ち込むよう命じました。この日イスラエルは大勝利を収め、異邦人の町で唯一神を信じその信仰を告白したラハブとその家族だけは、2人の斥候との誓いどおり生かされ、イスラエルのなかに住む者とされました。
【7章】
ところが、このエリコの戦いのなかで、ユダ部族カルミの子アカンが聖絶のもののことで不信の罪を犯しました。そのことを知らないヨシュアは、次の戦いのため、ベテルの東、ベテ・アベンの近くのアイに人々を遣わしました。しかし、斥候は判断を誤り、民を全部行かせるのではなく、2,000~3,000人で十分だとヨシュアに報告します。そこでヨシュアは3,000人を送りますが、彼らはアイの人々の前から敗走することになりました。
原因を知らないヨシュアとイスラエルの長老たちは、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、頭にちりをかぶりました。「あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか」と。主はヨシュアに、イスラエルが聖絶のもののことで罪を犯したことを告げられます。そして、くじで取り分け、その者を、所有物と一緒に火で焼くよう命じられました。
翌朝くじによって取り分けられたアカンは、ヨシュアに告白するよう言われて初めて、自分が何をしたかを語ります。アカンの語ったとおりであることを確認した彼らは、アカンの取った聖絶のものを天幕の中から取り出し、それらを主の前に置きました。
そして、ヨシュアは主が命じられたとおり、全イスラエルとともにゼラフの子アカンと、彼の所有物すべてを取ってアコルの谷に行き、彼を石で撃ち殺し、彼らのものを火で焼き、石を投げつけ、石を積み上げました。そこで、主は燃える怒りをやめられました。
【今日の黙想】
約束の地に入って最初の戦いであるエリコ陥落は、私たちにとって非常に印象的です。城壁を崩すために、具体的な対策を講じるのではなく、ただ城壁の周りを7日間行進する。普通なら何も起こり得ない行動が、主の命令によるものであるとき、命令に従い、信じて行うことによって、主の力によって城壁さえも崩れ落とされる。私たちの不可能は、神にとっての不可能ではないことの証拠です。
イスラエルはそのことを実際に体験し、肌で感じましたが、次の戦いで大きな失敗をしてしまいました。背景にアカンの罪があったことはもちろんですが、もし、次の戦いにおいても主に伺い、どのように戦うべきかをたずねていれば、その時点でイスラエルのうちにある聖絶のものに対する罪は明かされていたはずです。これは、イスラエルにとって、ヨシュアにとって、大きな教訓になりました。主の守りによって大勝利を経験したからといって慢心してはならない。常に主の前に謙虚に、御心をたずね求める姿勢を失ってはならない。私たちにとっても、気をつけていかなければならない教訓です。
【金曜】 ヨシュア記8章~9章
【8章】
聖絶のものからきよめられ、主はヨシュアに戦う民全部を連れてアイに攻め上るように言われます。その地をあなたの手に与えたと。そして、主は町の後ろに伏兵を置くよう命じられました。
ヨシュアは戦う民全部とアイに向かう準備をし、3万人の勇士を選び、町の後ろに伏兵として用意しました。まずヨシュアとヨシュアとともにいる者たちが町に近づき、アイの人々をおびき出し、伏兵が町を占領し、火を点けました。伏兵が町を占領したことを見たとき、ヨシュアたちは引き返してアイを打ち、アイの住民をことごとく聖絶しました。ただ主が命じられたとおり、その町の家畜と分捕りものを、自分たちの戦利品として取りました。
そしてヨシュアは、エバル山に一つの祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ、全イスラエルは主からの祝福を受けるためエバル山とゲリジム山の前に立ちました。それからヨシュアは律法の書に記されているとおり、祝福と呪いについての律法の言葉を読み上げました。
【9章】
イスラエルの快進撃を聞いた、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たちは共に集まってイスラエルと戦おうとしていました。
ところが、ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行ったことを聞き、計略を巡らして遠くからやってきたかのように見せるため変装をし、ギルガルの陣営のヨシュアのところに盟約を結びにやってきました。イスラエルの人々は彼らを疑いますが、彼らが告白した内容、また持っていた食料を見て、彼らと盟約を結び、彼らを生かしてやることを、ヨシュアも族長たちも誓ってしまいました。このことについて、主の指示を仰がずに。しかしすぐに彼らの偽りは明らかになりました。イスラエル人は彼らのもとにやってきましたが、誓いのゆえに彼らを打つことはできませんでした。結果的に彼らは彼ら自身の欺きのゆえに呪われ、奴隷となり、神の家のためのたきぎを割る者、水を汲むものとなりました。
【今日の黙想】
再度アイに戦いを挑むヨシュア率いる全イスラエルは、主の指示に従い、命じられたとおりに戦いを進め勝利を収めます。前の戦いの失敗と、今回の勝利によって、彼らは主に従うことの重要さを身にしみて感じたことでしょう。
戦いにおいては同じ失敗をしませんでしたが、ギブオンの住民のことではまた主に伺うことをせず、自分たちの判断で盟約を結んでしまいます。ラハブの告白と救いを考えれば、ギブオンの人たちも、主を信じ、主を恐れていると告白し、ヨシュアの前に降伏していれば、このようにはなっていなかったかもしれません。イスラエルは、主に伺わなかったことで、彼らの偽りを見抜けず、ギブオンは欺きの罪を犯した刈り取りとして呪われることになりました。
しかしここで、一つの大きな神の憐れみを発見します。ギブオンの人たちは奴隷となり、たきぎを割る者、水を汲むものとなりましたが、神の家に仕えるという恵みにあずかっているのです。主のなさることは計り知れません。今日の箇所では、主の憐れみと恵みに目をとめさせられます。主は確かに正しくさばき、報いを与えられる方ですが、しかし常に憐れみと恵みに富み、主の前に歩もうとする者を受け入れてくださるのです。私たちも失敗の多いものですが、主の憐れみと恵みによって生かされ、導かれていることを感謝し歩みましょう。
【土曜】 ヨシュア記10章~11章
【10章】
エルサレムの王アドニ・ツェデクは、ヨシュアがアイを攻め取り聖絶したこと、またギブオンの住民がイスラエルと和を講じたことを聞いて恐れ、周辺の王に使いをやり、共にギブオンを打つことを提案します。エモリ人の5人の王たち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王とその全陣営からの攻撃を受けたギブオンは、ヨシュアに助けを求めます。ヨシュアはすべての戦う民と、すべての勇士たちを率いてギルガルから上って行きました。主はヨシュアに、「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ」と仰せられ、主がイスラエルのために戦われました。そしてほら穴に隠れていた5人のエモリ人の王たちは、ヨシュアのもとに引き出され、打たれて死に5本の木に夕方までかけられました。日の入るころ、ヨシュアは彼らを木から下ろすよう命じ、彼らの隠れたほら穴の中に投げ込み、ほら穴の口に大きな石を置かせました。
その後ヨシュアの快進撃は続き、マケダ、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、デビルと戦い、山地、ネゲブ、低地、傾斜地、そのすべての王たちを打ち、一人も生き残る者がないようにし、息のある者はみな聖絶しました。ヨシュアはまたカデシュ・バルネアからガザまで、およびゴシェンの全土をギブオンに至るまで打ち、これらすべての王たちとその地を一気に攻め取りました。これは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからでした。
【11章】
ハツォルの王ヤビンは、イスラエルの快進撃を聞き、王たちに使いをやり、全陣営を率いて出てきました。彼らは海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった。ところが、主はヨシュアに「彼らを恐れてはならない」とおっしゃり、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼くように命じられました。ヨシュアは戦う民を皆率いて急襲し、主が命じられたとおりにして、一人も生き残る者がないまでに彼らを打ち、引き返してハツォルを攻め取り、王を剣で撃ち殺し、王たちのすべての町々、そのすべての王たちを撃ち殺し、聖絶しました。
主がモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行い、主がモーセに命じたすべての言葉を一言も取り除かずに行いました。ヨシュアはこれらのすべての王たちと長い間戦い、その地をことごとく取り、戦争はやみました。
【今日の黙想】
今日の箇所では、10章、11章とそれぞれ1人の王がイスラエルの快進撃を聞き、周辺の王たちとともにイスラエルに対抗して戦いを挑んだ記事が描かれています。彼らはイスラエルを恐れましたが、神を恐れてはいませんでした。その証拠に、味方を増やし、自分たちの力を増やせばイスラエルに勝利できると考えたのです。
何人の王が、また国が一つになったって、神に勝てるはずがありません。また逆に、どんなに敵が多くても、神に従うならば、主が勝利を与えてくださるということを、ヨシュア率いるイスラエルの連勝の記述を見て、私たちは学ぶことができます。
私たちの敵・・・罪、誘惑、この世の汚れ。私たちは自分を見つめるとき、敵の多さに、また敵の力強さに圧倒されてしまいがちですが、勝利は主が与えてくださるのです。勝利は私たちの力によってもたらされるのではなく、私たちが主に従うときに、主が勝利を取られるということを胸にしっかり刻み、勝利の人生を歩み続けましょう。
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