旧約 第12週
申命記13章~31章

イムマヌエル綜合伝道団 函館キリスト教会 牧師
宮崎 聖輝

2009年10月31日 初版

【日曜】 申命記13章~15章

 13章は3つの部分から成り立っています。
 (1) 預言者、夢見る者の試み  (2) 親族、親友の試み  (3) よこしまな者たちの試み
 そして、これらの試みのなかにあっても、十戒の第1の戒め、「わたしの他に、他の神々があってはならない」を守り抜いていくように勧められています。たとえ親族であっても、主への忠誠が妨げられたなら、戦わなければならない。かつてキリストは弟子たちに「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、その上、自分の命までも憎まない者は、私の弟子となることはできません」と語りました。
 キリスト者に厳しい決断が迫られたとき、主の弟子であり続けることができるように、主ご自身に「その力を与えてください」と祈るお互いでありたいと思います。

 14章には、聖書の中心的なテーマである「神の恵みと選び」が示されています。
 2節に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」とあります。
 イスラエルの民は、何か自分たちの功績によって聖なる民とされたのではなく、ただ一方的な神様の恵みと選びによって聖なる民とされました。同様に、人は何かをなしたから救われるのではなく、ただ一方的なキリストの贖いと恵みによって救われるのです。クリスチャンは、主が選んで「宝の民」としてくださったこの事実に目を留めるお互いでありたいと思います。

 15章には、特に同胞に対する負債の免除、同胞の奴隷に対する解放が強調されています。
 10節に「必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない」とあります。
 聖書は私たちに「分かち合うこと」を教えています。特に「神の家族」に対して配慮を示しなさい、と語ります。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛が留まっているでしょう」(第一ヨハネ3章17節)と語られているとおりです。
 兄弟と分かち合うとき、キリストが現臨してくださいます。今日、キリストが私たちに命を分け与えてくださったように、私たちも、与えられた祝福を、喜んで惜しみなく、周りの親族、友人、同僚たちと分かち合う者でありたいと思います。

【月曜】 申命記16章~18章

 まず16章3節に目を留めましょう。
 「種を入れないパン、悩みのパンを食べなければならない」
 今でもユダヤ人は過越しの祭りを祝います。イースト菌(ハメツ)の入らないマッツァーというパンを食し、エジプトの苦役から解放されたことを覚えます。
 キリストは、十字架に向かう直前の晩餐で、このマッツァーを裂いて弟子たちにこう言いました。「取りなさい。これはわたしのからだです」(マルコ14章22節) これから向かう十字架を念頭におき、自らを種なしパンと重ね合わせ、罪なき者として贖いを完成し、全人類に自らの命を分け与えることを暗示なさいました。
 すでにキリストはこの贖いを完了しておられます。あとはこのパンを食するだけです。今日、この招きに信仰をもって応答する方はおられますでしょうか。

 次に17章に目を留めてみましょう。
 16節と17節には、王としてたてられた者が警戒しなくてはならない点が3つあげられています。馬(権力)と、多くの妻(女性)と、金銀(お金)です。
 これを読むときにソロモンのことが思い浮かびます。彼は非常に卓越した指導力と知恵をもって国を治め、成功をおさめた人物でした。しかし上記の3点において いずれも失敗をし、国に霊的腐敗をもたらします。もし彼がこの申命記の教えを手元に置き、繰り返し読み続けたなら、もっと結果は違ったかもしれません。
  私たちはそうであってはなりません。主の言葉を常に手元に置き、これに留まり続けるお互いでありたいと思います。

 最後に18章の15節に目を留めてみましょう。
 「私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」
 預言者の原型はモーセで、その究極はキリストだと言われます(参照:使徒3章22節、ヘブル1章1~2節)。預言者というのは、ときに厳しいことを語ります。自分が好むと好まざるとに関わらず、神様の言葉を伝えるためにです。
 この時代、この世俗のただなかに生きる私たちに、現臨のキリストは真の預言者として今日も語ってくださいます。その御声に真剣に向き合う覚悟が、私たちにあるでしょうか。

【火曜】 申命記19章~21章

 この19章には非常に特徴のある規定が語られています。「逃れの町」の規定です。3節には「殺人者はだれでも、そこにのがれることができる」と語られています。
 おそらく今まで、多くの人たちが誤解を持ってこの規定をとらえてきたのではないでしょうか。「逃れの町」をあたかも、どんな悪人でも受け入れてしまうなのような無法地帯としてとらえてきたのではないかと思います。しかし実際にはそうではありませんでした。この逃れの町に逃れることができる人というのは、まったくの不可抗力的な事故によって人を殺めてしまった者、そしてそういった者が、神の赦しと憐れみを受ける場所として備えられた町、それが逃れの町だったのです。

 この規定を思いめぐらすとき、多くのことを教えられます。私たちはたとえ故意でなかったにせよ、どれだけ多くの人を傷つけてしまうことでしょうか。そして犯してしまったその過ちは、傷ついた者だけでなく、傷つけた者の内にも残っていくことでしょう。キリストは、姦淫の現場で捕えられた女に向かってこう宣言されました。「あなたを罪に定めない」(ヨハネ8章11節)
 新約においては、まさにキリストご自身がこの女性の「逃れの町」になったと思うのです。私たちには、キリストがついている。キリストご自身に駆け込むとき、赦しと癒しと解放を経験するのです。

【水曜】 申命記22章~24章

 22章には様々な細かい規定が述べられています。たとえば、1~4節には同族のなくしたものをそのまま放っておいてはならないという規定。5節には性の混乱に対する規定。6~7節には動物に対してもいたわりの思いを持つことが勧められ、8節には建物に関する規定。9~11節には2つのものを混同させてはならないという規定。そして13節以降には性の純潔を保つようにという規定が書かれています。
 特にこの性の純潔に関しては厳しい態度で臨んでおり、例えば21節にあるように、「石で彼女をうたなければならない」「あなた方のうちから悪を取り除きなさい」と続いています。

 こういったところを読みますと、「ずいぶん旧約聖書は厳しいな」という印象を私たちに抱かせるのではないでしょうか。
 けれど、新約に入っても、この性に対する厳しさは貫かれていて、特にクリスチャン間の性の純潔さということに対して、パウロは厳しい口調で語っています。たとえば、コリント書第一5章7節では「古いパン種を取り除きなさい」とあり、特に教会内において性の不純を持ち込む者とは交わりを持ってはならない、とまで語っています。
 聖書が私たちにはっきりと語っているのは、悪い実と良い実とを同時に結ぶことはできないというメッセージです。あなた自分自身のうちに悪い実と良い実とを同時に結実させることはできない、そういった厳粛な事実を聖書は語っており、私たちはそのことを受けとめる必要があると思います。

 現代は、性の混乱した危機的な状況です。このなかで私たちには、どのように生きることが求められているのでしょうか。私たちの体は神の愛と恵みとによってあがなわれました。キリストが命をなげうって買い取ってくださったのです。私たちの体は聖霊の宮であると語られています。自分自身の体をもって神の栄光を表すお互いであらせていただきましょう。

【木曜】 申命記25章~27章

 25章4節に「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない」とあります。
 脱穀の作業というのは、なかなかの重労働です。重い石臼を引いてえんえんと回るわけですから疲れます。たとえ引く力の強い動物であっても同様です。喉が渇いたり、おなかがすくことでしょう。脱穀でこぼれた麦を食べたくなるのも分かります。しかし当時の社会では、そのこぼれた麦でさえ牛に与えず、作業中に牛が麦を食べないようにと、その口にくつわをかけ、こぼれた麦を食べることができないようにして牛を酷使する人たちが、少なからずいました。
 この箇所はそうした背景から、たとえ家畜であったとしても、そういった冷酷な扱い方をしてはならない。たとえ人格を持たない牛であっても、その牛が一生懸命、汗だくで働いてくれるからこそ自分たちは助けられているではないか。だからせめて落ちた小麦ぐらいは牛に食べさせてあげようじゃないか。くつわをといてあげなさい。そういった規定がここで述べられているのです。そして、家畜でさえこのように配慮しているのだから、ましてや当時の奴隷あるいは召使いには、さらなる配慮が主人に求められました。

 2008年にアメリカで起こった世界大恐慌。日本経済もこの影響をもろに受け、深刻な打撃を受けました。そして一番の犠牲になったのは、派遣労働者、あるいは日雇いの労働者でしょう。多くの人たちが泊まる家もなく年を越したことをニュースで聞いています。
 使えるだけ使って、いらなくなったら後は捨てる。こうした、人をまるで物としか見ていない、こうした歪んだ考えがこの社会の構造の根底に横たわっているように思います。まさに、「脱穀している牛にくつこをかける」ような扱いで人を扱い、物として扱い、そしていらなくなったら、倒れたら、そのまま放り出す。そんな冷たい社会が、今のこの国の現実ではないでしょうか。
 聖書は、古い昔の書で、なんの得るところもない。そんな書物と思ったら大間違いです。そうではなく、逆に、こうした冷たい時代だからこそ、私たちは聖書の語る声に耳を傾けるのです。聖書の説く友愛の精神に学ぶ必要があります。

【金曜】 申命記28章

 28章の構造は非常に単純で、2つにまとめられます。
 【1~14節】 主の御声に聞き従い、主の命令を守り行う者に与えられる祝福の詳細。
 【15~68節】 主の御声に聞き従わず、主の命令を守り行わない者に臨む呪いの詳細。
 そして2つを比較すると、呪いの記述の方が祝福の記述より、圧倒的に長いものになっています。

 神様は憐れみ深く、情け深く、忍耐と同情とに満ち、ご自身の民に祝福を注ぎなさろうとする愛のお方だけれども、同時に聖書は、神様は義なるお方で、ご自身とその言葉に背いて、悪を行う者たちには、たとえご自身の民であろうともそのままにしておくことはできない、必ずそれに報いと正義を行われる厳しいご性質を持ったお方だということが、この章から伝わってくるひとつのメッセージではないでしょうか。
 また具体的に呪いの詳細なリストをたどっていくとき、この呪いの記述は、律法の規定であると同時に預言的性質を含んだ記述であることに気づきます。旧約に示されているイスラエルの民の歴史がすでにこの章で預言されていて、実際に彼らはこの章に示されているような災いを経験したことが、ほかの歴史書を見るとわかります。預言が成就してしまったことに気づくのです。

 主の御声に聞き従うかそうでないかの選択の結果がどれほどの違いを生むのか、そのことを厳粛な思いをもって受けとめましょう。
 神様の言葉は、それほど私たちの人生を大きく変えるほどの力と権限を持っていることを覚えましょう。そして主の前にへりくだって、「主よ、今日もあなたの御声に聞き従います。どうか私にその御声に聞き従うことができるように、御霊が私のうちに働いて、力をお与えください。御言葉に生きる力を、主よ、私のうちに注いでください」そう祈るお互いでありたいと思います。

【土曜】 申命記29章~31章

 29章4節に「主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった」とあります。イスラエルの民はあれほどの奇跡と神様の圧倒的な力を体験しながらも、なお霊的な目がふさがれていたという事実には驚きを覚えます。人間の霊的事柄に対する鈍感さと、また神様の恵みをすぐに忘れてしまう浅はかさを覚えます。
 詩篇103篇に「主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな」と歌われていますが、私たちも主のなしてくださった恵みの数々を心にとめて、感謝するお互いでありたいと思います。

 またこの節は、人に霊的な事柄を悟らせるのは、人の知恵ではなく、神ご自身の働きであることを伝えています。人が新しく生まれ変わり、霊的な事柄に植え渇きを覚えるのは、完全な御霊の働きです。
 まだ救いを受けていない家族・友人のため、続けて祈るお互いでありたいと思います。主が働いてくださるように切に祈り求めましょう。人知を遙かに超えた神ご自身の御手が、その魂に触れ、働いてくださいますように。その魂に、神を悟る心と、見る目と、聞く耳を与えてくださいますように祈るお互いでありたいと思います。