旧約 第11週
申命記1章~12章

日本同盟基督教団 伊達福音教会 牧師
三浦 称

2009年10月31日 初版

【日曜】 申命記1章

 申命記はモーセ五書の5番目にあり、これまでモーセが民に伝えてきた律法が要約されています。「申命」とは「重ねて命じる」という意味です。

【1~8節】

 モーセは4章終りまで、出エジプトから40年間の旅路で経験した神の導きと、イスラエルの罪を回顧しています。ホレブで律法を聞き、神政国家としての体制を整えて、カナンに入る準備をしたイスラエルは、約1年後、向きを変えてホレブを出発し(7節)、カデシュ・バルネア(カデシュ)を経由してカナンに入る予定でした(6~8節)。
 ホレブからカデシュまで11日の道のり(2節)。しかしその間、イスラエルはたびたび神に不平をつぶやき、カデシュで決定的な罪を犯しました。その結果、すぐにカナンに入ることは許されず、38年間荒野を放浪することになりました。
 出エジプトを経験し、ホレブで律法を聞いた世代は荒野で死に、新しい世代がイスラエルの中心になっています。荒野を出発した次世代イスラエルは、ヨルダン川東側から北上し、エモリ人の王シホンとバシャンの王オグに勝利し(4節)、ついにカナンの地を見渡せる「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原」(民数36章13節)に到着します。
 出エジプトから数えて第40年の第11月の1日(3節)、晩年を迎えたモーセは、これからカナンに入る次世代イスラエルに、神の律法を重ねて命じ、契約を再確認させます。

【9~18節】

 ここでモーセは、出エジプト18章の出来事を挿入し、次世代イスラエルに、リーダーの役割を民全体に再確認させ、隊の規律・秩序を正すことを意図したのでしょう。しかし人間中心の組織化ではなく、あくまでも「さばきは神のもの」であることを明確にし、カナンに入る前に、神を中心とした内部統制を整える必要があったのでしょう。それは約束の地を手に入れるために、これから数々の戦いと様々な誘惑が次世代イスラエルに待ち構えていることを暗示しているようです。

【19~46節】

 カデシュに着いたモーセらは、カナンに偵察隊を送りますが、彼らは、カナンの地について神の恵みを伝えるよりも、探った地を悪く言いふらし、「アナク人」のことで民の恐怖心を煽り、意気をくじきました。カレブやヨシュアは「恐れてはならない、主に背いてはならない」と民を説得しましたが、聞きませんでした。この罪の結果、神は、ご自分のことばに従うことを学ばせるため、イスラエルを38年間、荒野で放浪させ、神につぶやいた20歳以上の者はそこで倒れ、カレブとヨシュア、そして子どもたちだけが生き残ることを告げられました(民数13~14章)。民は「自分たちは罪を犯した」と言って、今度はモーセの制止を聞かずに上っていき、エモリ人に返り討ちにされました。イスラエルの心を支配していたのは、神のことばではなく、恐れです。恐れが行動の動機になっています。モーセはこれからカナンに入る民に「神を第一とし、神のみことばに従っていくように」教えていきます。

【月曜】 申命記2章~3章

【2章】

 長らく(38年間)セイル山(荒野)を放浪したイスラエルは、カナンに向かいます(3節)。しかし彼らは南側からカナンに入ることは断念し、ヨルダン川東側から、エドム、モアブ、ヘシュボン、バシャンを貫く「王の道」(民数20章17節)と呼ばれる大路を北上し、カナンを目指そうとしました。
 「同族の領土内」(4節)はエドムのことで、セイル山はエドム領内にあります。神は、ヤコブの兄エサウとその子孫にエドムを与えるために、先住民「ホリ人」を追い出し、彼らの所有地としたのだから、彼らと争ってはならない、と命じました(5節)。
 イスラエルはエドムを迂回してモアブに向かいますが、次のモアブとアモンは、アブラハムの甥ロトの子孫に相続地として与えているので、戦いをしかけてはならない、と命じられました(9・19節)。これらの国には「レファイム」と呼ばれ、強大な民であって数も多く、イスラエルが恐れるアナク人のように背の高い民が住んでいました(21節)。モアブ人は彼らを「エミム人」と呼び(11節)、アモン人は「ザムズミム人」と呼びました(20節)。
 エサウやロトの子孫のためにさえ、神はホリ人やレファイムを追い出し、その地を彼らの所有としたのです(12・21節)。神は、エサウとロトの相続地を行き巡らせることで、イスラエルに約束の地を渡すという保証を見せたのでしょう。そしてついに神は「ヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ」(24節)と命じられ、イスラエルは、シホンに勝利し、南はアルノン川から北はギルアデに至るまでを勝ち取りました。

【3章】

 さらにイスラエルが北上すると、バシャンの王オグとその民がイスラエルを迎え討つために出てきたので、イスラエルは彼らを一人残らず聖絶し、バシャンの地を占領しました。神は、アルノン川からギルアデ山地の半分までの町々をルベン人とガド人に与え(12節)、ギルアデの残りとバシャンの全土はマナセの半部族に与えました。オグはレファイムの生き残りと言われ(11節)、バシャンの全土はレファイムの国と呼ばれています(13節)。イスラエルは今まで恐れてきたレファイムについに勝利することができたのです。
 エドムやモアブを迂回させられたことは遠回りでした。しかし、近道することがすべてではありません。神の約束を信じるには時間がかかることもあります。イスラエルは遠回りして、神が約束の地を与えてくださる保証を見させられたからこそ、レファイムに立ち向かう勇気が与えられ、勝利しました。
 私たちはしばしば恐れから逃げだしたくなることがありますが、逃げるよりも、時間をかけてでも神の約束を信じて、信仰で立ち向かい、乗り越えることによって、初めて前に進むことができるのです。

【火曜】 申命記4章

 これまでモーセは、出エジプト以降の40年を回想し、「かつての世代」が犯した罪に言及してきましたが、この章では「新しい世代」の罪に言及しています。それが「バアル・ペオル」の事件です。
 バアル・ペオルは、モアブの人々が慕っていた偶像です。イスラエルは、シティムに着くと、モアブの女たちと不品行を行い、彼女たちの神々を慕って偶像礼拝の罪を犯しました。その結果24,000人もの民が打たれて死にました(民数25章1~9節)。
 シティムは「アベル・ハシティム」という町の省略した呼び名で、モアブの草原にあります(民数33章49節)。つまり次世代イスラエルは、カナンに入る直前に、この罪を犯しました。イスラエルの罪は「かつて」の問題ではなく「今」の自分たちの問題であり、他人事ではなく切迫感をもって教えを受けとめるように、とモーセは迫ります。特に異邦の民と関係を持つことを禁じ、繰り返し偶像を警戒し、徹底的に排除するよう命じます。

 カナンの地にはバアル教など、土着の宗教がありました。モーセはバアル・ペオルの件で、民がすぐに神から離れて偶像を造ってしまう弱い存在であることをつくづく知りました。真の神を恐れず、神を神としないところから、堕落が始まっていきます。そのためモーセは繰り返し「用心深くありなさい」「十分気をつけなさい」とイスラエルの民に偶像を警戒するよう命じます。そして、モーセ自身は民とともにヨルダン川を渡っていくことはできないので、神の教えと契約を決して忘れないように伝え、これらのことをきちんと子孫にも伝えるように命じます。もし、あなたがたの子孫がその地に永住し、堕落し、偶像を造るなら、彼らはその地から追い出される(25~31節)とあります。このことばが後のバビロン捕囚で現実のこととなります。

 神の民が偶像の地を所有して生きていくために大切なことは、これから所有しようとしている地の真ん中で、堂々と神の教えに従って生きることです。そうすれば、その地を所有することができ、さらに「国々の民にあなたがたの知恵と悟りを示すこと」になります。天地万物を創造された神のみことばによる、知恵と悟りは、この世のものとは違います。世にはない、世の人々が驚くほどのものなのです。
 私たちが導かれた場所が、偶像の所有地となるか、神の民の所有地となるかは、私たち神の民が導かれた場所(国・職場・家庭・学校)の真ん中で神のことばに聞き従って生きるかどうかにかかっています。世の教え、世の価値観は変わっていきます。一方、神のことばは永遠に変わらず今に至ります。ある人は「聖書の教えは、今の時代に合わない」と言います。しかし、混迷する時代ほど、永遠に変わらない神のことばにしっかり立って、真実に生きる者は、輝いていくはずです。

【水曜】 申命記5章~6章

【5章1~5節】

 モーセは民を呼び集めて言います。神がホレブでイスラエルと結んだ契約は、先祖たちとではなく、今生きている一人ひとりと結んだ契約である、と。ですから、一人ひとりが契約を守る責任を果たすよう、主体的に神のことばを学び、主に従っていくように勧め、信仰の自立を促します。

【5章6~33節】

 モーセは、40年経って再び、ホレブで神から語られた十戒を、次世代イスラエルに教えます(6~21節)。このときのモーセは、ホレブで民に語ったときと違い、40年の旅路をとおして、十戒(または律法全体)を守ることがいかに大切であるかを実体験していました。
 かつてモーセが民に十戒を語ったとき、イスラエルの民は「私たちは聞いて、行います」と応答し、神は「民がいつまでもそのような心を持ち続け、民も、子孫も、永久に幸せになるように」と民の信仰を喜ばれました(参照:27・29節)。モーセはこのときのイスラエルのように、次世代にも神のことばに純粋に応答することを求めています。神は幼子のような信仰を求めておられます。

【6章】

 モーセはイスラエルの民に、これから「乳と蜜の流れる国」に入ることを伝えています(3節)。カナンの地は実り豊かな地で、イスラエルは何も労せずとも、神の恵みによって満たされることが約束されています(10・11節)。しかし、「食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」(12節)と警告します。
 人は満ち足りないと神に不満をつぶやき、満足して安住してしまうと、高慢になり、主を忘れ、主を恐れなくなります。まさに「うなじのこわい民」です。

 そのような豊かな地に入って、忘恩の罪を犯さないために、次のことが命じられています。

  1. エジプトの奴隷からイスラエルを救い導かれた主(יְהוָה)こそ、唯一の神であることを知ること
  2. 心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、主(יְהוָה)を愛すること

 神を愛するとは、具体的には「神の命令を守ること」(第一ヨハネ5章3節)ですから、主を試みず(16節)、信頼して従っていくことなのです(17節)。
 そのために、絶えずみことばを心に刻みつけ、家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも唱え、手に結びつけ、記章として額の上に置き、家の門柱と門に書き記し(6~9節)、神のことばを生活の中心に掲げ、肌身離さず握りしめて、忘れないようにと命じています。
 そして、神に従う恵みと神に背いて罪を犯すことのむなしさを、その目で見て、経験してきた大人たちが、子どもたちに、神の教えや礼拝儀式の意味をきちんと教え守らせるよう、命じられています(20~25節)。それは、実り豊かな地で、家族が偶像礼拝から守られるために大切なことなのです。
 神のことばは、イスラエルという家族のなかで守り行うように命じられています。神の教えは、家庭のなかでこそまず実践すべき教えなのです。

【木曜】 申命記7章~8章

【7章】

 モーセは、民に、カナン人を聖絶し、彼らと契約を結んだり(2節)、縁を結んではならないと命じます(3節)。それは彼らがバアルなど偶像の神々を拝んでいたからです。彼らとの接触によって偶像がイスラエルに入り込むことを防ぐための教えです。
 偶像は気づかないうちに人の心に入り込んで、罪の実を結びます。そのような罪の温床となる偶像を、徹底的に取り除くよう命じられています。また、偶像に関するものを家に持ち込んで、あなた自身も聖絶の対象にならないようにと警告しています。出エジプトで神の力を見、ホレブで律法を聞き、荒野を生き抜いた世代に比べて、乳と蜜の流れる豊かな地で生まれ育つ子孫たちは、特に偶像の誘惑に弱くなるおそれがあったからです。
 偶像礼拝を放置すると、個人に留まらず、家庭や教会などの共同体にも入り込み、必ず罪の実を結ぶことになります。自分のなかに、また家庭や教会のなかに、神の愛から引き離すもの(偶像、不品行、偽り、怒り、嫉妬、プライド、高慢、陰口、中傷など)があるならば、悔い改め、主の御名によって「取り去ってください」と祈りましょう。

【8章】

 出エジプト以来、イスラエルが経験した40年間の試練、全行程を忘れてはならないと命じます。神が40年間イスラエル共同体を試みられたのは、3つの理由からです。

  1. 一人ひとりの心のうちにあるものを知るため(2節)
  2. 試みのなかでも神の命令を守るかどうかを知るため(2節)
  3. ついには幸せにするため(16)

 教会が試練に遭うときも、この3つの点を神に試されます。

  1. 教会は、試練によって、教会員一人ひとりの心のうちにある本性を明らかにされます。
    隠されていた、教会を混乱させ、成長を妨げている要因や、私たちを不幸にしている要因などが明るみに出されます。
  2. 教会は、試練をとおして、神のみことばに依り頼むものにされます。
    本性が明らかにされた者は、主の前に悔い改め、神のみことばを求める者へと変えられていきます。試練は、私たちがみことばに生きていくための訓練ですから、試練のときほど、みことばにしがみついて従っていくことが大切です。
  3. 教会は、試練を乗り越えることによって、幸せになります。
    みことばの約束を信じて試練を乗り越えるとき、そこには必ず祝福が待っているのです。試練は苦しみで終わるものでなく、私たちをついには幸せに導くものであることを知るとき、無意味と思える出来事が意味のあるものに変えられます。

 私たちは、試練のときには神に不平不満を言い、試練を乗り越え満足すると、神を忘れ、自分に栄光を帰すようになります。高ぶって主を忘れないよう、主を心にしっかり据え、満ち足りたときにこそ主をほめたたえましょう。感謝と喜びをもって神をたたえる賛美は、私たちを高ぶりから守り、神に栄光を帰すのです。

【金曜】 申命記9章~10章

【9章1~6節】

 イスラエルの力でアナク人を倒し、カナンを占領することは不可能にもかかわらず、主が彼らの前を進み、この地を与えると言われます。それは、イスラエルが神の御前に正しいからではなく、ただ神が「義」であり「約束を必ず守られる」ゆえに成し遂げられるのです。イスラエルはむしろ「うなじのこわい民である」(6・7節)ことを忘れてはならないのです。「己を知れ」ということです。

【9章7節~10章11節】

 モーセは、イスラエルが40年の間に犯した数々の罪の象徴として、ホレブで子牛の偶像を作った事件を取り上げます(12節)。神はこのときイスラエルを滅ぼし、モーセを祝福すると約束されましたが、モーセは自分の繁栄よりも民の救いを願い、神にとりなしました(25~29節)。モーセは民の前で石板を打ち砕き、主の前にひれ伏したので、主はイスラエルをあわれみ、再び十戒を刻んだ2枚の石板を与えました。イスラエルの罪ゆえに破壊された恵みの契約を、あわれみ深い神はご自身の手で回復させてくださったのです。

【10章12~22節】

 モーセは民に、神について教え、全身全霊をもって神を愛し、16節では「心の包皮を切り捨てなさい」と、見せかけの割礼ではなく、心から主に献身するように招きます。
 神は、恐れかしこむべきお方ですが、恐怖の神ではありません。神は愛に満ちた方で、外見や能力によって人を偏って差別することがありません。「わいろ」は当時日常的に行われていましたが、神は自分の利益や損得勘定で物事を判断されず、愛・義・聖に基づいて決断し、行動されます。
 「在留異国人」は、異邦人で真の神を信じるようになった人々で、「みなしご」や「やもめ」と同じく社会的に弱い立場にありました。神は、ご自身が彼らを愛するように、イスラエルも彼らを愛するようにと命じます。イスラエルもかつて在留異国人の虐げを経験しているのだから、と言われます。
 これは、これからカナンに入るイスラエルへの警告です。人は豊かになると、自分のことだけを考え、愛がなくなります。自分が一体何者であるかを忘れて傲慢になり、人を外見や能力で偏って見たり、わいろなど自分の利益を要求するようになり、貧しい者や社会的地位の低い者に目が行き届かなくなります。しかし、神はそのようなお方ではありませんし、また私たちにもそうあってはならない、と命じています。

 神は、うなじのこわい私たちをもあわれみ、キリストによって罪の奴隷から救い出され、神の所有の民としてくださったのです。それゆえ私たちは、不平不満をつぶやくよりも、まず神に感謝し、主を賛美しましょう。また、自分の繁栄ばかり求めるのではなく、モーセのように人のためにとりなす祈りをささげる者でありたいと思います。今日、あなたが執りなすべき人は誰ですか。

【土曜】 申命記11章~12章

【11章1~9節】

 モーセは、出エジプトの出来事を体験し、荒野での38年を経て生き残り、ダタンとアビラムの出来事(民数16章)を目撃してきたヨシュアの世代に向けて、「あなたがたは神の力と、罪に対する徹底的なさばきをその目で見てきたのだから、神を恐れ、神のすべての命令を守りなさい」と言います。
 人生は、神のことばが真実であることを目撃する旅路です。

【11章10~17節】

 エジプトは、ほとんど雨が降らないので、自分たちの足で水車を回して水を野菜畑に送らなければなりません。しかしカナンは「主が、絶えずその上に目を留めておられる地」(12節)で、神が雨を降らせ、神の恵みによって収穫をもたらすことが保証されています。「先の雨」は10月から11月に降る秋の雨で、この時期に農耕を開始し、種を蒔きます。「後の雨」は3月から4月に降る春の雨で、この時期に家畜の餌となる草が茂り、作物は豊かに実を結びます。
 ただし、食べて満ち足りるとき、神を忘れて偶像礼拝に走らないよう、みことばをしっかり心に刻み、肌身離さず握りしめるように徹底的に次世代に伝えます。また子孫にも教え、生活の場所でみことばに生きるよう命じています(18~20節)。

【12章】

 イスラエルが新しい地に入って、まずなすべきことは「礼拝」です。そのために場所の確保が重要です。そこで最初に、徹底的な偶像の排除が命じられています。異教の民は、好き勝手な場所で偶像礼拝をしていましたが、「主に対して、このようにしてはならない」(4節)、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう」(30節)と言わないように命じています。
 40年間、会見の天幕は常に民とともに移動し、宿営の中心にありました。しかし、カナンに定住すれば、民は広い地域に点在して住むことになります。するとある人はその生活に安住して「礼拝に行くのはやめようか」という思いを抱くかもしれません。ですから、カナンに入ってからは、自分の意思をもって礼拝場に向かうことが問われます。真の神に対する礼拝の姿勢がいい加減になるところから、偶像礼拝は始まります。だからこそ、主が定める場所に、自ら喜びとともにささげものを携えてゆき、礼拝をするよう求められています。
 「家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、・・・喜び楽しみなさい」(7節)と言われます。礼拝の中心は「喜び」です。家族とともに主の御前に進み出て、喜びを分かち合うことが求められています。カナン定住以降、イスラエルは分散し、家族単位の生活になります。偶像が家庭に侵入するのを防ぐには、家族でともに神を礼拝することです。
 偶像社会に生きる私たちは、何をするにも、まず神を礼拝し、常に神との関係を正す必要があります。神との関係が崩れるとすぐに、この世の価値観に流されてしまいます。私たちは礼拝をとおして、神の所有の民であることを確認し、神の価値観に立って、偶像社会に立ち向かっていけるのです。