旧約 第9週
民数記7章~21章

日本長老教会 池戸キリスト教会 伝道師
桑原 淑行

2009年10月31日 初版

【日曜】 民数記7章

 「しかしケハテ族には何も与えなかった」(9節)

 7章では、イスラエルの族長たちがささげた、ささげものについての記述が詳細に述べられております。特に12節から83節にかけて、12部族のささげものは、部族ごとに、全く同じ品目、同じ分量のものが繰り返し羅列されています。部族の名前と族長の名前が異なるだけ。多くの読者は、おそらく途中を読み飛ばしてしまうのではないでしょうか。しかし、聖書は、全編が神様の御言葉である、との理解にたつとき、冗長にみえる事柄の反復のなかに、神様のメッセージがなにか必ずあるはず、と考えて接していくことが、とても大切です。

 9節に、「ケハテ族には何も与えなかった」とあります。祭司として働くレビ族のうち、ゲルション族には車2両と雄牛4頭が、メラリ族にはその倍の車4両と雄牛8頭が、天幕の奉仕に使うために族長たちからささげられたものから、分け与えられたのです。けれども、ケハテ族には、何も与えられなかった。では、ケハテ族は、運ぶべき物の分担はなかったのかというと、もちろんあったのです。彼らの任務は、契約の箱とその周辺の聖なる用具類を担当することでした(3章31節)。幕屋の幕、柱、板などは、ゲルション族とメラリ族の担当でした。同じように、運搬をする、という任務を担当しながら、ケハテ族には、載せて運ぶ車はなかったのです。

 このことは、不公平な配分なのだと考えるべきではありません。なぜなら、運ばれるもののうち、ケハテ族が担当するものは、実に契約の箱であるからです。主なる神のご臨在の象徴である、契約の箱なのです。ゲルション族とメラリ族は、運ぶべき物が決められたとき、ケハテ族をうらやんだに相違ありません。あの契約の箱を担当したい! だが、契約の箱は、神聖でした。車などで運ぶべきものではありません。人の力で、人の体で運ぶべき物なのです。

 信仰とは、主なる神と人との直接のかかわりのなかで、はぐくまれるべきものです。何か、簡便な方法で、楽をして、神様を知ることはできないのです。全力をつくして、神様に接していく、その結果、神様の御声を聞くことができるでしょう。あの人には、あんな賜物がある、この人には云々、などと思うことは不適切です。神様は、私たちに、私たち自身という、最上の賜物を用意していてくださったのですから。

【月曜】 民数記8章~10章

 「契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。『主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。』 またそれがとどまるときに、彼は言っていた。『主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。』」(10章35~36節)

 8章は、主として、レビ人の聖別と会見の天幕における奉仕についての規定が記されています。
 9章は、第2年目の過越の祭りが祝われるべきことが記され、同時に周到にも、死体によって身を汚したり、旅路にあったりして、この過越に参加できなかった人に対する1か月後の過越の祭りの祝い方が述べられます。

 10章は、シナイ山からカデシュに出発するイスラエルに、行進の隊列の組み方や、ラッパの吹き分け方が、指示されています。隊列の先頭には、ケハテ族のかつぐ契約の箱がありました。神の契約の箱が先頭をすすむ! まさにこの進軍が、神の戦いであることを誰の目にも明らかに示しているのです。
 私たちの地上における信仰生活も、常に主の導きによって、主の戦いとして、繰り広げられるべきなのです。ともすれば、私たち自身による、私たちのための戦いが優先してしまうのではないでしょうか。そのようであってはならない、と御言葉は示しています。私たちが自身の思惑によって、慮りによって行動するときは、そのことから、多くの過ちや、的外れ的な事柄を引き起こしてしまいます。
 常に主の御心をはかるために、祈ってから行動をおこしましょう。そうするときに、主は、必ず、昼は雲の柱、夜は火の柱となって、私たちに伴ってくださるのです。

 契約の箱が出発するときに、モーセは「主よ、立ち上がってください」と祈りました。そして行軍がとまるときに「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに」と歌いました。
 ここに、主とともにある信仰者の麗しく恵まれた生活をしのぶのです。いや、そうではなく、主がともにいてくださる信仰者の祈りを垣間見ることができるのです。主がともにいてくださる! 私たちが求めずとも、主の御目は、私たちの上に、常に暖かく注がれています。
 「主よ、お帰りください。私たちのもとに」
 今夜も、モーセの祈りを心のうちに篤く共感して、天の父の大いなる御恵みのうちに、夢路をたどりましょう。

【火曜】 民数記11章~13章

 「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる」(11章23節)

 11章では、マナという天与の食物に飽いてしまったイスラエルの民が不平をモーセにぶつける、という場面が出てきます。彼らの「エジプトの方がよかった」という実に単純なそして肉的な望みに対して、主はウズラを降らせてくださいました。
 12章では、民に続いて、大祭司であるアロンと女預言者であるミリヤムが、モーセに対して不平をぶつける、という場面になります。民からも、そしてもっとも信頼できるはずの兄弟からも、文句を言われるモーセが、彼自身の不平を主なる神に申し上げるのも、むべなるかな、と思わされます。
 13章では、ついに民とともにカナンのほとりに到達したモーセは、12人の斥候をカナンの地に派遣します。そのなかに、ヨシュアとカレブが含まれていたのでした。
 こうして、11章から13章まででは、キブロテ・ハタアワ(欲望の墓)からパランの荒野までの旅程と出来事が記されました。

 イスラエルの民のなかに混じりこんできた者、おそらくは異邦人たち、が真っ先に「マナだけの食事には飽き飽きした。ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚や野菜を食べていたのに」と不平をもらすと、たちまちのうちに、不平はイスラエルの民の間に広がりました。地上にある私たちは、体のもとめる欲にきわめて寛大です。特に食欲については、当然の権利のなかの権利として、いつも正当化されています。「少しはガマンしなさい」などという意見は、「人権無視」という伝家の宝刀によって、あっという間に切り倒されてしまうでしょう。イスラエルの選民の間でも、それは同様のことでした。「ああ、マナだけの食事などは飽き飽きした」

 モーセは、この民の不平不満に対して、説得するどころか、彼自身の重荷についての苦情を添えて、主なる神に申し上げてしまいます。大いなる主は、そのモーセに対して怒るわけでもなく、「あなたがたは、1か月もの間、食べ飽きて吐き気を催すほどの肉を与えられる」と言われました。モーセは霊的によほど疲れていたのか、主が全能であることを忘れて、「私たちは、徒歩の男だけでも60万人もいます(つまり、女と子どもをくわえるならば、200万人にも上る数だ、という意味)。そんな大勢の民がひと月もの間、食べ続けるだけの肉が、どうやって?」と答えてしまいました。ここに彼の不信の罪の1つが示されています。これに対して、主は静かに「主の手は短いのだろうか」と答えられました。

 「主の手は、短いのだろうか」
 私たちも、この御言葉を、真摯に受けとめる必要があります。私たちは、口では、「無限の主、永遠の主、万能の主」などと言います。言いますが、全能の主の御力を、勝手に制限をつけて考えていることが多いのではないでしょうか。それは、自分の経験や知識から、「ありえない、あるはずがない」と主なる神様についても無意識に限定的な評価をしてしまうからです。私たちが、主を造ったのでしょうか。そうではないとするなら、では、なぜ、神様の御力を限定してしまうのですか。
 「主の手は、短いのだろうか」
 この主の御言葉は、私たちの考え違いを、打ち砕いて余りあるものです。特に、試練のなかにあるとき、いかに祈っても、祈り続けても、何の暁光も見えないように思われることがあるでしょう。そのようなときにこそ、「主の手は、短いのだろうか」 この御言葉にすがって、主に対する信頼をいや増した祈りを深めてまいりましょう。

【水曜】 民数記14章~15章

 「そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油4分の1ヒンを混ぜた小麦粉10分の1エパを主にささげなければならない。また、全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊1頭のための注ぎのささげ物としては4分の1ヒンのぶどう酒をささげなければならない」(15章4~5節)

 イスラエルの民は、いよいよ約束の地カナンへの道へと進んできました。モーセは、12人の斥候を送ります。カレブとヨシュアの報告を聞いた民は、先住民族の強大さを思って、恐れ惑い、エジプトへ帰ろうと言い出しました。これに対して神は怒られ、モーセがとりなします。だが、イスラエル民族は40年の間荒野をさまようこと、と、20歳以上の男子のうち、カレブとヨシュアを除く者はすべて、誰も約束の地には入れない、という主の裁きを受けなければなりませんでした。14章のあらすじです。

 15章では、なだめのそなえものに関する教え、在留異国人は、主の御前ではイスラエル人と同じ扱いを受けるべきことという教え、また過失で罪を犯した場合と、故意に犯した場合の裁きに関する教えが記されています。

 15章におけるささげ物に関する教えは、これからカナンの地に入ろうとするイスラエル人たちにとって、霊的な準備をするために、大変タイミングよく置かれています。
 「主へのなだめのかおり」をささげるために、牛でも羊でも、火によるささげものを主にささげるときは、「穀物のささげ物として、油4分の1ヒンを混ぜた小麦粉10分の1エパを主にささげなければならない。また、全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊1頭のための注ぎのささげ物としては4分の1ヒンのぶどう酒をささげなければならない」と書かれています。主たるささげ物である牛や羊にそえて、油をまぜた小麦粉とぶどう酒を付加するべし、という教えです。しかも、全体が「主へのなだめのかおり」である、と規定されます。欠くことのできない付加物です。
 ここで思わされることは、小麦粉から作られるものであるパンと、そしてぶどう酒でしょう。それがなくては、神の怒りのなだめのために備えるものとはならない。パンとぶどう酒、それは、主イエス・キリストの肉と血をあらわすものにほかなりません。私たち人間の罪のための「なだめのそなえもの」となられた主イエス。ここ民数記のうちに、すでにあらわされた主なる神の大いなる御恵みに、心からなる感謝と賛美をささげるほかに、私たちのなすべきことはありません。

【木曜】 民数記16章~17章

 「レビの子たちよ。よく聞きなさい」(16章8節)

 16章と17章は、大祭司アロンの職というものが、決してアロンの私心によって定められたものではなく、もちろんモーセの個人的な便宜によって置かれたものでもないということ、すなわち、アロンは、主なる神によって大祭司に任命されたものである、という真理が目に見えるかたちで示されている箇所です。

 まず、レビの子ケハテの子孫であるコラと、ルベン族の子孫であるダタンとアビラム、さらにペレテの子オンの間に起きた共謀事件が語られます。彼らは、モーセとアロンの2人に向かって、「なぜ、あなたがたは、全会衆の上に立つのか」と叫びました。
 ケハテ族は、この旅程において、契約の箱を、肌身にかついで持ち運ぶという実に光栄な職務を割り当てられていたのでした。コラたちが、モーセとアロンに対して逆らった直接的な動機は何であったでしょうか。アロンと同じレビ族であるコラが首謀者であるということから、モーセとアロン、特に祭司職にあるアロンに対して、思い上がりから来る嫉妬心が起きていたのでは、と、モーセの言葉(10節)から推定することができます。自分は、同じレビ族であり、そのなかでも契約の箱をかつぐケハテ族の出身なのだ。自分が祭司となってしかるべきだ。しかるに、モーセとは何者だ、アロンとは何者だ。彼らがいつも自分たちの上に立つことは、誰が認めたのか。

 この事件の共謀者は、250人に上ったと記されています。同じような悪意を持つものがそれほどに多かった、ということは、イスラエルを導くモーセとアロンの日ごろの労苦がいかに大きいものであったか、想像されます。
 主なる神は、彼らの思いあがりに対して怒り、コラとその一族は、割れた地面に飲み込まれて、生きながらにして、よみに下りました。ただ、子どもたちは、その災厄からは免れました(第一歴代誌6章33節以下)。ほかの250人に対しては、主のところから火が出て、彼らを焼き尽くしました。

 それでもなお、モーセとアロンを批判する人たちがいる、という聖書の記事には、驚かされます。イスラエルは、モーセとアロンが神によって選ばれた器であることを、たったいま、目の当たりにしたのです。それでもなお、批判、不平がとまらない。主なる神の怒りも高まりました。アロンとモーセを除いた人々をすべて滅ぼす、と仰せられました。ただちに神罰が始まります。モーセの必死のとりなしによって、かろうじて死者の数は、14,700人でとまったのです。

 イスラエル人たちに対して、2人が神によって選ばれた器であることを、再度示すために、主はそれぞれの部族から1本ずつ杖を出させます。そして、アロンの杖だけが芽をふき、蕾を出し、花をつけ、アーモンドの実を結んだのでした。「レビの子たちよ、よく聞きなさい」という御言葉は、神に仕えるものとして召されたレビ族の人々は、特別に神の御言葉に忠実であるべきこと、を示しています。
 今、信仰を与えられて、神に仕える者とされた私たちもまた、一段と御言葉をよく聞くようにと、教えられているのです。神の栄光を見た者、永遠の恵みの契約を知りえた者は、その特権にふさわしく、御前に謙り仕えぬく者として、主イエスにならって従い行けるように、祈りましょう。

【金曜】 民数記18章~19章

 「最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える」(18章12節)

 18章では、主はアロンに語られました。異例なことです。主はモーセをとおしてアロンに御言葉を与えることが普通でした。この異例なルートを通して語られた内容、すなわち、聖所と祭壇、会見の天幕の取り扱いは、アロンとその一族、それからレビ人に委ねられていました。それゆえ、それらの聖なるものに関係する汚れは、すべて、彼らの責任とされるのです。主がアロンに直接語りかけられた理由です。主の語りかけに、アロンは非常に緊張したに相違ありません。のどがカラカラになるような重大任務につく彼ら祭司とレビ人に対する報酬の規定が、続きます。レビ族は、イスラエルのうちの10分の1を与えられます。レビ族はそのなかから、さらに10分の1を主への奉納物として、祭司アロンに与えなくてはなりません。こうして祭司職につくものも報酬を得ることになります。10分の1は、昔からの制度でした。アブラハムとヤコブも10分の1をささげました(創世記14章20節・28章22節)。10分の1のささげものに関する預言がマラキ書にあることは、よく知られています。

 19章には、きよめについての教えが記されています。「完全な」赤い雌牛がほふられ、その血は、会見の天幕に向けてふりかけられ、雌牛の体は、焼き尽くされなくてはなりません。その灰は、けがれからきよめられるときに用いられるのです。灰をきよい水とまぜ、その水を死体に触れたりして汚れた者にふりかけることによって、きよめられるのです。
 けがれは、異常に伝播する力が強く、けがれたものから、きよいものへと、人間ばかりではなく、天幕や器などもすべて汚します。私たちの罪のようです。罪は、実に根強く私たちを支配しています。ふるってもふるっても、落ちません。罪を完全に洗い落とすには、救い主イエス・キリストの赤い血が必要でした。「赤い雌牛」とは、血の色を連想させ、さらに贖い主の流された血を思わせるのです。

 18章12節には、「最良の新しい油」「最良の新しいぶどう酒」という言葉が記されています。いうまでもなく、神様にささげるものは、最良のもの、自分の持っているもののなかで、ベストのものでなくてはなりません。なぜなら、私たちの創造主であり、贖い主である方にささげるものであるからです。ささげものは、衷心からのものでなくては、ささげたことにはならないのです。「完全な」赤い雌牛と書かれているのも、同じ趣旨です。
 わが身を十字架の上に磔にして、永遠のいのちを与えてくださった方に対しては、最善のものをおささげしても足りるということはありません。今日も、私たちの最善をささげつくすことができるように、聖霊様の御たすけを乞い願いましょう。

【土曜】 民数記20章~21章

 「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」(21章8節)

 20章は、イスラエルにとって悲しむべき出来事の幾つかが記されています。
 ツィンの荒野のカデシュまでたどり着いたイスラエルは、ここでまた、モーセに対して旅の不平・不満をぶつけました。「ここは、穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない」 植物の名前の羅列は、緊迫感を与えます。実際そうであったのでしょう。飲み水さえない。荒野で飲み水がない、ということの苦しさを再度考えさせられます。老人や子どもなど、弱者にとって、水もない、というのは、そのまま死ぬことを意味したでしょう。
 こうして、イスラエルに迫られたモーセは、主に願います。しかし、彼は、ここで、主の「岩に命じなさい」という御言葉のとおりには行わず、岩を杖で2度叩いてしまいます。慈愛の主は、それでも、水を岩から出してくださいました。だが、モーセは、この故に、カナンへ入ることなく、死ぬことになってしまいます。「メリバの水」と呼ばれるこの事件をはさんで、20章は、ミリヤム、アロンの死を伝えます。アロンの後継者は、主によってその子エルアザルと定められました。

 カナン人アラデの王を聖絶したイスラエルでしたが、またも「パンもなく、水もない。このみじめな食物に飽き飽きした」と不平を並べ立てました。ついに、神は「燃える蛇」を送って、イスラエル人を悩ませます。多くの人が蛇に噛まれて死にました。駆除をしたのでしょうが、到底手に負えるものではなかったのでしょう、イスラエルは、モーセに罪の告白をして、「主に祈ってください」と頼みました。モーセが祈ると、主は、「青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と言われました。モーセは、主のご指示に従います。蛇に噛まれた人は、その青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きたのでした。

 ヨハネ福音書3章14節では、主イエスが、ご自身をこの旗ざおの上に上げられた蛇になぞらえておられます。毒蛇に噛まれても、青銅の蛇を見るだけで、いやされる? そんなことは人間の常識では信じられません。おそらくイスラエルの人々のうちにも、「そんなことは」と思った人もいたでしょう。ですが、仰ぎ見た人は、生きたのです。これこそ、信仰の要諦、ではないでしょうか。人間の常識では考えられなくとも、神様の御言葉であるから、それはある、と信じるのです。自分の知識や経験を打ち捨てて、御言葉に従うのです。私たちは、ここまで、そうして来たのではなかったでしょうか。これからも、主の御言葉であるゆえに、それはある、と信じて、天路歴程の旅を続けましょう。