旧約 第8週 レビ記21章~民数記6章
BibleStyle.com
聖書教会連盟
金沢東聖書教会 伝道師
浜松 ともみ
2009年10月31日 初版
【日曜】 レビ記21章~22章
祭司と供え物の聖別に関する細かい事項が記されています。21章1~9節は祭司に対する規定、10~15節は大祭司のための特殊規定、16~24節は祭司の肉体的条件、22章は祭司の注意事項です。
神は、祭司や大祭司に対し、「身を汚してはならない」「神に対して聖でなければならない」「神の御名を汚してはならない」「彼らは聖でなければならない」と要求し、細かい注意事項や肉体的条件まで提示されます。彼らの務めが、神の聖さを保ち、神の聖なる名が汚されないよう守り、彼ら自身が神に仕える者として神の聖さを反映する存在だったからでしょう。
でも、これらの規定と私たちとに、どんな関係や意味があるのでしょうか? 「21世紀に生きる私たちに何の関係があるの? 私たちには関係ない!」と読み飛ばしたくなるような箇所です。
ところが、実は関係大有りなのです。新約の時代に生きる私たちは、一人ひとりが神の祭司、万人祭司です。イエス様の尊い血潮により贖われ、義とされ、聖とされた神の子です。
神の聖なる基準は、私たちの基準より、はるかに高いもので、どんなにあがいても達することはできません。それでも諦めず、投げ出さず、いただいた救いに感謝し、みことばに応答しながら、召してくださった聖なる方にならって生きるよう、私たちは召されています。日々の生活のなかで、神の聖なる名に恥じない生き方を、聖霊の助けをいただきながら、目指したいものです。神は、私たちのような小さく貧しい器をとおしても、その御名の素晴らしさと栄光をあらわされるお方です。
【月曜】 レビ記23章~24章
ここから数章に渡って、宗教暦に関する規定が記されます。主はモーセに、全イスラエルの守るべき例祭について、細かく仰せられました。聖なる会合として召集する主の例祭は、安息日(23章3節)、過越の祭り(4~14節)、七週の祭り(15~22節)、新年の祭り(24~25節)、贖罪の日(同27~32節)、仮庵の祭り(34~43節)、日ごとの礼拝(24章)です。
どの祭りも、主を覚え、主の恵みを数え、主のなしてくださったみわざをたたえるためのものです。
私たちは、どこにいても、どんな時代にあっても、何をしていても、神を礼拝する者として造られました。キリスト者は、過越のいけにえとなられた子羊イエス・キリストのゆえに、罪赦されました。永遠の滅びからの救いと、まったき平安、安息をキリストによっていただいたのです。キリストに出会った喜びを、また、キリストを知り、知られている喜びを、今日も覚えて祝います。救い主なるお方に、毎日感謝と賛美をささげます。主に贖われた喜びをいつも心に抱いて、日々主の祭りを祝います。
【火曜】 レビ記25章
安息の年(2~7節)と、ヨベルの年(8~55節)という、主の安息について語られます。
「休んでいいよ。ゆっくりしていなさい」と言われて嬉しくない人はいないでしょう。しかし、なぜ今日の箇所で、あえて「安息」について教えられているのでしょうか? 何がそんなに「休むこと」を難しくしているのでしょう?
20節の言葉が気になります。「もし、種を蒔かず、また収穫も集めないのなら、私たちは7年目に何を食べればよいのか」
私たちの現実は、休みたいけど休めない事情だらけです。生活がかかっています。家族を養わなくてはいけません。家のローンの返済もあります。子どもの教育や老後のためにも、働けるうちに働いておかなければなりません。お金が必要です。「神様は食べさせてくれない。自分で何とかして生きていかなくてはいけない!」と。
21~22節「わたしは、6年目に、あなたがたのため、わたしの祝福を命じ、3年間のための収穫を生じさせる。あなたがたが8年目に種を蒔くときにも、古い収穫をなお食べていよう。9年目まで、その収穫があるまで、なお古いものを食べることができる」
新約の時代に生きる私たちに、この言葉をそのまま文字どおり当てはめることはしませんが、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節)は、クリスチャンの大原則であり、イエス様からの信頼できる約束です。
神の前に静まり、神の恵みとみわざを覚えるときを特別に持つことは、神に造られた者としての務めであり、恵みです。それを邪魔する様々な出来事や事情に心奪われると、安息を持つことを難しくし、神に信頼することを妨げ、主からの約束を忘れさせます。だからこそ、私たちは、主の日を聖なる日として「わたしはあなたがたの神、主である」(55節)と言われる方のもとに立ち返り、礼拝をささげ、みことばからいのちの糧をいただく必要があるのです。
主の安息を守ることは、私たちの第一優先です。ヨベルの年が、神の民に、「主こそ真の支配者、主権者である」ことを、約束の地で具体的に教えたように、私たちも、真の支配者、主権者なるお方を覚えるため、安息を守りたいものです。
【水曜】 レビ記26章~27章
レビ記には、主がシナイ山でモーセをとおしてイスラエル人に与えた、おきてと定めとおしえが記されています。何を守り、何をすれば主から祝福を受け、何をすればのろいを受けるのか、こと細かに記されています。現代のキリスト者には直接適用されないと考えられる規定も少なくないのですが、得られる示唆も多いのです。神の求められる「聖」の基準の完璧さ、高さ、それに対する人の汚れの深さ、邪悪さ、陰険さ。どうあがいても、頑張っても、取り繕っても、到達できないにもかかわらず、なお神は、「わたしのおきてに従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行う」(26章3節)よう私たちを招かれ、願っておられることを知ります。
「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(26章12節)は、聖書全体を貫くテーマです。イエス・キリストの贖いのゆえに救われ、神の民とされた者として、神と神のおきてを心から愛し、従い、限りない祝福を受けながら、地の果てまでも私たちの主なる神を宣べ伝えていきたいと願います。それにより、1人でも多くの魂が悔い改めて神に立ち返り、のろい(罪から来る報酬は死です。ローマ6章23節)ではなく、祝福としての神の賜物である永遠のいのちを、キリストにあって受けることができますように。
【木曜】 民数記1章~2章
今日の箇所で、主はおもしろいことをモーセに告げておられます。20歳以上の軍務に就くことのできるすべての男子の名を一人一人、氏族ごとに数えるようにと。まるで徴兵制度です。モーセは彼らの名前を出身の家ごとに、几帳面に登記し、登録名簿を作成しました。ルべン部族からは何万何千何百人、シメオン部族からは何万何千何百人との記録が、民数記の最初の章で展開します。
「しかしレビ人は・・・登録されなかった」と、1章47節。
続く2章でも、主は再びおもしろいことをモーセに告げます。イスラエル人は、その部族ごとに秩序正しく宿営するようにと。今度は各部族の編成、宿営、行軍における配置や場所の指示です。東にはどこどこ部族、南はだれそれ、西は〇〇部族と、指示が細かく出されました。
「しかしレビ人は・・・登録されなかった」と、2章33節でも言われています。なぞが残ります。
この答えは明日の箇所で紐解くことにして、とにかく、イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行ったのです。几帳面で、秩序ある、細かい指示でしたが、これらはイスラエルの民が、神の民として主に仕えていくための準備だったのです。
今日の箇所では神のある一面が強調されています。秩序の神です。神は、混乱の神ではなく、平和(秩序)の神だからです(第一コリント14章33節)。私たちも、神の秩序と指示に従い、自分の分を果たしていきたいと願います。
【金曜】 民数記3章~4章
昨日の箇所で「しかしレビ人は・・・登録されなかった」と軍務を免除されたレビ人には、特別な任務が与えらました。幕屋に関する栄誉ある務め、神礼拝への奉仕です。「レビ人はわたしのものである」(3章12節)。彼らは、神に聖別された者として、神のために生き、神の仕事をするために、特別に召されたのです。
私たちクリスチャンも、この世のなかで、神のために生き、仕事をするために、特別に選び出された者たちです。尊い任務が一人ひとりに与えられています。
レビ人には幕屋の運搬に関する詳細な規定がおのおのに与えらました。同様に私たちクリスチャンにも「十把一からげ」ではない、一人ひとりに特別な任務が主から与えられています。いろいろな分野で、ユニークな主のお仕事が、一人ひとりに委ねられています。
遣わされている職場や地域、家庭において、地の塩、世の光として歩むよう、召されています。あなたに委ねられている務めは何ですか? あなたは主の召しに従って生きていますか?
【土曜】 民数記5章~6章
5章では宿営上の規定が綴られます。そのなかで特に気になるのが3節「わたしがその中に住む宿営」
聖なる神が人と共に住んでくださる、こんな神が他にあるでしょうか? 神に会うために、私たちは高い山に登る必要も、聖地に巡礼に行く必要も、修行を積んで悟りを開く必要もありません。私たちの信じる神は、その民とともに住んでくださるのです。私たちのだだ中におられるお方です。そればかりか、新約聖書は「私たちは生ける神の宮」(第二コリント6章16節)だと言います。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」
私たちは神の所有とされた者たちです。神は私たちの所有者、責任者、保護者です。こんな力強いこと、確かなことは、他にありません。主は私たちを祝福し、守られます。主は私たちに御顔を照らし、恵まれます。主は御顔を私たちに向け、平安を与えてくださいます。
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