旧約 第7週 レビ記6章~20章
BibleStyle.com
沖縄バプテスト連盟
与勝バプテスト教会 牧師
石原 真
2009年10月31日 初版
【日曜】 レビ記6章~7章
6章1~7節には、罪のためのいけにえのことが記されています。
興味深いのは、2節において、「人が主に対して罪を犯し」とあるのに、「すなわち」として、「隣人への不実の行為」について記されていることです。つまり、隣人への不実の行ないは、神様への不実の行ないでもあるのだ、と聖書は教えていることになります。確かに、新約聖書においても、イエス様は、聖書の教えのなかで最も大切な教えとして、「神に仕えることと人に仕えること」とを教えています。
私たちは、礼拝を守ること、祈祷会を守ること、教会での奉仕に一生懸命であることについては、神様との関係を考えるのは当然だと思います。しかし、それと同時に、周りの人たちに対しては、誠実であったかということを、神様との関係のなかで考える必要があるのかもしれません。
そして、6章8節以降には、その罪のために人々が携えてきたささげ物について、祭司たちのなすべき取り扱いが記されています。6章8~7章21節を読むときに、牧師として身を引き締めさせられます。なぜなら、牧師の仕事の一つは、信徒、兄弟姉妹がたのささげるささげ物をいかに管理し、用いるか、ということだからです。
多くの教会では毎年1、2回、教会総会が開催されると思います。そこで教会員ともども、ささげ物が適切に運用されているかを確認することは、大切なことなのです。
そして、「万人祭司」の信仰に生きる私たちにとっては、動物のいけにえではありませんが、神様から与えられた恵みや、託された賜物をいかに用いるかということも、考えなければいけないことかもしれません。私たちは、神様のみこころにかなった用い方をしているでしょうか。神様に対しては、忠実だけれども、人に対しては・・・ということはないでしょうか。
今一度、主から与えられた恵みや託された賜物の用い方を確認して参りましょう。
【月曜】 レビ記8章~10章
8章には、アロンとその子たちに対しての祭司職への任職の儀式について記されています。
「聖別」という言葉が目立つことからも分かるように、「聖さ」が強調されています。そして33節を読むと、これらの行為を7日間毎日しなければいけないことがわかります。出エジプト記にも同じことが記されており、そこには、はっきりと7日間毎日、いけにえがささげられなければならないことが記されています。
それを考えると、「聖別」されるということがどれほど大変なことなのか、想像に難くないでしょう。多くの動物たちの血が流される現場は、神殿や祭壇の静かでおごそかなイメージからは遠くかけ離れ、凄惨な状況であるように思われます。しかし、それこそが、「聖別」されるということの意味を物語っているのです。
これと同じことを今の時代に行なおうと考えるなら、一体、だれが自らの罪を贖うことができるでしょうか。しかし、感謝なことに、そのようなことはしなくてもいいのです。御子イエス様が、私たちの罪の贖いのいけにえとなってくださったのです。今や、私たちは、御子の十字架を信じるだけでよいのです。なんと素晴らしい恵みでしょうか。その恵みに感謝し、その恵みを握りしめて、歩みたいと思わされます。
9章には、イスラエルの民のためのいけにえがささげられた様子、そして、主の栄光が現れたこと(主の臨在)について記されています。
私たちもまた、自らの罪を認め、その罪を主の前に悔い改めたとき、主の臨在に触れることができると言えます。特に、罪のためのいけにえとして全焼のいけにえをささげる、ということは、主の前に自らをささげることを表していると言えるでしょう。私たちも、自らを主にささげるそのとき、主の臨在が満ちあふれることを体験するのです。
10章冒頭には、衝撃的な出来事が記されています。アロンの息子の2人、ナダブとアビフが、聖められていない火皿に神の命令とは異なる火を入れたために命を絶たれたという事件です。この出来事を前にアロンはただ黙るしかなかった、というのが事の重大さを表わしています。確かに、そこには息子を失った悲しみとその罪の大きさゆえの恐れとがありました。しかし、この出来事をとおしてあらわされた神の栄光と臨在もあったのです。
神の御業のあらわれを経験するとき、もしかすると、私たちも、さまざまな想いがわきあがり、何と答えたら良いのか分からないということもあります。しかし、それにもかかわらず、すぐに答えを求めてしまう傾向が、私たちにはあるように思います。しかも厄介なことに、私たちは、信仰者としての言動を求めてしまうのです。
確かに、予期せぬ出来事が起きたときでも、神様への感謝を表すことができるなら、それはすばらしいことかもしれません。しかし、アロンの残りの子、エルアザルとイタマルは、この出来事のゆえに、ショックを受け、食べなければいけない物を食べることができなかったのです。その行為は、ある意味で、神の命令に背くことでした。
では、それに対するモーセの反応は、神様の反応は、どうだったのでしょうか。彼らの言い分を聞くなり、「わかった」と彼らの思いを受け止めてくださったのです。これが私たちの神様です。確かに、エルアザルとイタマルの態度は、祭司にはあるまじき態度だったかもしれません。しかし、神様は、私たち人間の側の理由にも耳を傾けてくださるお方なのです。だからこそ、私たちはこの神様を信頼し、この神様に従っていくことができる、のです。
【火曜】 レビ記11章~12章
11章には、「食べてもよいもの」と「食べてはならない、汚れたもの」について、具体的に述べられています。イスラエルの民は、出エジプトのあと、このような命令を神様からありがたくも頂戴したわけです。しかし、このような規定は、読んでいると、げんなりしてきます。
最近は、ダイエットブームもあって、多くの人たちがカロリー計算をしながら食事をしているのかもしれません。しかし、私は、根っからのずぼらな性格ですから、カロリー計算をしながら食事をするというのができません。また、したくもありません、というのが正直なところでしょうか。「そんなにして食事をして、何が楽しいの?」と考えてしまいます。ですから、このレビ記の規定についても「これはたいへんだ~」と考えてしまうのです。
しかし、この規定は、決して、イスラエルの民をしばりつけるためのものではありませんでした。この規定の意味は、イスラエルの民が、その他の民とは違う特別な存在であることの証であったのです。しかも、その証は、「世から分離される」ということに強調点があるのではなく、むしろ「神へ分離される」という意味合いが強いのです。つまり、イスラエルの民が「今や聖なる方のものとなった」という意味を表すものであったのです。ですから、イスラエルの民としては、選ばれた民としての自覚を得るものであったと言えるのです。
「クリスチャンは窮屈そうだ」と言われることがあります。確かに、日曜日の礼拝への出席にはじまり、クリスチャンには、ほかの人たちに比べると禁止事項も多いように思います。しかし、それも、決して私たちを縛りつけるためのものではなく、また、「世の人々と付き合うのはよしなさい」というものでもないのです。私たちが救われ、「今や聖なるお方のものとなった」証として、受け入れるべきものなのです。
12章には、産婦のきよめについて記されています。
この戒めは結果的に、産婦に対するいたわりと健康の回復を助けることにつながったと言われています。このような箇所を読むときに、決して、聖書が男尊女卑を謳ったものではないというのが、よくわかるのではないでしょうか。しかも、産後の全焼のいけにえについても、8節には貧しい人たちへの配慮が記されているのです。
律法と聞くと、私たちはどこか堅苦しさを感じてしまいます。しかし、これらの聖書の配慮を見ると、やはり律法は私たちを守るための、神様の愛のあらわれであることがわかるのです。
【水曜】 レビ記13章
13章には、「ツァラアト」という皮膚病の取り扱いについて記されています。この「ツァラアト」という言葉は、以前は「らい病」と訳されていました。しかし、最近は、社会的な要請や研究の成果によって、「らい病」という訳語は適切ではないということが認められるようになってきています。そのため、「重い皮膚病」と訳したり、「ツァラアト」とヘブル語の音のまま載せるようになりました。
どちらにしても、この「ツァラアト」という病気は、感染力が強いとされ、その病気が認められる人は、衣服を裂き、自分で「汚れている、汚れている」と叫び、人々がその人に触れないようにしなければなりませんでした。もちろん、住む場所も変えなければならず、ひとりで住むことを余儀なくされました。ある資料によれば、「ツァラアト」にかかっている人は、死人と同じようにみなされたということです。ですから、彼らは結婚生活も禁じられたようです。
イスラエルの人々にとって、生きる世界は、イスラエルの社会がすべてでした。イスラエル社会との交わりが絶たれることは、救いからもれることを意味していました。ですから、この病気は、イスラエルにおいては、罪の罰として神から与えられるものと考えられ、社会的にも、宗教的にも忌み嫌われる病気だったのです。
しかし、興味深いのは12・13節です。ツァラアトが体の全部を被うと、「きよい」とされるのです。隠すことができないほどに、全身にツァラアトの症状が出ると、祭司は「きよい」と宣言するのです。
私たちの罪の性質を彷彿とさせます。私たちの罪は、神の前に隠し続けるなら、それは罪のままです。しかし、その罪を神の前に告白し、言い表すなら、その罪もすでにイエス様の十字架で赦されているということを確認することができます。「きよい」と宣言されるのです。
罪を認め、告白することは簡単なことではありません。しかし、主の前に自らの罪を表し、「きよい」とされるなら、素直に主の前に自らの罪、弱さをさらけ出したいものです。
【木曜】 レビ記14章~15章
14章には、「ツァラアト」のきよめについて記されています。
4節には、きよめに必要なものに、「杉の木」「緋色の撚り糸」「ヒソプ」が挙げられています。ツァラアトは高慢の罪に対する罰と考えられていたので、背の高くなる「杉の木」は高慢を表し、虫の液で染色される「緋色の撚り糸」は虫のようにへりくだることを意味し、丈の低い「ヒソプ」の草もへりくだりを意味していたと考えられています。また「杉の木」は、木の力強さから、病気の人に力を与える象徴であったとも考えられています。
それにしても、ツァラアトの原因となる罪が「高慢」というのは、興味深いものです。私たち人間の罪も、元をたどれば、エデンの園で神との約束を破ったことであり、そこには、神なる方を恐れない人間の高慢があったとも言えるのです。そして、それは、今の時代においても、神を頼らない、恐れない人間の姿にも、あらわれています。
であるならば、今でも私たちに求められるのは、へりくだりの心、態度であるように思います。
15章には、「漏出」ということが取り上げられています。性生活についての戒めと言えます。
この「漏出」というのは、性器の感染症の類によって出てくる膿などはもちろん、健康な男女の射精や月経なども含まれています。感染症のみならず、生理的な「漏出」についても「汚れ」の対象になっているのは、多少の違和感を覚えるかもしれません。
ただ、これは、性生活全般に対して汚れているということではないのです。むしろ、この戒めによって私たちが意識しなければいけないのは、神様の求める「きよさ」の奥深さ、なのです。性生活というのは、普段、見ることのできないところです。そのような、目に見えないところにまで、神様が「きよさ」を求めているということは、実際の性生活はもちろん、私たちの心のうちの「きよさ」をも求めているということなのです。
日常において、私たちは自らを取り繕うことはできます。しかし、神様は私たちが見えないところをも見ているといるということを覚え、キリスト者としてふさわしく歩むことを意識しましょう。
【金曜】 レビ記16章~18章
16章では、「アザゼル」のやぎが出てきます。「アザゼル」というのが、人格的な存在を指すのか、場所を指すのかは、明確ではありません。しかし、意味としては、ヘブル語の「除去する」を意味する「アザール」の強意で、「まったき除去」または「罪のまったき赦し」ととることができるように思われます。ただし、ユダヤ教では、やぎのように毛深い悪霊と考えられているようです。そして、「アザゼルのためのやぎ」の儀式は、民の罪を背負って地の果てに追放され、民の罪を遠くに運び去って、悪霊のかしらのもとへと返すという意味があるようです。
どちらにしても、21・22節の様子は、民の罪を背負わせるという点においては、私たち人間の罪を背負われたイエス様の十字架を想起させるものです。また、人里離れた所へ追放されるやぎの姿は、十字架の死によって、一度は父なる神との交わりからも引き離されたイエス様の死の苦しみをも思い起こさせます。私たちは、そのイエス様の十字架の死によって、罪赦され、永遠のいのちを与えられるに至ったということを、本当に感謝すべきではないでしょうか。
17章には、16章の儀式を前提とした神と民との関係を、日常生活のなかでどのように展開させるのかについて記されています。そして、この17章以降26章までを「聖潔法典」と言うこともあります。
17章で目を引くのは、10節以降の「血の取り扱い」だと思います。ある人たちは、このところを捉えて、輸血拒否をし、社会問題化したこともありました。確かに、輸血の問題は臓器移植などと絡めて考えると、とても複雑な問題であり、一言で答えが出るものではないのかもしれません。しかし、ここで聖書の意図するのは、家畜の屠殺や血の扱いについて、異教的偶像礼拝的な要素を排除することにあります。当時は、血を飲んだり食べたりする異教の習慣があったのです。また、イスラエルのいけにえの儀式においても、人間の命を贖う手段として、血が用いられていました。そういう意味で、血の取り扱いについて、特別に取り上げられているのです。
18章では、結婚生活、性生活の指針が与えられます。特に、2~5節および30節から分かるように、カナン人や先祖たちの習慣にならってはいけない、ということが強調されます。
これは、今の時代においても、よくよく注意しなければいけません。私たちの価値観や行動の基準は、はたして神様の基準に沿ったものとなっているでしょうか。「今までがそうだったから」「先輩たちがやっていたから」と言って、何も考えずに行動してはいないでしょうか。より、神様の基準に近づけるように、お互い励まし合いながら、信仰者としての生活を送ってまいりましょう。
【土曜】 レビ記19章~20章
19章は、十戒を具体的に示した箇所として有名です。律法の要約と本質を実際問題において教えていると言えるでしょう。しかし、律法の要約とは言え、3節に父母を敬うことが出てくるのは、興味深いところです。そして、続けて安息日を守らなければならないとあって、神礼拝につながるというのはどういうことでしょうか。
エペソ書6章2節にも父母を敬うことが第一の戒めであると書かれていますが、イスラエルの社会では親を神の代理者と見ていたところがありました。ですから、父母を敬うことは、神への誠実さをあらわす具体的な方法でもあったのです。そして、このことは、即、安息日を守るという、より明確な神礼拝の重要性へとつながるのです。
また、ここで触れておきたいのは、「母と父とを」という言葉の並びについてです。おそらく、当時一般的に、母のほうが父よりも軽んじられる傾向にあったのでしょう。ですから、聖書は、わざわざ母を父よりも先に記し、そのどちらも大切であることを教えているのです。
そして、19章のなかで最も大切な箇所は、なんといっても18節でしょう。新約聖書にも「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という命令の大切さが記されているので、よくご存じの方も多いと思います。ユダヤ教のラビ(教師)たちも、この18節が律法の基本だと考える人が多いようです。
ラビたちの18節の理解として、「お前がしたように私もする」ことが復讐であり、「わたしはあなたのようにはしませんよ」というのが恨みであるというのがあります。このように考えると、聖書は、やりかえすことはもちろん、無関心を決め込むこともよくないと言っていることになります。そのようなことを越えて、積極的に、建設的に、肯定的に、関わることを求めているのです。それが、「愛」の実践と言うことになるのです。
この理解は、私たちに大きなチャレンジを与えるものです。人間関係の希薄さが言われる最近の傾向として、身の回りで起きる問題について、私たちは、見ないふり、臭いものには蓋の態度を決め込むことが多くなっているように思います。そうではなくて、聖書は、「愛」の実践として、もっとキリスト者が社会に対して積極的に関わることを求めているのではないでしょうか。
それは、決して大きなことをしなさいということではありません。今日も、私たちのできる「愛」の実践とは何かを、考えてゆきたいと思います。
参考文献
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富井悠夫「レビ記」『新聖書注解 旧約1』いのちのことば社、1976年
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榎本保郎『旧約聖書一日一章』主婦の友社、1977年
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