旧約 第6週
出エジプト記30章~レビ記5章

日本同盟基督教団 神岡キリスト教会 牧師
古川 弘幸

2009年10月31日 初版

【日曜】 出エジプト記30章~32章

【序】

 30~31章は、25章から始まっている「幕屋の規定」の流れを理解するとわかりやすい。そこで、まずは25~31章の構成を確認し、そのうえで今日の箇所に進みたい。

  • 【25章】 幕屋の規定(1)
    神礼拝の中心的位置を占める物件、すなわち、献上物、契約の箱、机、燭台に関する規定。
  • 【26~27章】 幕屋の規定(2)
    25章に記された物を外側から取り囲む幕屋(聖所と至聖所、および、それらを含む会見の天幕)に関する規定。
  • 【28~29章】 幕屋の規定(3)
    26~27章に記された幕屋(会見の天幕)で神と人との間に入って奉仕をする祭司に関する規定。
  • 【30章】 幕屋の規定(4)
    幕屋に関する追加的な規定(香壇、主への贖い金、洗盤、そそぎの油、香油について)。
  • 【31章】
    幕屋建設と安息日厳守のすすめ。

 以上が25~31章の構成である。そして、32章には、イスラエルの民が偶像(金の子牛)礼拝の罪を犯したことが記されている。

【今日の箇所から一言】

 イスラエルの民をエジプトから連れ出した主は、神と人が出会う場所として会見の天幕を備えてくださった。神は、「イスラエル人の間に住み、彼らの神となる」(出エジプト29章45節)ことを願って、そのようにしてくださったのである。

 もっとも、神は聖なる方であるため、人が汚れたままで神に近づくならば、死を招くことになる(参照:出エジプト30章20~21節)。だから、神は、人にこと細かく指示を出し、人が「聖」となることを求めているのである。

 出エジプト記30章25節には、「聖なるそそぎの油」のことが記され、30節には「アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない」と記されているが、キリスト者も、神から「聖霊」という油をそそがれ、聖別された者である(参照:第二コリント1章21節、第一ヨハネ2章27節)。
 もし、あなたがキリスト者であるならば、主の恵みによって聖霊が与えられ、聖なる者とされていることをいつも思い出し、感謝と喜びを動機として主に仕えていただきたい。
 また、もし、あなたがまだキリスト者でないならば(キリストを自分の個人的な救い主として信じていないならば)、「救い」が与えられるときが来ることを信じて、聖書を読み続けていただきたい。

 今日、この文章を読まれたあなたに、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が豊かに注がれますように。

【月曜】 出エジプト記33章~34章

【序】

 33章は、イスラエルの民が偶像礼拝の罪を犯した32章の出来事を踏まえたうえでの、モーセと神とのやりとりが記されている。

【今日の箇所から一言】

 モーセは、出エジプト記33章12~13節で、「もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください」と語っており、この言葉にはモーセの不安が現れている。

 モーセは、エジプトで数多くの主の奇跡を目撃していた。また、エジプト人の追撃を逃れた後、荒野でも養われ、シナイ山の麓に辿り着いた後には、主から十戒を授けられていた。それらは、主の真実と愛を十二分にあらわすしるしであり、モーセはそれらから主の真実と愛を学んだはずである。

 しかし、モーセは今、イスラエルの民が、モーセ不在の40日間に簡単に堕落し、偶像礼拝の罪を犯すようになった現実を見ていた。また、民に対する主の激しい怒りも目撃していた。それで、モーセは、自分のこれまでの働きに疑問を持ち、将来に対して恐れと不安を抱くようになって、「もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください」と訴えたのである。

 これに対して主は、「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう」と語られた(出エジプト33章14節)。神様は、「神であるわたしが一緒にいることこそ、あなたが神の心にかなっている証拠だ」と語られたのである。

 私たちも、困難に直面するとき、あるいは、自分自身の罪深さや愚かさ、頑なさに気づくとき、「本当に、私は、主に受け入れられているのか? 主は、今でも私と共にいて下さるのか?」と、不安や恐れを抱くことがあるだろう。そんな私たちに対して、主イエスは、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束してくださっている(マタイ28章20節)。
 主の真実と愛に感謝しつつ、今日も信仰に立って前進しよう。

【火曜】 出エジプト記35章~36章

【序】

 35~40章には、イスラエルの民が主から示された規定に従って幕屋を建設していく様子が記されている。そして、35章には、幕屋建設のために必要な材料が民からささげられたときの様子が記され、36章には、主がベツァルエルとオホリアブの2人に知恵と英知を与え、幕屋建設のリーダーとしたことが記されている。

【今日の箇所から一言】

 35章5節で、モーセは、イスラエルの全会衆に向かって、「すべて、心から進んでささげる者に、主への奉納物を持って来させなさい」と語り、21節以降には、「感動した者」や「心から進んでささげる者」たちの熱心な行動が記されている。
 そして36章5節では、「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です」という報告がもたらされるほどになった。

 ネヘミヤ記8章10節の新改訳欄外注**には、別訳で「主を喜ぶことは、あなたがたの力である」とあるが、感動と喜びは、人を自発的な行動に駆り立てる原動力である。

 私たちの心のなかには、感動や喜びがあるだろうか?
 教会の交わりのなかには、感動や喜びがあるだろうか?

 みことばを通しての感動や御霊の働きによる喜びが、私たちのうちに満ちあふれ、福音宣教の原動力となるように、主の御前に静まることを大切にしよう。
 そして、どんなときにも主がともにいてくださることを確認し、感動と喜びをもって与えられた人生に向き合っていきたい。

【水曜】 出エジプト記37章~38章

【序】

 37~38章には、ベツァルエルを中心とする選ばれた民たちが、主から示された規定に従って幕屋を建設していく様子が記されている。

【今日の箇所から一言】

 35章30節には、主がベツァルエルをユダ部族のなかから召し出したことが記されている。主は、彼が特別な仕事(幕屋とそこにある備品を作る仕事)を成し遂げられるよう、格別に祝福してくださった。彼に「人を教える力」や「すぐれた知恵」を与え、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において「神の霊」を満たされた(35章31~35節)。

 37章には、ベツァルエルが「契約の箱」「贖いのふた」「机」「燭台」「香の壇」「かおりの高い香」を作ったことが記され、38章には、「全焼のいけにえのための祭壇」「祭壇のすべての用具」「洗盤」「庭」などを作ったことが記されている。38章22節に記されているように、彼は「主がモーセに命じられたことを、ことごとく行った」のである。

 私たちは、主からの賜物を用いて、与えられていた務めに忠実に取り組んだベツァルエルの姿に学ぶべきだが、すばらしいのは彼だけではない。幕屋は、民の心からのささげもの(35章21~29節)と、リーダーとして立てられたベツァルエルの指示に従う民の熱心な行動によって、建てられていくのである。

 使徒パウロは、第二コリント6章1節で「私たちは神とともに働く者(である)」と語っている。そして、「福音宣教」と「教会形成(弟子作り)」は、私たちキリスト者に与えられた務めである(参照:マタイ28章19~20節)。私たちは、「一人ひとりが主によって選ばれた特別な存在であること」を認め合いながら(参照:第一コリント12章27節)、それぞれの賜物を用いて、キリストの栄光が満ちあふれる教会を形成していきたいものである。

【木曜】 出エジプト記39章~40章

【序】

 39~40章には、幕屋で仕える祭司の装束の完成後に、幕屋の建立を迎えたことが記されている(40章17節)。

【今日の箇所から一言】

 祭司の使用する装束(エポデ、肩当て、帯、胸当て、青服、長服、かぶり物、ターバン、ももひき、飾り帯、記章の札等)を、ベツァルエルたちが作り終えたとき、「会見の天幕である幕屋の、すべての奉仕が終わった」(39章32節)。
 そして、第2年目の第1月の第1日に、幕屋は立てられた(40章17節)。39~40章では、「主が命じられたとおり」と言う言葉が繰り返し記されており、39章には10回(1・5・7・21・26・29・31・32・42・43節)、40章には8回(16・19・21・23・25・27・29・32節)記されている。彼らは、「主のことばを大切にし、主のことばに従い続けた」のである。

 39章43節には、「モーセが、すべての仕事を彼らが、まことに主が命じられたとおりに、したのを見たとき、モーセは彼らを祝福した」と記されているが、私たちはどうだろうか?
 私たちは、何が主の御心であるのかを正しく理解しているだろうか?
 私たちは、「この世のことば」に従うことを求めず、「主のことば」に従うことを求めているだろうか?
 私たちは、「主のことば」を信頼し、「主のことば」に従っていくことを願い、祈り合い、励まし合っているだろうか?

 現実の生活のなかでは、「どうしたらいいのか?」と悩むことや苦しむことが数多くあり、何が御心なのかわからないこともある。祈りに対する答えがないように思えることもあれば、「わかっているが、できない」ということもある。
 私たちは罪人であり、未熟さや愚かさ、弱さや身勝手さに振り回される者なのである。
 しかし、神は、そんな私たちを今も愛してくださっている。だから、私たちは、主イエスの十字架にあらわされた神の愛を信じ、主イエスのご生涯を思い巡らしながら、主のことばに従う道を選び取っていこう。

【金曜】 レビ記1章~3章

【序】

 レビ記は、出エジプト記の続編として記されている。
 出エジプト記には、モーセを通して幕屋が完成したことが記されているが、そのモーセですら完成した幕屋には入ることができなかった(出エジプト40章35節)。会見の天幕には、主の栄光が満ちていたからである。
 このことからもわかるように、罪を持つ人間は、そのままでは聖なる神に近づくことはできない。それで、神は、レビ記のなかで、どのようにして神との交わりを持つか、どのようにすれば神への礼拝が受け入れられるかを教えていくのである。

【今日の箇所から一言】

 レビ記に最初に記されているささげ物(いけにえ)は、「全焼のいけにえ」である。このいけにえの特色は、いけにえのすべてが祭壇上で焼き尽くされたという点にある(これ以外の動物のいけにえは、脂肪の部分のみが焼かれた)。

 「全焼のいけにえ」をささげる人は、「牛、羊、やぎ、山鳩、家鳩のひな」の5つのなかから、ささげる動物を選ぶことができた。
 「全焼のいけにえ」をささげる人の願いは、「主に受け入れられること」であった(参照:1章3節)。そして、主に受け入れられるためには、主の指示に完全に従う必要があった。
 1. 野で捕まえた動物ではなく、自分の家畜をささげること。
 2. しかも、傷のない動物(最上の動物)をささげること。
 3. そして、その動物をすべて焼き尽くすこと。
 これらは、ある人々には「もったいないこと」であり、「無駄に思えること」かも知れない。しかし、主は、このような行為をとおして、礼拝者に「心からの献身をあらわすこと」を求められたのである。

 時は流れ、神は、私たちを受け入れるために、自ら、完全な「全焼のいけにえ」(イエス・キリスト)を用意してくださった(参照:ヘブル10章5~10節)。この神の献身を心から感謝し、私たちも神に自らをささげていきたいものである。

【土曜】 レビ記4章~5章

【序】

 4~5章には、「罪のためのいけにえ」(4章1節~5章13節)と「罪過のためのいけにえ」(5章14節~6章7節)について記されている。

【今日の箇所から一言】

 レビ記では、祭司が大きな働きをしている。1章5~9節には、「ほふられた動物(牛)の血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。皮をはぎ、切り分けなさい。祭壇の上に火を置き、たきぎを整えなさい。これら全部を全焼のいけにえとして焼いて煙にしなさい」という祭司への指示が記されているし、他の箇所でも祭司はいろいろな働きをしている(1章15~17節、2章2節・9節・16節、3章11節・13節・16節、4章16~21節・25~26節・30~31節・34~35節など)。

 しかし、4章3節には、油そそがれた祭司が罪を犯した場合の対処方法について記されている。祭司は、主によって選ばれた者であり、民の罪の贖いをするために重要な働きをする立場にあったが、決して完全な人ではなく、彼自身も罪の贖いが必要だったのである(祭司職の頂点には大祭司が立てられるが、罪の贖いは大祭司にも必要なことだった)。

 ヘブル人への手紙の著者は、この手紙のなかで主イエス・キリストを「大祭司」と呼んでいるが、キリストは他の大祭司たちとはまったく違う存在であった。
 「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです」(ヘブル7章27節)

 神が用意してくださった大祭司キリストの罪の贖いを心から感謝し、私たちも祭司としての務め(とりなし)に取り組もう。
 「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7章24~25節)