旧約 第5週
出エジプト記14章~29章

日本同盟基督教団 富川福音教会 伝道師
河野 優

2009年10月31日 初版

【日曜】 出エジプト記14章~15章

 大風が吹き、海がふたつに分かれて壁となり、その間を歩いて進んで行く大勢の人々・・・。映画『十戒』の壮大で衝撃的なシーンが、この14章に記されています。イスラエルの人々は「意気揚々と」(14章8節・口語訳・新共同訳)宿営から出て行きました。エジプトにおける苦しい奴隷状態から解放された喜びは、民の足取りを軽くしていたのでしょう。
 しかし、考えを変えたパロ(ファラオ)は、えり抜きの戦車隊を率いてイスラエルを追跡し、ついには海辺で宿営していたイスラエルの民に追いついたのです。民は恐れのあまり、主に向かって悲痛な叫びをあげます。奇跡をもってエジプトから連れ出してくださった主に対し、「何ということをしてくれたのか」と、恩知らずな叫びをしているのです。
 恐れ惑う民に、モーセは「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」(14章13節)と言ったのです。そして「主があなたがたのために戦われる」(14章14節)と言って、主の言われるとおりに海に向かって進んでいったのです。主の仰せのとおり、主はイスラエルのために先頭に立って戦い、エジプト軍を全滅させ、勝利を与えてくださったのでした。

 15章では、主が与えてくださった勝利に対してイスラエルがささげた賛美が記されています。中心は13節の「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた」という部分です。イスラエルに勝利をもたらした主は、恵みをもって導き、民を贖い、その御力をもって約束の地へと連れて行ってくださるお方なのです。民は困難にあうたびに不平不満を主につぶやきますが、主の真実さは決して変わることがありません。

 私たちもまた、いつも主の救いを仰ぎ見、思い起こさなければなりません。その救いはひとえに主の恵みによるのであり、そうして私たちを罪のなかから贖い出してくださる主は、約束の地、天の御国まで連れて行ってくださるお方なのです。イスラエルを導かれる主の真実な姿をとおして、私たちの人生をも真実に導いてくださることを確信し、主に賛美をささげましょう。

【月曜】 出エジプト記16章~18章

 エジプトを旅立ってちょうど1か月経ったイスラエルの民は、相変わらず主に対する不満をつぶやいていました。荒野をさまよううちに、エジプトにいたほうがよかったと口々に言います。しかし主は、マナと呼ばれるパンとうずらをもって民を養ってくださいました。このことをとおして、「あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる」(16章12節)ためでした。しかも主は、「毎日」「余ることもなく」「足りないこともなく」民を満足させてくださったのです。
 主は、私たちにも「みことば」という天からのパンを毎日、それも絶妙な配分で与えて満たしてくださいます。このことを確信しつつ、(主の祈りで)「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るのです。

 さらに、レフィディムというところでは、アマレクとの戦いが起こり、そこでも主の御手がイスラエルのうちにあることを知らしめられました(17章)。モーセは神の杖を手に持ち、アロンとフルをつれて丘の頂に立ちます。彼が手を上げているとイスラエルが優勢になり、手を下ろすと劣勢になるという現象が起こります。「手を上げる」という姿は、「祈り」の姿を示すものです。イスラエルの勝利のために、モーセが手を上げて主に祈ると、主がイスラエルのために戦ってくださり、勝利してくださるのです。モーセは「執り成し」をする者として、民と主の間に立っていたのです。そして、執り成しの祈りは、傍らにいたアロンとフルによって支えられ、成し遂げられたのでした。

 モーセのしゅうとイテロが、モーセの妻と息子を連れてモーセのもとにやって来ました(18章)。イテロはイスラエルの指導者であるモーセに物申しますが、モーセはその申し出が御心にかなっていることを認め、素直に聞き入れました。指導者の資質として大切なこととして、他人の意見に謙虚に耳を傾けることが挙げられます。モーセはそのとおりで、この賢明な判断によって、彼自身は、民の多くの問題を裁くことに割いていた時間を、神の教えを民にしっかりと教える務めに使い、それに専念できるようになったのでした。

 主は、すべての必要をご存知で、私たちを相応しく満たし、整え、導いてくださいます。私たちも、互いに執り成しの祈りをささげ、リーダーとともに重荷を担い、主の御心に忠実に歩まなければなりません。

【火曜】 出エジプト記19章~20章

 主は、モーセをとおしてイスラエルの民に仰せられました。彼らは主の救いの御業を「見た」(19章4節)と。民に対する神のあふれるばかりの恵みを、彼らは確かにその目で「見た」のです。神の恵みを注がれた民は、いかに歩むべきでしょうか。それは、主の御声に聞き従い、主との契約を守ることです。このことは単に、神が恵みをくださったのだから、その言うことを聞かなければならない、ということではありません。主はいつでも、恵みを注いだ私たちが、その恵みに対して「応答」することを求め、願っておられるのです。

 神の恵みを十分に受けて、主の御声に聞き従う道が、キリスト者の歩みです。主は絶えず御言葉をもって民に語りかけ、主の御心に従って歩むようにと導いてくださっているのです。しかも、この歩みは、私たちが主の「宝となる」(19章5節)ためであるというのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43章4節)と言われたように、主は私たちを大切な存在として整え、導き、主のものとするために、私たちを導かれるのです。そうであるなら、私たちは喜んで主にすべてを委ね、その御声に聞き従っていくべきではないでしょうか。

 主に従っていくための具体的な教えが、20章で語られている「十戒」と呼ばれる教えです。十戒において大切なことは、序文と呼ばれる2節にあります。教えを与えられる神は、民をエジプトから救い出し、解放してくださったお方です。また主なる神は「わたし」として民の前に自らを現し、イスラエルの一人一人を「あなた」と呼んで、神との親しい関係へと招き入れてくださったお方です。私たちが耳を傾けるべきお方は、抽象的な存在の「神」ではなく、出エジプトという歴史において具体的な行為をもってイスラエルを救い出してくださったお方です。
 そしてこの方を、「私の神」と呼ぶことができるのは、大きな恵み、幸いなのです。

 この主の恵みに答えるために、主は十戒をお与えになりました。十戒は救いのための条件ではなく、救われた者がその恵みに応えて、相応しく、主とともに歩んでいくための教えです。十戒をとおして語られる主の御声は、私たちを罪と向き合わせ、信仰の恵みにとどまらせ、そして、救いの恵みに対して感謝と喜びをもって神に従っていく道筋を示すものなのです。
 十戒は私たちを神の国というすばらしいゴールへと導いていく人生の道しるべであり、そこでは目的・目標を見失い、人生の意義を疑うような歩みはありません。主とともに、栄光のゴールを目指して旅を続けていくために与えられたものなのです。

【水曜】 出エジプト記21章~23章

 今日の箇所には、少々ややこしく見える規定がいくつも記されています。時代・文化的背景があまりに違うので、読んでいてもピンとこないことが多いかもしれません。そういう箇所は、思わず飛ばして読みたくなることもあります。しかし、そのような箇所にも、神様の御心が豊かに示されています。

 例えば、「目には目。歯には歯」(21章24節)という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。これは「同害報復法」と呼ばれるそうです。一見すると野蛮な報復行為が許されているように思えるかもしれません。しかしこれは、「無制限の」報復に一定の制限を加え、さらに被った損害と同量の報復で満足すべきであることを意図しているものです。
 人間の人間に対する報復行為が無制限で終わりのないことは、私たち現代の社会を見れば明快です。相手に損害を与えれば、相応の賠償か罰を受けなければなりませんが、必要以上になされるならば、それは再び繰り返されてしまうかもしれません。まさに、終わりのない報復が繰り返されるのです。

 このようなことから、主は私たちに赦しや愛、寛容というものを教えようとしておられます。ここに記されている「奴隷」に対する扱いも、同時代の法規に比べると聖書の定めでは考えられないほど寛容であることがわかります。奴隷として買われた場合、6年間はそこで仕え、7年目には自由の身として無償で去ることができると21章2節に記されています。奴隷の身分は永遠に続くのではなく、解放の時が必ずやって来るのです。
 この7年目というのは、安息日の定めから来ています。興味深いことに畑でさえも、6年間は耕して収穫し、7年目には休ませなければならない(23章10~11節)と定められています。安息の定めが奴隷や在留異国人、そして家畜にまで要求されているのです。主は、人に対しても動物に対しても、また土地に対しても、安息を守らせられるのです。すべての営みを休んで、主の御手のわざに思いをはせることは、造られたすべてのものの務めであり特権であることを覚え、感謝をささげましょう。

 様々な定めが語られた後、主の教えに従順であるように勧告がなされ、さらには主がイスラエルの民を約束の地へと確かに導いてくださることを語ります。主の教えを守り行うことが、約束の地への道を確かに歩んでいくために不可欠なことなのです。今日も、主の約束を信じ、主の教えに忠実に歩みましょう。

【木曜】 出エジプト記24章~25章

 24章では、これまでに語られた民に対する主の戒め(契約)の批准の様子が記されます。神の要求と約束が民の前で告げられると、民は声を一つにして「主の仰せられたことは、みな行います」(24章3節)と答えました。
 神と民との契約が批准され、効力を持つためには、さらになすべきことがありました。それは祭壇で主にいけにえをささげ、いけにえの血の半分を祭壇に、残りの半分を民に注ぎかけることでした(「注ぐ」という言葉は「振りまく」という意味の言葉で、新共同訳の「振りかける」という訳のほうが、より原意に近いと言えます)。

 モーセは、そのいけにえの血を「主があなたがたと結ばれる契約の血である」(24章8節)と言いました。いけにえの血が注ぎかけられることによって、神が自分たちと契約を結ばれたことを意味しているのです。
 これは、新約聖書でイエスの言葉として出てきます。最後の晩餐と呼ばれる席上で、ぶどう酒の杯を取ったイエスは、「これはわたしの契約の血です」(マタイ26章28節ほか)と言われました。十字架上で流されるイエスの血が、私たち人間の罪を贖い、永遠のいのちを与える「契約の血」なのです。
 ですからそれにあずかること、また聖餐式でぶどう酒にあずかることは、大変重要な意味を持っているのです。クリスチャンの方で聖餐式にあずかるとき、このような意識をもって、自覚的にあずかっているか、確認が必要です。

 そして、主の仰せに従って再び山に登ったモーセは、幕屋の建設を命じられます。幕屋については25章から31章にかけて記されています。幕屋とは神が住まわれる場所、神が民と会われる場所です。25章では幕屋建設のために必要な材料をささげることが語られていますが、このとき「すべて、心から進んでささげる」ことが重要です。「進んで」を口語訳では「喜んで」と訳しているように、主へのささげものは強制されてするものではなく、自ら進んで、心から喜んでささげられなければなりません。強制されてささげられたもので建てられる幕屋を、主は喜ばれません。
 また、神の幕屋はすべて主が示すとおりに作らなければなりません。各々が作りたいように自分勝手に作るのではなく、主がそこに住んでくださるのに相応しく造らねばならず、それは主が示されるとおりにする以外に方法はありません。
 神の幕屋は教会であり、教会はキリストのからだです。私たちはキリストのからだの各器官として、心から喜んでささげているでしょうか。また主がその御言葉をとおして語られているとおりに、忠実に従って教会を建てあげているでしょうか。今一度、問い直しましょう。

【金曜】 出エジプト記26章~27章

 26章では幕屋本体についての作り方が指示されています。私の母校でもある東京基督教大学の図書館には、卒業研究として学生が作った「幕屋」の模型があります。実に見事な模型だと感心したことを覚えています。幕屋は長方形の枠を作り、その上に布を被せるという単純な構造です。

 この幕屋には聖所と至聖所と呼ばれる空間が作られました。聖所には燭台と香の祭壇と備えのパンを置く台とが置かれていました。そして至聖所にはあかしの箱が置かれ、その中には後にモーセが主から授かる十戒の記された2枚の石板が収められました。この聖所と至聖所を仕切るために、垂れ幕がかけられました(26章33節)。垂れ幕で仕切られた奥の部屋、つまり至聖所には、大祭司が年に一度、大贖罪日に、贖罪の血を携えて入ることを許されていただけでした。
 至聖所に収められていたあかしの箱は、主がそこからイスラエルに語られる(25章22節)と言われたように、主の臨在を示す重要なものでした。ですから、その箱の収められている至聖所には、大祭司のみが、しかも年に一度だけしか入ることが許されないのでした。仕切りの幕は、後に建てられる神殿においても、同じように作られました。そして、イエス・キリストが十字架で死なれたとき、神殿の幕は上から下まで真二つに裂けた(マタイ27章51節)のでした。仕切りの幕がなくなるとは、民が自由に(キリストをとおして)、神のもとに近づいて、その実声を聞く道が開かれたということです。この時代にあっては、まだ時が来ていないので、「幕」は必要不可欠なものとしておかれたのでした。

 27章では、青銅の祭壇、幕屋の庭、燈火用の油についての指示が記されています。幕屋に入ると、そこにはまず青銅の「祭壇」が置かれています。主のもとに行き、その臨在を仰ぐために礼拝するには、いけにえが必要でした。そのため、祭壇が置かれたのです。究極的には「キリスト」といういけにえをとおしてこそ、主の御前に出ることができることを覚えたいと思います。

 仕切りの垂れ幕が置かれ、年に一度しか、しかも大祭司しか入ることが許されなかったことは、主の御前に出ることの「畏れ」を私たちに思い起こさせるものです。また、それがキリストの十字架によって取り去られたことや、主の御前に進み出るためには祭壇にいけにえをささげる必要があったことなど、キリストをとおして私たちは自由に主のみもとに近づくことのできる恵みにあずかっていることを覚えさせるものです。この恵みを主に感謝し、主をほめたたえましょう。

【土曜】 出エジプト記28章~29章

 28章では、まず、アロンとその子らを祭司として任命し、主に仕えさせるようにとの命令がなされています。そして、アロンの装束について詳細に指示がなされています。彼の装束は「栄光と美を表す聖なる装束」(新共同訳は「威厳と美しさを添える」)と呼ばれています。それは大祭司として相応しい権威と身分を表わすものです。
 目を引くのは、さばきの胸当てにはめ込まれた12の宝石です。それぞれの宝石はイスラエルの十二部族を表わしています。アロンは聖所に入るとき、十二部族の名を胸の上に載せ、絶えず主の前に記念とするように命じられました(28章29節)。祭司は神と人との間の執り成しをするのが主たる務めですが、ここでアロンはイスラエル民族を代表して、祭司としての務めを果たしていることがわかります。それを民にわからせるために、アロンの装束は神が指示されたとおりに作られ、また着用されなければならないのでした。

 そして、続く29章では、祭司の聖別と任職について語られます。任職の手順が記されますが、アロンは7節で「油そそぎ」を受けます。「メシア」また「キリスト」とは「油注がれた者」を意味します。旧約聖書では祭司や王の任職にあたっては、油が注がれます。油は神の霊の象徴であり、油を頭に注ぐことによって、彼が神によって選ばれ、立てられたことを明らかにするのです。イエスがキリストと呼ばれるのは、まことの預言者・祭司・王として立てられた者であることを示しています。アロンの子らは代々、祭司の務めを果たしましたが、キリスト・イエスこそまことの永遠の祭司なのです。次の御言葉のとおりです。
 「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブル7章24~25節)

 出エジプト以後、神との契約が改めて交わされ、そして幕屋が建てられ、祭司が任命されました。これにより、イスラエルの礼拝は神の御心に従って整えられていきました。約束の地を目指しながら、神を礼拝する民として必要なものが、一つ一つ、神御自身の手によって整えられていったのです。これらは皆、民が神を神とし、主と共に歩み続けるためでした。
 主なる神は言われました。「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である」(29章45~46節)

参考文献

  • 西満「出エジプト記」『新聖書注解 旧約1』いのちのことば社、1976年
  • 安田吉三郎「出エジプト記」『新実用聖書注解』いのちのことば社、2008年
  • 安藤俊悦『日毎のマナ 聖書通読のための一日一章』自費出版、2004年

十戒の学びのために・参考文献

  • 関田寛雄『十戒・主の祈り』日本基督教団出版局、1972年
  • ロッホマン/畠山保男:訳『自由の道しるべ 十戒による現代キリスト教倫理』新教出版社、1985年
  • ハワーワス/ウィリモン/東方敬信:訳/伊藤悟:訳『神の真理 キリスト教的生における十戒』新教出版社、2001年
  • シュタム/アンドリュウ/左近淑:訳/大野恵正:訳『十戒』新教出版社、1970年
  • 吉田隆:訳『ハイデルベルク信仰問答』新教出版社、1997年