旧約 第4週
創世記48章~出エジプト記13章

日本同盟基督教団 横浜上野町教会 牧師
柴田 智悦

2009年10月31日 初版

【日曜】 創世記48章~50章

 147年の地上の生涯を終えようとしているヤコブは(47章28節)、信仰と契約を継承しようと、子どもたちを祝福します。
 まず、ヨセフの子であるマナセとエフライムを自分の子として受け入れます。やがてイスラエル12部族が約束の地を分割するとき、相続地を持たないレビ族(民数18章23節)に代わって、マナセとエフライムが相続地を受けることになるのです。こうしてヨセフは2倍の祝福を受け、長子の権利を得ました(第一歴代5章1~2節、申命21章17節)。しかも、弟であるエフライムを兄であるマナセよりも先にすることによって、南北朝時代には北イスラエル王国そのものが「エフライム」と呼ばれるようになるのです(イザヤ7章2・5・9節。もっとも、マナセも12部族中最大の領地を得ることになりますが)。
 さらに、ユダに対する祝福はヨセフに勝るとも劣らず、ユダを中心とするイスラエル王国はダビデ王朝のもとで栄え、やがてその子孫として「ユダ族から出た獅子」(黙示録5章5節)と呼ばれるメシヤ(キリスト)が来臨し、諸国民はそのメシヤに従って真の祝福を得るようになるのです。
 こうしてヤコブは死に、マクペラの洞穴に葬られます。その後ヨセフも死に、300年以上経ってからモーセによって遺骸が携え上られ(出13章19節)、同じ墓に葬られます(ヨシュア24章32節)。

 信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。
 - ヘブル書11章21~22節 -

【月曜】 出エジプト記1章~2章

 ヨセフの死後、ヨセフのことを知らない新しい王は、おびただしく増えたイスラエル人を恐れ、重労働で苦しめました。また、ヘブル人の助産婦たちに命じて、イスラエル人に男の子が生まれたらその場で殺すよう命じました。
 しかし、神を恐れる助産婦たちは、人に従うより神に従ったので(参照:使徒5章29節)、主から祝福されました。
 また、神を恐れるモーセの両親によって、モーセは3ヶ月間かくまわれていました。もはやこれまでと両親が手放したとき、彼はパロ(ファラオ)の娘に拾われ、王女の息子として育てられることになりました。しかも、うばとして雇われたのは、モーセの実の母ヨケベデでした。
 40歳になったころ、モーセは同胞を顧みる心を起こしましたが、まだ主の時ではなかったため、皆に理解されず、ミデヤンの地に逃れ、そこで結婚し、子をもうけました(使徒7章18~29節)。
 さらに時が経ち、イスラエル人の重労働の叫びが神に届いたとき、神は彼らをご覧になって、みこころを留められました。主の時が来たのです。主のみわざである出エジプトの指導者として立てられるために、モーセには備えの期間が必要だったのです。

 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって3か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
 - ヘブル書11章23~26節 -

【火曜】 出エジプト記3章~4章

 モーセがミデヤンの荒野に逃れて40年が経ったとき、シナイの荒野にある神の山ホレブで、主の使いが柴の燃える炎のなかに現れました。主はモーセを荒野の生活の場から召し出され、イスラエルの民を救い出すため、彼に特別な使命を託されました(使徒7章30~36節)。イスラエルの民と契約を結ばれた主なる神(創世15章13~16節、26章1~5節、47章29~30節、48章21節、50章24節)が、モーセを指導者として、その民をエジプトの地から救い出そうとしておられます。
 さらに、召命に躊躇するモーセに、主は保証をお与えになります。「わたしはあなたとともにいる。・・・わたしがあなたを遣わすのだ」(3章12節)。自らの弱さを知るモーセは、インマヌエルの主によって遣わされるという信仰のゆえに、大胆に主のための働をなし得るのです。
 主が私たちを召されるとき必要なのは、自分の都合や弱点を告げることではなく、ただ従うことだけです。そのとき、モーセにアロンが備えられたように、必要な助け手も与えられます。
 しかし、モーセがパロ(ファラオ)の前に立つためには、まだ取り扱われる必要がありました。自分の息子に、主の契約のしるしである割礼(創世17章9~14節)を施していなかったモーセは、主から殺されそうになるほどの厳しいさばきを受けるのです。モーセは主に召されていながら、主に従うことに対して、まだ不徹底でした。モーセはそのことを最終的に取り扱われ、チッポラがゲルショムに割礼を施し、その包皮をモーセの両足につけることによって、改めて主の前に契約を結んだ家族として、主の契約に忠実であるという信仰を告白したのです(参照:第一コリント9章27節)。

【水曜】 出エジプト記5章~7章

 モーセとアロンはパロ(ファラオ)のところに行き、荒野へ3日の道のりの旅をさせ、自分たちの神、主にいけにえをささげさせてくれるよう交渉します。しかし、主があらかじめ仰せられていたように(3章19節)、エジプトの王は強いられなければイスラエルの民を行かそうとはしません。かえってイスラエルの民の労役を重くするよう命じました。その結果、モーセとアロンはイスラエル人からも責められるようになりました。
 八方ふさがりのようになったそのとき、モーセは主のもとに戻り、そして申し述べたのです(参照:第一コリント10章11~13節)。主は、この出エジプトという歴史的出来事が、「わたしは主である」と名乗るご自身の「強い手」によるみわざであることを繰り返し語られます。それは、主とイスラエルの民とが結んだ契約の成就なのです。主は「伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う」(6章6節)とおっしゃいます。それは、御子イエス様の血という尊い代価によって、私たちが罪の赦しという恵みを受けた、という福音の奥義を示す言葉です(エペソ1章7節)。出エジプトの出来事は、神である主の救いのご計画の全体を預言的に啓示しているのです。
 そして7章からは、主の介入による十の災いがもたらされます。まずナイルの水がことごとく血に変わります。エジプトの呪法師たちも同じことをしますが、血を水に戻すことはできません。エジプト全土は深刻な水不足となりますが、主の言われたとおりパロの心はかたくなになり、モーセたちの言うことを聞こうとはしませんでした(7章22節)。

【木曜】 出エジプト記8章~9章

 主がエジプトの地を蛙で覆われたとき(第2の災い)、呪法師たちも同じことをしますが、蛙を除き去ることはできませんでした。主はパロ(ファラオ)が望んだとおり翌日かえるを死に絶やしましたが、パロは強情なままでした。主がエジプト全土にぶよを発生させられたとき(第3の災い)、もはや呪法師たちに同じことはできず、「これは神の指です」と認めざるを得ませんでした。膿の出る腫物(第6の災い)は呪法師たちにも及んだので、彼らはモーセの前に立つことすらできませんでした。
 あぶの群れがエジプトに満ちたとき(第4の災い)と、非常に激しい疫病が家畜に起こったとき(第5の災い)、そしてきわめて激しい雹がエジプトに降ったとき(第7の災い)に、主は、エジプトに対するさばきとイスラエルに対する救いとを明確に区別されました(8章22節、9章4・26節)。主のさばきは救いか滅びかであり、その中間はありません。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は・・・すでにさばかれている」(ヨハネ3章18節)からです。
 パロはモーセとアロンに祈りを求め(8章8・28節、9章28節)、とうとう「私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ」(9章27節)とさえ告白したにもかかわらず、主が言われたとおりパロの心はかたくなになり(8章19節、9章12・35節)、強情で(8章15・32節、9章34節)、モーセたちの言うことを聞き入れず、彼らを行かせようとはしませんでした。パロは神である主を恐れておらず、主の強い御手によらなければ出エジプトは起こらない状況でした。人間はどこまでも強情で、主のご聖霊によらなければ、真に罪を悔い改めてイエス様を主と告白することすらできないのです(第一コリント12章3節)。

【金曜】 出エジプト記10章~11章

 モーセとアロンが第8の災いを警告したとき、パロ(ファラオ)は家臣たちの進言を受け入れ、壮年の男子だけを行かせようとしました。しかし、主はいなごの大群でエジプト全土を襲わせました。パロは、「私は・・・罪を犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ」(10章16~17節)と願いますが、やはり心をかたくなにします。エジプト全土が3日間真っ暗闇となったとき(第9の災い。このときもイスラエル人の住む所には光がありました)、パロは家畜を残して行ってもよいと言いました。しかし、主のご命令に対して取引はできないのです。モーセが拒否したので、またパロの心はかたくなになりました。
 そして主は、最後の災いを警告されます。エジプト国中の初子がみな死ぬ一方、イスラエル人だけは区別されて救われる、というものです。このとき以降、過越の祭りは、主の贖いという救いの恵みを覚え、人類の救いを預言する祭儀として、イスラエルの民の大切な行事となります。さらに、イエス様の十字架の贖いの死を記念する聖餐の礼典にまでつながるのです。
 主がパロの心を強情にされたのは、主がエジプトとイスラエルの民の間で十の災いすべてを行ない、その主のみわざをイスラエルの民が子孫に語り伝えるためでした。それは、「わたし」と言われるお方こそが神なる主であることを、すべての民が認めるようになるためです。聖餐にあずかる私たちにも、神である主のなされた救いのみわざを語り続け、主を証しする責任が託されているのです(第一コリント11章26節)。

【土曜】 出エジプト記12章~13章

 主は、予告された過越をどのように守るべきか、その規定を示され、イスラエルの民は、モーセの指示に従ってそれを守りました。真夜中になって、主ご自身が行き巡られ、エジプトのすべての初子を打たれました。こうして過越の出来事が成就し、エジプトはイスラエルの民を強制的に追い出しました。
 主はエジプトがイスラエルの民に好意を持つようにされたので、イスラエル人はエジプトからはぎ取りました。壮年男子だけで約60万人、女性や子ども、多くの入り混じって来た外国人、非常に多くの家畜も一緒でした。出エジプトはまさに主のみわざなのです。そして、主がイスラエルの民に命じられた過越は、約束の地に入ってからも、語り続け、守り続けるべきものとされました。それは、出エジプトの出来事が、主の主権的な恵みのみわざであったことを、信仰として告白していくためでした。
 イスラエルの民が主の恵みのみわざとして受けた出エジプトは、主の契約の成就でした。その契約を信じ続けたヨセフの信仰(創世50章25節)を、モーセは、ヨセフの遺骸を携えていくことによって継承したのです。私たちも、主ご自身に対する信頼と忍耐をもって、信仰を継承していくとき、主の恵みの約束のすばらしさを体験させていただけるのです。

 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。信仰によって・・・彼は過越と血の注ぎとを行いました。
 - ヘブル書11章27~28節 -