旧約 第3週
創世記34章~47章

日本バプテスト教会連合
クロスロード・バプテスト教会 牧師

中野 拓哉

2009年10月31日 初版

【日曜】 創世記34章~35章

【34章】 原因と結果

 事の始まりは、ヤコブの一人娘、ディナが独りで家を出て遊びに行ったことです(1節)。その結果、この土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムは、彼女をはずかしめました(2節)。もちろんシェケムが悪くないわけではありませんが、思慮分別に欠けた行動の代償は大きなものでした。
 シェケムは、この大きな罪をごまかすためなのか、男としての責任を感じたのか、自己中心の気持ちのまま結婚を言い出します(4節)。さらに、その父ハモルは「どんなに高い花嫁料」(12節)でもかまわないと、お金で問題を解決しようとしています。謝罪や反省ではなく、ごまかしや問題のすり替え、本質的な問題の解決を避ける態度が、次の問題につながっていきます。
 13人兄弟の唯一の女の子を汚された兄達の怒り(7節)は、わからないわけではありません。確かに最初に悪を行ったのは相手でした。しかし、罪に対して罪で報い、神様からの選びの印である割礼を騙しの口実に使い(14~16節)、弱っている相手を一族もろとも滅ぼし(25節)、盗み(27節)、そして結局そこにいられなくなる(30節)という結果を招きました。そもそも、この問題は、果たすべき約束(31章13節)を果たさず、まっすぐにべテルに帰らなかったことに原因があったのかもしれません。
 私たちには例外なく、罪という原因と、死という結果がある、と聖書は言います。それとともに、その原因と結果の因果関係を断ち切ってくださったイエスさまの十字架があることも、聖書は教えます。ここに希望があるのです。

【35章】 従う者の祝福

 ハランからシェケムまでの数百kmと比べれば、ヤコブたちが住んでいたシェケムと神様が示すベテルとは数十kmしか離れていません。本来はもっと速やかに神様を礼拝するべきベテルに行くべきでしたが、ヤコブはハランからシェケムに戻って数年間(参照:33章17節)、まるで神様との約束を忘れたかのようでした。ヤコブが国を出るとき持っていたものは杖のみでしたが、神様の恵みのゆえに今は多くの財産を持ち(32章10節)、唯一の心配の種である兄エサウとも和解した後、神様は約束を思い出させます(1節)。苦難を体験し、神様の言葉によって約束を思い出し、自分のすべきこと(礼拝)をはっきりと悟り、偶像を排除し(2・4節)、ベテルに出発します。
 神様の示す道にまっすぐに従い始めたヤコブたち一行は、不思議な力に守られて(5節)、ついにベテルにたどり着き、神様との約束を果たすことができたとき、神様は新しい名前、そして子々孫々にいたる大いなる祝福を与えてくださいました。
 この章には、母リベカの乳母(8節)、愛する妻ラケル(19節)、そしてイサク(29節)の死が語られています。私たちも日常のなかで死を経験します。悲しみや痛みを伴いますが、人は必ずいつか別れを経験しなければなりません。だからこそ、それを超えさせてくださり、死の解決を与えてくださる、神様の祝福こそ、すべてにまさって私たちの求めるべきものなのです。

【月曜】 創世記36章~37章

【36章】 この世の成功と神様の祝福

 ここには、「エサウ=エドム」あるいは「エサウ=エドム人の先祖」という表現が5回記されています(1・8・9・19・43節)。エサウはヤコブの双子の兄で、父はイサク、母はリベカです。当時の習慣で言えば、兄のエサウが跡継ぎとなるべきでした。しかし、エサウは長子の権利を軽蔑し(25章34節)、神様の祝福を軽んじたのです。
 創世記の書き方の特徴の一つは、直系の歴史の前に傍系の歴史(あるいは系図)を記すというものです。アダムの歴史(5章)の前にカインの系図(4章)、イサクの歴史(25章19節)の前にイシュマエルの歴史(25章12節)という具合です。ここでもヤコブの歴史(37章2節)の前にエサウの歴史(1節)が記されています。
 さてここに、エサウの妻がカナン人であったことが記されています(2節)。祖父アブラハムも(24章3節)、父イサクも(28章1節)、カナン人と結婚させないようにしました。もちろん現代の人種差別的な意味ではなく、信仰の純粋さを保つということでしたが、エサウはそれを軽視したのです。
 エサウはたくさんの財産を得て(7節)、子孫や民族も増え広がっていきました。しかし神様との関係が記されていません。そして後には、神の民の敵となり(第一サムエル14章47節、第二歴代20章など)、滅ぼされていくのです。
 一時的なこの世の成功と、永遠の神様の祝福を比べれば、一目瞭然ですが、それでも前者を求める者が多いのも事実です。

【37章】 神の計画 ~過去の失敗と未来の希望~

 ヤコブには13人の子どもがいました。ヤコブが最も愛した妻、故ラケルの長男ヨセフは、特別に愛されました。そのことで兄弟の嫉妬を買います。実はヤコブ自身も偏愛の両親のもとで育っていたのです(25章28節)。ヨセフを亡くしたと思ったとき(35節)、親の失敗を思ったかもしれません。また、父を騙した山羊(27章16節)によって、自分も騙されています(31節)。過去の罪が繰り返されるかのようです。
 この箇所のあらすじは、以下のとおりです。ヨセフは羊飼いでした(2節)。ヨセフは父の愛を一身に受け(3節)、また父に従順でした(13節)。しかし彼は支配者になる夢を見(7・9節)、兄弟たちに憎まれ(4・5・8節)、殺そうと謀られ(18節)、最終的に嫉妬によって銀20枚で売られました(28節)。このヨセフは、イエス・キリストのひな形とか予型といわれます。37章から抜粋した上記のヨセフに起きた出来事は、すべてイエス様と重なります。イエス様は、よき羊飼いであり、父なる神の愛する子であり、従順でしたが、救い主であることを示すと、同胞のユダヤ人に憎まれ、売られ、十字架で殺されるのでした。
 しかし、この箇所には書かれていませんが、ヨセフはエジプトの支配者になり(41章41節)、世界を救う者となりました。同じようにイエス様も、救いを完成させ、神様の右の座に着く王となられました。過去の失敗が繰り返されるように見えるなかでも、神様の救いのご計画だけが成就していくのです。そこに私たちの希望があるのです。

【火曜】 創世記38章~40章

【38章】 人の考えと神の計画

 37章から始まったヨセフ物語ですが、38章でユダのエピソードが挿入されています。神様の壮大な救いのご計画のなかでユダはイエス様につながる家系ですが、ここにはそれに相応しくない人間の愚かさ満載の出来事が記されています。
 ユダは、神の民である兄弟たちから離れ(1節)、曽祖父アブラハムも(24章3節)祖父イサクも(28章1節)禁止したカナンの女性と結婚し、長子エル、次男オナンは神を怒らせ(7・10節)、約束(11節)を無視して三男シェラと嫁のタマルを結婚させず(14節)、自分はカナンの遊女を買い(16節)、嫁タマルに騙されて子を儲け(18節)、その嫁の不貞を知り、焼き殺させようとさえした(24節)人なのです。
 人の考えはことごとく愚かですが、その愚かさをとおしても、神様のご計画は遂行されます。

【39章】 罪を憎み、神を恐れる

 ヨセフが「売られた」のは不幸であり、試練でした。しかしその状況に反してヨセフは幸運であり(2節)、さらにヨセフによって主人もその家族も幸運を受ける者となりました。その幸運の源は神様だったのです(5節)。ヨセフをとおして周りを祝福したように、神様は私たちをとおして周りを祝福するお方です。
 さて、そのようなヨセフの次の試練は「誘惑」(7・12節)でした。彼はこの誘惑に対して拒否し、結局は罠にはめられ監獄にいく羽目になりましたが(20節)、またしても幸運に恵まれ(21節)、神様が成功させてくださったのです(23節)。
 「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(9節)とあります。不運から幸運に、常に神様の祝福に至るヨセフの特徴は、「悪を憎み、神を恐れる」ことであったと言えます。

【40章】 神のなさること

 投獄された献酌官と調理官というのは王の側近で高級官僚でした。収監されていた期間は定かではありませんが、ヨセフが世話をし、信頼関係が築かれるまでになっていました(9節参照)。一説によると、ヨセフはこの時期に高官たちから政治・経済などを学んだとも言われています。もしそうなら、監獄が未来の宰相の学び舎だったのです。これも神様のなさることです。
 さて、収監中の2人の高官が、夢を見て心配しました。それに気づいて(6節)、的確に声をかけたことが(7節)、夢を語らせ、夢を解き明かす機会となりました。これは「神様のなさること」というヨセフの神様に信頼する姿勢によるのです(8節)。そしてヨセフの夢解きのとおりになりました(21~22節)。ただ、ヨセフの計画(14節)どおりにはならず、献酌官長はそのことを忘れ、パロ(ファラオ)に進言しませんでした(23節)。しかし、これによって、ここぞのときに、直接パロの夢を解き明かし、エジプトの支配者になっていくのです(41章41節)。
 自分の願いどおりに物事が進むことが、神様がともにおられる証拠ではなく、神様のなさることに時があることを教えられます。

【水曜】 創世記41章

【41章】 この世の知恵と神の知恵

 ヨセフはなお2年間獄中生活を耐えなければなりませんでした。しかし、ついにパロ(ファラオ)の夢によって「急いで」牢から出されたのです(14節)。
 40章にも高官の夢のエピソードが記されていましたが、夢は、その頃のエジプトにおいて預言的な意味があるとされ、夢の解釈の専門家が多く存在していました。そして、その専門家たちは「呪法師」と言われ、いわゆる魔術師や占い師の類ではありましたが、同時に「知恵のある者たち」でもあり(8節)、今日の学者や知識人、有識者のような存在でした。
 当時のエジプトといえば、世界一の富、権力、軍事力、文化を誇った国です。ピラミッド、スフィンクス、神殿、壁画、たくさんの美術品、数学、天文学、気象学、建築学のすぐれた知識が存在したのです。もちろんパロはその中でも最高の知識人から知恵を得ることが出来る存在でした。しかし、パロお抱えの文明の最先端の知識人たちですら何の解決も与えられない問題が起こり、ヨセフが呼び出されたのです。
 ヨセフからすれば、突然、思いがけず、何の準備もないときに呼びされ、いきなりエジプト王の前に立たされたのです。囚人でしたから失敗は許されない状況で、しかも相手にするのは世界の最高峰の知識と知恵だったのです。プレッシャーも当然のことだったでしょう。しかし、ヨセフは動じる様子もなく、私ではなく、ただ「神が」と信頼していました。
 新改訳のこの章には、「神が」という言葉が7回も出てきます(16・25・28・32・39・51・52節)。ヨセフの強みは、彼のすぐれた能力とか、運がいいとか、倫理的にすぐれているとかいうことではなく、神への信頼です。そのことによって神様からのすぐれた知恵や幸運をいただいていたのです。そして、ヨセフは、当時最も文明と繁栄を誇っていたエジプトの王パロに、「神の霊の宿っている人」(38節)と称えられ、神様の栄光を大いにあらわす人になったのです。実際に国を支配する宰相にのぼりつめたのです(41節)。もちろん、ヨセフが最高の権威を得たこと以上に、世界が飢饉から救われたことの方がより意味深いことでしょう。それらすべてのすばらしいことの背後にあったのは、神の知恵と、それに信頼し栄光を帰す「神が」というヨセフの信仰だったのです。
 41章は、この世の知恵と神の知恵との違いをあざやかに示す箇所です。と同時に、この世に関すること(現実、肉的、科学)と神に関すること(聖書的理想、霊的、信仰)とをステレオタイプに対比して考えるのではなく、すべてが神様の領域である、ということを教える箇所でもあります。

【木曜】 創世記42章~43章

【42章】 人を恐れる者と神を恐れる者

 ヨセフの解き明かしのとおり、世界的な飢饉が到来しました(41章57節)。エジプトに穀物があるというニュースを聞きつけたヤコブは、買い付けのためにさっそく10人の息子たちを送り出します。ただベニヤミンだけは、災いに遭わないようにと留め置きました。ヤコブは信仰の人でしたが、ヨセフを失って後、同じ妻の唯一残された子ベニヤミンを偏愛するあまり、彼を失うのを極度に恐れたのです。
 また、袋に銀が返されていたことを知ったときも、身を震わせて恐れました。エジプトに行った10人の息子たちも同様でした。
 他方、ヨセフは、どんなときも人を恐れず、神様を恐れ、主に信頼しました。困難にあっても神様に恨みごとを言わず、出世や保身を図ることもしませんでした。神を恐れていたからです。
 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」 箴言29章25節(新改訳)

【43章】 決心と安心

 いよいよ飢饉が激しくなり、再び穀物を求めてヨセフのところに行かなければならない状況になりました。ベニヤミンを行かせることに頑なだったヤコブですが、一族の危機を前に、ベニヤミンの同行を決心します。結末を知っている読み手にとってはなかなか実感のわかないところですが、このヤコブの決心は相当の覚悟、自分の命以上のものを賭け、信仰を働かせ、祈って一歩踏み出すものでした(14節)。そして、その覚悟を促したのは、ユダの覚悟だったのでしょう(9節)。
 私たちも、信仰をもって神様に従うときに、信頼、服従、犠牲の決心を求められることがあるかもしれません。けれど、後から振り返れば、このヨセフ物語を読むかのように、神様のご計画どおり、恵み豊かであったことを知るのです。
 ヨセフの夢(37章7・9節)は成就(43章26・28節)しました。神様の預言はすべて成就するのです。また、ヨセフは、安心しなさいと声をかけ(23節)、兄たちを食卓に招きました(34節)。神様は、決心して歩みだす者を安心へと導き、祝宴に招いてくださるでしょう。

【金曜】 創世記44章~45章

【44章】 変えられた者たち

 兄弟たちの2度目の食糧買出しは、ためらい(43章10節)が馬鹿らしくなるほどに、あまりにもスムーズにことが運びました。しかし最後に苦難が待っていたのです。
 愛する弟ベニヤミンの袋のなかに密かに銀の杯を入れさせ、祝宴の喜びの帰り道に兄弟たちを驚愕させ苦しめたヨセフの仕打ちは、残酷にも見えます。しかし、これは、なおも彼らを試みるための深い知恵による計画でした。後に、自分を制することができずに(45章1節)、ついに正体を明かす(45章3節)ヨセフの言動からは、そう推察できます。
 この苦難に対しての兄弟たちの対応は、彼らが変えられたことをあらわすものでした。昔の彼らであったなら、盗みを犯したベニヤミンを残し、喜んで父の元に帰り(17節)、平穏無事に暮らしたでしょう。しかし彼らは兄弟全員で引き返し(13節)、弁解せず、全員で罰を受け、償う覚悟を示し、ベニヤミンを責めるのでもなく、神様が自分たちの咎をあばかれたと言って(16節)、神様をはっきりと認め恐れるに至っています。
 また、ごまかしや嘘ではなく、正直で力強い、切実な訴えからは、父を思い、弟を思う愛情が響いてきます。そしてユダに至っては、身代わりを申し出、命をかけて真実にとりなすのです。神様からの取り扱いを受け、試練によって変えられた兄弟たちの姿を見ます。このユダの子孫から、ダビデやイエス様が生まれてくるという、壮大な神様のご計画も、私たちは同時に覚えておきたいものです。

【45章】 神様のご計画の全貌

 ユダの身代わりの申し出をクライマックスに、感極まったヨセフは声を上げて泣きました(2節)。ヨセフはどれほどこの時を待っていたことでしょう。また、エジプトの宰相が急に通訳なしに話し始め、それがヨセフであるとわかったときの兄弟たちの驚きたるや、いかばかりだったことでしょう。
 5~9節のところで、「神は」あるいは「神なのです」と「神」という言葉が5回出てきます。このときすでにヨセフには兄弟たちへの憎しみや復讐心はなく、むしろ兄たちを慰め励まし(5節)、神様のご計画がとてつもなくすばらしいものであることに感動しながら、すべてが神様の導きであることを証ししています。神様を恐れ、その摂理に感動し、恵みに感謝することが、神様を証しすることです。
 ヨセフに全幅の信頼を寄せるパロも、ヨセフ一家に好意を示し、車などすばらしい贈物を与えました。あまりにも荒唐無稽な話に、ヤコブは信じられず、「気が遠くなった」(新共同訳)あるいは「ぼんやりしていた」(新改訳)と訳される状態でした。それほどの神様の不思議なみわざに直面したとき、ただヨセフが生きていることに「それで十分」(新改訳)「満足」(口語訳)と答えるだけでした。ここに至ってヤコブはこれまでまったく知りえなかった神様のご計画を知り、神様の愛のすばらしさを知ったことでしょう。

【土曜】 創世記46章~47章

【46章】 神の民の特徴

 エジプトへの招きの後、ヤコブはベエル・シェバに行き、感謝のいけにえを神様にささげました。これまでのエジプトとの関わりを考えると(12章14節・15章13節・26章2節)、恐れたのかもしれません。しかし神様は「恐れるな」と励まし、恵みの約束を与えてくださいました。恐れであれ、感謝であれ、礼拝に導かれていることが、契約の民、信仰の民であることの証であると知ります。
 8~27節にはイスラエルの子たちのエジプトに下った者の名と数が記されていますが、この箇所は一種の権利証的な要素を含んでいると考えられます。神の民の名は「天にしるされて」(ルカ10章20節)いるのです。
 ゴシェンは、北エジプトの肥沃なナイルデルタの東部にあたり、家畜を飼うのに適した地でした。ヨセフとヤコブはそこで再会し、以降、その地に住み着きます。エジプト人の忌み嫌う「羊飼い」という職業を名乗り出て、彼らとは生活を切り離し、一線を画して歩んでいくためでした。エジプト人の地に住みながらも、エジプト人とは異なる歩みを選択したのです。クリスチャンが、この世で歩みながらも、神の民として一線を画して歩んでいく姿に重なります。

【47章】 この世の権威と神の権威

 いよいよヤコブ一家はゴシェンの地に移り住み、ヨセフの引き合わせでパロとの対面がかないました。このときのヤコブ一家の思いは、寄留、すなわち一時滞在でした(4節)。この民にとっては、たとえエジプトが富んでいたとしても、すぐれた文明の国であったとしても、決して永住する地ではなかったのです。また、ヤコブは臆することなく大国の王パロを祝福して(口語訳7・10節)、この世の権威ではなく、神様の権威の優位性を示しました。この世の権力や物質的なものはパロが持っていたかもしれませんが、全能の神の恵みはヤコブが持っていたのです。
 ヨセフは変わらずエジプトの宰相でしたが、決してその地位を誇るのではなく、その地位にあってできる最善を尽くしていきました。うがった見方をすれば、銀を集め(14節)、家畜を取り上げている(16節)ようにも読めますし、農地を取り上げてエジプト国民を奴隷化しようとしているように感じられるかもしれません。しかし、それらは飢饉のなかにある民衆の自発的なものですし、事実、彼らはヨセフによって生き延びたと感じ(25節)、信頼しました。種を無料で配り(23節)、上納を2割としたのも(24節)、古代社会の税率と比べるとはるかに寛大なものでした。それに、民から財産を得たのは、自分のものとするのではなく、危機による混乱の時代にあって、管理権をパロ(公)に移すことによって、民の浪費を防くためでもあったのでしょう。ここに、神様の権威の下にある者の姿を見ることができるのです。

参考文献

  • 舟喜信「創世記」『新聖書注解 旧約1』いのちのことば社、1976年
  • 松本任弘「創世記」『実用聖書注解』いのちのことば社、1995年
  • 『ウェスレー・バイブル注解 第一巻』イムマヌエル綜合伝道団出版局、1996年
  • 『ウェスレアン聖書注解 旧約篇 第1巻』イムマヌエル綜合伝道団、1984年
  • 『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年
  • 『新聖書辞典』いのちのことば社、1985年