旧約 第2週
創世記21章~33章

日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会 牧師
朝岡 勝

2009年10月31日 初版

【日曜】 創世記21章~23章

【1】 契約の実現

 12章で与えられた神の契約がついに実現し、アブラハム、サラ夫妻にこれまで繰り返し約束されてきた待望の男児が与えられます。「主は約束されたとおり」に年老いた不妊の女サラを顧み、「仰せられたとおり」に、主の使いの来訪から1年後、サラにイサクを与えられました。神の契約は人間的な常識や不安をいっさい払拭するほどに確かなものなのです。
 「イサク」という名は「彼は笑う」という意味です。かつてアブラハムはイサク誕生の約束に対して不信仰のゆえに笑い、サラもまたその約束を笑いました。しかし神はご自身の契約にどこまでも忠実であられ、恵みを施してくださるお方であり、サラを真の喜びに満たしてくださったのです。

【2】 契約の危機

 こうして与えられた契約の子イサクについて、神はアブラハムに大きな試練を与えられます。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(22章2節)。
 この最大の試練に対して聖書は、アブラハムの内面に踏み込むことをせず、むしろ彼が淡々と従っていく様を描きます。口を閉ざし黙々と3日の道のりを歩み、息子を焼くためのたきぎを自らの手で用意し、それを息子の背に背負わせ、そうやって神の命じられたモリヤの山へと向かっていく。奥深い信仰の世界とそこでの神との真剣勝負の関わりということを教えられます。
 しかしそのようにして主に従い続け、イサクを主にささげたときに、主はその信仰を受けとめ、イサクにかわるいけにえの雄羊を備えてくださいました。主はまことにご自身のためにすべてを備えたもう「アドナイ・イルエ」なるお方です。

【3】 葬りを越えて

 主にささげ、主から新しくイサクを与えられたアブラハムに、次なる試練が訪れます。それは最愛の妻サラとの死別でした。彼は妻の死に際して「嘆き、泣いた」と記されます。息子イサクをささげよ、との命令を受けたときには淡々と主の命令に従っていったアブラハムも、このときには涙を流して嘆き悲しんだと、創世記はアブラハムの心の動きをそのまま伝えています。
 しかし彼はいつまでも嘆き続けていたわけではありません。ヘテ人マクペラの墓地を買い求め、そこに妻の亡骸を葬りました。後の日のよみがえりを信じ、旅人、寄留者として生きる信仰者の姿を、ここに見出します。

【月曜】 創世記24章

【1】 神の導きを求めて

 年を重ね老年を迎えたアブラハムは、契約を受け継ぐ息子イサクにふさわしい伴侶を求めて、しもべを、自分の生まれ故郷へと遣わします。
 このしもべはアブラハムの全財産を管理する最年長のしもべと言われ、アブラハムにとって最も信頼のおける人物として登場してきます。彼の忠実さは、この後の物語を読み進めればわかるように、実に信仰深く真実味にあふれた奉仕の姿勢に表れています。その信仰や決断力、人生経験から来る人物判定などが用いられて、イサクに最もふさわしい女性が見出されるに至るのです。
 こうして遣わされたしもべは、神の導きを求めて具体的に祈ります。私たちも神への願い求めにおいては、大胆かつ具体的に祈るものでありたいと思います。

【2】 示された御心

 しもべがまだ祈り終わらないうちに、一人の女性が水瓶を肩にしてやって来ます。聖書は、しもべより早く、読者に対して、この女性こそがしもべの祈ったとおりの、まさにその人であることを知らせてくれます。その娘は、アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘リベカでした。
 リベカとの摂理的な出会いを経験したしもべは、すぐさまその場でひざまずき、神様への感謝の礼拝をささげます。この旅の途上、幾度となく繰り返される祈りの姿です。彼がいかに神に全面的な信頼を置いてこの業に取り組んでいるかが、うかがい知れます。
 神に祈ったことはすでに叶えられたと信じて進む信仰。神に全面的な信頼を置く信仰。そしてそれが最後まで叶えられるときまで、浮かれず、騒がず、忍耐強く、祈りを見届ける信仰。私たちも、そのような神の主権に基づいた、どっしりとした信仰を養いたいと思うのです。

【3】 ベトエル、ラバンの信仰、リベカの信仰、イサクの信仰

 祈りの答えを勝ち取ったしもべは、さっそくリベカの結婚の承諾を得るために、父ベトエルと兄ラバンのいる家へと向かいます。しもべの申し出を受けた2人は、「主から出たことに善し悪しを言うことはできない」と、信仰をもって受けとめます。リベカも、この結婚を神の導きとして確信し、家族と故郷を離れ、見ず知らずの土地の会ったこともない人物のもとに嫁ぐ決心をきっぱりと下していきます。
 イサクにも信仰が求められます。イサクは自分の妻となるべき人物を自分で見つけ出したわけではありません。しかしそれでも、見ず知らずの相手に主の導きがあることを信頼して、リベカを妻として迎えます。
 こうして結ばれた2人は、お互いに契約の主に信頼を置いていきました。人生のさまざまな局面において、いつでも主の御心を求め、明らかにされたところに従う信仰を教えられます。

【火曜】 創世記25章~26章

【1】 アブラハムの最期

 信仰の父アブラハムの175年にわたる波乱に満ちた地上での生涯が閉じられます。「以上は、アブラハムの一生の年で、175年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」(25章7~8節)。
 行き先を知らずにウルの地を後にしてから、約束の地を目指して歩んだ旅の日々が50年あまり、そして約束の地カナンに定住しての日々がおよそ50年。一言で振り返るにはあまりに多彩な、実に様々な出来事のあふれる人生でした。そういうアブラハムの人生全体の締めくくりに当たり、聖書はその日々の終わりが平安な老年であり、生涯を全うしたと記します。
 神の御心に従って生きるとき、その人生は真の意味で全うされ、満ち足りた人生となる。これが聖書の人生観です。

【2】 イサクと二人の息子たち

 「これはアブラハムの子、イサクの歴史である。アブラハムはイサクを生んだ」(25章19節)との書き出しで始まるこの箇所から35章までが、神の契約に基づく創世記の新しい展開となります。父母同様、イサク夫妻もなかなか子どもが与えられず、神に祈り求める日々でしたが、ついにその祈りは応えられ、妻リベカは双子を身に宿します。
 やがて月が満ちて生まれた双子は、実に対照的で個性的な息子たちでした。長男は毛深く赤いことからエサウと名付けられ、次男はエサウのかかとをつかんで出て来たことからヤコブと命名されました。やがて、エサウは猟師で野の人、ヤコブは穏やかな人として成長します。
 しかし、長子の権利をめぐる確執のなかで、神の約束を軽んじるエサウから、策略を用いてでもそれを得ようとするヤコブへ、その権利が移されていきます。人間の罪深く愚かな営みを通してさえも、神の選びは弟ヤコブにあることが明らかにされていくのです。

【3】 イサクの過ち

 26章には、イサクが遭遇した試練と過ちが記されます。それは父アブラハムもかつて経験した、飢饉という試練と、自分の妻を妹と偽るという過ちでした。皮肉なことにアブラハムからイサクに受け継がれていったものは、信仰のみならず罪の性質も含まれていたのです。
 イサクをこのような失敗に導いた原因。それは、人々に対する恐れと、神に対する不信仰でした。人々を恐れて神様の守りを信じなかった彼は、妻を妹と偽り、結果的にゲラル王に不利益を招くことになるのです。
 これらの試練と過ち、またゲラルの谷間で井戸を掘り返す経験を通して、イサクは、ただ単に父アブラハムへの祝福の約束を自動的に受け継ぎ、次代に引き継ぐのではなく、自らの手でその約束を受け取り、受け渡していくのでした。

【水曜】 創世記27章

【1】 イサクとリベカの問題

 エサウとヤコブの兄弟関係の確執の背後には、イサクとヤコブの子育ての問題が影を落としています。父イサクはエサウを寵愛し、母リベカはヤコブを溺愛する。そのなかで、母リベカの入れ知恵によってヤコブは父イサクをそそのかし、兄エサウへの祝福を横取りしていきます。
 父イサクの問題、それは、神の祝福をあたかも己れの自由になるかのように考えて、自己主張を連発する姿です。一方、母リベカの問題も深刻です。ヤコブを愛するあまり、夫イサクをだます手引きをする姿には、イサクを立てている主なる神ご自身への恐れは感じられません。

【2】 横取りするヤコブ

 兄エサウになりすまし、長子への祝福を横取りするヤコブ。人間的に見れば、こんな彼が神の祝福を受け継ぐに相応しい者だろうかと困惑すら覚えますし、そのようにして受け取った祝福ははたして有効なのだろうかとさえ思います。
 しかし、この点において聖書の答えは明確です。それは有効なのです。リベカやヤコブの欺きやイサクの誤解にも関わらず、それをも用い、乗り越えてご自身のご計画を全うされるという神のご計画と摂理の確かさです。確かに欺きは何があっても正当化されません。罪によって神の行為が成立するのではなく、神様が摂理においてご自身のご計画を成就される。このことの持つ厳粛さを覚えたいと思います。

【3】 取り乱すエサウ

 兄になりすまして父親からの祝福を受け取った弟ヤコブと入れ違うようにして、兄エサウが父のもとにやって来ます。そして彼は、父からの祝福を弟ヤコブが横取りしていった事実を知るのです。父イサクもまた、自分の祝福した相手がエサウではなくヤコブであったことに大変な衝撃を受けます。エサウは大声で泣き叫び、取り乱し、父に訴えかけ、そして弟への怒りをぶちまけます。
 しかしあらためて考えてみれば、長子の権利はヤコブが奪ったのではなく、エサウが納得の上でヤコブに譲渡したものでした。「こんなもの今の私に何になろう」と祝福の権利を軽んじたのは、他ならぬエサウ本人だったのです。それが今となって、長子の権利や祝福の内容がわかってきて初めて、それへの執着心が生まれてきているのです。
 彼の問題はつまるところ、祝福に対する認識の誤りでした。彼は祝福を、神様からでなく父からのものとして理解していたのです。これらの出来事を通して、人の思惑で扱うことの許されない、神の祝福の重みということを教えられます。

【木曜】 創世記28章~29章

【1】 生ける神との出会い

 長子の祝福を巡って兄から命を狙われるまでになったヤコブは、両親のもとから旅立っていきます。「ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った」(28章10節)。この旅立ちは決して希望にあふれたものではありませんでした。それは兄からの逃亡の旅であり、両親との別離の旅であり、見知らぬ土地へと向かう孤独の旅でもあったのです。
 しかしそれはまた、ヤコブが祝福の継承者となっていくための、かけがえのない人生訓練の旅でもありました。自分自身と向かい合い、自分自身を深く省みる自省の旅であり、目に見える祝福からひとたび離れていく旅であり、家族、一族揃っての礼拝の交わりから離れる旅であり、「一人で神の前に立つ」ための旅だったのです。
 こうして彼はその旅路の途上で、生ける神との出会いを経験していきます。主なる神がともにおられること、それが「ベテル」(神の家)の経験だったのです。

【2】 ヤコブの新しい出発

 ヤコブは、神様との遭遇の出来事の記念として、石の柱を築き、礼拝を捧げ、そこを「ベテル」(神の家)と名付けると、そこで神の御前に誓願を立てます。ヤコブの新しい出発の記念です。
 ヤコブは、「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられる」(28章20~21節)と告白し、この神に対して「石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます」(同22節)と献身の表明をします。ここに神とともに歩むヤコブの、契約の継承者としての人生が新しい出発を迎えるのでした。

【3】 ハランの地で

 29章では、ヤコブのハランにおける新しい人生が描き出されていきます。「ヤコブは旅を続けて、東の人々の国に行った」(1節)。生まれ育った父の家ベエル・シェバから荒野を経ておよそ1,000kmにわたる旅の末、ヤコブはついに祖父ベトエルの家、叔父ラバンの住むパダン・アラムに到着します。そして、まるで偶然辿り着いたかのように見えるこの場所で、ヤコブは運命的な出会い、妻となるべきラケルとの出会いを果たすのです。
 しかしその後のヤコブの人生は、決して平坦なものでありませんでした。叔父ラバンに欺かれての労働の日々、ラケル、レアとの結婚生活における苦難。これらを通してヤコブは、人生の刈り取りを経験し、そのなかでさらに主の訓練を受けるのでした。

【金曜】 創世記30章

【1】 2人の妻の狭間で

 2人の妻、姉のレアと妹のラケル、さらにはそれぞれの女奴隷ジルパとビルハとの間に、次々と男子をもうけていくヤコブ。本来なら大喜びするはずのこれらの出来事も、夫をめぐる女たちの争いの物語となってしまっては、悲劇というほかありません。しかもこれらの出来事におけるヤコブの存在感はまったく希薄です。
 女性たちは、夫の愛情を勝ち取りさえすれば満足できると思い、躍起になります。しかし、彼女たちの心は、かえって憎しみやねたみで縛りつけられていくのです。恨みや復讐心では、人は生きて行けません。そこに十字架の赦しがそびえ立たない限り、人は真に罪から解放されることはないのです。
 人間の欲や罪が生み出す様々な思惑にもかかわらず、主なる神がお与えくださる恵みと慈しみについて、ヤコブとラケルとの間に与えられた念願の子どもヨセフの誕生の出来事を通して教えられたいと思います。

【2】 ヨセフ、ベニヤミンの誕生

 姉のレア、そして女奴隷のジルパとビルハが、愛する夫ヤコブの子どもを次々に出産しているのに、いまだ自分の腹を痛めた子を産んだことのないラケル。その切なる願いがついに叶えられます。「神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」(22節)。こうしてラケルに与えられた子どもは、ヨセフと名付けられます。さらに神は恵みを加えて、ラケルにもう一人の子、ベニヤミンを与えられるのでした。
 ここに私たちは、主が増し加えてくださり、付け加えてくださる恵みの大きさ、豊かさを見ることができます。それまで子どもが与えられないがゆえに希望を持てず、汚名をかぶっていたラケルが、主なる神の恵みによってその汚名を取り去られ、新たに子どもが与えられ、さらにそれにもう一人の子どもまでも与えられるという恵みの経験をしていくのです。

【3】 ラバンのもとでの最後の日々

 ラバンのもとで働く月日が経つうちに、ヤコブのなかに焦りにも似た感情が生まれ始め、ついに彼は生まれ故郷に戻る決断を下します。「ラケルがヨセフを産んで後、ヤコブはラバンに言った。『私を去らせ、私の故郷の地へ帰らせてください。私の妻たちや子どもたちを私に与えて行かせてください。私は彼らのためにあなたに仕えてきたのです。あなたに仕えた私の働きはよくご存じです』」(25~26節)。
 これを聞いたラバンは慌ててヤコブを引き留めました。そのためヤコブは、続けてラバンのもとで働くことになり、その間に家畜を殖やし、財産を整えていくようになります。それは新たな旅立ちへの、備えのときでもありました。

【土曜】 創世記31章~33章

【1】 ラバンのもとからの旅立ち

 ついに長年住み慣れたラバンの家から旅立つ決心をしたヤコブは、その決心を裏付けるような神の語りかけを聞きます。「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる』」(31章3節)。これは、若き日の荒野で過ごした夜に、主なる神のお与えくださった約束の時が、今まさに到来したことを示す語りかけでありました。こうしていよいよヤコブは、一族を率いて長年住み慣れたラバンの家を後にします。
 神の時と人の時が一つに結び合った時、それが新しい旅立ちの時です。その時を見極めるためには、どっしりと落ち着いて状況を見渡し、忍耐強く主の語りかけを待ち望み、それを悟ったときには速やかに立ち上がり、主の御前に決断して歩み出す。人の時を通して神の時を知り、人の時を越えて成し遂げられる神の時に従って歩みたいものです。

【2】 神の人との格闘

 ラバンに別れを告げて本格的に荒野の旅を始めたヤコブは、その旅の途上で神の使いとの出会いを経験します。この神の臨在に励まされて、ヤコブは一つの重大な決断を下すことになるのでした。それは故郷への道の最大の難関である兄エサウとの和解です。
 このときヤコブは神に祈ります。契約の主なる神への信仰を告白し、神がこれまでになしてくださった恵みを覚えつつ、それに相応しくない自分自身の小ささを自覚し、恐れがあることを正直に告白しています。そして最後にはもう一度主なる神の契約に立ち返り、その変わることのない祝福の約束に訴えかけます。さらにこの祈りの後、ヤコブは神の使いとの格闘を経験します。この経験を通して、ヤコブはさらに深く神に取り扱われ、祈りの確信を深めていくのです。

【3】 エサウとの邂逅

 ついに兄エサウとの邂逅のときが訪れます。ヤコブの心づくしの贈り物の行進を目の当たりにし、ヤコブとの直接の対面を通して、兄エサウの心は解かされていきます。この邂逅を経て、ヤコブは真の意味で新しい人生を歩み出していくことになります。
 兄とは違う道を行くヤコブですが、しかしこの別離は決して以前のような敵対関係のなかでの出来事ではありません。むしろ真の和解の経験を経た2人だからこそ、もはや憎しみや妬み、恐れや疑いの心に縛られることなく、主にある真の自由を得た者として旅立つことができたのです。
 私たちもキリストによって罪赦され、新しい自由の歩みを始めていきましょう。