旧約 第1週
創世記1章~20章

東京基督教大学 准教授
日本長老教会 佐倉王子台チャペル 教会員

ランドル・ショート

2009年10月31日 初版

はじめに

 現在私たちが手にすることのできる聖書が存在する前に、モーセ五書があった。というのも、古代イスラエルにおいて初めての「聖書」とは、旧新約聖書ではなく、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という5つの書によってだけ構成された「モーセ五書」であったからだ。これから1週間にわたりその最初の20章を通読する。これから読む創世記を旧新約聖書全体の冒頭として読むことが大切であるが、まずはモーセ五書の序言として読んで理解することを試みよう。
 モーセ五書は天地創造から始まり、創造主が与えた地に入ろうとしているイスラエル民に対するメッセージとモーセの死についての記述で終わっている。その間に展開する物語をこれから3ヶ月にわたって読んでいくわけだが、初めにこれだけ押さえておきたい。モーセ五書の冒頭として創世記を読むということは、エジプトから救い出され、自分たちに約束された土地に入ろうとしている、あるいは、入ったばかりの民の視点から読むということである。それができたら、それ以降の様々な時代の視点から考えることも有意義になると思う。

 どの視点に立って読むにしても、聖書やその時代背景等についての知識があればあるほど助けにはなるだろう。また、それと等しく必要なのは健全な好奇心と想像力である。「今読んでいる聖書箇所は何の問題への答えとして書かれたのか」「最初の読者にとってこの箇所のメッセージはどんなに画期的だったのか」「この箇所を読むことによってこの書や聖書全体の理解がどう深まるのか」「この箇所によると、神はどのようなお方なのか」「今日のみ言葉は人間のどのような問題、どのような必要を扱っているのか」 このような疑問を促し、最低限のキーポイントを読んでいただきながら、旧約聖書の通読を始めていただきたい。

 聖書を読むことは、宝探しのような体験だと思う。期待感を持って読み探す人には次から次へと驚きの発見があり、貴重な宝を見つけ出すことができる。探すべき宝を他人に見つけてもらうよりも、自分で見つけたほうが楽しいし、「自分の宝」になる。だから、この「聖書通読のたすけ」の目的は、読者のために見つけうる宝を見つけ出し、そのすべてを解説することではなく、宝の隠された場所や探し方について多少のヒントを与えることである。何れにせよ、解説を読むのに時間を費やすよりも、聖書を読むことに時間を費やすことが望ましい。

【日曜】 創世記1章~3章

 天地創造とアダムとエバの物語はただ単に過去の出来事を記すために書かれたわけではない。ましてや、自然科学の教本として書かれたのでもない。これらのストーリーが聖書に含まれたのは、とても実践的な理由があったからだ。例えば自分が「ヨシュアに従って約束の地に入ろうとしている古代イスラエル人」だと想像してみて読んだらどうだろうか。
 一神教がまだ十分に定着していないイスラエルの民から見れば、長年暮らしていたエジプト、東にあるメソポタミア、これから入って行くカナン、どこを見ても自分たちよりも文明が進んでいて、古くからその神々が周りの民を繁栄させているように見える。そして特に、所有するようにと言われているカナンの恐ろしい神々によって守られている民に対して、このちっぽけな自分たちは、いったいどのようにして立ち向かうことができようか。そのような心配をしているイスラエル人にとって、すなわち、不可能に見える状況に遭遇し、自分たちが信じている神の力や自分たちに課せられている任務等に関して不安を覚えている人の目には、創世記1~2章がどんなに良い知らせで、どんなに実践的な「福音」であろうか。そのようなニーズを想像しながら読んでみよう。

 読みながら様々な読者の視点を考慮すると同時に、聖書の記述自体が様々な視点から書かれていることにも注意する必要がある。それは、今日の箇所に見られる文学技巧の一つである。
 「創造物語」は2章3節で一旦幕を閉じていて、2章4節から改めて違う観点から語られている。創世記1章1節~2章3節と、2章4節以降のストーリーの特徴を味わうのに、特に「神」、または「主」が主語となっている動詞を比較して見るとよいであろう。一方では、神はすべて超越していて、尊厳を帯びているように描かれている。他方では、神はこの世界に内在していて、人に近い存在として描かれている。聖書著者がこの2つの観点から語ることによって、実に神は両方だ、という奥義がイスラエルの民にも現代の私たちにもはっきりと、聖書の冒頭から教えられているのである。

 さて、3章では早速「人間の堕落」として有名な話へと展開していく。これもまず、神の約束した地に入ろうとしているイスラエル人の立場から読んでみたい。
 天地を造った神の民であるのに、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ」という最初に与えられた命令(1章28節)が、なぜこんなに難しいことになったのか。すなわち、自分はなぜ死すべき存在になっているのか。神と人間の間にも、人間同士の間にも、人間と土地の間にも、大きな隔たりがなぜできてしまったのか。神に対する不従順(罪)にはどのような代価があるのか。
 古今東西、そのような実際問題を抱えている人々に対して、3章はどのように答えているかについて考えながら読んでみよう。

【月曜】 創世記4章~5章

 創世記が書かれた古代世界には数多くの創造物語があった。その主な関心は何かと聞くと、現代人は自然界、物理的な世界をまず考えるであろう。しかし、創世記を含めた古代創造物語の主な関心は、自然界にあっただけではなく、人間社会の秩序や文明の発展にも強く向けられていたのである。そのような関心は、優れた都市文明、技術、芸術等を誇るメソポタミア等の創造物語に著しく見られる。多くの物語では、神々によって造られた人はますます成熟し、賢くなり、神々がうらやましく思うくらいの文明を作り上げていくのである。

 聖書の場合はどうであろうか。「神は人をご自身のかたちとして創造された」(1章27節)という言葉で始まる人類の歴史は、大変期待できそうなのである。しかし、そのような期待は多いに裏切られる。今日の箇所にも、都市建設や畜産業、音楽文化や鍛冶工芸、人間の創意工夫についての記述がある(4章17~22節)。しかし、その前後には、「善悪を知るようになった」(3章22節)人類が、どれほど悪を好んだのかが記されている。明日の箇所からもわかるように、人間の創意工夫よりも、創世記のこの箇所は、悪しき行いと「いつも悪いことだけ」を「計る」人の心に注目している(6章5節)。
 やがて神が「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(6章6節)という思いになったのは、憎しみや暴力に満ちたこれらのエピソードの繰り返しのためである、ということを覚えながらカインとアベルやレメクの話を読んでみよう。

 もちろん、今日の箇所は暗い話だけではない。4章と5章において様々なかたちで希望の光が差しているのである。特に、憐れみを受けるに値しない兄弟殺しのカインにも注がれる神の憐れみや、神の祝福と救いをもたらす人物の誕生に、注目していただきたいのである。

 最後に、5章の系図について短く触れておこう。結局神の命令を守らなかった人は、「必ず死んでしまう」という神の刑罰から予想以上の猶予を受けることになるし、神の祝福を受け、新しい命を生むことによって、子孫を残すことが許されている。
 しかしやはり、5章に入ると、アダムとアダムの子孫は次から次へと死んでいくのである(興味深いことに、5章に入るまで、人の命を奪ったのは神ではなく、人間だけである)。聖書に登場する最初の人間は驚くべき年数まで生きた。しかし、どんなに長い人生でも、これも「死んだ」、あれも「死んだ」、ということになっている。死なない存在として造られたアダムにしてみれば、いくら930歳での「自然死」にしても、それは短く感じたことであろう。
 現代人にとって多少読みづらい箇所であるかもしれないが、淡々としたかたちで、定めの時に命を与え、定めの時に命を取られる神の憐れみと厳しさを読み取ることができるのではないかと思う。

【火曜】 創世記6章~9章

 今日の箇所は有名なノアの箱舟の物語である。地は、神のかたちとして造られた人で満ちるはずであったが(1章26~28節)、4章が描いているような嫉妬や憎しみのため、また6章の最初の数節が示唆しているような性的腐敗のために、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」(6章11節)のである。造られた目的から懸け離れた人間に対して、創造主なる神は心の痛みを覚え、大洪水によって人を「地の面から消し去ろう」と決める。
 現代の読者にとっては、神が決めた裁きは厳しくて、驚くべき刑罰のように見えるかもしれない。しかし、今日の箇所においては、創造主の裁きはふさわしくて、当然な対応として描かれている。聖書の観点から言うと、逆に驚くべきことは、これほどまで堕落した世界に「主の心にかなっていた」「正しい人」がまだいたということなのである(6章8~9節)。

 神はまるで地を洗い流し、人間社会を含む世界を再創造しているかのように話しは展開していく。しかし、人間の心についての評価はどれほど変わったことであろうか。この問いを考えながら、特に6章の前半と8章21節や9章の後半とを読んで比較してみよう。
 また、9章の後半を読む際に、神に良くしていただいた直後に恥ずべき行動をとったアダムとエバやカインのことを思い出し、聖書に描かれつつある人間像は何か、そのような人間に対して神はどのような対応をしているかについて考えながら読んでみよう。

 ノアの箱舟物語は、絵本などで単独の物語として読んだ人が多いかもしれないが、創世記1章から始まる天地創造物語(特に、1章1節~2章3節)を思い出しながら、6~9章を読んでみたい。実に、今日の箇所は卓越した言葉遣いによって、何度も天地創造物語にさりげなく言及している。聖書注解書などには様々な言及についての詳細を読むことはできるが、聖書通読の楽しさの一つは、読者が自らそれを発見することではないであろうか。

【水曜】 創世記10章~12章

 10章は、系図をもって「生めよ。ふえよ。地に満ちよ」(9章1節)と言われたノアとその3人息子が、いかに子孫を増やし、四方八方に散らばり、地を満たしたかということを記述している。そして11章の後半では、ノアの息子の一人であるセムからアブラムまでの系図や、アブラムの家族についての背景が短く記されている。
 系図はカタカナ名の羅列のために読みづらいであろうが、聖書通読にチャレンジしている方には、辛抱強くこのような箇所の一字一句を発音しながら読んでみることをお勧めする。このようにして聖書物語に登場する民族、地名、人物に慣れ始めることは聖書を読み続けていくうえで大切なことである。

 11章は、「バベルの塔」として知られている物語を通して、当時の「先進国」を代表するバビロン地方の技術や文化がどれほど発展していたとしても、まことの神を恐れないで、高慢で自己中心的な営みに専念している民は決して神に喜ばれない、ということを明らかにしている。また、11章前半と12章前半を比較しながら読むと実に面白い実態が描かれている。すなわち、神に逆らい、自ら有名になろうとした人は、神に敵対され、地上の国々に混乱をもたらしてしまうことになる。しかし、神に従い、神ご自身がその名を有名にしてくれる人は、地上の国々に祝福をもたらすことになるのである。

 旧約聖書本番のストーリーはこの12章から始まると言っても過言ではない。特に、12章1~3節に記されているアブラムの召しやアブラムに対する神の約束に注目していただきたい。ここは、旧約聖書のみならず、旧新約聖書全体の「筋」(プロット)を簡潔にまとめていると言われる箇所である。すなわち、これらの約束が成就するストーリーこそが、モーセ五書はじめ、旧新約聖書の主なメッセージであるということだ。
 しかし、その約束が成就するのに多くの困難や脅かしが伴う、ということも最初から明らかになっている。12章の後半だけでも、自然界や権力者の欲望、妻の美しい外見や自分の判断、このままでは神の約束は守られないであろうと思われるような事柄が次々と記されている。これから先どうなるか分からない、というアブラムの観点と、自分たちもエジプトに下って不思議なわざによって救い出された者、すなわち、アブラムに約束された子孫である最初の読者としての観点から読むと、このストーリーの面白さが増していくばかりではないであろうか。
 今日から始まるアブラハム物語を通読しながら、神に召されて歩む人は、人間の目において不可能に見えるどんな状況に置かれても、神の確かな導きを信じることができるということを目撃しながら読んでいただきたいと思う。

注) 11章に登場する「アブラム」と「サライ」の名前は、17章で「アブラハム」と「サラ」に変えられることになる。この「たすけ」では、それぞれの箇所に記されている名前にしたがって書いていく。

【木曜】 創世記13章~15章

 今日の箇所は、実にドラマチックな箇所である。古代イスラエルの読者は、ドキドキしながら祖父の昔話を聞いている孫のように読んでいた、あるいは読んでもらっていたであろう。彼らは、アブラムの寛大さ、英雄的行為、信仰などに驚きながら、自分と関係ないストーリーとしてではなく、アブラムの子孫として歩むべき道を再確認する機会となったことであろう。そして、アブラムに対する関心以上に、アブラムを召した神の誠実な導きに驚き、深く感動したことに違いないであろう。
 現代の読者は想像力を膨らまして読む必要はあるかもしれないが、そのような姿勢をもって読むと得ることは多いであろう。

 まず、13章において、一つの危機から救われたばかりのところで、アブラムは平和を求めてはいるとしても、自分の子孫である最初の読者の相続地を、ときには敵となっていたモアブ人やアモン人の先祖であるロトに譲るかもしれないという場面に遭遇している(19章36~38節)。また、14章でも、同じロトのために自分の身を大変な危険にさらして、命がけの救出作戦も行っていたりしている。さらに、15章でアブラムは、自分から生まれていない異国人の僕に自分の全財産を継がせようとまで思っている。
 しかし、そのつど、神がどのようにしてアブラムを誠実に導き、創世記12章2~3節に記されている約束をより確かなものとし、その成就に向かって歩んでいるアブラムの一歩一歩を導いたのか、今日の箇所を読んで確認してみよう。

 アブラムの肉親の子孫であった古代イスラエル人にしろ、アブラムの信仰の子孫、すなわち、イエス・キリストを信じる現代人にしろ、この物語は何よりも神の摂理や約束の確かさを示しているのである。たとえ善意によって生じる「損」(少なくてもその時はそう見える)を体験しても、様々な方向から攻撃されても、これでいいだろうかと思われる決断をしても、病や老いのために機能しなくなる体で悩んでいても、アブラムの神に信仰によって従う者には神のすばらしい約束が保証されている、ということは、この箇所から学ぶ大切なメッセージである。
 今日も、使徒パウロの有名な言葉を覚えながら読んでいただきたいのである。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8章28節)。

【金曜】 創世記16章~18章

 昨日読んだ箇所では、まだ子どもが与えられていなかったアブラムは、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束されたのである。そして、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15章4・6節)、という展開を見てきた。しかし、それでもまだ生まれていないし、やがて「あなたから生まれる」と言われても、妻であるサライから生まれるなどとは言われていない。その大きな問題が残されたゆえに、今日の箇所の大部分は、一体誰が神とアブラハムとの特別な絆や祝福を受け継ぐのか、アブラハムの子孫に関わる記述である。

 まず16章で、これ以上待ちきれないサライは、当時の社会において合法な解決によって、自分の女奴隷を通して子を得ようとするのである。しかし、これは主が命じた方法ではない。
 聖書は、サライがとった行動はいけなかったと明言してはいないが、3節を直訳すると、サライは自分の女奴隷を「取って」自分の夫に「与えた」となっている。注意深くヘブライ語原典を読んでいた最初の読者はここで、禁じられた実を「取って」自分の夫に「与えた」と同じ言葉で言われているもう一人の女のことを思い出したはずである(3章6節を参照)。そうすると、読者には嫌な予感がわいてくるはずである。
 いずれにしても、この結合から生まれるイシュマエルは、アブラムの家庭においても、後の子孫の間にも、これから良くもあり悪くもあることをもたらす存在となるのである(16章12節も参照)。

 17章には、神はアブラハムと2つ目の契約を結び(1つ目は15章に記述されている)、その契約はイシュマエルとではなく、アブラハムの妻サラがやがて産むイサクと立てられる、という展開について書かれている。他のエピソードと比べて、この契約に関わる約束、条件、しるし、受け継ぐ者のアイデンティティー等について、わりと細かく書かれていることからもわかるように、アブラハムに対する約束が成就するためにこの箇所は極めて重要な出来事を記述している、と言うことができる。

 18章は、あの有名な「ソドムとゴモラ物語」の前半である。「非常に重い」罪を犯していると訴えられたこれらの町を裁くために来た不思議な人物が、まずアブラハムとサラを訪れる場面で始まっている。ただ読めばその面白さや真剣さが十分に伝わってくる話ではあるが、この章を読む際、特にアブラハムという人物と、主なる神とアブラハムの関係とが、どのように描かれているか、そして、アブラハムが代表する子孫にとってそれがどれほどの励みになっているかについて考えながら読んでいただきたい。

【土曜】 創世記19章~20章

 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は、御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」という一節がヘブル書13章2節にあるが、これはまさに創世記19章1~3節の話である。ソドムにやって来たのはただの旅人ではない。18章にあるアブラハムのとりなしの結果、御使いは「正しい者」が10人いるかどうかということを調べに来ている。正しい者がたった10人いれば、「非常に重い」罪を犯しているにもかかわらず、町全体は神の怒りから救われるのである。
 しかし、アブラハムが想像した以上にその罪は重かったのである。町から逃れたロトと2人の娘でさえ、とても恥ずべきことをして聖書物語を去ってしまうことになる。

 初めて聖書を読む人はもちろんのこと、長年にわたって信仰生活を送っている人でも、このようなショッキングな話をどう理解し、「聖書」としてどう受けとめればよいかについて、迷う人は少なくないと思う。その答えは決して簡単ではない。
 しかし、聖書の著者は、読者にただインスピレーションを与えるためにきれいごとを書いているわけではないのは確かである。聖書を貫く神の愛と憐れみは、様々なかたちであらわされ、語られてはいるが、同時に、罪に対する神の正しい裁きも語られているのである。現代人にとっては意外なことであるかもしれないが、19章に関して言うならば、ソドムの罪に対する神の裁きは当然なことして描かれているのに対して、これほど邪悪な町に住み着いた人が救われたことこそ驚くべき事実として描かれているのではないであろうか。

 さて、20章に入ると、12章の後半を思い起こすような展開となっている。アブラハムの妻サラは、再び異国の王のハーレムに迎えられてしまった。しかし、ある意味で今回はより危機的な状況である。というのも、神が約束した子はもうじきアブラハムとサラに与えられることになっているからだ(18章9~15節を参照)。神のご計画はまた妨げられそうになっている。
 この苦境からもアブラハムとサラはきっと救われるであろうと普通の読者は期待するが、神がとった方法は裁きと憐れみとの両方が混合したようなもので、アブラハムを含め、誰もが想像することのできなかった方法なのである。
 詳細は聖書から直接読んでいただきたいのだが、「異国の権力者でさえ、神はその心を変えることのできるお方だ」「神は胎を閉ざし、神は胎を開くお方である」「アブラハムの神は必ず約束を成就させるお方だ」など、以上のようなことを確認し感動しつつ、旧約聖書物語の続きを読んでいただきたいと思う。