新約 第52週
黙示録16章12節~22章21節

日本同盟基督教団 日高キリスト教会 牧師
東京基督神学校 名誉校長

下川 友也

2007年12月15日 初版

【日曜】 黙示録16章12節~17章8節

 7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢と、神の審きのひとつひとつが私たち読者の前に、これでもか、これでもかと、突きつけられてきました。各封印、ラッパ、鉢の7つ目が、次の審きにつながっていく ――― その仕方は、波状的攻撃のよう、また、らせん階段を昇っていくように、どんどん度を増して恐ろしいものになっていく感じでもあります。

 今週でこの黙示録を読み終わるペースでいくと、今日のところは、いよいよ最後のさいごという審きの場面にさしかかります。第6の御使いが、鉢をぶちまけるからです。竜と獣とにせ預言者の口から悪霊どもが出てきます。全世界の王たちを動かし、ハルマゲドンの戦いが始まります。
 第7の御使いが、最後の鉢を傾けると、悪の根源とも言うべき、「大バビロン」という女が現れます。神の最終的な審きの前に、なおこの「大バビロン」は人々を、つまり、いのちの書に名を記されていない人々を惑わすのです。審きとは、単純に災害や疫病、飢饉、戦争で人々を苦しめることでなく、とことん神に逆らわせる、ということです。頑なな者が、さらに頑なになっていく、そこに審きの本当の恐ろしさがあります。

 今日の聖句は、16章15節です。
 目をさまして、神の前に直く歩む者になりましょう。

【月曜】 黙示録17章9節~18章10節

 大バビロンの滅び、彼女に対する審きが描かれます。このような審きは、旧約預言のイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの書にも見られたものです。旧約においては、文字どおりのバビロン帝国の末路が語られていました。黙示録のここでは、古代バビロンに類似する、いや酷似する世々の大帝国があてはまるでしょう。その絶大な富と権力のゆえに、敬神の人々を、神のしもべたちを迫害し、みずからは淫蕩にふけった新約時代の“バビロン”のことです。

 7つの頭は7つの王、10本の角は10人の王、これらが何を指すのかは、黙示録の読者はその時代時代によって解釈に難渋するはずです。断定は避けつつも、慎重に時代のしるしと、悪しき力の台頭とを見分けねばなりません。

 今日の聖句は、17章14節です。
 審きの恐ろしい展開のなかで、勝利の主、小羊イエスを仰ぎ見て、平安を得ましょう。

【火曜】 黙示録18章11~24節

 大バビロンの滅びが、当時の繁栄を彩った商品を一挙に失うことで、まざまざと読者に印象づけられます。金・銀・宝石・真珠・麻布・紫布・絹・緋布・香木・象牙細工・・・などなど。現代の都市文明の誇りと傲りなら、私たちの国も同じです。もっと派手で、もっとリッチでさえあります。これらすべてが単純に「悪」ではありません。みな有用なもの、価値あり、意味あるものです。しかし、人間の愚かさは、富を頼みとし、権力に高ぶり、聖徒・使徒・預言者たちを苦しめ、殉教に追いやるのです。

 今日の聖句は、18章24節です。
 神さまは、殉教者の血を見ておられ、しかるべき審きをなされるお方です。

【水曜】 黙示録19章1~21節

 悪しきものの滅びは、聖徒たちの救い ――― 喜びと賛美のときとなります。19章以降は、長く続いた悪者たちの最後のあがきが終わって、天上の賛美が響き渡るような光景が展開します。4節の24人の長老は、黙示録の初めのほう(4章など)にも登場していました。ということは、もろもろの恐ろしいシーンも、天上では常に別世界がすでにあったことを、よく思わせてくれます。10節が入ることで、私たちは、ただひとり礼拝すべきお方のことを、よくよく認識させられます。
 この章の終わりの数節には、悪しきものたちの、究極の審きの場、まさに「生き地獄」が、描かれています。

【木曜】 黙示録20章1~15節

 19章11~13節に見た主キリストの再臨の後は、もはやすべては解決、と思いきや、20章1~3節で「サタン」は千年の間、底知れぬところに閉じ込められるが、千年ののち解放される、と記されます。
 この千年の間、聖徒たちは復活し、キリストとともに世界を治めます。そして、究極の、これこそ最後の審きは、20章7節以降で解き放されたサタンが、なおも諸国を惑わすべく出て行った後で、天から下されます。
 なんとまあ、サタンといい、悪魔といい、この世の人々を惑わすもののしぶとさ、根絶のしにくさが思いやられるではありませんか。もっとも、聖徒たちは恐れることはないのです。

 今日の聖句は、20章6節にしましょう。
 聖徒たちは、主キリストとともに立って、第二の死の損なうことなど恐れなくてよいのです。

 千年については諸説があり、無千年王国を語る人たちは、キリストの初臨から再臨までを、すでに象徴的にその長さで捉えています。途方に暮れる長さではありますが、キリストとともに文字どおり支配する千年と理解してよいし、またそれ相当の長さ、と理解してもよいでしょう。
 悪しきものの滅びを、いみじくも明示する「第二の死」をも、今日は心に憶えましょう。

【金曜】 黙示録21章1~27節

 私たちの究極のゴールが、新天新地であると、絵を見るように描かれてあるこの章を感謝します。私たちの現実に住んでいる美しい星、地球も、21世紀を迎えてずいぶん傷んできました。地球温暖化、環境破壊などなど、グローバルな課題となって、私たちクリスチャンも自分たちの運命を含む事柄として、祈り対処せねばなりません。
 かかる状況のなかで、この地球は滅びてもよい、という気持ちからでなく、むしろ天地無窮のむなしい楽観論に依存することなく、神の歴史における終末のときを賢く見極めていきましょう。
 あのノアのときのように、罪ある世界は滅ぼされて、義の住む新しい天と地とが用意されている。これが私たちの福音です。
 都の城壁、都の門、都の土台石、都の大通り、その美しさは筆舌に尽くせぬものでしょう。とりわけ神の栄光が都を照らすゆえに、太陽や月の光はいらないという ――― そして都の門は一日中決して閉じることがない、聖徒は終日、自由に出入りできるのです。

【土曜】 黙示録22章1~21節

 都の祝福はさらに続きます。御座から流れる、水晶のように光るいのちの水の川であり、川の両岸にあるいのちの木、12種の実がなって諸国の民をいやすものです。
 あまりにも輝かしく、栄光に満ちたものであるため、6・7節でこれらの預言の信ずべきことが、確認されます。ヨハネが御使いにひれ伏すと、ただ神を拝むように ――― これは、幻の啓示され始めた1章にも記されてありました。
 10・11節は、黙示録全体を通していたく感じさせられることでもありました。通常人は、厳しい審きを見聞すると、生活を改めるものかな、と思うものです。ところが現実は違います。神の審きが近づけば近づくほど、不信の人々は心を頑なにして、汚れと罪に陥っていきます。21世紀の現代を見ると頷けるでしょう。

 もうひとつ大切なことは、「わたしはすぐに来る」(12節)です。
 私たちも答えましょう。「アーメン。主イエスよ、来てください」