新約 第51週
黙示録8章1節~16章11節

日本キリスト改革派教会 奈良伝道所 牧師
宮崎 契一

2007年12月14日 初版

【日曜】 黙示録8章1節~9章12節

 今週も引き続きヨハネの黙示録を読み進めていきたいと思います。私たちは今日それぞれの教会で礼拝をささげます。では、私たちの礼拝の目指すところはどこでしょうか?私たちは何の目的もなく、ただ毎週礼拝をし続けているのでしょうか?そのようなことはありません。私たちの目指すところは、やがて、天の御国で永遠にキリストを礼拝することです。ですから、今私たちが毎週ささげている礼拝は、主の御国における天上の礼拝の幸いを覚えるときでもあるのです。そして、このような天上の礼拝の恵みが黙示録には描かれています。

 けれども、このヨハネの黙示録にはキリストを受け入れない人々に対する神様の裁きも言われているのです。しかも、それは神様の徹底的な裁きであるわけです。今週の個所でもそのことが言われます。
 これまでは、6つの封印が解かれて神様の裁きがなされてきました。それは「御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう」と言われるほどのものでした。7つ目はさぞかし凄まじい裁きが・・・、と私たちは思うかもしれません。しかし、以外にも小羊が7番目の封印を解いたとき、そこにあったのは半時間ばかりの静けさでした。悪人たちがホッとしたのも束の間、今度は7つのラッパを持つ7人の天使たちが現れて裁きがなされます。
 血の混じった雹と火が投げつけられて地上が焼ける、山が海に投げ込まれて海が血だらけになる、大きな星「苦よもぎ」が落ちて川の水が苦くなりそれを飲む人が死ぬ、太陽・月・星が打たれて暗くなり昼も夜のようになる。まるで、神様が出エジプトでモーセを通してエジプトに与えた災いを思い起こさせるかのような裁きです。

 5番目の天使のラッパによっていなごが登場します。このいなごは、額に神の印を押されていない人間、つまりキリストを受け入れない人間にだけ災いを加えるよう言い渡されていました。このいなごは人に苦痛を与えるのですが、決して人を殺すことはありません。しかし、死に至るほどの苦しみを人々に与え続けるのです。あまりの苦しさにもう死にたい、そう思っても死ぬことができないのです。

 額に神の印を押されている私たちは、主の裁きが今この世にもなされていることを覚えながら、また、裁きをなさる主の確かな正しさを覚えながら、今週1週間もそれぞれの場でキリストを証ししたいと思います。

【月曜】 黙示録9章13節~10章11節

 昨日に引き続き黙示録の裁きが語られます。6番目の天使がラッパを吹き鳴らして、4人の御使いたちが解き放たれます。そして、この御使いたちは、人類の3分の1を数え切れないほどの軍勢によって殺すために解き放たれました。しかし、ここで生き残った人類は、神様を畏れて悔い改めて従ったのかというと、そうではありませんでした。人間の罪は何と浅ましいのでしょう!罪人は何と愚かなのでしょう!この期に及んでも、まだ偶像を拝み、人を殺し、魔術に踊らされ、不品行に汚れ、盗みを犯すのです。

 6・7節にありますように、7番目の天使がラッパを吹くときに神様の御業が成就します。裁きが近づいているのに、最後まで自分の罪を悔い改めず、神様を信じない人々には滅びがあります。では、一方の私たちはどうなのでしょうか?ヨハネは、巻き物を取って食べなさい、という不思議な命令を別の天使から命じられます。それは、ヨハネにとって蜜のように甘く、同時に苦いものでした。
 巻き物、つまり、御言葉はまさに私たちにとって蜜のように甘いものです(そうでなければ、このように聖書通読をやろうなどとは思わないのではないですか?)。御言葉は、神様に救われた私たちの信仰生活を支えるものです。ですから、まさにここに、私たちの全身を流れるような救いの甘さがあるのです。
 しかし、一方で私たちの地上での信仰生活にはまだ罪の苦しみや悩みがあります。つまり、私たちが避けたいと思うような苦さがまだあるのです。私たちは、その罪の現実に向き合わなければなりません。けれども、それは無駄な苦しみではないのです。私たちが、主イエス・キリストの十字架の御跡をたどっているということなのです。

 たとえ苦しみのなかにあっても、主が私たちを確実に救いへと導いて下さるとの確信の下、今日一日の歩みをいたしましょう。

【火曜】 黙示録11章1~19節

 引き続き黙示録から御言葉に聞きましょう。最初に、「神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ」という不思議な命令があります。神様の神殿、礼拝する、ということは、要するに私たちにとっての教会です。ですから、この教会の部分を測れば、そこを私は守ると言われているのでしょう。しかし、それ以外の場所は神様のことを信じない異邦人たちに踏みにじられる、と言われるのです。迫害がなされるということなのです。
 私たちがこの世で信仰生活をする限り、そこにはいつでも迫害があります。このときは教会が非常に試されるときです。ひょっとすると、迫害によって教会が打ち倒されてしまうかもしれないのです。

 その迫害のなかで2人の証人が登場します。この2人は預言をする者たち、つまり、神様を伝えてその証しをする者たちでした。しかし、この2人の証人は神様に敵対する獣に殺され、その死体は都の大通りにさらされます。
 教会にしてみれば、もう駄目か・・・、と思うかもしれません。けれども、8節に「彼らの主もその都で十字架につけられた」と言われるのです!2人の証人は、いや、さらには私たちキリスト者は、神様を証しすることのために殉教するかもしれない。しかし、そのときこそ教会にとっての勝利のときだということなのです!それは、同じように死なれたキリストご自身が勝利なさったからに他なりません。

 最後の7番目の天使がラッパを鳴らします。いよいよ、善い者には報いを与え、悪人には滅びを与える神様の裁きがなされようとします。「この国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」(15節)という、私たちには想像もできないようなすばらしい宣言がなされます。そして、そのように裁きをなさる神様をひれ伏して「礼拝する」ということがなされるのです。
 私たちが世で苦しむとき、職場で、学校で、人間関係に疲れ果てるとき、私たちが見上げるところは神の国です。主が永遠に支配なさる神の国です。福音の完成のときです。そのときこそ、私たちが2人の証人のようによみがえりにあずかって、ひれ伏して主を永遠に礼拝するのです。

【水曜】 黙示録12章1~18節

 ヨハネの黙示録を読み進めています。今日も不思議な人物や生き物が登場します。まずは、1人の女です。この女は身ごもっていて、生みの苦しみと痛みのために叫び声を上げていました。そして、もう1つは赤い竜です。この竜はかなりの暴れ者で、天の星の3分の1を地上に投げつけ、さらに、女の子どもを食い尽くそうとして女の前で子どもが生まれるのを待ち構えています。
 女から男の子が生まれました。けれども、その子は神様のおられる天へ上げられます。女は荒野に逃げましたが、竜の狙いはあくまでも男の子です。女を倒すよりも、男の子を食い尽くす方が竜が暴れるのに都合が良いのです。竜は男の子を追って天へ行きますが、そこでミカエルとその使いたちとの戦いが起きました。その結果、竜は勝つことができず、天での居場所を失うことになりました。

 9節では竜について、「悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」と言われてます。悪魔!サタン!つまり、竜とは、今でも全世界を惑わし、女である教会を誘惑し、神を食い尽くそうとする蛇でありました!その竜が、天での戦いに負けて、もはや天での居場所を失ったというのです。
 しかし、しつこいサタンはそれで引き下がることはありません。今度は荒野へ向かう女を狙います。蛇であるサタンは口から水を吐き出して女を押し流そうとしますが、女は主の御手によって守られます。竜はそれに諦めるどころかさらに怒り、今度は神の戒めを守り、イエスのあかしを保っているキリスト者と戦おうとします。

 教会が地上にある限り、そこにはいつもサタンの攻撃があります。神を食い尽くそうとし、世々の教会を攻撃し、信仰者たちを迫害します。けれども、私たちにとって確かなことは、キリストの十字架と復活によってサタンは既に戦いに敗れ、もはやサタンの天での居場所は蟻の穴ほどもないということです。ですから、私たちはキリストがもう既に勝っているとの確信のなかで、それでもまだ暴れまわるもはや敗者に等しいサタンに対峙するのです。荒野へ逃れた女が主によって竜から守られたように、私たちの地上の歩みも勝利された主が支えて下さいます。

【木曜】 黙示録13章1~18節

 週の歩みも後半に入ります。昨日の個所にもありましたように、キリストは竜であるサタンに完全に勝利されましたが、敗者に等しいサタンはまだその働きを続けます。この個所では竜を拝む獣が登場するのです。頭には神をけがす名があって、打ち殺されたかと思われた頭の傷も治ってしまった。だから、全地は驚いてこの獣に従い、竜を拝んだというのです。
 けれども、これは嘘です!見せ掛けに過ぎません。なぜなら、もうサタンはキリストとの戦いに敗れて、決して治ることのない決定的な傷を負っているからです。死んだも同然なのです。しかし、それでも、サタンとその使いの獣は巧みに神様や天に住む者たちをののしって、あたかも自分たちが勝者のように人々を誘います。

 2番目の獣も地上に住む人々を惑わし、最初の獣の像を造らせて、それを拝まない者は全て殺されたとあります。さらに、獣を拝まずに額にその刻印がなければ、誰も買うことも売ることもできない。つまり、生活することもままならないというのでしょう。私たちの目には、あたかも、サタンが勝利したかのように見えるかもしれません。
 しかし、この獣の傲慢は神様の許可によることを覚えたいのです。5節で獣は42ヶ月間活動する権威を与えられましたし、7節でも、あらゆる部族・民族・国語・国民を支配する権威を与えられました。ですから、あくまでも神様の支配のなかで、神様に用いられる形で、その範囲で、獣は活動することを許されているにすぎないのです。

 ヨハネの黙示録は、小アジアでローマ帝国からの迫害を受けている7つの教会に宛てて書かれた手紙です。小アジアの7つの教会はこのような迫害を受け、ローマ皇帝の崇拝を求められていました。私たちはどうでしょうか?命にかかわるような目に見える迫害はまだないかもしれません。けれども、サタンは巧みに教会を惑わし誘惑します。
 ですから、たとえ私たち人間の命が無くなることがなくても、サタンの誘惑によって、キリストから与えられている復活のいのちが倒れそうになることがあるのです。しかし、そのようなとき、私たちは、ほふられた小羊のいのちの書にその名が書き記されていることを覚えましょう。その事実こそ、私たちにとっての福音に他ならないのです。

【金曜】 黙示録14章1~20節

 教会が激しい迫害を受けているさなか、小羊であるキリストがシオンの山に立っています。小羊に贖われた者たちによって、御座の近くの4つの生き物と長老たちの前で新しい歌が歌われます。贖われた人たちは、汚されたことのない童貞の人たちです。つまり、神様以外の偶像を決して礼拝をしない、偽りがなく、傷のない、聖なる者たちです。天国を思わせるような情景が描かれます。

 しかし、やがて天使が飛んできて7節で「神のさばきの時が来た」と告げます。神様以外の偶像を礼拝する者たちに対して、神の怒りのぶどう酒が神の怒りの杯に注がれ、神様の容赦ない純粋な裁きがなされます。また、火と硫黄の永遠に続く苦しみの煙が立ち上ります。
 まだ終わりません。16節にもありますように、人の子であるキリストが地にかまを入れると、地はたちまち刈り取られます。さらに、御使いが、刈り集めたぶどうを酒ぶねに投げ入れて踏むと、その血は果てしなく続くのです。

 私たちも、日々、神様から遣わされているそれぞれの場で、このような滅びの裁きに至る誘惑に向き合っていることを覚えたいと思います。ですから、私たちの歩みは忍耐が求められます(12節)。しかし、私たちはとても聖なる者ではなく、これに忍耐することのできない愚かな罪人です。すぐに、神様以外のものに心が揺れ、いつの間にかそれを拝むことすらしてしまうのです。
 ですから、私たちは、小羊であるキリストの永遠の福音を受けている、ただそのことのために、聖なる者なのです。永遠の福音なのですから、この地上だけのことではありません。やがて、私たちが主の御国に凱旋するとき、私たちは小羊の御座の前で新しい歌を歌って神を賛美するという、私たち罪人には想像もできないほどの、言い尽くし難い恵みを受けるのです。だから、永遠の福音なのです。この福音に支えられて、私たちは地上の迫害のある歩みを忍耐を持って喜びつつ歩みます。
 そして、そのように生きる私たちに「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」との天からの声があるのです。

【土曜】 黙示録15章1節~16章11節

 今週も最後の日を迎えました。明日の礼拝の日に備えて、いかがお過ごしでしょうか?
 私たちは今週ヨハネの黙示録を読み進めてきましたが、そこでは神様の徹底した裁きが語られました。私たちが読んで身震いするほどの容赦ない神様の裁きが語られてきました。しかし、15章1節にもありますように、いよいよ、「最後の7つの災害」がもたらされようとしています。そして、「神の激しい怒りはここに窮まる」のです。
 15章5節からは、遣わされた7人の御使いたちが、最後の災害を下すために7つの金の鉢を受け取ります。最後の災害が下されるまで、裁きがなされる聖所には誰も入ることができません。つまり、問答無用の神様の裁きなのです。私たちにはまだ、キリストを信じていない友人や知人がいる。さらには、愛する家族さえもいる。だから、裁きを伸ばしたり止めるように、などという人間的な思いがあっても、ただ神様の裁きがなされるのです。

 それでは、私たちにとって裁きとは一体何なのでしょうか?神様は愛のあるお方のはずなのに、恐くて、残酷で、容赦ない、という、私たちにとって躓きを覚えるようなことなのでしょうか?そのようなことはないのです。
 15章3節からは、神を信じるキリスト者の歌が歌われます。その歌の内容は、神様への賛美なのです!神様の御業を賛美し、その御名をほめたたえているのです。それは、神様の正しい裁きが明かにされたからでした。
 キリストを受け入れない人々への神様からの滅びの裁きは終末の時になされますが、神様は何も人を滅ぼそうとして災いを下すのではありません。キリストはその腸がちぎれるほどに、私たちを憐れんで愛して下さいました(マタイ9章36節)。ですから、たとえ、今は信じなくても、神様がその人を見捨てているということは決してないのです。神様はあくまでも、災いを通して、罪深い人間が自分の愚かさに気づいて神様を信じるように、最後の最後の終末の時まで、災いを通してさえ罪人を招いておられます。私たちには信じがたい愛です。だからこそ、私たちは神様が下される災いすらも賛美するのです。

参考文献

  • 保坂高殿・小林稔・小河陽:訳『パウロの名による書簡・公同書簡・ヨハネの黙示録(新約聖書5)』(岩波書店、1996)
  • フランシスコ会聖書研究所『ヨハネの黙示録』(中央出版社、1972)
  • 加藤常昭『ヨハネの黙示録(加藤常昭説教全集25)』(教文館、2006)
  • 佐竹明『黙示録の世界(佐竹明聖書講義)』(新地書房、1987)
  • レオン・モリス:著/岡山英雄:訳『ヨハネの黙示録(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2004)