新約 第50週
黙示録1章1節~7章17節

日本同盟基督教団 高知喜びキリスト教会 牧師
高瀬 真

2007年12月7日 初版

【日曜】 黙示録1章1~20節

【1~8節】 幻

 「イエス・キリストの黙示」(1節)とは、イエス・キリストに関する真理を究極的な現実の幻という手段を用いて明らかにするものです。
 「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである」(3節)。この預言の言葉とは、2節で言われているヨハネのキリストの証のことを指しています。
 「ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ」(4節前段)。著者ヨハネからアジア(現在のトルコ地方)の7つの教会に(2~3章)のみ語られたものではなく、「7」という数字が完全数を意味するところから、世々の教会全体を象徴的に指しているものなのです。だから、私たちにも意味を持つ言葉なのです。
 「今にいまし、昔いまし、後に来られる方」は、父なる神様。「御座の前におられる七つの御霊」聖霊なる神の完全性の説明。そして、5~8節はキリストの説明。つまり、三位一体の神様から、世々の教会全体へ「恵みと平安が、あなたがたにあるように」(5節)と始めにあいさつがあります。

【9~20節】 人の子の姿

 ヨハネは「神のことばとイエスのあかしとのゆえに」「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者で」した(9節)。つまり、この1世紀末には、多くの教会は不当な迫害下にあったことが分かります。そして、ある主の日に御霊に感じてこのような声を聞いたのです。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい」(11節)。7つの教会に手紙を送るように言われています。これが2~3章にかけてのメッセージとなります。
 さて、12~18節は、ヨハネがこの声の主を知ろうとその姿を見た様子が記されています。それは、人の子イエス・キリストの象徴的表現です。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている」(17節後段・18節)
 「七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である」。教会の御使いとは、ヨハネに与えられた黙示(幻)のため内容が象徴的になってしまいます。具体的に何なのかは説明が難しいです。さて、いよいよ教会のかしらであるキリストから教会への手紙が送られます。

【月曜】 黙示録2章1~17節

【1~7節】 エペソの教会への手紙

 キリストは、エペソの教会には「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方」(1節)という姿で登場されます。また、キリストは教会ごとに異なった姿で登場します。これもまた黙示文学の難しさでしょう。
 2・3節の御言葉には慰められます。このような言葉をキリストからかけられるとホッとするでしょう。公正な信仰の評価をされるのですから、キリスト者としては嬉しいものです。4節、一転して厳しい評価が下され、もう一度、十字架の愛を再度認識するための悔い改めが迫られるのです。6節、神様は厳しさだけでは終わらず励ましてくださるのです。7節、この御言葉を聞くと人間が罪を犯した創世記3章を思い出します。つまり、勝利を得る者とは、永遠のいのちを得る者であり、信仰に留まる者であると言いたいのです。エペソの教会は、愛の光を放つ教会を目指していたのでした。

【8~11節】 スミルナの教会への手紙

 スミルナの教会には、キリストは「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方」(8節)としての姿で登場されました。
 そして、9節の御言葉は慰められます。世の中が認めずとも、確かに神様の恵みを受けているのです。10節、迫害そのものは、悪魔の仕業であるとキリストは語っている。そして、スミルナの教会に「死に至るまで忠実でありなさい」(10節三段)と激励の言葉が与えられます。いのちの冠への道は厳しい道のりです。確かに、狭い道でもあるのですから。そして最後に、11節、つまり、この世で迫害され殉教し、第一の死(肉体の死)を迎えても、キリスト者は決して第二の死(永遠の死)によって命を失うことは絶対にない!と保証する御言葉です。スミルナの教会は、死に至るまで忠実な教会であろうとしたのでした。

【12~17節】 ペルガモの教会への手紙

 キリストは、ペルガモの教会には「鋭い、両刃の剣を持つ方」(12節)としての姿で登場されます。
 「忠実な証人アンテパス」は、おそらくこの地方では初めての殉教者だったのでしょう。そして、教会もキリストに対する信仰を捨てなかったことを評価されています。しかし、14・15節は非難でした。しかし、彼らと戦うのはキリストです!16節、外は迫害、内には腐敗と厳しい戦いのなかに置かれていました。そんなとき、キリストは教会に17節の2つの約束を与えられました。つまり、1つ目の「隠れたマナ」とは、キリストにある永遠のいのちを意味し、「白い石」とは御国への入場許可書を意味し、その許可書に一人ひとり確かに名前が書かれていると、新天新地(21章)・御国に入ることができるというのです。ペルガモの教会は、2つの約束に支えられて新天新地を目指していたのです。

【火曜】 黙示録2章18節~3章6節

【2章18~29節】 テアテラの教会への手紙

 テアテラの教会には、「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような」(18節)姿でキリストは登場されました。
 19節のお褒めの言葉は感謝です。しかし、20節の非難が続くのです。イゼベル主義とは、不品行・偶像礼拝を黙認、妥協することでした。これに対して、キリストの「死病によって殺す」(23節)との恐ろしい裁きの宣告があります。続いて、23節にあるように内面をいつも見ておられることが分かります。24・25節の御言葉には慰められます。「ほかの重荷を負わせない」(24節)、「わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい」(25節)と、慰めと励ましの言葉をかけてくださるのです。そして、キリストはテアテラの教会に、「最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう」(26節)、また、「明けの明星を与えよう」(28節)と約束されました。つまり、諸国の民を支配する権威とは、神の御子キリストが「わたしと同じである」(27節後段)と言われたとおり、キリスト者すべてが御子と同じ支配の権能を持つ者となるのです。さらに、「明けの明星」とは、明確には分かりませんが、権威の象徴でしょう。それは、当時の地上の最高権威・ローマ皇帝に対して、キリストの権威の栄光を指しているのでしょう。テアテラの教会は、キリストのわざを守る教会として歩んでいたことでしょう。

【3章1~6節】 サルデスの教会への手紙

 サルデスの教会には、「神の七つの御霊、および七つの星を持つ」(1節)お姿でキリストは現れてくださいました。
 しかし、手厳しい言葉を初めにかけられます。「実は死んでいる」とは、サタンさえ見向きもしない生命を失った教会になってしまったというのです。これは深刻です。3節三段、キリストが「目覚めよ!」と警報を鳴らし続けておられる間に起きなければいけません。サルデスの町は、手織物を染める技術で有名でした。4節、サルデスの教会に幾人か信仰がほめられる兄弟姉妹がいたようです。5節、この御言葉は大きな慰めです。最後に6節です。サルデスの教会の回復は望みがあります。キリストは、白い衣にふさわしい教会になって欲しいと願っていたでしょう。なぜなら、「右手に七つの星(牧師)を持つ方、七つの金の燭台(信仰者の群れ)の間を歩く方」(2章1節)のキリストのお姿があるからです。サルデスも七つの教会の一つです。

【水曜】 黙示録3章7~22節

【7~13節】 フィラデルフィヤの教会への手紙

 キリストは、フィラデルフィヤの教会には7節にあるようなお姿で現れてくださいました。御国の門の鍵を持つ方として。
 8節、慰めの御言葉です。「少しばかりの力があって、・・・わたしの名を否まなかったからである」とは忠実な小さな教会を意味しています。9・10節、これから全世界に来る迫害のとき、サタンの会衆に属する者、つまり偽キリスト者たちはあなた方にひれ伏すことになり、フィラデルフィヤの教会がキリストを愛していたことが証明されるというのです。なんという励ましでしょう!11節、あなたの「いのちの冠」をしっかり握っていなさいと。12節、「聖所の柱」とするとは、神様ご自身のご臨在に一番近い所の柱とするという意味。また、キリスト者は「新しいエルサレムの名」と「わたしの新しい名」が与えられるのです。さて、私たちはどのような名前が与えられるでしょうか?楽しみですね。第一級の忠実さが認められた教会であっても同じ言葉が与えられました。13節、なぜなら目指すところはどの教会でも同じだからです。フィラデルフィヤの教会は、御名を否まない忍従の教会として高く評価されています。

【14~22節】 ラオデキヤの教会への手紙

 キリストは、ラオデキヤの教会には14節にあるように「アーメンである方、忠実で、真実な証人」である方として現れました。
 15・16節、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない」というキリストの評価はどのような意味でしょうか?16節を見ると分かります。「わたしの口からあなたを吐き出そう」と。つまり、中途半端で使い物にならないので吐き出そうというわけです。17節、何も問題もなく、迫害もない。自分たちは豊かで富んでいると思い込んでいるラオデキヤの教会。なんと惨めで、哀れで、貧しい状態でしょうか。迫害がないということは、サタンが興味を示さないほど堕落した教会という意味です。18節、しかし、キリストは見捨てることなく忠告します。「金」「白い衣」「目薬」をわたしから買いなさいと。この高価な物をキリストから「買いなさい」とは、19節の「熱心になって、悔い改めなさい」との意味です。20節、ラオデキヤの教会はキリストを教会から締め出してしまったのです。もう一度、悔い改めてキリストを迎え入れるならば、寛大にもともに食事をしてくださるというのです。21・22節、キリストは「わたしとともにわたしの座に着かせよう」と言われます。なんというあわれみでしょう!ラオデキヤの教会は、神様の愛の交わりに招かれた教会だったのです。

【木曜】 黙示録4章1節~5章8節

【4章1~11節】 御座の光景

 1節、「天に一つの開いた門」がありました。流刑の身となりパトモス島で過ごすヨハネの慰めは天に開かれた門でした。
 2・3節、天の御座に関するものです。目に見えない万物の支配者であり、創造者である方を被造物世界の事物で説明しようとしています。4節、「二十四の座」とは公同的・普遍的教会と理解していいでしょう。5節、「いなずまと声と雷鳴」は神様の裁きと恐ろしさを連想させます。
 6・7節、御座の前には4つの生き物がいました。これは、おそらく神様に仕えている位の高い御使いたちでしょう。この生き物は「前もうしろも目で満ち」ていました。そして、「ししのよう」は力を、「雄牛のよう」は従順に働く能力を、「人間のよう」は知性を、「わしのよう」は早さを、それぞれ象徴するものです。8節、この4つの生き物は昼も夜も叫び続けたのでした。「聖なるかな」と3度繰り返し礼拝したのです。
 9~11節、次に24人の長老の礼拝です。この「二十四人の長老」とは贖われた者、つまり全キリスト者の代表を表していると理解して良いでしょう。「自分の冠を御座の前に投げ出して言った」(10節)つまり、自分が獲得した栄光をすべて神様に帰することを意味します。11節がその信仰告白であり礼拝です。

【5章1~8節】 封印を解く方

 1~3節、ヨハネは続けて、神様の右手に巻物があることに気づきます。そして、その巻物は7つの封印で閉じられていました。御使いが封印を解ける人をさがしていましたが、見つかりませんでした。なぜならば、罪がある限り、開くことができないからなのです。
 4・5節、ヨハネは封印が解けないことに落胆し、泣いていたのです。そこに1人の長老が声をかけ慰めてくれました。「ダビデの根」とはダビデ以前から存在することを意味し、罪のないキリストが勝利したので封印を開けることができるのです。
 6節、「ほふられたと見える小羊」を見る。この小羊の「七つの角」は全能の力、「七つの目」は全知を象徴しており、つまり小羊キリストには一切が明らかであるという意味なのです。7・8節、小羊キリストが巻物を受け取ったとき、4つの生き物と24人の長老たちの賛美と祈りがささげられます。

【金曜】 黙示録5章9節~6章17節

【5章9~14節】 天上での賛美

 9・10節、「新しい歌」とは、贖いの歌と呼ばれます。新しい歌とは、救いの新しさ、啓示の新しさ(封印が解けた)、賛美の新しさを意味しています。小羊キリストへの賛美は、いつになっても古びることはありません。創造の業において神様が本来意図していたことが完全に回復した姿を見ての讃歌です。「あらゆる部族、国語、民族、国民の中から」選ばれた人々に及ぶものです。すべて、神の栄光を現すためでした。11・12節、「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美」は、小羊キリストのご性質を表し、賛美しているのです。13・14節、全被造物の生き物が告白し賛美し合唱した言葉でした。

【6章1~17節】 6つの封印

 1・2節、小羊キリストが第1の封印を解いたときにヨハネが見たものは、「白い馬」と「それに乗っている者」でした。「弓」は武力、「冠」は支配の象徴であり、「勝利の上にさらに勝利」とは、権力欲を示すものです。
 3・4節、第2の封印が解けたとき見えたものは、「火のように赤い馬」です。これは、人々が流血の惨事を引き起こすことを暗示しています。しかし、「許された」という言葉から考えられることは、「神様の許可される範囲内で」と理解できます。
 5・6節、第3の封印が解けたとき見えたものは、「黒い馬」と「これに乗っている者」でした。「黒い馬」は飢饉が迫っている意味で、乗っている騎手は「量り」を持っていました。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ」とは、飢饉のため物価上昇の様子を示しています。
 7・8節、第4の封印が解けたとき見えたものは、「青ざめた馬」と「これに乗っている者」です。この馬の騎手の名は「死」と言い、それに「ハデス」(陰府)が従っていたのです。なんと、おぞましい光景でしょう。しかし、彼らの影響力は地上の4分の1と制限されていたのです。
 9~11節、第5の封印が解けたとき、殉教者たちの魂が祭壇の下に見えたのです。彼らは、「さばき」と「復讐」を大声で叫び求めています。これは、決して個人的な憎しみからではなく、不法な苦難を受けたことに対する神様の主権的裁きを求めるものです。
 12~17節、第6の封印が解けたとき、天変地異、自然界の激変が起こりました。イエス・キリストご自身が再臨との関連で語られたことと良く似ています。この最後の審判が来ると、「だれがそれに耐えられよう」と言われるほどに悲惨極まりないのです。

【土曜】 黙示録7章1~17節

14万4千人

 1節、最後の第7の封印が解かれる前に、「地の四隅に立」つ4人の御使いの働きは、神様のしもべたちに対する守りを示すものです。2・3節、もう1人の御使いの持つ「印」は神様の所有とされている、つまり保護されていることを表すものでしょう。4節、ヨハネが聞いた、印を押されている人々の数は14万4千人でした。これは、文字どおりイスラエル人を指すよりも、贖われた者のすべてを象徴的に表すと考えた方が正しいでしょう。「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆」(9節)とあるように、14万4千人が象徴的な数であることが言えます。また、これはイスラエル人に限定されることなく新約聖書まで貫かれている「アブラハム契約」を思い出させます。
 10節、「救いは、・・・神にあり、小羊にある」と信仰告白がなされています。11・12節、神礼拝に集中している様子が読み取れます。13・14節、この「白い衣を着」た無数の人々は、その衣を「小羊の血で洗って、白くしたのです」。これは、すべてのキリスト者のことであり、そのなかには、「大きな患難から抜け出て来た者たち」もいるのです。15~17節、「昼も夜も」は、昼も夜も絶え間なくという意味です。永遠の日の到来とともに、光である神様の前に闇は消え去るのです。「聖所で・・・神に仕えているのです」ここに、完全な形での万人祭司の事実が実現します。「小羊が、彼らの牧者となり」キリストが、羊を導く牧者でありばかりでなく、羊のために命を捨ててくださった「良い牧者」であり、「神の小羊」であることが、完全な意味で実現します。

参考文献

  • 柴田敏彦『黙示録の七つの教会へのメッセージ』(日本長老教会東京中会教育委員会主催2002年度信徒学校講演録)
  • F. B. マイヤー:原著/小畑進:編著『きょうの力』(いのちのことば社、2002年)
  • 鈴木英昭「ヨハネの黙示録」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • 久保田周『ヨハネの黙示録(新聖書講解シリーズ12)』(いのちのことば社、1983年)