新約 第49週
ヨハネ書簡第一2章1節~ユダ書簡

hi-b.a. 荒井 恵理也

2007年11月30日 初版

【日曜】 ヨハネ書簡第一2章1~29節
「身近の知られざる脅威」

 この手紙の記者は、教会を脅かす危険思想、すなわち反キリストとの対立を明確にしています。ここでは反キリストという言葉が特定の個人を指しているように読み取れますが、必ずしも人間だけに限られたものではなく、キリストとの対立関係にあるもの、同時に私たちをもキリストと対立させようとするものも指しています。そしてそれは必ずしも人間の形をとるわけではなく、諸宗教や諸現象、価値観や生き方のなかに現れるものです。教会のなかにもキリストへの献身を妨げるような世俗的価値観や怠惰がありますし、クリスチャンのコミュニティーのなかにもキリストとの関係が実質的に断たれてしまっている人がいます。それらは確実に私たちの信仰を蝕んでいくのです。
 そのようなものを反キリストと呼ぶのは過剰のようにも思えます。しかし反キリストは、それとはっきりわかるような姿では現れませんので、通常はあまり気づきません。それは私たちの警戒心を低く抑えるためです。イエス様が「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタイ7章15節)とおっしゃったとおりです。だから私たちは十分に警戒しなければならないのです。私たちは、私たちと神様との関係を妨げるもの、またクリスチャン同士の愛し合う関係を脅かすものに敏感でなければなりません。そしてそれを自分の生活のなかから取り除くための努力をすべきです。

【月曜】 ヨハネ書簡第一3章1~24節
「ふがいない自分だけれど」

 自分のふがいなさに愕然とすることがしばしばあります。それは自分の罪だったり、弱さだったり、染み付いた習慣だったりします。
 ヨハネは「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(3節)と言います。私たちは自分を清く保つために罪との決別を宣言し、そのための最善の努力をすることが求められますが、自分を清くするものは自分の努力ではなく、キリストの流された血潮です。キリストが清いお方であるゆえに私たちは清くされるのであって、キリストによってでしか清くされることはないのです。
 私たちは罪との格闘を繰り返し、その都度敗れてきたものです。もうしまいと心に誓ったことが何度となく破られてきました。その度に落胆し敗北感に襲われて、自分の救いの確信までも脅かされてきたかもしれません。
 「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません」(6節)とありますが、「彼のうちにとどまり続ける者は、罪を習慣的に犯し続けはしません」という意味であり、キリストを受け入れた後も罪を犯し得るが、それは例外であって原則ではないのです。自分の過失や弱さ故に犯してしまう罪を、キリストの血潮は確かに赦して清めてくださることがここで約束されているのです。だから悪意を持って意図的に犯した罪とは区別されて考えるべきと言えるでしょう。そして自分の弱さを正直に打ち明けて悔い改める者にされましょう。

【火曜】 ヨハネ書簡第一4章1~21節
「愛の源イエス・キリスト」

 3章の後半から「互いに愛し合う」という言葉が頻繁に登場することに気がつきます。「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです」(3章11節)、「神の命令とは・・・私たちが互いに愛し合うことです」(3章23節)、「私たちは、互いに愛し合いましょう」(4章7節)、「私たちもまた互いに愛し合うべきです」(4章11節)、「もし私たちが互いに愛し合うなら・・・神の愛が私たちのうちに全うされるのです」(4章12節)。
 これはイエス・キリストが繰り返し弟子たちに教えておられた戒めです。しかし、私たちのうちには愛がありません。完全に堕落しきった私たちには自分のうちから愛を生み出すことはできませんが、ただ神様によってのみ愛を受けてそれを反映させて愛を実践することができるのです。ヨハネも「愛は神から出ている」(7節)と言い、私たちはその愛を一方的に受け取ります。しかしその愛は私たちが受け取るところで完結するものではありません。神から出る愛は、私たちを通してその愛が現わされ実践されて、次の世代へとそれが受け継がれていくものであり、神から出た愛を受け取った者同士が、その一方的な愛を与え続けることによって、互いに愛し合うという状態が成立するわけです。私たちは、愛の源であるイエス・キリストから愛をいただくことによって、神の命令を守る者と造りかえられていくのです。

【水曜】 ヨハネ書簡第一5章1~21節
「永遠のいのちを持っていることをわからせるため」

 ヨハネは、福音書を書いた目的を「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがた信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20章31節)と言っています。それに対してこの手紙は「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるため」(5章13節)に書いたと言います。要は信仰の確信を回復させることと言うのです。
 ヨハネはこれまで、キリスト者の信仰を脅かす脅威と内面の罪の性質を語ってきました。そこから、脅かされた信仰を擁護し、キリストへの信仰の確信に再び立ち返らせるための結びへと文章は進んでいきます。私たちをあらゆる信仰的脅威から守り、救いの確信に立たせ、互いに愛し合うことを成し遂げさせるのは、愛の源であるキリストとの関係を築く“信仰”にほかなりません。ふがいない自分の姿に落胆し、愛の貧しい自分の姿に愕然としますが、キリストは義なるお方であり、愛の源です。自分は清くないのですがキリストは清く、そのキリストによって清さにあずかる者とされるわけです。私たちはこの手紙全体をとおして、自分の罪と汚れの故にへりくだり悔い改める者とされて、愛であられるキリストへの信仰を再び堅く保つ者とされるように願います。

【木曜】 ヨハネ書簡第二
「あいさつをしてもいけないの!?」

 誰にでも気持ちよくあいさつできる人になりたいと常日頃思っていますが、そんななかで目に飛び込んでくる本書10節「その人にあいさつのことばをかけてもいけません」の文字には一瞬度肝を抜かれます。ヨハネとは実は過激な男なのでしょうか。
 この手紙での中心的メッセージは兄弟愛の勧めと反キリストへの警告です。ヨハネは、宛先の教会が真理のうちに歩んでいる様子を彼らとの交わりのなかで確信して喜んでいます。そして続けて真理のうちに歩むように勧め、互いに愛し合うことを勧めます。しかしここにも反キリストは入り込んでいたので、彼ら(反キリスト)に対する最善の防御策として、クリスチャン同士が愛し合うようにと言うのです。
 ヨハネは彼らに対しては、家に入れてもいけないしあいさつをしてもいけないと言うのです。私たちには一瞬戸惑いを感じさせる勧めですが、正当な理由があるのです。なぜなら、彼らの文化ではあいさつは単なる儀礼以上の意味を持っていたのです。あいさつは相手の祝福を祈り、仲間であることを確認し、彼らの行動を承認する意味を含むわけです。単なるあいさつが、キリストのからだなる教会に反キリストを招き入れ、キリストのからだを汚すことにつながるわけです。ヨハネがあいさつを禁じた理由は、排他的な理由からではなく、キリストのからだなる教会の秩序と聖さを保つための、その文化を前提とした信仰の知恵だったのです。

【金曜】 ヨハネ書簡第三
「自分の評価よりも大切なもの」

 「人の目が気になる」とはよく耳にする悩み相談です。自分が周囲からどのように評されているかが気になる人は少なくないようです。本音を言えば、誰だって人から良く見られたいのです。だから、人から誤解されると激しく憤るのですが、逆に自分の本当の姿を知られてしまうと恥ずかしくて人の前に立つことなどできなくなってしまいます。私たちの本当の姿とはみじめな姿なのです。
 さて、この手紙の宛先はガイオですが、彼はヨハネから短い手紙のなかで3度も「最愛の人」と呼ばれるほどに強い友情と尊敬を受けていた人物です。また、彼は誰からも好意を得ている人格者であり、敬虔な信仰者でもあったようです。一方でデオテレペスは、教会のなかで誹謗中傷を繰り返し、教会のメンバーを追い出すようなことまでしていたのです。そのようななかで、ガイオを励まし、キリストのからだなる教会を清く保つために、この手紙は書かれました。デオテレペスは、これまで見てきたような反キリスト的な教理的異端者ではないようですが、その問題行動で教会を混乱させていた極めて危険な人物だったようです。当然両者の評価は大きく分かれます。
 私たちは自分の評価を気にして、それが下がったり傷ついたりしないようにすることに神経を使いますが、そのこと以上に、自分自身がキリストの教会を汚して混乱させていないか自問すべきでしょう。守るべきものは自分の評価ではなく、キリストのからだなる教会なのです。見習うべきはガイオの姿なのです。

【土曜】 ユダ書簡
「人生日々是悔い改め」

 「蒔いた種は刈り取る」とは、幼い頃から親に教えられてきた教訓であり、幼心には脅迫的効果を発揮していました。今思い出すと本当に怖かった・・・。
 ユダは5節以降で、主を信じなかった出エジプトでのイスラエルの民、神に挑戦した天使、ソドムとゴモラ、カイン、バラム、コラと、立て続けに背信した者たちを例に取り上げて、その結末の悲惨さを描きます。神への背信は、霊的な自殺行為です。聖書はそのことを警告し続けていますが、それにもかかわらず全地上的に神への背信行為は繰り返されていきます。そのようななかでのユダの勧めは、
 (1) 自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、
 (2) 聖霊によって祈り、
 (3) 神の愛のうちに自分自身を保ち、
 (4) キリストのあわれみを待ち望みなさい、
というものでした。神への献身と従順に生き、悔い改めの日々を生きよというのです。この地上での歩みは「人生日々是悔い改め」です。旧約の人物たちの失敗から学んで自分のなかにある高ぶりを認め、聖書の警告に従って悔い改めの日々を送り、神の赦しを待ち望む、これが信仰者の歩みです。その歩みの先にあるものは、罪の呵責による苦しみではなく、神の赦しによる完全な救いと平和なのです。
 ユダの手紙は現代に生きるキリスト者への警句です。謙遜に耳を傾ける者でありたいです。

参考文献

  • 伊藤顕栄「ヨハネの手紙 第一、第二、第三」『新聖書注解・新約3』(いのちのことば社、1979年)
  • 上沼昌雄「ユダの手紙」『同上』(同上)
  • 村上宣道「ヨハネの手紙」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • 藤本光悦「ユダの手紙」『同上』(同上)
  • ヨハネス・シュナイダー:著/松本武三:訳「ユダの手紙、ヨハネの手紙」『NTD新約聖書註解(10) 公同書簡』(ATD・NTD聖書註解刊行会、1975年)