新約 第48週 ペテロ書簡第一3章1節 ~ヨハネ書簡第一1章10節
BibleStyle.com
聖書教会連盟
金沢東聖書教会 牧師
キリスト者学生会(KGK)
北陸地区 非常勤主事
塚田 安喜
2007年11月23日 初版
【日曜】 ペテロ書簡第一3章1~22節
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。【15節前半】
妻に対する「夫に服従しなさい」との命令の理由は、夫が神のものとされるためであり、夫に対する「妻を尊敬しなさい」との命令の理由は、祈りが妨げられないためでした。そして、「祝福をあたえなさい」(9節)との命令の理由は、私たちが祝福を受け継ぐために召されたからでした。私たちが悩まされる大きな問題の一つは人間関係です。その人間関係は、家庭、会社、学校、教会など様々な場所にあります。私たちはその関係修復や問題解決のために服従し、尊敬し、祝福を与えるのだと思いがちではないでしょうか。しかし、聖書はあなたと相手との人間関係の解決に焦点を当てるのではなく、あなたと神との関係、もしくは相手と神との関係にこそ焦点を当てて、服従と尊敬と祝福を求めているのです。
そして、キリストも確かに、彼を苦しめた私たちと神との関係回復のために十字架で死なれたのでした。
私たちの抱えている問題への対処が、実はその問題自体の解決ではなく、私と神、もしくは相手と神との関係における祝福のためであると知り、私たちの心を高く上げましょう。
【月曜】 ペテロ書簡第一4章1~19節
地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。【2節】
私たちの命には限りがあり、この世界にも限りがあります。私たちは罪を犯し、罪にもがき苦しんできました。私たちがこの先も自らの欲望のために生き続けるなら、残された時間もいつしか虚しい終わりを迎えるでしょう。「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です」(3節)とペテロは語ります。私たちも「罪はもう十分だ」と、悪との決別をしましょう。そして、神の御心に従う一歩を確実に進めて行こうではありませんか。
憎むのではなく愛すること、支配するのではなく仕えること、神から与えられた全てのものを自分の欲望ではなく神のために用いることを選ぶのです。
万物の終わりを前に心騒がせることなく、神の前に心を整え身を慎み、今日も祈りによって神と静かに語らいましょう。
【火曜】 ペテロ書簡第一5章1~14節
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。【10節】
家庭で飼われているペット用のワニが逃げ出して大騒ぎになっている様子を、テレビのニュースで見たことがあります。小さなワニでも子どもの指くらいは食いちぎれるとのことでした。しかし、ここでは「悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(8節)と、もっと大きな危険のなかに私たちがいると警告を発しています。なんと恐ろしいことでしょうか。私たちはこの危機を敏感に察知していましょう。そして、この危険に対抗する唯一の手段は信仰なのです。私たちの力で悪魔との戦いに挑むのではなく、神の前にへりくだり、あらゆる思い煩いを神にゆだねることです。危険と苦しみは永遠に続くものではなく、しばらくの間で終わります。その後、私たちは神によって完全な者、不動の者とされるのです。
【水曜】 ペテロ書簡第二1章1~21節
預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。【21節】
私たちに与えられた聖書は神の言葉であるという信仰に堅く立つことは、とても大切です。また、聖書に記されているキリストの姿は決して作り話ではありません。今日も聖書について様々な議論がなされ、多くの意見があります。すべての奇跡的な事柄を聖書から除き、倫理的な書物としてだけ聖書を捉えようとする人もいます。しかし、聖書に記されているのは神からの言葉なのです。もちろん、聖書記者たちがロボットのように無感覚のうちに書いたのではありません。聖霊に導かれた彼らが人格や特質も豊かに用いられて記したのです。私たち人間は、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる存在です。そして、私たちはその御言葉を自分勝手な思いや解釈ではなく、聖霊の導きのなかで受けとめることが大切なのです。この御言葉を私たちが正しく理解し、心に蓄えるなら、私たちは実を結ぶ者となるのです。
【木曜】 ペテロ書簡第二2章1~22節
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。【20節】
一度キリストを知った者が再び世の汚れに巻き込まれ征服されてしまうことは、最悪の事態を招きます。ペテロは「義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです」(21節)とまで言いのけています。もし、あなたが罪の誘惑に巻き込まれつつある危険性を察知しているなら、御言葉と聖霊の導きによってすぐに逃げるべきです。間違った教えや思いに屈してしまいそうな心があるなら、「主よ助けて下さい、間違いを見抜くことができるように」と祈りましょう。罪の誘惑は強く、何度も私たちを執拗に追いかけます。しかし私たちは諦めずに、悔い改め続け、清さを求め続けましょう。主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出してくださる(9節)のですから。
【金曜】 ペテロ書簡第二3章1~18節
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。【9節】
キリストが再び来られるとき、今の天地は滅び、新しい天と新しい地が与えられると聖書は語ります。キリストが天に昇られてから、二千年近くが経とうとしている今も、その約束に変わりはありません。主の約束は時間とともに無効になったり、消えてなくなったりはしません。むしろ、時を支配しておられる主の御前においては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである(8節)ことをしっかり心に刻んでおくべきです。二千年の経過は単純に計算しても、神の御前で二日のようであったことになります。ですから油断することなく主の日を待ち望み、キリストの福音にふさわしく生活しましょう。
一方、この二千年は御前で二百万年のようであったことにもなります。すべての人の悔い改めに対する御思いの強さ、その忍耐力に恐れすら覚えます。私たちは主の忍耐に応え、一人でも多くの人が救われるように福音を宣べ伝えるべきです。すなわち、言葉においても行いにおいても「全生活を通しての証」こそが、主の求めておられる生き方なのです。
【土曜】 ヨハネ書簡第一1章1~10節
私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。【3節後半】
キリストの使徒であるヨハネが私たちに伝えようとしているのは、彼が聞いて、見て、触った、彼の前にあまりにもリアルに現れた「永遠のいのち」です。そして、この「永遠のいのち」とは、彼が寝食すらともにしたイエス・キリストでした。ヨハネがキリストを伝えるのは、彼がキリストによって入れられた交わりに、私たちも入るためです。
この交わりとは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」(3節)です。この交わりに入るなどとは、罪に汚れた私たちには考えもつかないことでした。ヨハネは彼に語りかけられたキリストの言葉を私たちに伝えます。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」(5節)。闇の中を歩んでいる人間に、そのような神との交わりを持つことは不可能でした。
しかし、キリストが十字架上で流された血はそれを可能としたのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(7節)。あなたにはどうしても負けてしまう罪があるかもしれません。罪の内容は様々でも、「この罪だけは赦されないのではないか」との思いに悩まされる人も少なくないでしょう。しかし、私たちは「すべての罪」からきよめられるのです。そして、こんなにも愚かな者が、ただ神の憐れみによって、御父と御子との交わり、光の中に入れられるのです。なんという幸いでしょうか。
参考文献
- 倉沢正則「ペテロの手紙」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
- 松木祐三「ペテロの手紙 第一」『新聖書注解・新約3』(いのちのことば社、1979年)
- 宮村武夫「ペテロの手紙 第一」『ペテロ・ヨハネ・ユダの手紙(新聖書講解シリーズ11)』(いのちのことば社、1983年)
- ウェイン・A・グルーデム:著/櫛田節夫:訳『ペテロの手紙第一(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2007年)
- 上沼昌雄「ペテロの手紙 第二」『新聖書注解・新約3』(いのちのことば社、1979年)
- 櫛田節夫「ペテロの手紙 第二」『ペテロ・ヨハネ・ユダの手紙(新聖書講解シリーズ11)』(いのちのことば社、1983年)
- 村上宣道「ヨハネの手紙」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
- 伊藤顕栄「ヨハネの手紙」『新聖書注解・新約3』(いのちのことば社、1979年)
- 井戸垣彰「ヨハネの手紙 第一」『ペテロ・ヨハネ・ユダの手紙(新聖書講解シリーズ11)』(いのちのことば社、1983年)
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