新約 第47週
ヤコブ書簡2章1節~ペテロ書簡第一2章25節

日本同盟基督教団 盛岡みなみ教会 牧師
大塚 史明

2007年11月16日 初版

【日曜】 ヤコブ書簡2章1~26節

 「私の兄弟たち。・・・人をえこひいきしてはいけません」との勧告で2章は始まっています。こう書かれたのは、実際に教会の中である者は優遇され、ある者はないがしろにされている問題があったからだと分かります(2~4節)。教会に来てまで、この世の基準でさばかれる、人間臭い目で見られる、排他的な空気が漂っているのであれば、それは非常に残念なことです。「自分たちの間で差別を設け」(4節)ているのは、主の教会に似つかわしくない現状です。

 私たちが常に、思い巡らさなければならないのは、「神が、あえて私を選んでくださり、天の御国を相続させてくださるのだ」という信仰です。なぜなら、「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る」(13節)のだからです。
 私たちは、神のあわれみによって、罪のさばきから救われるのです。誇るべきは、救われた自分ではなく、救ってくださる神のみです。神を恐れること、すなわち、この世のすべてをさばかれる唯一の神がおられることは、「悪霊どももそう信じて、身震いして」(19節)いるほど恐ろしいことです。しかし、私たちはさばかれる神を恐れるだけでなく、それ以上に、あわれみ深い神を信じる必要があるのです。神のそのあわれみこそが、私たちを生かすのです。
 ですから、あわれみがなければ滅ぼされるよりほかない私たちに、他人をさばく権利は持ち合わせていません。あわれみによって生かされている私たちが、あわれみのない行いによって他者をさばくことほどおかしなことはないからです。

 ルカの福音書10章で強盗に襲われた人を、祭司もレビ人もサマリヤ人も確かに見ました。しかし、「かわいそうに思った」(「あわれみ」と同じ言葉)のはサマリヤ人ひとりだけでした。あわれみを感じ、示すことのできる人は多くはありません。今こそ、私たちの中から「私の信仰をみせてあげます」(18節)と大胆に進み出る人が求められています。もし「誰かがやるだろう」、「誰かに続けばいい」、「もう少し時が迫ったら動こう」とつぶやくなら、その人の信仰は死んでいるのです。
 どうか、この手紙を受け取っている私たちが、いつでも、どこでも「栄光の主イエス・キリストを信じる信仰」(1節)によってえこひいき、嗜好、偏見、怠惰の壁を越えて、信仰に富み、天に宝を積む道を歩むことができますように。

【月曜】 ヤコブ書簡3章1~18節

 2章では、信仰と行いとがしっかりと結びつけられ、互いが鮮やかに表現されている教会生活・信仰生活を送るように勧めた後、3章では、さらに具体的に説き勧めています。それは「ことば」に関することでした。「ことばで失敗をしない人がいたら、その人は・・・完全な人」(2節)と記すほど、ことば、舌、口に現れてくる罪の根深さを指摘します。
 馬はくつわによって、船はかじによって思いのまま制御されるのに、「舌を制御することは、だれにもできません」(8節)と事態の深刻さを浮き彫りにしています。小さな舌ひとつは、実に「人生の車輪を焼」くほどのすさまじい威力で猛威をふるっているのです。そうした恐ろしい現実を考えもしないでいることは、あってはならないことだと言います。それは「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせる」(11節)ことがないように、信仰者も一方で神をほめ、一方で人をのろうことは、本来ありえないことなのです。

 9~12節は、「当たり前のことに気づいてほしいだけなのです」、「目指すべき地を見据えて今日も歩んでほしい」、「あなたがたの悲惨で、欺瞞に満ちた現状を見過ごさないでいただきたい」という叫びにも似た訴えであり、あなたへの投げかけなのです。信仰によって生きる者は、徹底的に「地に属し、肉に属し、悪霊に属するもの」(15節)と行いをともにせず、「純真・・・平和、寛容、温順」(17節)とともに働いてほしいと励まします。
 「いったい、どうしたらそんな生き方ができるのか」、「私には到底無理なのではないか」と落胆し、あきらめる必要はありません。なぜなら「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来る」(1章17節)と、知恵が与えられることは手紙の初めから約束されているからです。今、恐れずに上から知恵で満たされるよう求めましょう。私たちを完全な者にしようとたゆまず導いてくださるお方に、朝も、夕もこう祈る者でありたいのです。「私の舌は、あなたのみことばを歌うようにしてください」(詩篇119篇172節)。

【火曜】 ヤコブ書簡4章1~17節

 「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」(2節)
 これほど、主が悲しみと警告を持って宣告しておられる衝撃的な箇所はないのでは、と思えるほどです。ある箇所では「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになる」(ヨハネ15章16節)と約束されているにもかかわらず、です。

 私たちの欲望、快楽、悪い動機というものがどれほど天からの祝福を差し止めるものとなっているのでしょうか。私たちは、自分が原因となって引き起こしている戦いや争い、疲弊や霊的貧困が、いかに身の回りにまとわりつき、からだの中から燃えさかっているのか、考えてみたことがあるでしょうか。
 しかし、こうした罪、戦い、悲しみは、神を愛するがこそ、見えてくるものではないでしょうか。神を愛し始めるからこそ、罪との戦いに苦しむのではないでしょうか。「神のみこころに添った悲しみ」(IIコリント7章10節)こそ、信仰者が経験するよう勧められている悲しみです。いたずらに「笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」(9節)と命じているのではありません。私たちが求めるべき祝福は「悔いのない救い」であるはずです。

 ですから、私たちに必要なのは「神に近づきなさい」(8節)とのみことばを聴くことです。また、「神に従いなさい」(7節)とのみことばのとおりにすることです。主イエスに出会って、癒された人々、祝福された人々、力強いみことばをいただいた人々は皆、主イエスに近づいた人でした。彼らは、イエスさまの足下にひれふし、イエスさまの着物のふさをさわらせてくださいと願い、イエスさまのあわれみを請い、イエスさまにひたすらに叫び求めた人でした。
 私たちも、たえず「主のみこころなら」(15節)というへりくだりと真剣な求めを抱いて、「なすべき正しいこと」(17節)を行う者でありたいと願います。「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:10)

【水曜】 ヤコブ書簡5章1~20節

 人生の終わりの日に、「殺される日にあたって自分の心を太らせました」(5節)との宣告を受けたらどうでしょうか。これほど悲惨で、むなしい結末はありません。
 たとえ金持ちやぜいたくな暮らしばかりをしてきたわけではなくとも、腐った富、虫の食った着物、さびた金銀(2~4節)を持ってはいないでしょうか。繰り返しみことばを聴いてもぼんやりとして応答もせず、神の友と世の友との間を行ったり来たりしていないでしょうか。なすべきことを知っていながら手をつけず、「それは、もっと力ある人がやるべきことだ」、「あす、すれば済むことだから」と思い上がってはいないでしょうか。これらはすべて終わりの日に「責める証言」(3節)となって自分に返ってきます。

 私たちは、いつも、主の御前に立つ日を覚えて、きょうを生きるべきだ、と迫るのです。また、高ぶった人々の生き方につまずいて信仰の道からはずれてしまうことのないように、とも続けます。「さばきの主が、戸口のところに立って」(9節)おられる緊迫感は、皆が等しく持つべきことだからです。他人のためだけに用意された警告ではありません。
 そのためには「耐え忍び・・・心を強くし」(8節)ていなければなりません。信仰生活には、忍耐がどうしても必要なのです。あらゆるときに主の救いの希望を失わず、苦しんでも神を疑わずに祈り、喜んでも神を忘れずに賛美し、教会を中心とした交わりを続けるように励まします(13~16節)。聖書のみことばには力があります。ただ書き残されているだけでなく、約束されたことが実現する力があります(17~18節)。力が萎え、信仰の弱ってしまった者を顧み、互いの完全な救いのために励む人は幸いだと告げて、ヤコブはこの手紙を閉じています。

 私たちひとりひとりが、みことばを熱心に聴き、忠実に従い続ける者でありますように。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(Iコリント13章7節)と約束されている愛の道からはずれることのありませんように。「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」(1章21節)

【木曜】 ペテロ書簡第一1章1~21節

 主の弟子、ペテロが初めに記したのは、「イエス・キリストの使徒ペテロ」ということばでした。ペテロという語が最初に来ており「あのペテロが、キリストのしもべ」であることを知ってください、と強調しているようです。かつて湖上で、「もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(マタイ14章28節)と懇願したペテロが、今や各地の教会を励ます力強いことばを伝えようとしているのです。
 それは、彼が「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5章29節)という信仰を確信しているからでした。その確信とは、ペテロ自身が強かったのではなく、鈍く悟らぬときも、勇んでしゃしゃり出たときも、弱って裏切ったときも、もう一度漁師に戻ったときも、実にその生涯のすべてにわたって、イエス・キリストご自身からペテロに近づき、声をかけ、信頼し、導かれたゆえに与えられたものでした。
 今やペテロは、自分よりも確かな存在にゆだねて生きていました。それこそ「新しく生まれさせて、生ける望みを持つように」(3節)されたすばらしい生涯の道筋ではないでしょうか。しかもその信仰は初めから終わりまで「神の御力によって守られて」(5節)いるのです。

 きょうも、私たちの「信仰がなくならないように」(ルカ22章32節)、とイエスさまご自身が祈ってくださっています(ローマ8章34節)。私たちの信仰には堅固な後ろ盾が備えられているのです。信仰は孤独な戦いなのではなく、むしろ「主がその手をささえておられる」(詩篇37篇24節)確実な助けのある歩みです。「信仰と希望は神にかかっているのです」(21節)、とこれほど大胆で定かな保証はありません。しかし、その信仰には、「しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならない」(6節)と、ことわりがされています。それでも「イエス・キリストの現れ」(7・13節)を待ち望み、「恐れかしこんで過ご」(17節)すのです。

 釘で打たれた手を広げ、槍で突かれた脇腹を持ったイエス・キリストとお会いする日、私たちも信仰の試練によってしっかりと精錬され、この世のむなしい生き方が払拭された姿で相まみえたいのです。
 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」(詩篇139篇23~24節)

【金曜】 ペテロ書簡第一1章22節~2章10節

 1章の結びでは、「神のことば」の確かさ、偉大さ、永遠、不変、力というものを忘れないように、とまとめています。ここで私たちは、同時に、神のことば以外のものは、まるでそうではないことも自覚する必要があります。慕い求めるべきものは「純粋な、みことばの乳」(2章2節)であり、救いに至るまで成長し続けなさいと、いっときの油断、猶予、怠慢も許さないように鋭い勧めをしています。
 そのためには「すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨て」(1節)る覚悟を伴った生活が基盤となります。悪い木からは悪い実しか取れないのです。同様に、悪い考えやごまかしも人間ならば仕方なし、といった土台に築かれた生活には、それなりのものに留まってしまうことでしょう。

 私たちは、いつも「主のもとに来なさい」(4節)と言われているのですから、安心して、まっしぐらに主のもとに参りましょう。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章37~38節)のですから。
 「そんなこと言っても難しい」、「分かってはいるけれど現実はそれどころではないでしょう」とくだを巻いている暇などありません。「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(マタイ11章6節)。主を信じる私たちは、誰が何と言おうと、自分でこのくらいの者だと値踏みしようと、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(9節)なのです。これは、はっきりと神さまによって語られていることばで、私たちが自分の立場をしっかりとわきまえるように、目を覚まさせるようなみことばです。

 私たちは「やみの中で救われたのではありません」(C. H. スポルジョン)。そうではなく「やみの中から」(9節)救われたのであり、この世にあって輝くべきすばらしい福音の光を宣べ伝えていく使命をいただいているのです。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです」(マタイ5章13節)

 ― 主にのみ、従う ―
 この一事において、私たちは勇敢でありましょう。

【土曜】 ペテロ書簡第一2章11~25節

 「善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです」(15節)。自分を守るためにことば数が多く、摘んだと思っていたねたみが日々わき起こる私たちにとって、何とまっすぐな勧めでしょうか。
 神に喜ばれるのは、楽な道を「感謝、感謝」と行って通り抜けるのではなく、試練の途上で「主よ、主よ」とみこころを求め、行っていくことです。どれほど不当だ、不公平だ、不平等だ、割に合わない、と分かっていても、「神の前における良心のゆえに」(19節)そうし続けなさい、ときっぱり告げています。
 また、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(13節)ともあります。私たちは、神の前の良心、「主のゆえに」という姿勢を崩してしまっては、どうにもならないのです。これは、いくら「合理的に物事を進めたい」、「政治こそ改善しなければならない課題だ」と最もらしく主張してみても、「主のゆえに」従うとはどういうことなのか、考え抜く必要があるということではないでしょうか。
 そして、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15章5節)と言われたキリストのお心を受け取る者でありたいと思います。私たちにその「足跡」(21節)を残してくださったキリストは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せに」(23節)なられました。それは、「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」(24節)です。私たちは「羊のようにさまよって」(25節)いたところから、まことの牧者であり監督者である主イエスのもとに帰ったのですから、このお方にこそ聴き従うべきです。

 ペテロは、裏切った自分をしもべとして召してくださったイエス・キリストだけを誇りとし、主に従うことの絶大な価値に自分を投じていました。私たちも、いさぎよく主に従うしもべでありましょう。なぜなら、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めて」(IIコリント1章4節)くださるからです。