新約 第46週
ヘブル書10章19節~ヤコブ書簡1章27節

日本福音自由教会 蕨福音自由教会 教会員
安齋 想子

2007年11月9日 初版

【日曜】 ヘブル書10章19~39節

 著者は、イエスの血によって大胆にまことの聖所に入ることができるようになったのだから、信仰を持って真心から神に近づこうではありませんか、と勧めています(19~22節)。
 では、私たちはどのようにして神に近づいたらよいのでしょうか?
 どんなに休まずに礼拝を守っていたとしても、毎日欠かさずに聖書を読んでいたとしても、その心のうちに信仰がなかったら、何の意味もありません。神が一番望んでおられることは、私たちが「全き信仰をもって、真心から神に近づく」ことなのです。

 続けて著者は、キリスト者同士の愛と交わりについて24・25節のように勧めています。25節にある「かの日」とはキリストの再臨の日のことです。私たちは、その日がいつなのかは分かりません。しかし、間違いなく少しずつ近づいているのです。私たちは、それまでの間、ともに集まり励ましあっていくことが大切なのです。

 26節以降は、信仰の戦いのなかで神から離れていった人たちと、神から離れることなくその戦いを耐え抜いた人たちの両面から語られています。
 私たちの前には、必ず戦いが訪れます。その戦いの内容は、人によって異なったものでしょう。その戦いのなかに身を置いたとき、私たちは不安を抱くでしょうし、その戦いに負けてしまいそうになることもあるかもしれません。しかし著者は、「確信を投げ捨ててはなりません」(35節)、と私たちを励ましています。私たちが確信を投げ捨てず、忍耐をしていくとき、約束のものを手に入れることができるのです。
 約束のものとは何でしょうか?
 それはキリストが再び来られる「再臨の日」の喜びではないでしょうか。

【月曜】 ヘブル書11章1~16節

 「百聞は一見にしかず」ということわざにもあるように、目に見ることは理解をする上で大きな助けとなるものです。
 しかし、この箇所では、信仰は目に見えないものを確信させるものです(1節)と言っています。目に見えないものを、確かなものとして信じるというのは、簡単なことではありません。しかし、それを可能にしてくれるのが「信仰」です。
 では信仰とは、いったい何なのでしょうか?
 信仰とは、待ち望んでいることが必ず実現すると確信して疑わないこと(1節)であり、目に見えないものを悟らせること(3節)ができるものです。私たちが待ち望むものは、まだ先の出来事であるかもしれませんし、一般的な常識では信じられないようなことであるかもしれません。

 4節以降では具体的に旧約聖書の時代の信仰者たちの生涯を例にあげて、信仰について語っています。
 信仰によってアベルは、良いものを神にささげ、神に喜ばれました(4節、参照:創世記4章1~7節)。
 信仰によってエノクは、神に喜ばれました(5節)。その与えられた生涯を神とともに歩んだからです(参照:創世記5章22節)。
 信仰によってノアは、まだ見ていない事がら、つまり実際に雨の降る前から神の警告を信じ、恐れかしこんで箱舟を作りました(7節、参照:創世記6章9~22節)。
 信仰によってアブラハムは、どこに行くのかを知らずに旅に出て(8節、参照:創世記12章1~4節)、約束の地が与えられることを信じて天幕生活をしました(9・10節)。また、その妻サラとともに、神が約束された子孫が与えられることを信じました(11節、参照:創世記21章1~3節)。
 6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」とあるように、私たちも旧約聖書の時代の信仰者たちを見習い、神に近づき、神を求め、信仰をもって神に喜ばれる生活をしていきましょう。

【火曜】 ヘブル書11章17~40節

 17節以降も、旧約聖書の時代の人々の信仰が記されています。
 信仰によって、アブラハムはイサクをいけにえとしてささげました(17~19節、参照:創世記22章1~14節)。神の約束を長い間信じ、待ち続けてようやく与えられたそのイサクをです。
 また、イサクも、ヤコブも、ヨセフも、自分の死を前にして、自分では実現できなかった「約束の地に入る」「大いなる国民になる」という神の約束が必ず実現すると信じ、希望を抱いて死に臨みました。それぞれ、そのことを信じて、祝福の祈りをささげています(20~22節)。
 モーセは、パロ(ファラオ)の娘の子という地位を捨て、神の民とともに生きることを選びました(23~29節)。
 人々の信仰によって、エリコの城壁は崩れました(30節、参照:ヨシュア6章1~20節)。
 遊女ラハブは、偵察に来た人たちを受け入れ、かくまったので、他の人たちとともに滅びることはありませんでした(31節、参照:ヨシュア6章25節)。
 その他にも多くの信仰者たちの姿が、聖書には記されています。また、名前が記されていない信仰者たちは、もっと多くいることでしょう。名前が記されていない多くの信仰者たちも、困難のとき、神から離れることなく迫害に耐え、ときには命さえも惜しまずにささげてきたのです。
 私たちは、名前が後世に残されるようなことはないかもしれません。しかし、今までの多くの信仰者たちがそうであったように、ただ神の約束を信じて、困難なときでも、信仰を堅く握って歩んでいきましょう。

【水曜】 ヘブル書12章1~17節

 11章で多くの信仰者たちの信仰を見てきました。1節では、信仰者の生涯を競走に例えて記しています。「こういうわけで・・・私たちも・・・」とあるように、この信仰者たちを見習って、忍耐を持って走り続けようではありませんか、と勧めています。
 そのためには、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」いること(2節)が大切です。ゴールがはっきりしていなければ、完走することはできません。道に迷ってしまったら、ゴールにはたどり着けません。私たち信仰者の一番のお手本である、イエスから目を離さないで、その信仰生活を送ることが、そのレースを完走する秘訣なのです。

 4節以降は、「神の訓練」について記されています。神は、私たちを「子」と呼んでくださいます。子どもを甘やかし、欲しいものをすべて与えるだけでは、その子どもは成長できません。必要な懲らしめや、訓練を通して立派に成長していくのです。
 苦しみや困難のなかに身を置いているとき、私たちは神に忘れられているような、見捨てられているような、とても不安な気持ちになることでしょう。
 しかし神は私たちを耐えられない試練に会わせることはありません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道を用意していてくださいます(Iコリント10章13節)。私たちは、この試練を通して成長し、神に用いられる器として整えられていくのです。

 私たちは聖くなければ、主を見ることができません(14節)。聖くあるためには、「よく監督する」ことが大切(15節)と記されています。
 私たちの周りには、悪や誘惑が溢れています。そのようなものに心を奪われないように、イエスを見続けていくことが大切なのです。

【木曜】 ヘブル書12章18節~13章8節

 18~21節では、旧約の時代の神と人の断絶を見ることができます。人間は、その罪のゆえに、ただ神の前に恐れおののいていました。
 しかし、22節以降。キリストが神と人との仲介者となってくださったことが記されています。私たちは、キリストが十字架で流された血によって、神に近づき「アバ(お父さん)」と呼ぶことが許されているのです。

 25節以降は、キリストによって贖われた私たちがどのように生きていくかを示しています。
 1つ目は、語っておられる方を拒まないように注意することです(25節)。
 2つ目は、揺り動かされない神の国の国民とされたということを感謝することです(28節)。
 3つ目は、神に喜ばれるように奉仕をすることです(28節)。

 13章1節以降は、兄弟愛について(1~3節)、すべての人に尊ばれる結婚について(4節)、金銭を愛する生活をしないこと(5節)などから、キリストによって新しくされたものがどのように生きていくかを具体的に示しています。
 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じ」であり不変的な私たちの指導者です(6~8節)。多くの信仰者たちがそうであったように、私たちもそのキリストから目を離さずに過ごしていきましょう。

【金曜】 ヘブル書13章9~25節

 10~14節で著者は、信仰者たちにキリストのはずかしめを身に負い、宿営の外に出てみもとに行こうではありませんか、と勧めています。言い換えるなら、私たち信仰者は、キリストに倣って自分の十字架を負い、守られている所から外に出て行き、神の栄光をあらわして行くことが求められているのではないでしょうか。
 心からの感謝を神に賛美をささげ、善を行うことを怠らないことによって、神の栄光が具体的にあらわされていくのです。(15・16節)

 17節以降は、この書簡の最終部分にあたり、3つの大切なことを伝えています。
 1つ目は、「神のことばをよく聞くこと」です。神が指導者を通して何を語っておられるのかをしっかり聞き、それを実行していくことが大切です。
 2つ目は、「指導者への尊敬と信頼」です。17節には「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」とあります。ただ盲従するのではなく、神が選ばれた指導者に、尊敬と信頼をもって従っていかなければなりません。そうすることによって指導者たちは、嘆くことなく喜んでその働きをすることができるのです。
 最後に3つ目は、「指導者のために祈る」ことです。あなたは、教会の指導者、つまり牧師・伝道師・宣教師のため祈っているでしょうか?信徒が祈りのサポートをすることによって、教会の指導者たちは、さらに良い働きをすることができ、教会が前進していくのです。

 結びにあたり、著者は信仰者たちが完全な者となれるようにと祈りました。また、この勧めのことばを受けてください、と願っています。私たちも、この勧めを受け取っていきましょう。

【土曜】 ヤコブ書簡1章1~27節

 ヤコブの手紙は、「公同の手紙」と呼ばれている7つの手紙の最初の書簡です。「公同の手紙」とは、パウロの手紙のように明確な宛名としての教会や個人名がなく、信徒全般に向けて書かれているものです。
 まずヤコブは「試練」について語っています(2~12節)。2節では「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」と言っています。試練に会いたいと思う人は、あまりいないでしょう。できれば、試練になど会わず、穏やかに毎日を過ごしたいと考える人が多いでしょう。
 しかし、ヤコブは試練を喜ぶようにと言うのです。なぜでしょうか?
 試練を通して、信仰をためされ、忍耐を迫られます。そしてその試練を耐え抜いたとき、信仰者として大きく成長を遂げ、完全なものとされるのです(3節)。
 試練に打ち勝つためには、知恵が必要になるでしょう。その知恵を与えてくださるよう神に願えば、それは与えられます(5節)。与えられるための条件は、「少しも疑わずに、信じて願う」(6節)ことなのです。
 神からの応えがすぐに得られないとき、私たちは不安に陥ることでしょう。神は、私たちの願いを間違いなく聞いていてくださるお方です。不安な気持ちを抱えたときには、その思いを祈っていけばよいのです。その祈りの後、不安な気持ちに神からの平安が与えられるのです。

 13~18節は「誘惑」について語っています。神は誰のことも誘惑されるようなお方ではありません。誘惑の裏には、必ず自分の欲があることを忘れてはなりません。

 19節以降は「神のみことば」について語っています。みことばをしっかり聴き、それを素直に受け入れることによって、私たちのたましいは救われます(21節)。
 みことばを聴き、イエス・キリストの福音を知った信仰者は、キリストに似た者となりたいと願います。キリストに似た者となるためには、キリストがそうであったように、みことばを実行する(22節)ことが大切なのです。

参考文献

  • 宇田進・有賀喜一『ヘブル人への手紙・ヤコブの手紙(新聖書講解シリーズ10)』(いのちのことば社、1983年)
  • 市川康則「ヘブル人への手紙」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • 太田和功一「ヤコブの手紙」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • 舟喜順一『聖書註解』(キリスト者学生会出版局、1966年)