新約 第44週
テモテ書第二4章1節~ヘブル書3章19節

日本同盟基督教団 三島めぐみチャーチ 牧師
下山田 耕一

2007年10月26日 初版

【日曜】 テモテ書第二4章1~22節 「命がけのバトン」

【1~2節】 おごそかな命令

 いよいよ天に上げられることを自覚するパウロは「おごそかに命じます」「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と。
 パウロは今生の別れをテモテに示します。それは、いよいよテモテ自身にこの働きの責任を自覚させ託すためでした。また、再臨のキリストに備えてこの使命に立つようにと願うパウロの心が表れています。
 テモテはどのような思いでこの手紙を受け取ったのでしょう。恩師との別れは寂しいものですが、いつまでも共にいることはできません。やがて自分自身が教えられたことを教える立場になるのです。パウロの厳かな命令により、今日私たちにみことばが届いているのです。命をかけたみことばの宣教のバトンが引き継がれ、私たちの手元、耳元にみことばがあるのです。
 あなたは、死を目前にしたとき、愛する者に何を語り、何を残しますか。

【3~4節】 これからの時代の様子

 パウロは後の時代の様子を予見します。まさにその通りに時代は進んできました。あなたは、パウロの予見したとおりになっていませんか。「みことばを聞く」とは、聞きたいことだけをあさるような聞き方ではいけません。厳しい言葉だとしても素直に聞き従っていますか。

【5節】 その時代の中での生き方

 テモテにはその中での生き方を記します。優しいテモテにとって群れを導くことに恐れがあったことでしょう、それでも自分の務めを十分に果たしなさい。と勧められています。クリスチャンが生きにくいことを時代のせいにしてはいないでしょうか。罪深い時代は放っておいて良くなって行くことはありません。私たち一人一人がその務めを十分に果たして行きましょう。

【6~8節】 証し

 パウロは、勧めるだけではなく、その生き様を示し、さらには使命に生き尽くした者に味わうことの許される、喜びと希望を示しています。共に味わう者となりましょう。

【9~22節】 記録

 パウロは、振るわれる時代の中で、信仰を握るものと、信仰を離す者の名を上げて記録します。デマスがその一人です。逆にルカ福音書の著者となる、このルカは獄中だろうと、伝道旅行だろうとどこにでも着いて来てくれたと記しています。
 あなたはどちらの記録に名を残したいと思いますか。

【月曜】 テトス書1章1~16節

【1~4節】 挨拶

 まだ教会として十分に組織が機能していない段階のクレテ島の教会の建て直しに任命されたテトスに宛てられた手紙です。テトスへの励ましは、同時に私たち自身への激励の言葉でもあります。集っている教会や職場、学校であってもあなた自身が、キリスト者として遣わされた場所である自覚を持っていますか。置かれている環境や教会の中で、もう一度自分の働きを確認しましょう。
 大変重い仕事を委ねたパウロは、その安否を気遣います。使徒職にある権威を持って、それは人から出たことではなく、永遠の昔から備えられた使命であることを確認せよと。そして、平安のあるようにと祈ります。あなたは、人に委ねた仕事をそのままにしていませんか?使命の確認、励ましと祈りをもって支える者でありましょう。

【5~9節】 長老・監督の資質

 長老の資質を見極める手段は生活ぶりでした。読めば当然の事柄ですが、すべてを満たすとなると、そうそう相応しい人物には出会えません。しかし、この勧めを「自分は長老や監督の働きには相応しくない」と逃れる理由にしてはいけません。むしろこの基準に相応しく自分自身を整えなければなりません。長老や監督の働きは、人の模範です。頭を掻いて誤魔化さず、しっかりと矯正を受けようではありませんか。
 特に、家庭を良く治める者でなければなりません。家庭も治められない人に、神の権威も、使徒の権威も、長老の権威も理解できないからです。あなたは育児、教育に親としての権威を持って向き合っていますか。教会奉仕はそれからです。人はあなたの奉仕や姿を見ていません、その実である子どもを見ています。クレテ島に長老や監督の働きはたくさん必要ですが、質を落としてはいけないのです。

【10~16節】 みことばに生きる証し

 クレテ人の教会の具体的な現状が突き付けられています。「割礼を受けた人々」とはユダヤ人キリスト者のことです。「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています」(16節)
 あなたは、聖書の一部を聞きかじるだけで、すべてを理解しているような錯覚に浸っていないでしょうか。少々のみことばを知って、裁きの道具にしていませんか。みことばから離れて、勝手な想像で聖書を理解したつもりになっていませんか。その結果、人を惑わすような生き方をしていませんか。
 みこころは、そのような生活からきよめられることにあります。きびしいと感じる忠告にも耳を傾けましょう。

【火曜】 テトス書2章1節~3章15節
「有益なこと、無益なこと」

【2章1節】 しかし

 現状がいかようであろうとも、しかし私は、健全な教えにふさわしいことを話す者であることが期待されています。

【2章2~6節】 老人と若者へ

 信仰と愛と忍耐、コリント教会へはここを希望と記したパウロは、老齢者に向けて忍耐と置き換える。自制をもって生きることを勧めるパウロは、長い人生の中で経験や知識などを語るとしても、そこには自制と忍耐を伴う、信仰と愛の業が必要であると言うのです。「若い者は・・・」と嘆く前に、信仰と愛と忍耐をもって、頼られる存在となりましょう。集まれば噂話に花が咲くと言う集まりにしていませんか。若者がその経験と知恵の言葉を素直に聞ける時、神を中心とした素晴らしい交わりが生まれるのです。若い母親たちは、悩んでいます。頼られ、祈りあえる交わりを備えましょう。あわせて若者は一時の情熱で暴走するのではなく、老齢者にならい、思慮深くありましょう。

【2章7~8節】 テトスへ

 教える者を守るのはその言葉と行いの正しさです。教師としての権威(肩書き!?)に傲らず、群れの模範となっているでしょうか。言うことを聞いてもらえないのは、自分の教えと行いに矛盾があるからではないでしょうか。

【2章9~10節】 仕える者、負い目のある者へ

 従うべき立場にある人は口答えをしてはいけません。言葉に自分の正しさを証明させるのではなく、まずは真実を持って仕え尽くすべきです。年長者、指導者の言うことを素直に聞けない若い牧師が増えています。服従と言う言葉の意味と行いをもう一度点検しましょう。キリストの僕を自称するならなおさら、神の栄光も盗まず、努めて真実を表わそうではありませんか。

【2章11~14節】 すべての人を救う神の恵み

 神様は人が救われ、神の民として生きることを望んでおられます。それは地上生涯を通してキリスト・イエスの栄光を表して生き尽くすことです。その為にあなたに神の恵みがおよんだのです。あなたはきよめられた神の民として、良いわざに熱心に取り組むことを望まれた民であると自覚していますか。

【2章15節】 十分な権威

 本当に愛のある行いは、責められることも伴うのです。もし、牧師や同労者、役員や兄姉に自分が責められる時があるなら、感謝と共に改めましょう。あなたの所属する交わりは、キリストにあって生きた交わりです。

【3章1~3節】 クレテ人

 手紙を締めくくるにあたり、テトスの任務の再確認です。クレテ人とは「クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう」と言われるほどの特徴を持った人々でした。町中に1人や2人というのではないのです。こういう文化の中で自分を聖く保つことはとても大変なことでしょう。パウロはテトスにこれをクレテのクリスチャンたちにさせるようにと指導しています。責任重大、大仕事です。しかし自分自身がどのような生活から救われたのかを思い返すとき、それは人の業ではなかったことを思い出します。

【3章4~8節】 有益なこと

 行いによる義ではなく、ただ神様のいつくしみと愛、憐れみによって救われました。自分の救いを保証しているものは何ですか。あなたの行いですか。それとも主の愛ですか。
 あなたはキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人であることをしっかりと確信していますか。まずあなたが握らなければ、周りの人に確信を持って勧めることができません。
 みことばに信頼し確信していますか。いくら議論を重ねても、分からない人には分かりません。それは、御子を信じると言うことは聖霊の業だからです。

【3章9~11節】 無益なこと

 「愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです」当時教会は偽教師たちの言葉に惑わされることしばしばでした。これは真理について語り合う研究すると言うこととは違います。良い行い、敬虔に生きること以上に説得力のあるものはありません。あなたの行いを点検しましょう。
 どうしても教会の一致を乱す人がいます。戒めても回復することがない場合は除名という厳しい勧めがなされています。厳しすぎるように感じますか。しかし、神様は厳しいお方です。神様の権威にへりくだれないたましいは、すでに強情ゆえに裁きを受けているのです。甘やかすことと、愛することは同じではありません。3度目の警告まで時間が許されています。主の教育と指導を謙遜に聞きましょう。

【3章12~14節】 手足となる

 テキコはパウロの同労者でした、投獄されているパウロに代わりエペソ、コロサイに手紙を届けた人物です。このテトス(またはアルテマスかもしれない)へも手紙を届けました。あなたは、高齢の牧師やリーダーたちの働きをサポートしていますか。この大事な手紙が届かなければ宣教の前進に多大な影響があったことでしょう。教会の主もあなたの働きを待っているのではないでしょうか。

【3章15節】 キリスト者の交わり

 キリスト者の交わりは、全世界的です。会ったことのない人同士でも祈りあえる交わりです。さらに深めてゆきましょう。

【水曜】 ピレモン書 「お帰りオネシモ」

【1~3節】 挨拶

 パウロはローマで投獄されていました、獄中からの手紙です。この手紙はピレモンとその家族、そしてオネシモの逃亡を知っているであろう家の教会のメンバーに宛てて書かれたものです。公同書簡にあるような堅い挨拶ではない書き出しが特徴です。とは言え、「キリスト・イエスの囚人であるパウロ」という書き出しは受取人にとって、イエス・キリストの御名によって迫害を受けているパウロを思い逆に説得力を感じさせます。
 ピレモンとその妻アピア、そして息子であるアルキポと考えるとき、ここに一家を挙げて主に仕える家の教会の姿を見ることができます。
 我が家の信仰のあり方を考えさせられます。そしてキリストの囚人との自己紹介は今日キリストに捕らえられた私たちも用いるべき自己紹介ではないでしょうか。自分の思いで生きていますか。主の囚人、主人のある身として生きていますか。
 囚人として、奴隷であり今は囚人のようなオネシモと同じ立場に立っています。あなたの目線はへりくだっていますか?

【5~7節】 感謝の言葉

 ピレモンという人物はパウロに感謝と共に祈られている信仰者でした。その良い働きの知らせは遠くパウロの耳に届き、信仰にも愛にも良い証しを立てていた人物でした。自分の信仰が聖徒を励まし、愛の業が聖徒を励ましている。そして励まされた人々が自分のために感謝を持って祈ってくれている。この祈りと奉仕の循環が広い範囲で、いやそれ以上に顔を見たこともないような交わりの中で起こっていることに不思議を覚えます。
 同時に当たり前にそれがなされているところに、御名を信じる群れの素晴らしさを見ることができます。
 あなたは、遠く離れている信仰の友の消息を知っていますか?その良い証しを聞いていますか。感謝のあふれ出る祈りで祈り合っていますか。

【8~18節】 身代わり

 「獄中で生んだ我が子オネシモ」と言うほどに、悔い改めたオネシモは獄中のパウロにとってどれほどの助けになったか、想像のたやすいところです。もともと、主人のもとで働いていた経験は無駄ではなかった。パウロはオネシモを本当の意味でオネシモと呼べる存在になりました。「オネシモ」とは「役立つ者」と言う意味だからです。
 確かに信仰者となったオネシモ、罪赦された神の国の民と数えられたのではありますが、この世において法を犯した事実が消えるわけではない。この世のルールのなかで償いをしなければなりません。信仰ゆえに道徳が蔑ろにされることはないのです。福音を受け取り、信仰を持って罪赦された者の大切な次のステップは実践です。オネシモにとっては真の悔い改めの実を結ぶことでした。ピレモンにとっては損害を与えたこの罪人を赦すこと、そして神に回復した兄弟として受け入れることでした。あなたは悔い改めの実を結ばせていますか。
 当時、奴隷制度が当たり前の習慣のなかで、一奴隷を兄弟として迎えることは、実社会には合わない。そんなことをする主人など皆無に等しかった。それを求められているピレモンです。
 私たちは実社会に生きています。習慣、慣例、ごく当たり前に過ごしていることのなかで、逆行するかのような信仰のチャレンジを受けていることに気づいていますか。その時、信仰が実を結び、恵みを受け与える者となります。
 信仰ゆえに罪は赦された、しかし地上において償うべきことがあるならば蔑ろにしてはいけない。償うべき人はいませんか。

【19~22節】 手本となる

 一足先にパウロの実践、お手本があります。ピレモンは確かに負債を負いました、しかしそれをパウロが補填するというのです。身代わりの代価の支払いです。このパウロの手本は、イエス・キリストの十字架です。
 あなたは信仰に生きるというという生きた方の手本となっていますか。また、あなたの手本は誰でしょうか。

【23~25節】 再会の願い

 ピレモンに期待されていることはもはやキリスト教会全体の祈りの課題です。この決断を導くのは、イエス・キリストの導きに委ねました。パウロはオネシモと共にこの手紙をピレモンに送りました。
 パウロは自分の名によって、使徒職によって、これまでの関わりや、義理を持ってピレモンに強いることは容易かったことでしょう。オネシモにとってもその言葉を携えていった方が、旅程の足取りも軽かったかもしれません。ピレモンにとっても信仰のチャレンジ無く、言い訳の一つ「あのパウロに言われては・・・」となり得たかもしれません。
 しかし一人一人、信仰によって恵みを受けた者は、信仰によってチャレンジを受け、恵みを施す者と整えられてゆくのです。困難な道を避けてはいけません、乗り越えたその先に喜びの再会があります。地上でか、天の御国でか。

【木曜】 ヘブル書1章1~14節 「ユダヤ教とキリスト教」

 この手紙は、成長しないクリスチャン、信仰など持つんじゃなかったと後悔しているクリスチャンへの励ましの手紙です。誰が書いたのかは諸説ありますが、この手紙を忍耐を持って書き綴った人の姿が見えてきます。「今は恵みの時」(※信仰義認において)を過ごす時代の中で再び律法に戻る人々に嫌気を差さず、なお戻るように、信仰にとどまるようにと勧めているからです。この手紙を読み進めて行く時、出エジプトを後悔したイスラエル人のつぶやき、改宗したユダヤ人のつぶやき、信仰を持ったクリスチャンのつぶやき、そして自分のつぶやきが改めさせられます。

【1~4節】 語り続ける神

 「むかし」とは旧約聖書時代のことを指しています。直接、祭司を通して、預言者を通して、その御心を伝えてこられました。「終わりの時」とは新しい契約の時代、御子イエス・キリストの誕生を境に、神の御心は直接御子の口を通して語られました。一貫して神ご自身が語られていると言うことが大切なことです。
 神様は、創造の始めから終末に至るまで、また御国においては永遠に人に語られるお方です。
 神は探すものではなく、まして作るものではなく、古い時代のものではない、昔も、今も、あなたに御心を語られるお方です。あなたは、御心を求めて聞く者ですか。

【5~14節】 御使いと御子

 【6節】 御使いは礼拝するもの。御子は礼拝を受けられるお方です。
 【7~9節】 御使いは神の被造物、火や風と例えられ使われる存在。御子は神であり、永遠に義なるお方です。
 【10~12節】 天地はやがて滅び去る、そしてそれらはあっけないものです。神の意志で変えられます。この地上の儚さから永遠の御国への道となられたお方は御子イエス・キリストです。
 【13~14節】 御使いは仕える霊ですが、御子イエス・キリストは完全な勝利者として造られたもののすべてを御支配されるお方です。
 これら御子と御使いの対比により、イエス・キリストこそ礼拝の対象であり、神と人を仲介する唯一のお方であること、圧倒的な勝利者として紹介しています。
 このお方が、あなたの主です。 何を迷い何を恐れることがあるでしょうか。あなたは信仰を持ったことを後悔していませんか、献身したことを後悔していませんか。
 【旧約聖書の引用】
 5節 → 詩篇2篇7節、第二サムエル記7章14節
 6節 → 申命記32章43節(参照:詩篇97篇7節)
 7節 → 詩篇104篇4節
 8・9節 → 詩篇45篇6~7節
 10~12節 → 詩篇102篇25~27節
 13節 → 詩篇110篇1節
 上記の箇所も併せて開いてみましょう。

【金曜】 ヘブル書2章1~18節

【1~4節】 押し流されない信仰

 私たちは明確な誘惑には毅然と立ち向かうことができます。しかし、いつの間にか押し流されるように、信仰の道から逸れているということがあります。最初の教えから逸れ、やがて教会にも来なくなってしまう人がいないわけではありません。忙しい時代とは言え、押し流されるままではいけないのです。
 旧約聖書時代「御使いが語ったことでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう」
 イエス・キリストの福音をないがしろにしていませんか。

【5~10節】 人の子

 ここからは前の1章14節に続く箇所です。「後の世」とは、神の国のことです。新天新地においての支配は御使いではなく、イエス・キリストにあると言うことが再び強調されています。
 人間は初めの世界を治め管理する役目を担っていました。しかし神に背きその働きを全うできずにいました。人の子、すなわちイエス・キリストが後の世において、人にできなかったことを、完全な人として管理、支配されるということを意味しています。イエス様は私たちのできないことを完全に被い補ってくださるお方です。あなたはその安息に生かされていますか(詩篇8篇4~6節も開きましょう)。

【11~12節】 兄弟姉妹

 神様は、罪人である私たちに、呼ばれることを拒まれないお方です。それどころか、主御自身があなたを兄弟(姉妹)とお呼びになるお方です。主が兄弟または姉妹と呼ばれる人々をあなたは尊敬していますか。互いに愛し合っていますか。教会の中に、親しくあなたを招いてくださる主を賛美していますか。

【13~18節】 死に打ち勝つ方

 イエス・キリストは、あなたのために、人となり天から降られました。そして、人と同じ生活をし、同じ苦労をされました。あなたが抱える悩みや苦しみをもっとも側で理解し癒すことのおできになるお方です。
 イエス・キリストは、人の最期の敵である「死」に打ち勝ったお方です。悪魔はイエス・キリストを滅ぼしたと思っていましたが、イエス・キリストは死よりよみがえられました。復活のできごとは御子を信じる者が、同じように死から解放され同じように復活すると約束されています。
 あなたは、この御子を、救い主と信じていますか。復活し後の世で主とともに生きることに希望を持ちましょう。

【土曜】 ヘブル書3章1~19節 「不信仰の刈り取り」

【1~6節】 神の家の主人

 「聖なる兄弟たち」という語りかけに対して、私たちはどのように応答するでしょうか。「めっそうもない!」「とんでもない、私のような者が聖なる者?」などと考えていませんか。神様はあなたを、聖なる兄弟と呼ぶことを許されたお方です。
 モーセは神に多くのことを委ねられ、用いられた人です。彼は祭司としても、預言者としても用いられました。その働きは神御自身が認めるところです(民数記12章7~8節)。しかしモーセは神の家の忠実な家臣であって主人ではありません。神の家を完全に統治されるお方は、主イエス・キリストです。

【7~19節】 忠実に

 詩篇95篇7~11節の引用です。信仰者とは御声を聞いて従う者でなければなりません。かつて出エジプトをしたとき、イスラエル人は御声を聞いても迷い、神を試み、不信仰を重ねました。反面教師として、従わない者にならないで、従う者になりなさい、と勧めています。
 あなたは信仰をもって、みことばに聞き従っていますか。それとも、主を試み、不信仰の歩みからまだ離れられないでいますか。
 信じて従うチャンスという時があります。ここは信仰を持って、確信を持って進まなければならない時があります。その時に備えていますか。それは、一朝一夕にできるものではありません。イスラエル人でさえ40年の訓練が必要でした。それでも、不信仰に神様を怒らせ、悲しませてきました。
 信仰のチャレンジ、信仰の試練の時に備えましょう。
 「兄弟たち」と呼びかけられています。信仰は決して一人だけでは健全に保つことはできません。励まし合う存在が必要です。あなたには祈り会う信仰の友がいますか。
 不信仰を正してくれる、兄弟姉妹、また牧師先生との関係を正しく保っていますか。信仰に対する従順は一人一人に求められています。その信仰の確信は終わりの日まで忠実であることを求めています。
 このヘブル書の著者は信仰の確信を保ち続けることの大切さを厳しさをもって教えています。あなたは信仰を持った、洗礼を受けた、で終わっていないでしょうか。さらにあなたの成長を期待しているお方が、なおあなたの祝福を備えて終わりに日に準備してくださっています。ともに受け取りましょう。

参考文献

  • 中沢啓介「テモテへの手紙第一・第二」「テトスへの手紙」『新聖書注解・新約3』(いのちのことば社、1972年)
  • D. ガスリー:著/村井優人:訳『テモテへの手紙・テトスへの手紙(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2006年)
  • 石原兵永『ピリピ書・ピレモン書』(聖書の言社、1976年)
  • 安田吉三郎「ヘブル人への手紙」『新聖書注解・新約3』(いのちのことば社、1972年)
  • F. F. ブルース:著/宮村武夫:訳『ヘブル人への手紙』(聖書図書刊行会、1978年)