新約 第43週
テモテ書第一2章1節~テモテ書第二3章17節

日本同盟基督教団 学園前聖書教会 牧師
吉田 篤

2007年10月19日 初版

【日曜】 テモテ書第一2章1節~3章13節

【2章1~7節】

 信仰の戦いの厳しさを1章の終わりで語ったパウロが、2章から続けて語ることは「すべての人のために祈る」ことでした。特に「王とすべての高い地位にある人たちのために」祈るようパウロはテモテに勧めます。
 そもそも初代教会の多くの地域はローマ帝国の支配下に置かれ、皇帝崇拝の強要など教会として妥協することが許されない問題が山積していたと考えられます。あるいは福音書に見られるように、当時のユダヤ人によるローマ帝国への強い抵抗などもあっただろうと考えられます。さらにはパウロが1章においてテモテに語ってきた偽教師たちの教えの風があり、テモテを取り巻く人々や教会には、様々な偏った考えがあっただろうと分かります。教会の大切な務めである祈りにおいて混乱してしまう状況があったのではないかと思います。
 ですから、パウロは「すべての人のために」祈ることを勧めるのです。今、私たちの立っている場所をわきまえて、教会において、信仰生活において祈るのです。「すべての人のために」祈ることは、神の望まれている祈りであり、すべての平安と敬虔に生きる営みに欠かすことのできないものです。私たちの祈りの視野が広がることを願います。

【2章8~15節】

 パウロは、8~12節において男性と女性に非常に厳しい口調で命令をします。むしろ男性は8節だけ、9~12節は女性への命令ですから、割合から言って少し不公平感が見えてきます。ではパウロは女性を軽んじて、重点的に命じているのでしょうか。
 いやむしろ、テモテの牧会する教会では偽教師による教えによって扇動される一部の女性たちがいたことが考えられます。偽教師に扇動された女性たちが男性を支配するような仕方があったのかもしれません。女性による支配が、主なる神が創造の始めに造られた互いに愛し合い、仕え合う関係とは違う、歪んだ関係として、支配し合う関係があったのでしょう。パウロは創世記2章の出来事を振り返りながら創造主なる神の秩序を示していきます。神よって造られた男性と女性のあり方が再確認されています。
 男性が女性の上に立つとか、女性が男性の上に立つという話の堂々巡りをここで言いたいのではありません。誰かと比べた優越性や排他性によって、人々に対する自らの責任を放棄するということでもありません。むしろ、主イエスの福音によって救いを与えられた者として、互いに尊重しあい生きていくのです。
 時代に流行に乗った主義主張が先立つのではなく、主イエス・キリストが仕えてくださったように互いに仕え合い、祈りあい、支えあっていくことができるのではないでしょうか。

【3章1~13節】

 聖書の中には、教会の指導職を表す用語がいくつかあります。例えば、「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」(エペソ4章11節)、「長老、監督」(使徒20章17・28節)、「執事」(ピリピ1章1節)などがあります。では現代の教会ではどうかといえば、教派によって多少の相違はありながら、教職者と役員(長老、執事)という捉え方をしているように思います。
 いずれにせよ、パウロが1節で「素晴らしい」と言っているのは、監督としての地位や身分、肩書きではなく、働きの内容です。そこで2節以下、監督に関しては14項目の特質が要求され、8節以下、執事に関しては7項目の特質を要求します。監督に対して、そして執事に対して求められる要求の高さに圧倒されます。誰も担うことなどできないのではないかと物怖じしてしまうかもしれません。
 しかし、教会の職務を担うという時、私たちに示されることは「私たちの資格は神からのもの」(IIコリント3章5節)とのみことばを覚えさせられます。神からの資格ですから私たちが誇るものではありません。一方で、神ご自身がこの土の器にすぎない私たちを神のみからだを建てる為の職務にあずからせようとしている厳粛さに目が開かれ、そして神の御業に間に合う者として歩みたいと願います。

【月曜】 テモテ書第一3章14節~4章16節

【3章14~16節】

 パウロは15節で重大な発言をします。それは「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台」だと言います。つまり、主イエス・キリストの贖いの御業を信じ、集められた人々が教会だと言います。何とも恐れ多いことです。目に見える教会は欠けだらけでもろく弱い集まりです。しかし、私たちの弱さに焦点が当てられていくのではなく、私たちの中心にいてくださり、私たちを支え導こうとされる主イエスを味わうことが大切だと目が開かれていきます。主イエスの贖いの御業の真理に立つ時に、私たちは主イエスにならう者としてふさわしい行動へと導かれていくのではないでしょうか。あなたの日々の生活が、主イエスを証しする真理の柱であり、土台であることを覚え、願い歩んでいくことを主は願われているのではないでしょうか。

【4章1~5節】

 直前の箇所で、主イエスにある兄弟姉妹が、神の家である生ける神の教会であり、真理の柱、その土台だと語られます。その一人ひとりが欠けてはならない神の教会だと励まされます。一方で、神の教会から、主イエスとの交わりから離れていく信仰の友たちがいました。偽りの教えと導きがあること、主イエスの愛から引き離そうとする戦いがあることが分かります。それは時に人々の主義主張の中に現われることもあるかもしれません。時に主義主張の中に御霊の息吹があるのかどうか、熱心さゆえに見極めることは困難な場合が多くあります。ですから信仰の友を失うという経験を教会の歴史は続けているとも言えます。
 パウロは偽教師たちの働きを過小評価せずにそのあり方を述べます。パウロは、偽教師たちの良心が麻痺していること、禁欲主義的な傾向があることを見抜いて書き記します。その良心が麻痺すれば放縦へと向かうでしょうし、禁欲主義的傾向があれば制限をかけて行くことでしょう。放縦と制限は相反する事柄です。自己矛盾していると言えますが、偽教師たちは矛盾している事柄に気づかないのです。
 主の真理のみことばに堅く立っているといいながら、一方で主の真理のみことばを退けるようなことをすれば、それは自己矛盾をしていると言えます。自らを自己吟味しつつ、御霊により頼んで、自らの言動が主の真理のことばをもって教会を立て上げる者として整えられたいと願います。

【4章6~16節】

 この節は教会における牧師の務めについての原則が集約されています。特に、10節で「生ける神に望みを置いている」からこそ、牧師の務めが神の御業なしに行うことができない性格であることに気づかされます。パウロは7節で「敬虔のために自分を鍛練しなさい」とテモテに語ります。ここで「敬虔」と使われている言葉は「信仰のため」という意味があります。つまり、信仰深く、神をおそれ、神に信頼して生きるために語られています。このために訓練されること、鍛えられる必要を教えます。
 それは空しい空想話に終わらず、今のいのちと未来のいのちが約束されているからです。ですからパウロはテモテに語ります。教えるのが真理であり、命じるのが真理に従う実践です。真理に従う実践には時に恐れと緊張が伴うかもしれません。だからこそ、真理を見分け、従うことができるように聖霊の助けを頂きたいと願います。

【火曜】 テモテ書第一5章1~25節

【5章1~16節】

 教会には様々な年齢や立場、境遇の人々が集まります。その中で若い牧会者テモテが奮闘し、人々を教え導くことは大変な困難が伴っただろうと想像します。4章で牧師の務めについて原則を語ったパウロが、この5章では個別の事例について対応を勧めます。特に、1~2節で「勧めなさい」と語られる言葉には、慰めるとか脇から優しく語りかけるという意味があります。これまでの原則論を踏まえて、ただ原則を振りかざし、人々を枠に当てはめていくようなあり方ではなく、みことばの恵みに生きるように勧めることの大切さをパウロはテモテに語ります。牧会者としての配慮に満ちた言葉ではないでしょうか。「励まし、慰めの心をもって教えさとす」ことにより、みことばの教えを共に受け取っていきたいと願います。

【5章17~25節】

 この箇所では、長老についての対応を語ります。すでに、3章1~7節では監督について、3章8~13節では執事についての教えにおいて、長老の教会的職務の働きと重要さについて語られました。そもそも、長老を現代の教会の職務で平たく言い換えれば教職者や役員(長老・執事)を指します。しかし、ただ教会の運営を任された職務ではなく、魂のお世話をする奉仕と言えます。ですから極端な事を言えば、人柄が良いから牧師や役員になれるということではないはずです。選ばれたから人柄が良いとか、人格者であるとするのはあまりにも軽率な判断かもしれません。
 魂のお世話は、牧師や教会役員の人柄によってはできません。人々の魂に関わろうとする時、人柄で魂のお世話ができるのではあれば、努めて良い人を演じていけば苦労することはないでしょう。また、もし人柄だけで牧会の働きが進められていくのではあれば、きっと誰も牧会の働きに相応しい者などいないはずです。ですから、主に召された人々が教会に仕えているという確信が大切であり、それゆえに牧会の務めが前進していくことを祈り、神の教会に加えられた一人ひとりは、敬愛の念を深め、牧会の務めに任じられる者たちのために祈り、支えていくことが求められています。
 牧会の務めに任じられる者たちが主の務めを謙虚に慎みをもって受け止め、教会に連なる一人ひとりが尊敬と敬愛をもって支えていき、聖書の教えに堅く立って牧会の務めとあり方を愛をもって吟味し、配慮していきたいと願います。

【水曜】 テモテ書第一6章1~21節

【6章1~2節】

 ここでパウロは奴隷についてテモテに勧めます。福音が前進していく中で、奴隷階級にまで福音が浸透したことが分かります。福音の持つ力は人々を神の御前で自由にします。ですからキリスト者であることの特徴を言えば、自由人であると言えます。その自由は「~からの自由」ではなく、「~への自由」です。
 しかし、奴隷たちは「~からの自由」ということが念頭にあったようです。ですからパウロはキリスト者として本来あるべき姿を提示します。1節「信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい」
 信仰者としての歩みも「~からの自由」ではなく、「~への自由」という方向をしっかりと理解し、神を愛し、隣人に仕える者でありたいと願います。

【6章3~19節】

 これまで牧会上の諸問題を取り扱ってきたパウロは、3~10節では偽教師に対して、11~16節ではテモテへの勧め、そして17~19節では富んでいる人々への勧めが語られます。これまで、パウロによるテモテへの牧会上のアドバイスとは少し関連性が薄いと考えられますが、なおパウロが語りたい内容と考えられます。
 特に、6節において「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」と語るところに、パウロがこれらの課題に取り組むテモテへの確信の勧めてとして与えられているように思います。自らの満足を求めて生きるのではなく、自分自身が満ち足りて生きるのです。その道は修行のようなものではなく、信仰の告白としての道です。「満ち足りる心を伴う敬虔」を、御霊の導きのうちに頂いて日々の営みを感謝をもって歩みたいと願います。

【6章20~21節】

 パウロはこの手紙を終えるにあたって、祝福の祈りをもって閉じます。特に、「あなたがたとともに」と複数形をもって語ります。パウロにとって、これまで述べてきた事柄が、今神の御前にいる人々を生かし、そして強めるものとなるように、そんな響きを持つ祈りです。しかも、複数形でありながらも、パウロが見るあなたがたは一つのからだなる教会であり、そして主イエス・キリストの贖いの御業によって一つとされた人々の姿であるのではないでしょうか。まるで、三位一体の神が一つであるように、パウロが見る教会はいつも牧会者と会衆が一体となったものが教会だと改めて気づかされます。ここに聖書の示す不思議な一体感があるのではないでしょうか。
 福音に仕える教会として、牧会者と信徒がキリストのからだなる教会として一体となり、成熟し、伝道が前進していく願いをこめてパウロは祝祷します。パウロ自身がささげた祈りに働いた聖霊の息吹を感じながら、祝福の祈りのうちに御霊によって一つにされて信仰生活を歩んでいく者でありたいと願います。

【木曜】 テモテ書第二1章1~18節

【1章1~2節】

 パウロは、1~2節において挨拶を通してテモテに与えられた牧会者としての使命の確認を迫ります。イエス・キリストを中心とした生き方によって、「キリスト・イエスにあるいのちの約束」を宣べ伝える福音の中心を示します。牧会をしつつ、困難を抱えていたテモテにとって福音の中心を確認させられるのは、まさにテモテのうちにある「キリスト・イエスにあるいのちの約束」を確認することに他なりません。私たちに与えられた約束を常に確認したいと願います。

【1章3~5節】

 パウロは、3節において自らの信仰の経緯を語ることを通して、テモテ自身の信仰の経緯を明らかにします。特に3~6節では「思い出す」というニュアンスの言葉を4つも使い、テモテ自身に蓄積された記憶を呼び覚ますようなパウロの働きがあります。それは確かに神ご自身がテモテを導かれ、神ご自身によるテモテへの配慮に目を留めるように促しています。救いに導き、あるいは信仰の歩みを励ましてくださる兄弟姉妹に感謝をしたいと思います。そして兄弟姉妹を置いてくださった主なる神に感謝したいと願います。

【1章6~18節】

 パウロは、6節からパウロの挨拶と感謝によって明らかにされた神の御心により、テモテが取るべき姿を命じます。第一に、6~7節「テモテのうちに与えられた神からの賜物を燃え立たせること」。第二に、8~12節「福音のために苦しむこと」。第三に、13節「健全な言葉を手本とすること」。第四に、14節「ゆだねられたものを守ること」。第五に、15~18節「見習うべき模範」を提示します。
 テモテ自身、困難な中での働きであったことは想像されます。問題の渦中にいる時には、その問題を乗り越えていくことで精一杯かもしれません。なぜ困難な中にいるのか、なぜ苦しんでいるのか。そのことを自問自答することもあるかもしれません。だからこそ、パウロは今ある苦しみは「福音のため」であることを覚えさせます。今、主の教会に仕えているテモテにとって、それは福音に生きることの意味を改めて覚える時となったのではないでしょうか。主の教会に仕え、困難の中にあっても福音のためであることを覚えたいと思います。

【金曜】 テモテ書第二2章1~26節

【2章1~13節】

 パウロは1節「キリスト・イエスにある恵みによって」と語り始めます。パウロの語る「恵み」とは主イエス・キリストと結ばれていることによって与えられるものと理解できます。神の国の支配を語られた主イエスが、すべての物事のうちに働かれ、そして私たちに寄り添い導いてくださっています。主イエス・キリストに結び付けられていくところに恵みがあります。それは主イエスの臨在によって私たちは強められると言えます。主イエスに連なる恵みのうちに、私たちは神ご自身からゆだねられたすべてのものを良く管理していくのです。恵みにおいて成長していくことは、パウロがテモテに伝えたかった大切な事柄ではないでしょうか。同じく私たちが神ご自身から与えられた良きものを管理し、自分自身を成長させていくには、主イエスの恵みにおいて成長していくことを、忍耐と訓練、堅忍をもって歩んでいきたいと願います。

【2章14~26節】

 牧会者テモテが、偽教師との関わりにおいて教会内で苦労していることは、テモテへの手紙第一でも触れましたが、これまでテモテへの手紙第二で語ってこなかったパウロが再び偽教師について語り始めます。パウロは14節で「何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい」と言います。おそらく、テモテは偽教師との関わりにおいて論争に巻き込まれていくようなことがあったのかもしれません。あるいは議論のための議論に巻き込まれていることを言っているのかもしれません。
 しかしむしろ、15節「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」とパウロは明言します。テモテへの手紙第一において牧会の務めの原則や牧会の働きについてテモテを叱咤激励してきた言葉を集約したように語ります。15節「熟練した者」とは、神の試験を受けて神から良しと認められた者という意味があります。もっと具体的に言えば、真理のみことばによって徹底的に吟味され、みことばに生きるように召された者とも言えると思います。真理のみことばを正しく取り扱うことができる者であり、恥に追いやられることのない者を指します。
 真理のみことばを説き明かすのが説教者の使命です。そして、真理のみことばに従うことは信仰者としての証しです。みことばによって取り扱われることは、論争のために力を使うこと以上に厳粛なことです。真理のみことばは私たちを主イエスの恵みへと導きます。聖なる者にしようとされる主の御心を受け取り、日々みことばに、謙遜に、心の一新によって取り扱われていきたいと願います。

【土曜】 テモテ書第二3章1~17節

【3章1~9節】

 パウロは、3章から「終わりの日」に注意を向けるように書き出します。福音書において主イエスがすでに語られたように確かに「終わりの日には困難な時代がやって来ること」は知っていたことでしょう。パウロにとって、今テモテの直面する困難は終わりの時代であるという認識があります。それは偽教師たちが終わりの時代の示すしるしとも言えるからです。特に6節以降の動詞では現在形が使われているところからも、パウロの意識する終わりの日とは遠い将来のという認識よりは現在の事柄としての捉えていたと言えます。偽教師たちは外面的な敬虔を強調します(5節)。しかし、本来、聖書が示す敬虔、見える敬虔の強調ではなく、主イエスの恵みによって満たされる敬虔に生きるように教えます。改めて私たちの生き方が主イエスの恵みによって満たされている敬虔なのかどうか吟味させられたいと思います。主イエスのように父なる神の深い御心を教えられ、探られ歩まれたように歩みたいと願います。

【3章10~17節】

 パウロは2章14節から3章9節までにおいて、偽教師について触れて語ってきましたが、10節からは再びテモテ自身へと話が戻ります。特に、10節の冒頭を原文のギリシャ語で確認をすると、「あなたは」から始まります。これまでの偽教師について語ったことと対比するように、「あなたは」と強調します。
 前節までで敬虔な生活に生きるように教えたパウロは、12節「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と明確に語ります。非常に厳しい言葉ですが、テモテが主イエスに対する信仰によって救いを受ける道とも理解できます。テモテよ、あなたは主イエスが与えてくださる救いに向かって前進して行きなさいと命じるのです。偽教師たち、あるいはその教えにだまされる人たちは、それに進むことはできないし、悪に落ちて行く。そしてあなたを打ち叩くこともあるでしょうが、敬虔に生きることを願いなさいと強く語ります。
 ではどのようにして敬虔に生きることを願い、そして強められていけるのでしょうか。それは聖書によるのだと、15~17節においてパウロは教えます。真の敬虔を求めて生きる者たちに、聖書は「教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」(16節)です。ここでパウロが言わんとすることは真の敬虔を求めて生きることは、聖書の権威に従うことだと言い換えることができるでしょう。それには、聖書の教えを学び、戒めに生き、軌道修正をしながら、救われたことを日々味わいながら整えられていくのです。主イエスを救い主として告白させてくださった御霊によって、迫害の中にあっても真の敬虔を求めて歩みたいと願います。そして、救いの完成を目指し、私たちの隣人にもまことの平安と救いを共に味わうことができますように祈ります。

参考文献

  • 中沢啓介「テモテへの手紙第一・第二」『新聖書注解・新約3』(いのちのことば社、1972年)123~183頁
  • 柴田敏彦「テモテへの手紙第一・第二」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)1345~1364頁
  • D. ガスリー:著/村井優人:訳『テモテへの手紙・テトスへの手紙(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2006年)