新約 第42週 テサロニケ書第一1章1節 ~テモテ書第一1章20節
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クライストコミュニティ
北九州チャペル 牧師
三木 健
2007年10月12日 初版
【日曜】 テサロニケ書第一1章1節~2章13節 「伝道の実」
パウロが「私たちと主とにならう者」(1章6節)、信者の模範(1章7節)と評し、信仰や、どのように救われ、神に仕え、また、主イエス様の再臨の日を待ち望んでいるか、ということを、人々が言い広めていた(1章8~10節)とは、テサロニケの人々の評判には驚くばかりです。
パウロは続いて、自分たちもまた、テサロニケの人々に伝道する際にはどれほど一生懸命に、そして正しい態度で臨んだか、ということを語ります。彼らの福音、そしてそれはもちろん今や私たちの福音でもありますが、不純な思いに邪魔されることもなく、自分を喜ばせるのではなく神を喜ばせるために、苦闘しながらその福音を語ってきた、と言います。それにしても、あのパウロが「あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました」(2章7節)とは!!最初の伝道旅行で脱落したヨハネ・マルコを冷たく(?)突き放した時(参照:使徒15章38節)とは格段の差があります。おそらく「伝道」というわざに伴う忍耐の必要を語っているのでしょう。ただ「これが正しいのだ!これを信じろ!」と大上段に構えるだけでは真理は伝わらない、というのはこの時代も今の時代もまた真理です。
このような労苦があったとしても、自分たちの伝道の実が、冒頭のような人々であったとしたなら、伝道者冥利に尽きる、というものです。同時に、私たち自身も、先人の伝道の実であることを覚えさせられます。神さまが私をお選びになり、私を救ってくださいました。しかし、自分の救いのために用いられた「人」が必ずいる、というのもまた事実です。「私」というクリスチャンはその方の伝道の実です。このようにして救いの福音は全世界に広まっていきます。そう、私たちもまた、実をならせる伝道者にならなければならないのです。ただ「神を喜ばせようとして」(2章4節)語り続けるなら、そこに、必ず素晴らしい伝道の「実」を見ることができるでしょう。
【月曜】 テサロニケ書第一2章14節~3章10節 「実を守るために」
パウロは、クリスチャンに対して迫害があるのは当たり前のことだと語ります。それはイエス様も、「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(ヨハネ15章19節)と警告したとおりです。パウロは自分の伝道の実である異邦人のテサロニケ教会が、実際に存在した迫害や様々な誘惑によって弱っていってしまうことを危惧していました。心から誇りに思う人々だからこそ、直接会いに行って励ましたいと願っていたのです。しかし、パウロ本人が行くことはかなわず、彼は弟子のテモテをテサロニケ教会に遣わしました。ところが、帰ってきたテモテから聞いた報告は、驚くべきものであったのです。彼らは「あらゆる苦しみと患難のうち」(3章7節)にあっても「主の前に堅く立ってい」(3章8節)た、と言うのであります。パウロの喜びはいかほどだったことでしょう。
よく、「教会と夫は、釣った魚に餌はやらない」と言われます。つまり、伝道はするけれども、伝道によって得た実を守り、育てるということにおろそかである、ということです。確かに教会で「教育」という言葉を出すと反発を受けることがあります。教会は伝道するところだ、と。しかし、私たち弱い人間の心のなかでは、せっかく与えられた真理でさえも、様々な妨げによって変色し、歪められ、ときに朽ちてしまうことがあるのです。パウロはそのことを重々知っていたので、テサロニケ教会に自分が、もしくはテモテが出向き、教育する必要を感じていたのです。しかし、テサロニケの教会は、彼らが行くまでもなくしっかりと教育がなされていて、真理は守られていたようです。あなたの教会はどうでしょう。真理にしっかり立つために教育がなされていますか?そしてあなたはそういう教育の必要性を実感し、学んでいますか?聖書教育なしに生きていけるほど、この世は甘くはないのです。
【火曜】 テサロニケ書第一3章11節~4章18節 「再臨に備える歩み」
もう一度パウロは、自分がどれほどテサロニケに行って、あなた方に会いたいかということを伝え、それとともに彼らの聖化のために祈ります(3章12~13節)。そのなかでも12節の言葉は出色です。イエス様は弟子たちに、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15章12節)と命じられました。パウロは弟子からこのことを聞いていたことでしょう。そして、確かに自分が示した愛が、イエス様の愛と同じであることに自信を持っていた、と言うことです。「私を見ないでイエス様を見てください」といつも言うようなクリスチャンではなく、「私を見てください」と言えるパウロのようなクリスチャンになりたいものです。
最後に(と言ってもまだ続きますが・・・)、パウロは少し具体的に勧告、警告をしていきます。それはやはり異邦人という、クリスチャン(もしくはユダヤ人)のライフスタイルが浸透していない人々に囲まれたテサロニケのクリスチャンに対する配慮であったのでしょう。キーワードは「聖潔」(4章7節)です。罪を赦してくださる神さまの恵みを、罪に溺れる口実に、絶対にしてはならないのです。
さらにパウロは、落ち着いた生活を送り、仕事に精を出しなさい、と勧めます。それは、外部の人々に対する良い証しとなるためであり、同時に主イエス様がもう一度この世に来られて世をさばくときに備えるためでもありました。3章13節のようになるための勧めである、と言うこともできるでしょう。
確かにキリストの再臨の時に完全に正しいさばきがなされ、義が成就するとしたなら、それを待ち望み、伝える人々の歩みも問われる、と言えるでしょう。私たちが「聖潔」を目指した歩みをしなくては、一体誰が完全な義のなる終末をイメージし、信じることができるでしょうか。私たちの日々の歩みそのものが、キリストの再臨の証しでもあるのです。
【水曜】 テサロニケ書第一5章1~28節 「クリスチャンの歩み」
1節を読むと、「パウロは世の終わりがいつなのか知っているのか?」と思わせますが、決してそうではありません。世の終わりがいつなのか。それは御子さえも知らない(マタイ24章36節)とイエス様は言われました。なので、例えば1999年に世の終わりが来ると行った(本当に彼がそう言ったのかは分かりませんが)ノストラダムスや、何度もこの世の終末を迎えている某カルトの知識が、決して神さまから来ている正しいものではないと断言することができるのです。ですからパウロは、「いつであるか?」と「時」に注目するのではなく、むしろその時を迎えるための備えをすべきである、と言うのです。
具体的な勧めが続けて記されています。11~15節の勧めの中には、信仰者にとって戦いは避けられないものであることや、たった一人で孤独に歩むのではなく、徳を高め合い、愛し合い、尊敬し合い、助け合う「仲間」がいることを伝えます。そうです。私たちは決して孤独のなかでこの世で戦っていくわけではありません。同じ信仰を持って歩む多くの仲間が「教会」として与えられていることを忘れてはならないのです。そして、「互いに」という言葉が繰り返されているように、決して受けてばかり、与えてばかりではなく、足りないところを補い合うような関係を教会のなかで作り上げていくべきなのです。
16~22節では個人的な勧告がなされています。クリスチャンとしての基本的な歩み方、生き方、そして価値観です。そのなかでも、こういう歩みをするために不可欠な、聖霊様に関する「御霊を消してはなりません」(19節)という言葉は大切です。御霊なしに聖化の歩みはあり得ないからであります。
聖化の祈りが再びささげられ、あいさつをもって第一の手紙は終わります。「すべての兄弟たちに読まれるように、主によって命じます」(27節)のパウロの命令は今でももちろん有効です。そのためにこの文章を書かせていただいていることを、私も心から感謝しています。まず自分が書かれたみことばに感動し、その感動とともにみことばを伝え「読まれるように」、ともにこれからも励みましょう。
【木曜】 テサロニケ書第二1章1節~2章17節 「来るべき『主の日』の誤解」
第一の手紙のように、1章にはどれほどパウロがテサロニケ教会の人々の信仰と信仰者としてのあり方を誇りに思っているかが記されています。時が経つにつれ愛が増し加わり、厳しさのなかで従順、信仰を保っている(1章3~4節)。第一の手紙のときよりもさらに成長した彼らの姿は賞賛に値します。しかしなお厳しい戦いと苦難のなかにあったようで、パウロはその報いとしての神さまの安息が、必ずあなたがたに及ぶ、ということを伝え、励ますのです。
そんなテサロニケ教会にも問題があったようです。それがキリストの再臨に関する誤解でした。私たち福音派と呼ばれる教会は「切迫した再臨信仰」、つまり、再臨は今日来てもおかしくない、と信じています。それは健全な聖書的信仰なのですが、それが行き過ぎてしまっている現実があったようです。問題は、もう主の日が来たかのような噂が流れていたことです。全世界の主が一部の人だけが知っているような形でこの世に降りてこられるはずはないのです。パウロは、その噂のばかばかしさと、主の日のしるしを詳しく教えていきます。
「不法の人が現れる」というしるしが再臨の時の一つのしるしであるようです。そして、その不法の人には、神さまによって偽りを信じるように惑わす力が与えられる(11節)というのです。それは、「悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるため」(12節)とパウロは言います。まるでありとあらゆる全ての悪をいぶり出すかのような神さまの悪に対する徹底的な厳しさ。隠れおおせる人や悪事はただの一つもない。完璧な義のさばきが行われる。それが終わりの日なのです。だからこそ、自分(パウロ)が教えた教えに堅く立ち、クリスチャンとしてしっかりとした歩みをしていなさい、と勧めているのです。
不法の人とは一体どのような人なのでしょうか? 私たちにはまだそれは分かりません。しかし、しるしを見分ける賢さを身につけることよりも、どんな力を持った不法の人が来たとしても、決してつけ込まれることのない「義」を保つことに専心しましょう。そのために主の教えに従って歩もうではありませんか。
【金曜】 テサロニケ書第二3章1~18節 「『善』とは?」
パウロは、このとき伝道している場所において困難があったようで、そのために祈ってくれるよう頼みます。その原因であった「ひねくれた悪人ども」(2節)は、テサロニケの人々をも攻撃する可能性もあるので、パウロは彼らが守られるように祈るのです。
しかし、賞賛されるべき歩みをしていたテサロニケ教会のなかにも、主の宣教の働きを妨げる存在があったのです。それが「締まりのない歩み方をしている人たち」(11節)でした。それはどうやら、主の宣教のために、あるいは教会のために働いている、と主張し、本来の自分の仕事をおろそかにし、教会のお世話になっているような厄介者のようでした。もちろん、パウロ自身が主張(9節)するように、もっぱら宣教の働きをする者のための負担を、教会は喜んで負うべきですが、その援助を不当に受けている人がいたのです。パウロはあえて、このような歩みを否定するために、自分の権利を捨てて模範を示したのです。パウロは、こういう人々に対する厳しい措置(14節)を言い送ります。しかし、「兄弟として戒めなさい」(15節)と言います。それは、彼らのしていたことが、教会の宣教のために、必ずしもマイナスであるわけではなかったからでしょう。ただ、勘違いし、甘えていた怠惰な者たちだったからでしょう。
「たゆむことなく善を行いなさい」(13節)というパウロの言葉は、この世で生きていく私たち人間にとってとても大切な言葉です。教会のなかの「善」が必ずしも世において「善」であるわけではないからです。もちろん世が間違っている場合も多々あります。しかし、教会で「善」とされていることが、この締まりのない人々のように、怠惰の実であったなら、本当の、主を証しする「善」とは言えないのです。
さて、私たちの教会のなかに、「善」とは言えない怠惰や、甘えのようなものはないでしょうか。私はこう言うときいつも「教会タイム(=遅れて始まること)」という恥ずかしい言葉を想い出すのです。本当は教会こそが、この世をリードする「善」を生み出す模範となるべきなのではないでしょうか。私たちは、善なる神さまを信じ、仕えているのですから。
【土曜】 テモテ書第一1章1~20節 「本物の福音」
パウロは、一貫して律法とは私たち人間のための養育係(ガラテヤ3章24節)のようなものであると教えます。言い方を変えるならば、律法は、私たちに、罪とは何であるか、ということを教え、私たちが罪人であることを指し示すことはできるが、私たちを救うことはできない、ということです。ずっとパウロは、このことをすべての教会に教えてきたことでしょう。しかし、それでも依然として律法による救い、あるいは、律法も必要だ、とする間違った福音を伝えるユダヤ人がいたようです。パウロは弟子であるテモテに、エペソの教会を委ねるにあたって、この、最も根本的で且つ大切な福音の基礎を再確認したわけであります。
さらにパウロは、自分自身の救いの経験から、彼の携えていた栄光の福音、そして本物の福音は、あわれみ、恵み、信仰によるものであり、まさに「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」(15節)という言葉こそが、福音そのものであることを主張します。もし、律法に縛られたままのユダヤ人たちが言うように、救いが律法によるものであるならば、私パウロは、決して救いへと導かれることはないだろう、ということを言いつつも、彼らが大きな勘違いを犯していることを示唆しているのです。
確かにパウロが言うように、もし私たちが律法を守ることによって救いを得たとしたなら、栄光を受けるのは私たち人間であるはずです。しかし、私たち罪人を一方的に赦し、イエスキリストの十字架を与え、救いをもたらしてくださったのは神さまご自身なのです。パウロが17節で感極まって(おそらく・・・)賛美しているように、救いは一方的な神さまの恵みであり、神さまの功績であるからこそ、ただただ栄光は神さまのものなのであります。
私たちがこの一方的な恵み、あわれみ、を忘れてしまうとき、決して福音は正しく伝わらないでしょう。そして、そのようなとき、私たちは、この時代の誤った福音をもっていたユダヤ人たちのように、高慢で、人を見下す愚か者のようになっていることでしょう。私たちは救われているから偉いのでしょうか?賢いのでしょうか?決してそんなことはないはずです。教会がこの大切な真実を忘れてしまうとき、いのちと力を失ってしまいます。「恵み」を忘れる愚かなクリスチャンにはなりたくはないものです。
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