新約 第41週
ピリピ書3章1節~コロサイ書4章18節

日本福音キリスト教会連合 八王子キリスト福音教会 牧師
山本 正人

2007年10月6日 初版

【日曜】 ピリピ書3章1~21節

【1~11節】 ユダヤ主義者についての警告

 パウロは、割礼の強調をはじめとするユダヤ主義的な者たちとその教えに注意するよう警告します。自分自身もそのような宗教的な背景・過去を誇ろうと思えば誇れるが、主イエス・キリストを知ってからはその価値観・世界観が一変したのだ、といいます。パウロは、10節・11節において、「キリストとその復活の力を知」っている、というだけでなく、「またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして死者の中からの復活に達したい」のだ、と言っています。私たちの信仰はどうでしょうか。パウロと同じように、キリストと復活の力のみならず、しっかりとキリストの苦しみにあずかること、キリストの死と同じ状態になることも知っているでしょうか。

【12~21節】 目標を目指して走り、パウロや信仰の友をならう

 ここは多くのクリスチャンに愛されている箇所です。パウロは、すでに完全なものになったのではなく、完全を目指して、信仰者としてなしうる努力を一生懸命している(捕えようとしている)、と言います。しかしそれはただ単なるいわゆる「頑張りズム」ではなく、「自分がキリスト・イエスに捕えられているから」(新共同訳)だというのです。キリスト・イエスにある愛と恵みに押し出されての奮闘なのでした。それゆえ、あなたがたも一致して、そのようなパウロや同じ奮闘をしている信仰の友にならうものとなりなさい、と命じます。私たちも、まずそのようなパウロの姿勢をならう者でありたいと思います。さらには、周りの信仰の友の励まし、生きた指針となるような者になりたいと思います。

【月曜】 ピリピ書4章1~23節

【1~9節】 最後の勧め

 最後にパウロは改めて、主にあって一致するように勧めます。続けて神の平和を知る秘訣が語られています。すなわち、「主にあって喜ぶ」、「寛容な心を養う」、「思い煩わず、感謝を込めて祈り、思いのたけを神に打ち明ける」、「美徳を心に留める」、「パウロの教えと生き様をならう」ということです。暗いニュースが多く、先行きが見えず不安な時代に生きる私たちこそ、この勧めに従って生き、神の平和を知る者となりたいと思います。そしてその神の平和は私たち一人一人の心のなかだけに留まっていてよいものではありません。私たちが属する神の共同体である教会、そして遣わされている家庭・地域においても神の平和をもたらすことこそが、この神の平和の最終目標であるということを覚えたいと思うのです。

【10~23節】 贈り物への感謝と終わりの挨拶

 ピリピの信徒たちによってなされた、貧しさのなかにあったパウロへの贈り物に対する心からの感謝とともに、「主にあって満ち足りることを知る生き方」の大切さ、力強さを、パウロは語ります。ピリピの信徒たちが友情の証しとして贈ってくれた恵みに対して、囚われの身であるパウロは、具体的に物質的にはお返しをすることができません。しかしそれゆえパウロは、神に信仰と希望をおきます。つまり、それらの贈り物を喜ばしい供え物として受け止めてくださる神ご自身が、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、ピリピの信徒たちの必要をすべて満たしてくださるのだ!というわけです。そのことはパウロとピリピの信徒をともに(「私たちの」20節)神への頌栄へと向かわせるのです。互いに対する愛、具体的な愛の行為が、最終的には神の栄光へと向かっていくようになる。これこそ私たちキリスト者の面目躍如、また喜びではないでしょうか。私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように!

【火曜】 コロサイ書1章1~20節

【1~8節】 挨拶と神への感謝

 コロサイ人への手紙は、使徒パウロとテモテによって、コロサイの信徒(その多くは異邦人)に対して書かれた手紙です。比較的入信して間もない信者たちに、キリストにある真理(福音)に留まり続け、福音とは異なった外からの宗教的な影響に注意するよう励ました手紙です。この手紙はラオデキアの信徒にも回覧されました。
 パウロは挨拶において、コロサイの信徒たちを聖なる者たち、忠実な兄弟と呼んでいます。そして、彼らの信仰と愛のゆえに神に感謝をささげます。

【9~20節】 祈り、御子についての真理

 パウロは、彼らがさらに信仰者として成長するように祈ります。端的に言うならば、神の御心を知って、それを行う力が与えられるように、という祈りです。続けてパウロは、創造と和解の主であられる御子(イエス・キリスト)に関する真理を教えます。私たちは御子によって、御子のために造られました。神に背を向け、滅びへと向かっていた私たちでしたが、御子の十字架によって、ただ御子によって、神との和解に与らせていただいたのでした。

【水曜】 コロサイ書1章21節~2章7節

【1章21節~2章7節】 パウロの使命

 パウロは、あなたがたはこの御子の福音によって救いに与ったのであるから、続けて信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れないようにと命じます。そしてその福音の宣教こそがパウロの使命であると語ります。コロサイ教会は、パウロが建てあげた教会ではなく、まだ訪問したことのない教会でした。しかしパウロは、そのようなまだ見ぬコロサイの信徒たちに、自らが囚われの身となっているのは、この福音の宣教のためであり、特にあなたがたのような異邦人キリスト者の教会のためなのだ、と語りかけています。
 24節の「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」というのは、当然のことながら、「キリストの十字架の働きが十分でない」という意味ではありません。そうではなく、「父なる神は御子の十字架によって和解の道を備えるというお働きを完了なさった。今は私たちに、その福音を、困難や迫害のなかにあっても、あらゆる人々に宣べ伝える使命が与えられている。私パウロはあなたがたのために、囚われの身となるという苦しみとともにその使命をはたそうと奮闘しているのだよ」と言っているのです。それゆえパウロは、比較的信者になって間もないコロサイやラオデキアの信徒たちに、「まことしやかな議論によって」誤った教えに導かれることがないよう(2章4節)、引き続き主キリスト・イエスにあって歩むように命じます(2章6節)。

【木曜】 コロサイ書2章8~23節

【8~23節】 キリストは全ての偽りの教えに勝るお方である

 この箇所は、この手紙の中心的な部分といえます。キリストの受肉と十字架の前に、このキリストから引き離すような教えはどのようなものであってもすべて「むなしい、だましごとの哲学、人の言い伝え、この世の幼稚な教え」であるとパウロは明言します。11~23節を見ると、パウロが警告しているこの教えは、「割礼」、「食事に関する律法」、「ユダヤ教に基づく暦(こよみ)」について、強い主張をもっていたことがうかがえます。パウロはその教えに対して、「あなたがたはキリストの十字架による罪の赦しという真の割礼をうけたのだ」「食事や特別な日についての律法は、来るべきもの、すなわちキリストの影であって、このキリストを信じている今はこれらの律法から自由になっているのだ」と反論します。そしてそのような教えは一見すると賢く見えるのだが、実は肉のほしいままな欲望に対しては、何の効き目もないものだ、とバッサリ切って捨てます(23節)。むしろ私たちキリスト者の目指すべきは、19節に記されている、かしらなるキリストに固く結びつき、神によって成長させられることなのです。
 私たちの歩みはどうでしょうか。「○○をしない」、「△△を避ける」、もちろんこういった態度そのものが間違っているとはいえませんし、ときに信仰者としてそのようなことは必要なのですが、しかしそれ以上に、「キリストに固く結びつくこと」、「キリストにあって歩むこと」といった信仰の第一義的なあり方、積極的なあり方といってもいいかもしれませんが、そのことをまず心に留め、目標とすべきである、そう教えられているのではないかと思います。

【金曜】 コロサイ書3章1~25節

【1~11節】 キリストにある新しい生活の原理

 キリストの十字架の死とよみがえりによって新たな命をいただいたものは、2章で語られていたような「人間の戒めと教え」からは自由になっています。では、自分の好きなように生きてよい、ということになるのでしょうか。そうではない、とパウロははっきりと言います。むしろキリストとともによみがえらされた者として、この世の考え方、ライフスタイルを捨てて、天に国籍のある者としてこの地上を生きなさい、と命じています。5節の「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」という言葉が心に突き刺さります。偶像礼拝というと、異教の神仏を象ったものを拝む行為を想起します。しかし聖書は、むさぼり、貪欲は偶像礼拝にほかならない、と言うのです。より最新のファッション、より最新の電化製品、より目新しくて豪華な食事、等々。たえず「より新しいものを求めよ。流行に後れるな」というメッセージに満ち溢れている現代に生きる私たちこそ、「上にあるものを求め」ている生き方をしているのか、折々に自らを吟味する必要があると思わされます。

【12~25節】 キリスト者の姿

 続けてパウロは12節から17節において、私たちに対する神の愛と選び(12節)に基づき、私たちはお互いに対してどのようにあるべきなのか教えています。私たちのあるべき姿というのが、人間関係のなかで語られていることに注目したいと思います。孤高の人となる、というのは聖書が教える私たちの目指すべき姿ではありません。キリストが私たち人間と同じ姿をとって私たちのただなかに来てくださり、私たちと交わりをもってくださったように、私たちもキリスト者の共同体のなかでキリストに似たものとなる、ということが聖書の教える歩むべき道なのです。そしてキリスト者の共同体の最小単位である「家庭」において、妻は、夫は、子どもは、父は、奴隷は、主人(4章1節)は、それぞれどのようにあるべきなのか、具体的に指導がなされています。

【土曜】 コロサイ書4章1~18節

【4章1~18節】 最後の挨拶

 囚われの身にあるパウロでしたが、その状況にあっても何とかして福音が前進するように、コロサイの兄弟姉妹に祈りの要請をします。私たちも、みことばの奉仕にあたっている牧師、伝道師を覚えて祈りましょう。特に明日の礼拝説教のため、説教者のために。
 さらにパウロはコロサイの信徒たちにも同じように、日常での未信者との関わりにおける言動・振る舞いにおいて、キリスト者としての自覚を持ち、福音の宣教に努めるよう命じます。
 最後に、7節以降において、今ともにいる同労者の様子について報告します。9節のオネシモは、ピレモンへの手紙を書くきっかけとなったあの脱走奴隷オネシモです。彼をテキコに同行させて、その主人ピレモンのもとに送り返そうとしたわけです。そのような背景で「ピレモンへの手紙」が書かれたのでした。10節のバルナバのいとこであるマルコは、この人物を伝道旅行に同行させるか否かをめぐって、パウロとバルナバの間に亀裂が生じた原因となった人物でしたが(使徒15章36~41節)、この箇所からパウロはマルコとの良好な関係を回復したことがわかります。一方、14節のデマスは、後に「今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしま」ったとパウロによって語られています(第二テモテ4章10節)。
 「私が牢につながれていることを覚えていてください」(18節)。ある英語の聖書はこの箇所を“Remember my chains”(私の鎖を覚えていてください)と訳しています。今日も世界中のさまざまな所で、多くの同労者・兄弟姉妹がその信仰と証しのゆえに迫害にあい、ある者は投獄され、ある者は地上での命をもって信仰を告白しています。このパウロの言葉は、その苦しみのなかにある彼らの叫び声となって私たちの耳に響きます。私たちも彼らの鎖を覚えていたいと思います。

参考文献

  • Gordon D. Fee and Douglas Stuart, How to read the Bible for all its worth, (Zondervan, 2002)
  • 伊藤明生「ピリピ人への手紙」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • 金田幸男「コロサイ人への手紙」『実用聖書注解』(いのちのことば社、1995年)
  • Francis Foulkes, Philippians in New Bible Commentary : 21st century edition, (Intervarsity, 1994)
  • Peter T. O'Brien, Colossians in New Bible Commentary : 21st century edition, (Intervarsity, 1994)