新約 第40週
エペソ書3章1節~ピリピ書2章30節

日本同盟基督教団 川奈聖書教会 牧師
山口 光仕

2007年9月28日 初版

【日曜】 エペソ書3章1~21節

 3章におきましては、1章2章においてすでに語られた、イエス・キリストの奥義をいただいていることに対するパウロの驚きと使命が証しされています。8節「聖徒のうちで最も小さな私にこの恵みが与えられている」、パウロはこのように福音の奥義を示されていることに深い感動を覚えておりました。
 私たちは、日々の生活における不満や自分の内にある空虚感の原因を外に見出そうといたします。「~が無いから」、「~が足らないから」、「~さえ手に入れば」、このようにして青い鳥を追いかけるような毎日を過ごしてしまいがちです。けれども、本当の問題は外にではなく私たちの内にあることを教えられるのです。パウロは「福音の奥義・恵みがこんな私に与えられている!」と驚きました。その価値をはっきりと認めていたのです。そのことに満ち足りておりました。私たちはどうでしょうか。イエス・キリストの福音というかけがえのない宝を、その価値に相応しく受け止めているでしょうか。本当は私たちの人生が満たされる宝を得ているのに、その価値が分からずにもっと良いもの、自分にとって必要なものが他にあるような錯覚をしてはいないでしょうか。

 私は大学時代弦楽器を専門としておりました。市民オーケストラなどのお手伝いに行きますと、お金持ちの愛好家の方が専門家のような高価な楽器を持っているのです。けれども、なかなか思うような音が出ず、「もっとこういう音色の出る楽器が欲しいわ。この楽器はここが悪いのよ」というような話しをしているのを耳にしました。もっと良い楽器が手に入れば良い音が出るという勘違いをして、自分の腕前に問題があることを忘れてしまうのです。そして、すでに所有している楽器がどんなに素晴らしい物であるかに気づくことができないのです。

 罪深い私たち人間に身分不相応な宝が与えられています。イエス・キリストの福音です。これほど高価なものを、選ばれて与えられているのです。そうしましたときに私たちが考えるべきことは、「せっかく与えられているこの宝を生かして、私はどのように生きるべきか」ということでありましょう。

 「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません」(8・9節)

【月曜】 エペソ書4章1~32節

 近年、「~らしさ」という言葉は敬遠されることが多いようです。「男らしく。女らしく」などと口にしましたら「それは差別だ!」などと怒られてしまうかもしれません。私自身「牧師らしさ」などというものを問われたら少々嫌な気がするように思います。確かに、「~らしさ」という言葉のなかに、その本質から外れたことが含まれていて、どうでも良いことのなかに、人を縛りつけようとする間違いがあるのでしょう。牧師は静かで大人しく、よく本を読み、いつもにこやかで・・・。そんな牧師らしさを要求されたら、たまりません。けれども一方で、「らしさ」という言葉を否定することにおいて、本来負うべき本質的な責任をも回避してしまうなら、それもまた大きな過ちであります。
 パウロは1節で「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」、そして2節以降に具体的な「ふさわしさ」を記していきます。これは言ってみれば「クリスチャンらしさ」の教えと言えないでしょうか。「クリスチャンらしさ」、「あなたの髪型、クリスチャンらしくないわね」などと言われたら「ほっとけ!」と思うかもしれません。けれどもそれは、「クリスチャンらしさ」の定義が間違っているのでありまして、「クリスチャンらしさ」を問うことが間違っているわけではありません。3章で学びましたように、イエス・キリストの福音という宝をいただいている者としての相応しい生き方、在り方を追及する責任を否定してはいけないのです。

 けれども聖書が教えております「クリスチャンらしさ」とは、クリスチャンらしい誰かがいるということではありません。神様に愛されるに相応しくない私たちをご一方的に愛してくださった、愛されている者としての相応しい歩みが教えられているのです。

 特に4章で強調されておりますことは、信仰において一致することです。誰とでも一致すれば良いわけではありません。一致してはいけないものがたくさんあります。けれども、一致しなければならないものがある。それは神の御霊の下にあるところの一致です。
 人間が一致できない理由はたくさんあります。いえ、むしろ人間同士が完全に一致することはありえないのです。私たちは、人と自分が違うということのなかに、自分の存在意義を認めようとするからです。しかし、イエス・キリストの十字架によって救われた者は、人より優れた自分の何がしかを誇りに生きるのではなく、ただご一方的な福音の恵みだけを誇りにして生きるのです。神の下にいる者に一致がないとは、神の恵みだけに生きていないことを意味します。神以外の何かを主張したくなるときに、衝突が起こってしまうからです。

 福音という宝をいただいた私たちキリスト者に相応しい生き方は、ただその宝だけを誇りにし、頼りにして生きる歩みです。今日、私たちのうちにキリストの十字架以外の何かを誇る思いがないでしょうか。いただいた宝に相応しい生き方に、もう一度心を向けたいのです。

【火曜】 エペソ書5章1~33節

 1節「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」。神様に愛されている子どもらしさが、5章においてはより具体的に教えられています。特に5章の終わりに記されております夫・妻に対する教えは、家庭という社会の最小単位においての、クリスチャンとしての相応しいあり方に対する教えとして、興味深いものであります。

 25節「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」。キリストの教会に対する愛が、夫の妻に対する愛の模範として示されていることに驚きを覚えます。
 26・27節「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」。イエス様が教会を愛されたのは、教会が愛するに相応しい相手だったからではありません。むしろ、イエス様にはあまりにも不釣り合いな相手、罪のしみやしわだらけな教会でありました。そのような相手を、聖く傷のないものにするために、ご自身を犠牲にして愛してくださったのです。

 私のお仕えしております教会のあるご婦人が、お医者さんから「体重が重すぎて膝に負担がかかっている。食事を少し控えなさい」と言われたそうです。それで私に愚痴るのです。「先生、食事を満足に食べられないくらいなら、歩けなくなった方がマシです!」 けれどもそんなことを言いながら甘い物を控えて、痛む足を労わりながら散歩し、健康管理に努めておられます。膝が悪ければ、体全体が膝を思いやるでしょう。自分の体においては、そのように弱い場所を切り捨てるようなことをせず、かえって弱い場所を守るために全身が協力いたします。しかしそれが他の人のことになりますと、私たちは途端に犠牲を払うということができなくなってしまうのです。

 愛するに相応しい素晴らしい相手だから愛するのではありません。むしろ愛において求められることは、相手の弱さのために、いかに犠牲を払うことができるかです。自分にとって都合の良い、好ましいところだけを愛したとしても、それはただの自己中心に過ぎません。しかし、傷だらけの教会を、一点の曇りもないイエス様が、ご自身の命をかけて愛し抜き、そのことによってご自身は傷を負われましたが、教会は美しい花嫁と変えられた。このような愛、自分に都合の良い愛ではなく、相手の立場に立って自己を犠牲にできる愛こそが、まずご一方的に愛していただいた私たちに相応しい、「神に愛されている子どもらしさ」と言えるでしょう。
 愛されていることの喜びと、愛することのできる喜びに、生きることができますように。

【水曜】 エペソ書6章1~24節

 5章から続く具体的なすすめは、10節「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい」によって締めくくられます。神に愛される者としての相応しい生き方は、神の無限の愛に包まれることのうちに生れてくるのであります。私たちが、十字架を通して示された愛の大きさに気がつくならば、そこで必ず生れてくる歩みがあるのです。

 昔、物事がうまくいかずイライラしていたときに、母親から「私の息子にしてはよくやっている」と慰められました。妥当な慰めと言えるでしょう。不完全な人間の親から「私の子どもなのになぜこんなことができないのか!」などと言われたら腹が立ちます。「あなたの子どもだからできないのだよ」と言い返したらよいでしょう。
 逆のこともあります。有名な演奏家の子どもが、私のような凡人なら数年かけて練習して習得しなければできないようなことを、何の苦労もなくやってのけてしまう。そういう姿を見ると、生まれもった資質とともに、育った音楽環境の良さを思わずにはいられません。それは彼個人の能力を超えて、彼の背後にある様々な力によって生み出されていく音楽性なのでしょう。

 同じように、私たちのクリスチャンとしての歩みも、私たちの努力から作り上げられていくようなものではありません。努力によって習得するのではなく、まさしく天性の賜物なのです。天の神様の大能の御力に押し出されるようにして生れてくるものであります。そこで私たちが気をつけるべきことは、せっかく押し出してくださる神様の力に私たちの余計な力を加えないことです。

 神の武具を身につけよ、と教えられています。どんなときにも御霊によって祈れ、と教えられています。神の武具が私たちを守り、神の武具が敵を打ち破ります。もともと神様によって造られた私たち人間には、神の武具が一番ぴったりくるはずです。けれども、この世の武具を身に着けて戦いたくなる愚かさが、私たちのうちにはあります。自分を誇りたくなる気持ちが、神様以外のところから武具を持ち出してくる失敗につながります。

 今日、あなたを守り、あなたに勝利を与えるために備えられている神様の武具、大能の神様の力を喜んで受け取りましょう。神様の子どもであることの特権、恵みを豊かに体験することができるでしょう。

【木曜】 ピリピ書1章1~26節

 ピリピ教会誕生の経緯は、使徒の働き16章に記されております。パウロの第2回伝道旅行において建て上げられた教会です。ルデヤという1人の婦人を中心に集まり、成長していった教会のようであります。ピリピ人への手紙はしばしば「喜びの手紙」と呼ばれます。「喜び」という言葉が、わずか4章の短い書物の中に13回使われています。4節に早速「あなたがたのために祈るごとに喜びがある」と語っています。確かに、ピリピ書を読みますとパウロの喜びがいたるところに感じられるのです。

 そこで私たちが考えたいのは、喜びとはどのような状況において生れてくるのかということです。パウロがピリピ教会に手紙を書きながら喜びに満たされていたことは、決して当然のことではありません。パウロがピリピ教会に手紙を書き送った理由がいくつか考えられますが、ひとつにはピリピ教会が問題を抱えていたからだと思われます。ピリピ書のもうひとつのキーワードとして「すべて」という言葉が頻繁に使われています。1節には「ピリピにいるすべての聖徒たち」とあります。わざわざ「すべて」という言葉を頻繁に使うのは、教会内部に分裂があったか、もしくは一部の人々が教会の交わりから疎外されるようなことがあったのかもしれません。自分の開拓した教会がそのような試練のなかにあり、またパウロ自身はこのとき牢獄にいるのです。人間的に考えるならば、喜べることが当然の状況ではありません。しかし、そうしたなかにあってなお「喜びの手紙」を書いたパウロ、そのようにパウロを生かした信仰に目を向けていきましょう。

 パウロは12節から「福音を前進させることになった」ひとつのエピソードを語っています。これもパウロの喜びの証です。「福音が前進した」とパウロが語っている出来事とはどのようなことでしょうか。13・14節「私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました」。パウロが喜んでいる福音の前進とは、自分がキリストのゆえに投獄されていることが知れ渡ったこと。同労者たちが大胆に御言葉を語るようになったことであります。これまでいくつもの教会を建て上げ、多くの人々を信仰へと導いた大伝道者パウロが、「自分がキリストのゆえに投獄されていることが知れ渡った」、ただそれだけのことを福音の前進と喜んでいる姿に教えられます。親衛隊から幾人かが救われたわけではないのです。兄弟たちがパウロの投獄に奮い立って、多くの人々を導いたとは書いてありません。ただ大胆に語るようになった、そのことだけであります。けれどもそこにパウロは福音の前進を見ています。

 私たちも同じように福音の前進を喜べるのではないでしょうか。「トラクトを配っても一人も教会に来ない、失敗だ」ではありません。幾人かの人はトラクトを手にとって見て教会の存在を知ったでしょう。福音の前進です。「友人を教会に誘ったけれども断られた、失敗だ」ではありません。教会には来なかったけれども、自分がクリスチャンであることを知ってもらえた。いつか友人が必要を感じたときにきっと声をかけてくれるのではないでしょうか。これも福音の前進です。
 今日も私たちを用いて福音を前進させてくださる主に、感謝をもって、喜びをもって、希望をもって歩むことができるのです。

【金曜】 ピリピ書1章27節~2章11節

 今朝の聖書の御言葉のなかで、5節からは特に有名な箇所です。「キリスト賛歌」と呼ばれ、イエス・キリストのお姿、イエス様の生き方、イエス様が手本を見せてくださった地上の歩みが要約されているのです。6~8節「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」。このところにはっきりと示されているイエス様の方向性に目を留めたいのです。「神であられたのに、ご自分を無にして、神の御姿を捨てて人間と同じようになられた」。これだけでも驚くべきことです。神の姿を捨てて人間になられた。けれどもそれだけではない。今度は、人間としての性質を持ってお生まれになったばかりか、さらにご自分を卑しくされた。そして、神であるのに死を経験された。しかもその死は十字架刑という、最も無残な死であった。つまり、神であるという最も高いところから、人になるということにおいて降りてこられ、人としても馬小屋に生まれ貧しさのなかでさらに下に降りて行かれた。それだけでない、死においても裸で木につるされるという、人間の尊厳を踏みにじられるお姿になられることによって、最も低いところに降りていかれた。これがイエス様の生涯を貫いている方向性です。

 一方私たちはどうでしょうか。多かれ少なかれ、人間というのは上昇志向で生きています。例えば、最近通信販売というのがとても流行っています。カタログを見ているといろいろと便利な物、魅力的なものが多く載っている。新聞の広告を見ても同じことが言えるでしょう。どうしてこれだけ物が溢れた時代にあって、そうした新しい物が私たちの目を奪うのでしょうか。それは、私たちのうちに、常に今よりも便利で快適に心地よい生活をしたいという、上に向かいたい気持ちがあるからです。人間は現状維持ではいられません。ましてや今よりも生活の水準が下がるというのは耐え難いでしょう。少しでも快適に便利に気持ちよく。物質的にも経済的にも地位・名誉・権力、あらゆるものにおいて上昇志向が私たちのうちにはあるのです。イエス様の方向性とは真逆にあります。最も高いところにおられたイエス様は下に下にと生きてくださり、惨めで弱い底辺をさ迷う私たち人間は上に上にと生きているのです。イエス様が低く生きてくださったのは、罪ゆえにこの世の底辺を生きる私たちを救い出す道を備えるためであったのです。自分の貧しさを正直に認めるときにこそ、そこにイエス様がいてくださいます。
  今日私たちは、イエス様のいない着飾った場所を生きるでしょうか。それとも、イエス様がいてくださることの慰めのうちに、低く歩むでしょうか。

【土曜】 ピリピ書2章12~30節

 16節「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます」。中ごろに「自分の努力したことがむだではなく」とあります。他の翻訳では「自分の走ったことが無駄でなく」と訳されています。先日、電車で娘と出かける用がありまして、時間がギリギリだったものですから暑さのなかを娘を抱っこして必死に駅まで走りました。一本乗り遅れると次は45分後ですから予定が大幅に狂ってしまいます。汗だくだくになりながら、間一髪間に合ってほっとしたのです。「自分の走ったことが無駄でなく」と聞いて、そんなことを思い起こしました。逆に考えますと、もしあのとき電車に間に合わなかったら、自分が走ったことがすべて無駄になっていたのです。どんなにがっかりしたことでしょうか。

 私たちの人生において同じことを考える必要があります。一生懸命努力したこと、頑張ったことが無駄にならない、報われる人生を歩む必要があります。人生の最後に「あの努力は何のためだったか。空しい」、そんな取り返しのつかないことにならないためにです。

 16節の言葉は、正確には「無駄ではなかった」というパウロの確信を語っております。パウロは自分が走ったことが無駄にはならなかったと言い切っているのです。そしてそのことの解説として、17節「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます」。ここでパウロははっきりと自身の殉教に目を向けています。あなたがた、つまりピリピ教会のための注ぎの供え物になっても喜ぶ。供え物とはいけにえのことです。旧約の時代においてイスラエルの民は、家畜の中で最上のものをいけにえとしてささげました。手塩にかけて育てた家畜のなかで最上のものをささげる、これは育てた者にしか分からない痛みです。自分の仕事に置き換えたら分かりやすいでしょう。最も良くできたものを捨てなければいけない。辛いことです。そのようにして、最上のものを犠牲にすることによって、自分の罪の大きさを知るのです。パウロは、自分がピリピ教会においてそのような犠牲となることを喜んでおります。そのような自分の人生が「無駄ではなかった」と語っているのです。伝道者として走りに走った挙句、犠牲(いけにえ)となる人生。これは人間的に考えるならば、駅まで必死に走ったのに結局電車に乗り遅れるような空しいことに思えるかもしれません。しかしパウロは「キリストの日に」と語っているのです。

 主にあるすべての業が無駄ではなかったと確信するキリストの日があるのです。パウロはその日を目指して走っていましたから、たとえこの世にあっては報われないと思えるような人生であっても、自分の信仰者としての歩みに確信を持っておりました。私たちも、目先の事柄に一喜一憂するのではなく、キリストにあって無駄にならない、と確信できる歩みに目を向けましょう。私たちの全ての歩みが、神様によって受け止められていることを忘れないでいたいのです。