新約 第39週 ガラテヤ書3章1節~エペソ書2章22節
BibleStyle.com
日本福音自由教会
越谷福音自由教会 教会員
東京基督教大学 職員
高橋 信希
2007年9月22日 初版
【日曜】 ガラテヤ書3章1~14節 「信仰によって」
パウロは、ガラテヤの信者たちが救われたことは、行いによるのではなく、ただ信仰による圧倒的な神の恵みであることをここで力強く宣言しています(参照:ローマ3章24節)。ユダヤ教徒にとっても、もちろんキリスト教徒にとっても偉大な存在であるアブラハムをここで登場させ、彼が信仰によって神様から義と認められたことを語ります。これは、救いの完成には、行い(割礼)が必要であることをアブラハムの経験から導き出す彼らの考え方に、対抗するためでした。
パウロと同様にわたしたちもイエス・キリストを伝えていくときに、まず相手の土俵に乗り、相手に伝わる方法や言葉を通し向かいあっていかなければ決して伝わらず、また通じません。しかも、それは借り物の言葉ではなく、自分が経験し考えられたなかから発せられる言葉を通してでなければ、決して相手のこころには真に伝わらないのではないかと思うのです。
神であるイエス・キリストが人となってこの世界に来られ、この地に住み生き、そして十字架につけられ、苦しみのうちに完全に死に、それだけではなく、よみがえられて弟子たちに現れてくださった後に、天に昇られ、そこでわたしたちの住むところを備えていてくださり、やがてこの世界に戻ってわたしたちを迎えにこられるのです。
わたしたちは、様々な方法を通して父なる神、子なるイエス・キリスト、助け主なる聖霊を知ることができます。他の人の証や大自然のすばらしさなど方法は様々です。しかしより正確に、また豊かに知るために、わたしたちには聖書が与えられています。わたしたちが理解できることばとなってご自身をあらわしてくださった方を、わたしたちは読み、聴き、心に留め、思い巡らすことを通し知り続けることを、共に求めていきましょう。
【月曜】 ガラテヤ書3章15~29節 「祝福を相続する」
アブラハムに約束が告げられてから、仲介者であるモーセの手を経て律法が具体的に制定されるまでに、約400年間の時を要しています(創世記15章13節)。しかしこの律法は、決して救いの完成ではなく、むしろ、神様の約束がイエス・キリストへの信仰によって信じる人々に与えられるようになるための養育係(裕福な家の子どもをしつけるという責任ある役目で、多くは奴隷の務め)にすぎません。律法によっては救いがないことを明らかにすることにより、父なる神のみもとに帰る唯一の道は、イエス・キリストのみであることがより鮮明となるのです(ヨハネ14章6節)。
キリストはアブラハムの子孫であり、アブラハムに約束された相続は、キリストのうちに完成することになります。つまり罪人(選民も異邦人も関係なく)はキリストを信じるときに、キリストにあって、神のすべての祝福を相続することになるのです。
【火曜】 ガラテヤ書4章1~20節 「キリストが形づくられるまで」
パウロは、ここで神を知っていながら、無価値な幼稚な教え(新共同訳では、無力で頼りにならない支配する諸霊)に逆戻りしていくガラテヤの人たちを激しく糾弾しています。
わたしたちは、この地上にいる間は罪の性質を持ちつつ生きていかなくてはなりません。もともと神中心ではなく、自己中心で生きていきたいという潜在的な思いを持つわたしたちにとっては、かえって自分のコントロール内の無力で頼りない存在(神)のほうが都合がよいとさえ言えます。そうすれば、都合が悪く必要ではなくなったときに、その存在に責任転嫁したり、また切り捨てることができるからです。
聖書の語る罪とは「ハマルティア」という言葉が使われ、これは「的外れ」を意味します。神中心ではないものはすべて的(神)の外にあると言えます。それがいかに一見益となり、良さそうに見えても、神基準においては罪と認められるのです。
パウロはこのような者たちに対して、なんと「わたしのようになってください」と願うのです。ここでパウロは、肉体の弱ささえあらわにしながら、神を中心に、信仰によって生きていく姿勢を強く願うのです。
パウロは、ガリラヤの人たちのうちにキリストがかたち造られるようにと、産みの苦しみをもって祈りとりなしています。同様に、イエスもまたペテロのために祈りました(ルカ22章32節前段)。また御霊もわたしたちのためにうめきをもってとりなし続けていてくださるのです(ローマ8章26節)。そして、このような恵みを知る者に対してイエス・キリストは「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてあげなさい」(ルカ22章32節後段)とチャレンジを与えてくださるのです。
【水曜】 ガラテヤ書4章21節~5章15節 「愛の実践の伴う信仰」
パウロはここで、キリストが自由を得させるために来てくださったことをしっかりと受け留め続けるようにと勧めています。そして決して律法主義に戻ることがないように戒め、律法(割礼を受けること)によって神から義とされようと求めるとするならば、キリストとはなんの縁もゆかりもなく、また恵みも失うと、ある種脅しにさえ聞こえる表現を用いて警告します。
またキリストに結ばれ繋がっていれば(参照:ヨハネ15章5節)、律法それ自体は大事なことではなく、むしろ愛の実践の伴う信仰こそが大切となってくることが語られています。さらに、わたしたちに与えられている自由を自分の肉に罪を犯される機会とはせずに、かえって愛により他者に仕ることを勧めています。わたしたちが与えられている賜物(なにも特別な才能だけを指すのではなく、各人が遣わされている場所や関わっている人といった環境そのもの)を、自分自身のためにではなく、他の人のために用いていく(第一ペテロ4章10節)ことを通して神様の愛があらわされていくのです。
【木曜】 ガラテヤ書5章16節~6章18節 「御霊に導かれて」
パウロは、ここで御霊に導かれて歩むことを勧めています。なぜなら、そのようにすればわたしたちは自分の肉の欲望を満足させることに走らないからです。わたしたちは、もともと自分の「したい」と思うことができない罪の性質を持ち合わせています。律法は罪を認識させてくれるだけで命を与えることはできません。聖霊のみが、わたしたちを神様のもとへ永遠の命へと導くことができるのです。
さらにパウロは、御霊に導かれて生きている者の使命として、周りにいる兄弟のなかで罪に陥っている者がいるとしたら、柔和な心をもって導くことを勧めています。また希望を失うことなく、たゆまず飽きることなく、善を行うことも勧めています。ジョン・ウェスレーは善を行うことについて次にように語っています。「できるだけ善を行いなさい。できるだけいろんなかたちで行いなさい。できるだけ多くの人に行いなさい。できるだけ長い間行いなさい」。イエス・キリストご自身もまた「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒25章35節)と語られました。「善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」(ヘブル13章16節)というみことばと併せて、いつも心に留めて歩んでいきましょう。
【金曜】 エペソ書1章1~23節 「約束の証印と保証として」
「小さい」を意味する名前をつけられたパウロ(以前は「サウロ」と呼ばれていた)ではありましたが、異邦人に福音を宣べ伝えることと、教会に関する偉大な真理を教えること、という大きな使命を神様から与えられました。この1章では、神様がわたしたちをどのような方法で救い出してくださったかを語ります。パウロが、エペソ人への手紙だけでなく他の手紙でも繰り返し、ある意味しつこいくらいに登場する「神の恵み」によって、イエス・キリストを通して、わたしたちに救いが与えられることが、情熱をもって畳み掛けるように語られています。信じるものが神様のみこころをより深く、広く知るように、また求めるようにと、執り成しの祈りと願いとを込めて語るその情熱は、今のこの時代を生きるわたしたちにも強く迫ってきます。
【土曜】 エペソ書2章1~22節 「神様からの賜物」
第2章においても、救いは神様からの一方的な恵みによるもので、イエス・キリストを通して信仰により、わたしたちにもたらされるものであることが、しつこいくらい繰り返し語られます。
またここで私たちは神の作品で、良い行いをするために造られたと記されています。しかもその良い行い自体を神様は、あらかじめ備えてくださっているのです。まったく驚くべき、いやかえってまっすぐには受け留め難いこととも言えます。では、どのようにしたら神様からの良い行いを知り、またそれを為すことができるのでしょうか。
ウィリアム・マクドナルド氏はその著書で、以下の通りまとめています。
- 自分が罪を犯していることに気づいたら、すぐにその罪を告白して捨てること。
- 継続的に、かつ無条件に神様に従うこと。
- 神様の御心を見分けるためにみことばを学び、神様が言われることを何でもすること。
- 毎日、祈る時間を持つこと。
- 機会を逃すことなく、奉仕すること。
- 他のクリスチャンたちとの交わりを深め、その助言を求めること。
神様は、良い行いをするための備えをさせくださり、良い行い自体も備えてくださり、さらに報いてくださるのです。神様の恵みとは、まさに受けるに値しない者に一方的に与えられるものなのです。
参考文献
- 『スタディバイブル』(日本聖書協会、2006年)
- ウィリアム・マクドナルド:著/アーサー・ファースタッド:編『使徒~ピリピ(新約聖書註解2)』(伝道出版社、2006年)
- 藤本満『ガラテヤ人への手紙』(イムマヌエル綜合伝道団出版局、2002年)
- フランシス・フォールケス『エペソ人への手紙(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2006年)
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