新約 第38週
コリント書第二9章1節~ガラテヤ書2章21節

日本同盟基督教団 古川教会 牧師
高橋 愛一郎

2007年9月14日 初版

【日曜】 コリント書第二9章1~15節

 9章は献金の章である。しかし、献金という言葉は、一度しか出てこない。奉仕(1節)、贈り物(5節)、種まき(6節)、与える(7節)、義の実(9・10節)、神への感謝(12節)というように、多種多様に言い換えられている。つまり、献金というのは、お金をささげることにとどまらずに、実に豊かな性質を持っていると言える。

 献金というと、牧師信徒を問わずドキッとさせられる。それは、献金の額がその人の信仰を計る物差しのように思えてしまうからだ。しかし、パウロは、ここでそのようなことを一言も言っていない。「献金の額」ではなく、その人のささげる「喜び」が重要だという。喜びは金額に反映するが、金額は必ずしも喜びを反映しているわけではない。強制によって、また虚栄によって、金額が反映されることがある。
 そのような献金は、神からの愛を拒絶してしまう。

 献金で不思議な体験をしたことがある。神学校に入る前に、4年間サラリーマンをしていた。あるとき、月定献金として聖別しておいた2万円のうち、急な用事で5,000円を袋から抜き出したことがあった。礼拝当日、CSの奉仕が終わり、自分の部屋に戻って月定献金袋を確かめたとき、「しまった!」と思った。袋の中には15,000円しかない。私は悔い改めの祈りをした。聖別したものに手をつけた自分の愚かさを恥じた。その時である。妹が「何か郵便が届いたよ」と書留を持ってきた。以前送った懸賞の当選であった。まさかと思い、袋を開けると、なんと5,000円の現金が入っていた。すぐに、妹に事情を話し、2人で主の御名を崇めた。主は、愚かな私の悔い改めの祈りに、恵みと励ましをもって応えてくださったのである。

 私たちは、喜んで献金しよう。それは、奉仕であり、感謝であり、献身である。また、やがて収穫が得られる種まきである。また、単純な奉仕でありながらも、義の実と呼ばれるものであり、神への感謝を通して、自分自身が豊かにされていく。さらには、14節にあるように、とりなしの祈りと温かな人間関係を生み出す。これらは、すべて直接お金で買うことができないもの、主が与えてくださるものである。

【月曜】 コリント書第二10章1~18節

 信徒が自分に漏らすことだけに耳を傾けている牧師は、危ない。面と向かって言えない本音は、こっそり牧師夫人や役員に漏らすからである。少なくともコリントの教会の人たちは、パウロを恐れていた。だからこそ、陰口も叩いた。面と向かって言えないことを、他人に漏らした。そういう意味で、コリントの教会の姿は、現代の私たちの教会のありのままの姿である。全員がそうではない。しかし、そういう人々が教会内にいるのである(2節)。

 しかし、そのような人々に対するパウロの姿勢は、一貫している。それは、「キリストによって」という態度である。最初の1節では、「キリストの柔和と寛容をもって」と言っている。また、終わりの17節では、「主にあって」誇れと言っている。実際のところ、パウロはコリントの人々が自分に対してつぶやいていることに対して、業を煮やしていたことであろう。しかし、パウロは、自らの堪忍袋ではなく、キリストの堪忍袋によって、柔和と寛容な勧めをしている。彼らと同じ土俵で戦わない。それは、肉に従って戦うこと(3節)であり、知恵のないこと(12節)だからである。キリスト者同士が、お互いをなじったり、馬鹿にし合ったりすることで、サタン(訴える者)は、喜んでいる。訴える口実が増えるからである。

 パウロの目的は、はっきりしている。「ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます」(15節)

 相手を否定したり、蔑んだりするのではなく、相手の信仰成長を願い、福音宣教の働きがなされるようにパウロは努めている。人を憎むとき、蔑むとき、知らず知らずのうちに、本来の自分の使命から外れてしまうことが多いのではないだろうか。天を仰いで今日一日を歩もう。誇るなら主にあって、誇ろう。

【火曜】 コリント書第二11章1~33節

 パウロは、苦しんでいました。歯がゆい思いをしていました。心配していました(3節)。自分のことではありません。コリントの教会を愛するがゆえに、愛する兄弟姉妹が、「別のイエス、異なった霊、異なった福音」の餌食になっていないか心配だったのです。コリントの教会には、にせ使徒が徘徊していました(13節)。彼らが、しようとしたことは何でしょうか。それは、パウロの使徒としての権威に疑いを持たせることでした。サタン(14・15節)がクリスチャンを陥れる得意技があります。それは、霊的な指導者に疑いをかけるようにすることです。

 毎年CS教師研修会で名古屋に行っています。昨年は、妻と娘も一緒に行きました。集会の途中、まだ2歳に満たない娘を散歩に連れて行った妻に、2人組のエホバの証人が声をかけてきました。妻は当然やんわりと断ります。
 「夫が牧師をしています。申し訳ありませんが、お話をうかがうことはできません」
 2人のうち片方が優しく質問したそうです。
 「そうですか。ご主人は説教で語られるとおりに行なっていらっしゃるのですね」
 「いいえ。牧師も罪人ですから」
 私は、この会話のやり取りを後で妻から聞いたときに、巧妙だなと思いました。人、特に指導者に目を向けさせようとしたからです。確かに行いのない信仰は死んだものです。しかし、人は行いによって救われるのではないのです。

 パウロは嫌疑をかけられました。そこで5節以降から、反論が始まります。しかし、単なる反論ではなく、いかに教会を愛しているかがそこに表れていました(11・28節)。最終的に、パウロは「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇る」と言いました。パウロにとっては、自分の弱さは神の恵みの表れそのものだからです(12章9節)。
 この手紙を読んだコリントの教会のクリスチャンたちは、にせ使徒たちの薄っぺらなパウロへの嫌疑など、もはや目にもくれなかったでしょう。なぜなら、パウロの手紙には本物の信仰が輝いているからです。自らの強さを誇るのではなく、弱さを誇る信仰こそ本物の信仰なのです。あなたは、今日一日を自分自身の力で乗り切りますか、それとも自分の弱さを誇り、キリストの力をまとって乗り切りますか。弱さを誇る、本物の信仰によって歩みましょう。

【水曜】 コリント書第二12章1~21節

 パウロは自慢することで得るものなどないと思っていました。彼は自慢したくありませんでした。しかし、彼がそうしなければ失うものが大きいこともわかっていました。惑わす者たちによって、コリントの教会が彼を指導者として認めなくなれば、多くの迷った羊が生じることになるのです。彼はやむなく、誇ります。コリントの教会のクリスチャンたちを納得させるために。

 しかし、彼の結論は何でしょうか。それは弱さを誇るということでした(5節)。キリストの力が彼を覆うので、彼は「私が弱いときにこそ、私は強い」と言うことができました。クリスチャンは、自分自身が強くなる必要はありません。むしろ自分自身がいかに弱いかを知る必要があります。そのようにして、信仰者は、キリストの力がその弱さのうちに完全に現れることを知るのです(9節)。

 さて、パウロが最終的に伝えたかったことは何でしょうか。それは彼の自慢話ではなく、彼がコリントの教会を愛していることでした(15節)。その愛は、相手を築き上げることを望む愛です(19節)。パウロはこの手紙の中で、2回だけ「愛する者たち」と呼びかけいます。7章1節では「聖きを全うしようではありませんか」と言い、この12章19節では「すべては、あなたがたを築き上げるためなのです」と言います。つまり、パウロがこの呼びかけをするときは、相手の霊的な成長を願うときなのです。神の愛は、私たちを罪人のまま受け入れてくださるだけではなく、私たちが成長することを願っているのです。受け入れてくださるだけの愛に甘んじるときに、クリスチャンのなかに「争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動」が起こってきます。私たちは、聖きを全うさせようとする神の愛の中に、わが身をゆだねようではありませんか。

【木曜】 コリント書第二13章1~13節

 キリスト者が目指す完全とは、何でしょうか。パウロは9節と11節で、コリントのクリスチャンに完全なものになるように祈り、勧めています。

 完全な者と聞くと、神以外に完全な者などいないではないかと私たちはすぐに思います。でも、ここで言われている完全さとは、神のような完全さではないのです。むしろ神に対しての私たちのあり方が、問われているのではないでしょうか。それは、5節の「信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」ということばにも表れています。信仰は、神に信頼することです。ですから、パウロは最後の章で、神様に完全に信頼するものとなるように勧めているのです。4節にあるように、私たちはキリストにあって弱いのですから。

 完全なクリスチャンとは何でしょうか。それは、まず主により頼み、最後まで主に信頼し続けるクリスチャンではないでしょうか。ですから、強いクリスチャンは、第1に、自分自身の弱さを良く知っている人です(9節)。第2に、神の力(4節)強さを知っている人です。自分が強い人は、11節にあるように、慰めを受けることができません。「必要ない」と拒むからです。一つ心になることができません。他人を自分に合わせようとするからです。平和を保つことができません。自分こそ正しいと思うからです。

 私たちは自分に絶望し、主に希望を置きたいのです。その意味で完全な者を目指したいと思います。

【金曜】 ガラテヤ書1章1~24節 「恵みに帰る信仰」

 迫害者パウロが伝道者として人々に認められるようになるためには、ある程度のアピールが必要だったのでしょう。彼は、手紙の書き出しから自らの使徒性をアピールしています。その確かさは、人によるのではなく、神によるのだとパウロは強調しています。昨今は、カルト宗教が横行し、キリスト教プロテスタント系だから安心だとも言えなくなりました。人々の目は、否が応でも指導者に向けられます。

 ガラテヤの諸教会もまたパウロによって福音を聞き、救いにあずかることができました。しかし、パウロが離れてからは、7節の「かき乱す者たち」によって、福音のいのちを失いかけていました。さらには、かき乱す者たちは、パウロの使徒性まで疑うように、ガラテヤの教会に働きかけたのでしょう。パウロ自身が、自分の使徒性について弁明しなければならなくなりました。その目的は、パウロ自身のプライドのためではありません(10節)。ガラテヤのクリスチャンたちに、本当の福音に立ち返ってほしいからです。パウロは、情けなかったでしょう。6節の「驚いています」とは、新共同訳では、「あきれて果てています」と訳されています。しかし、彼はガラテヤの教会を見捨てません。それは、彼自身が恵みの中で生かされているからでした。15節「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方」と語られています。彼が熱心にガリラヤのクリスチャンを呼び覚まそうとしているのは、彼自身からくるものではなく、神から発せられた恵みでした。

 イエス様を信じて救われると、周りから期待されることがあります。さまざまな奉仕を委ねられ、任されます。期待されると嬉しくなりますが、同時に重荷に感じたり、がんばらなければいけないと自らを鼓舞したりしようとします。しかし、大切なのは、恵みです。恵みによって救われているのですから。「恵みをもって召してくださった方」は、私たちが多くの奉仕をすることよりも、恵みに留まるようにと期待しておられるのです。

【土曜】 ガラテヤ書2章1~21節
「福音の真理についてまっすぐに歩んで」

 パウロは、自分自身の回心の出来事から流れるような筆運びで、福音の真理に迫っていきます。使徒のなかでも一番良く知られていたであろうケパ(ペテロ)が、ユダヤ人の前では異邦人と一緒に食事を取らなかったという出来事がありました。これをパウロは、「福音の真理についてまっすぐに歩んでいない」と非難しました。この指摘を通して、パウロはガラテヤ人の信仰のあり方を問うているのです。
 16節の「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる・・・」パウロは、この一つのことを懇ろにガラテヤの教会に語ります。彼らが抱えている問題の本質は、そこにあったからです。信仰によって救われたのに、「やっぱり律法は大切なんじゃないか」、「やっぱり律法を守って、割礼を受けないと、救われていることにはならないんじゃないか」、そう彼らは思っていたのです。

 私たちも教会生活を行うなかで、そういった勘違いをしてしまうことがあります。
 「自分が信仰に立ったときにこちらを選ぶけれど、和を乱したくないので○○役員と同じ意見にする」
 「就職してからというもの礼拝に出るだけで、精一杯。奉仕ができていないので教会員としての義務を果たせていない。クリスチャン失格だ」
 信仰よりも他人の目を気にしたり、信仰よりも奉仕を重視したりしてしまいます。そういう弱さが私たちにあるのではないでしょうか。それは、まだ「私」が生きているからです。20節によれば、そういった律法主義の自分はキリストとともに十字架につけられたとパウロは説明しています。パウロは、そうして信仰に生きることを勧めているのです。21節にあるように、神の恵みを無駄にしない信仰生活でありたいものです。