新約 第37週
コリント書第二2章1節~8章24節

日本同盟基督教団 伊那聖書教会 牧師
大杉 至

2007年9月7日 初版

【日曜】 コリント書第二2章1~17節

【1節~4節】

 パウロが前にコリント教会に対して厳しい手紙(涙の手紙)を書き送った目的は、教会を悲しませるためではなく、教会が悔い改めて真の喜びに満たされるためでした。それも愛によるものでした。私たちも聖書や教会を通して叱責と戒めの言葉を聞いたならば、単に悲しむことで終わらずに、心から悔い改めて真の喜びに至りたいものです。また私たちが教会に対して戒めの言葉を発するならば、愛を動機として真の喜びに至ることを目的として行いたいものです。

【5節~11節】

 違反者に対して何も戒めないことも問題であるのと同様に、違反を悔い改めた者をいつまでも赦さないことも問題です。なぜなら、処罰は制裁が目的ではなく、悔い改めていのちを得させることが目的だからです。主も、悔い改めた者を赦すべきであることを教えておられます(参照:マタイ18章22節)。また赦しとともに、慰めることも必要です。悔い改めた者が悲しみと失意に陥らないためにです。

【12節~17節】

 パウロは何ごともキリストの福音のために行っておりました。キリストの福音に真っ直ぐに生きる者は、様々な困難を経験するとしても、最後には必ずやキリストの勝利にあずかる者となります。それは私たちによらず、力と誠実さをもった神によるからなのです。キリストの福音に対して、受け入れる者もいれば受け入れない者もいます。私たちはしばしば相手に拒否されることを恐れて、福音を水増ししてしまう誘惑があります。しかし、キリストの福音を受け入れた者にはいのちの香りが、受け入れない者には死臭が漂うという厳然たる結末が待っていることを覚えたいものです。また常に「神の前に」という意識をもってキリストの福音を真っ直ぐに語りたいものです。

【月曜】 コリント書第二3章1~18節

【1節~11節】

 パウロはコリント教会の礎を築いた使徒でしたから、推薦状がなければコリント教会に来たり指導したりできないという批判は論外です。ここでパウロは、コリント教会の存在自体が自分の推薦状であると主張しています。これは制度としての教会というよりも、キリスト者としての生きた証しがあることを指しているようです。すなわち、彼らの生活が神への服従へと変化したこと、御霊の実があることを言っているようです。
 「文字は(人を)殺し、御霊は(人を)生かす」(6節)の「文字」とは律法のことを指しますが、ここではパウロの反対者らに特有な律法主義を批判しているものと思われます。パウロの批判者らは形式や外的権威を重んじていたようです。しかしキリストの福音は御霊による実質的変化、内的変化をもたらします。ですからここを読むと、推薦状という形式や外的権威よりも、教会の内的変化に目を留めるようにと促されます。私たちは自らのあり方について、どこに目を留めているでしょうか。

【12節~18節】

 「主は御霊です」。これは「御霊は主です」と読んでもよいでしょう。なぜならパウロがこの章で御霊の働きがキリスト者の内的変化をもたらす上で支配的であることを述べているからです。「御霊の自由」ということを、自らの勝手気ままな生き方の口実にしてはいけません。この自由とは「主と同じかたちに姿を変えられる」自由を指しています。義への自由です。律法のわざによっては不自由さしか生じませんが、主なる聖霊によって私たちは聖められているところなのです。私たちは御霊の自由を何に使っているでしょうか(参照:ガラテヤ5章13節)。

【火曜】 コリント書第二4章1~18節

【1節~4節】

 パウロはキリストの栄光にかかわる福音に生きているからこそ、神の言葉を曲げずに真っ直ぐに生きてきました。もし福音を受け入れなかったり福音に対して真っ直ぐ生きていなかったりすれば、その理由は福音それ自体や福音の伝え方にあるのではなく、この世の神(サタン)によって思いをくらまされて福音を拒んでいる人の心にあるのです。それがわかるからこそ、キリストの福音を疑わずに語り続けることができたのです。私たちも伝道の方法論に悩みすぎないで、むしろ人々が福音に心を開くように神に祈りたいものです。

【5節~6節】

 パウロが手紙のなかで自分のことを述べているのは、自分の宣伝をしたいからではなく、ただキリスト・イエスを宣べ伝えたいからだけなのです。もし自分の魅力を前面に出して宣べているならば、キリストの魅力が隠れて相手に伝わりません。またそれは福音を宣べているはずの者たちが、実は福音の持つ力に頼らないで、自分たちの魅力に依存していることになり、大きな問題となります。逆に、たとえ自分に人を引きつける魅力に乏しくても、それがキリストを宣べ伝えることの妨げにはなりません。自分自身に対する魅力のなさからキリストを伝えることを躊躇するのも、自分の魅力を宣伝するのと同様に問題なのです。

【7節~15節】

 弱くて価値のない土の器のような人であっても、栄光に輝く宝のようなキリストの福音を内に入れているからこそ尊いのです。土の器のような存在であるから様々な困難を経験しますが、宝のようなキリストがともにおられるからこそ、困難は困難で終わることはありません。困難を経験したときにこそ、キリストに目を留めたいものです。

【16節~18節】

 私たちの人間性が危機にさらされたとしても、勇気を失ってはいけません。なぜなら、キリストによって私たちの内なる本性は日々キリストに似たものとして新しく変えられているからです。今の困難が、未来の栄光をもたらすと信じるなら、今の困難に耐えることができるでしょう。信仰とは人間の感覚や経験に頼ることではなく、神の約束に信頼を置くことにほかなりません。

【水曜】 コリント書第二5章1~21節

【1節~10節】

 パウロは天的な生に希望を持っていたので、地上的な関心事に固執することはありませんでした。もし私たちが天的な生き方に関心がなく、ただ地上的な生き方しか関心がないならば、信仰の歩みはそこで止まってしまいます。

【11節~17節】

 自分たちのために死なれたキリストの愛を知った者は、自分に死にキリストに生きる者となります。このキリストの愛がパウロの行動を動機づける力でありました。さらにキリストの愛を知ってから、人を人間的な標準で知ることをやめました。かつては重要だと見なしていた人間的な立場の誇りは、今のパウロにとっては無価値のものとなりました(参照:ピリピ3章8節)。「キリストにある新しい創造」(17節)という視点から人を見ているのです。私たちは依然として人間的な標準で自分や他人を見てはいないでしょうか。

【18節~21節】

 キリストにある新しい創造は、人間からではなく神から生じたことであり、それも神の人間に対する和解の結果として生じたことです。ですからキリストの福音に生きるとは神の和解に生きることです。もし福音を知っていると言いながら和解に生きていないとしたら、どこかに問題があります。

【木曜】 コリント書第二6章1~18節

【1節~10節】

 パウロに反対する偽教師たちは人間的な属性をもって自分たちの正当性を主張していたのでしょうが、パウロは苦難のなかにあらわれる神の恵みを主張しているのです。神のしもべとして生きるとは、恵みの神を中心に生きるということです。神中心に生きるなら、人生にどんな問題が降りかかろうとも揺れ動くことはありませんし、人間性に由来することは本質的なことでないとわかるはずです。このようなことから、パウロは自らの生き方をもって使徒としての正しさを証明しているのです。私たちもこのような生き方を全うしたいものです。

【11節~18節】

 パウロはコリント教会と完全な関係修復を望んでいました。そこで神の和解に生きる教会として、パウロに対して心を開くようにと呼びかけているのです。なお和解(ないしは赦し)は神に由来することですから、妥協的な生き方にはならないはずです。コリント教会の問題であったこの世との妥協的な態度を棄てて、神の聖さに生きることが同時に求められています。

【金曜】 コリント書第二7章1~16節

 コリント教会はパウロの厳しい叱責によって悔い改めましたが、パウロに対してはわだかまりが生じてしまったようです。パウロは7章で神の和解を宣べることによって関係修復を示唆しましたが、ここではっきりと、自分たちに対して心を開くようにと懇願しています(2節)。パウロが厳しい手紙を書き送ったことでコリント教会との間に結果的にわだかまりが生じましたが、しかしそれは悔い改めに導くためでした。そしてその通りコリント教会は悔い改めたのです。そこには大きな悲しみが伴いましたが、悔い改めたということにパウロが喜びを見いだしているのです。人を悲しませたくないという思いが妥協的な信仰に堕落することがあります。そうならないためにも、人間の感情的な反応にではなく、神のみこころに目を留めたいものです。この世では悲しみは敬遠されることですが、罪から悔い改めて神への熱心さへと変えられるためには悲しみが伴うこともあることを忘れてはなりません。

【土曜】 コリント書第二8章1~24節

【1節~15節】

 ここで献金の話が登場して唐突に感じるかもしれませんが、献金は和解のしるしとしてここにふさわしいものです。またかつて献金の勧め(参照:第一コリント16章1節)が教会のつまずきとなったであろうことから、再度献金を依頼することで教会の立ち直り具合を見ることができます。パウロはマケドニヤの諸教会の様子を知らせます。マケドニヤの諸教会はコリント教会よりも貧しかったにもかかわらず熱心に献げたことを述べることで、コリント教会を奮起させようとしたのでしょう。これは競争意識を煽ることではなく、むしろキリストの謙卑に思いを寄せるためでした。献金は信仰のわざであることを覚えたいものです。私たちはどのような動機で献金をささげているでしょうか、またはささげていないのでしょうか。

【16節~24節】

 テトスともうひとりの兄弟がコリント教会に派遣されます。これは献金について疑惑が生じないための保証人であると推測されます。献金はお金を扱うために周囲から不信感を抱かれやすいものです。いらぬ不信感を抱かせないためにも、献金は信仰的にも人格的にも信頼できる複数の人で取り扱うことが望ましいものです。