新約 第36週
コリント書第一13章1節
~コリント書第二1章24節

Northern Baptist Seminary
大久保 満

2007年8月31日 初版

【日曜】 コリント書第一13章1~13節

 チェコ共和国のある町に、ヤンという男の人がいました。彼には、病気で亡くなった奥さんとの間に生まれた5歳になるたった一人の息子マイケルがいました。
 ある日、マイケルは父ヤンに言いました。「お父さんの仕事場に行ってみたい」と。普段は、仕事中、近所に住むヤンの妹の家にマイケルを預けているのですが、その日は、妹家族が出かけなければならないと言うことで、ヤンはしぶしぶ息子の願いを聞きました。ヤンの仕事は、川に架かった鉄道橋を大きな船が通るたびに開けたり、閉じたりする、いわゆる開閉式鉄橋の連絡員でした。
 初めて父の仕事場に来たマイケルは、見る物すべてに興味津々。
 「マイケル、あまり遠くに行ったらダメだぞ。お父さんに見える範囲で遊ぶんだぞ」とヤンは言いつつ、実は、そんな大はしゃぎする息子を見るのは、妻(マイケルの母)が1年前に亡くなって以来、久しぶりのことでした。
 しばらくして、いよいよ汽車が橋に差しかかるというときに、ヤンはマイケルが見あたらないことに気づきました。迫り来る汽車を目の前にして、必死にマイケルの名を呼ぶヤン。そして、どこからともなくかすかな叫び声が聞こえてきました。それは、まさしくマイケルの声でした。
 「お父さん、助けて。大きな歯車に挟まれて、出れないよ」
 マイケルは、鉄橋の下にある歯車に服が挟まれて、今にも歯車に巻き込まれそうになっていました。
 父ヤンの心は、さまざまな思いでかき乱され、悩みました。今、鉄橋を止めたら、息子が助かる。しかし、汽車に乗った乗客は、そのまま鉄橋にぶつかり、汽車は川に転落して、多くの人が死んでしまう。ヤンは、去年亡くなった妻や、マイケルの成長の過程を混乱しつつも思い出していました。
 そして、ヤンは、開閉のレバーを涙一杯に握り閉め、鉄橋を最後まで下ろしました。
 息子の泣き叫ぶ声が聞こえなくなり、やがて目の前を、これからピクニックでも行くかのような家族連れや外を眺めている女性、編み物をしている老婦人、本を読んでいる紳士などが通り過ぎていきました。
 汽車が通り過ぎた後、ヤンは急いで橋の下に行きました。そこには、もうさっきまではしゃいでいたマイケルの姿はありませんでした。変わり果てた息子の体を抱き上げ、ヤンは、神様に祈りました。
 「なぜ?」
 何回も何回も神様に叫びました。叫ぶなかで、どこからともなく「驚くばかりの恵み(Amazing Grace)」が聞こえてきました。それは、信仰深かった妻がいつも歌っていた曲でした。そして、ヤンは初めて、イエス・キリストの十字架の死と復活の本当の意味を知ったのです。

 神様はあなたを罪の罰から救い出すために、ひとり子イエス・キリストをお与えになりました。イエス・キリストの十字架の死と復活は、神様の究極的な愛の表れです。そして、パウロは、第一コリント13章で、この愛を頂点とした「愛」を述べています。つまり、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15章13節)という犠牲的な愛のことです。
 ヤンのように、愛する息子を犠牲にしてまで、多くの人を救ったのと同じように、いかに素晴らしい御霊の賜物(ここでは預言と異言)を持っていたとしても、そこに愛がなければ、根本的な御霊の賜物の意味を失ってしまうことを、パウロはこの章で強く主張しているのです。
 神を愛し、人を愛することは、容易なことではありません。時に、ヤンのように何とも言い難い経験をすることさえあります。言うならば、もし、ヤンに人を愛する心がなかったなら、愛する息子を犠牲にして、涙一杯に開閉レバーを下ろすこともなかったでしょう。これは、神様が私たちを罪から救い出すためにひとり子イエスを涙ながらに与えてくださった「愛」を描写しています。このキリスト・イエスを通しての愛を聞き、信じ、伝えたときに、本当の愛の素晴らしさを見出すことができるのです。
 また、このキリストにある「愛」なしでは、いかなる御霊の賜物も何の値打ちもありません(2節)。愛は、どのような態度や行動に対しても、他人を受け入れ続けることができます。また、愛は、和解の福音(神と人の和解)を聞き、信じ、伝え、生きる者に力を与えます。愛は、ともに喜び、ともに泣くことができます。愛は、簡単にあきらめたり、放棄したりせず、いかなる環境にあっても、常に神の恵みを待ち望みます。愛こそ、すべての行動において、特に教会のなかに注がれた御霊の賜物を真に生かすことのできる原動力なのです。愛なしでは、すべての御霊の賜物が生かされないことを、パウロはこの章で強調しているのです。
 パウロは、この章の結論として、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です」(13節)と述べています。キリスト・イエスの十字架の死と復活は、実に、愛に根ざした信仰と希望を生み出す究極的なものなのです。そして、この愛こそ、信仰と希望の源で、そして神様と私たちの交わりの基盤であることを、パウロは、コリント教会だけではなく、イエス・キリストを信じるすべての者にすすめているのです。
 愛をもって、神のため、人のために御霊の賜物を用いるとき、そこに本当の喜び、人生の素晴らしさを見出すのです。

【月曜】 コリント書第一14章1~25節

 パウロは、御霊の賜物の多様性(12章)、愛の重要さ(13章)を述べてきました。そして、14章では、実際にコリント教会で問題があった預言と異言について具体的な指示を出しています。
 パウロは、まず、14章の冒頭で、「愛を追い求めなさい」と言います。それは、13章から続く形で、愛に基盤を置く預言や異言は、実に豊かな役割を果たすことを強調しているのです。特にパウロはコリント教会に対して、「預言することを望む」(5節)と言います。それは、おそらくコリント教会のなかで、特に異言を話すことを重んじていたからではないか、と言われています。異言を話す信者が、異言を話せない信者を軽視する現実が実際にあったようです。
 しかし、パウロは、決して異言を軽視していたわけではなく、むしろ、預言にしても、異言にしても、どちらも神からの素晴らしい賜物として同等に見ていました。しかし、パウロがここで重要なこととして強調しているのは、御霊の賜物を通して、教会全体、信徒一人一人の徳を高めることが大切である、ということです。
 異言は、人に対して話すのではなく、神に対して話すものだ、とパウロは説明しています。解き明かす人がいない場合は教会全体の徳にならない、むしろ、解き明かすことができるように祈りなさい(13節)、と指示しています。
 ですから、パウロは、ここで異言を話すことよりも、預言をすることを人々に薦めています。預言は教会の徳を高めるからです。そして、教会を高めるだけではなく、信者でない人や信仰に入って間もない人に対しても、いかに恵みに富んだ影響を与えるかも説明しています(24・25節)。
 御霊の賜物、ここでは、預言と異言はすべては教会の徳、お互いの徳を高めるためのものです。決して、人に見せつけたり、高慢になったりするためのものではありません。重要なことは、キリストの愛に根ざし、教会と人の徳を高めることなのです。

【火曜】 コリント書第一14章26節~15章11節

 ここで、パウロは、御霊の賜物、特に預言と異言は、教会の徳、それぞれの徳を高めるものであると強調してきました。そして、次にパウロは、コリント教会の公の礼拝について具体的な指示を与えています。
 公同礼拝は、何よりも時と場所を定めて、一所に集まったとき、それぞれの信者の賜物を通してすべてのことを徳が高められるようにしなさい、と言っています。また、パウロは、異言と解き明かしを堅く結びつけ、もし、解き明かす者がいないならば黙っていなさい、と言います。それは、解き明かしなしの異言は、決して教会の徳を高めるものではないからです。
 すべては、教会の徳、つまり、キリストにある調和、そこには、優劣もなく、お互いがお互いの賜物を尊重し、キリストの教会を愛をもって建て上げていくことが、何よりも教会にとって大切なことだとパウロは強調しているのです。すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができる(31節)。それは、御霊による自由な導きのもとで成立するのです。公同礼拝は、互いに教え、励まし、慰め合うことができる交わりの場であることを、パウロはここで強調しています。なぜなら、公同礼拝の基盤は、混乱の神ではなく、平和の神(33節)だからです。同じ神が、御霊を通して働いてくださっているので、そこには必ず「キリストにある一致」があります。

 パウロは、34節から女性が教えること、また、一部の人への警告について述べています。おそらく、コリント教会に集う女性のなかで、公同礼拝を乱してまで質問していた女性がいたのでしょう。また、教会のなかに、自分が預言者、御霊の人であることを誇っていた人がいたのでしょう。すべては、教会の徳を高めることであり、教会内での秩序が守られることが目的です。ですから、それを乱す信者に対して、パウロは、コリント教会に対して強く勧めているのです。ですからパウロは、14章の最後に、「すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」と結んでいるのです。あなたは、どうですか?

【水曜】 コリント書第一15章12~34節

 14章の結びとして、パウロは、「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」と公同礼拝についてコリント教会に勧めました。そして、15章では、その礼拝の基盤となる「福音」について語っています。
 パウロは、ここで、「最もたいせつなこと」として、イエス・キリストの死と復活を中心に述べています。これは、何も真新しいことではなく、パウロが、コリント教会で宣教していた福音です。それは、福音が、キリスト教会では最も基本的な、根源的なものであるからです。つまり、パウロとコリント教会を結んでいるのは、ただ「福音」のみなのです。
 パウロは、「救われる」と経過を表す現在形を用いて、福音の継続的な応答の重要性を強く語っています。それは、福音をしっかりと自分のものにし、また、「よく考えもしないで信じたのでないなら」(2節)という軽はずみな応答への注意を示しています。

 パウロは、ここで、キリストの死と復活の内容を具体的に述べています(3~4節)。キリストは、私たちの罪ために身代わりに十字架につけられ死なれました。それは、聖書が示すとおりに(3節)、実に、私たちの罪が赦されるためです。これは、単なる過去の出来事ではなく、今なおキリストは生きているということです。これが、根本的な真理であり、事実です。
 パウロは、キリストの復活の確かさを、実際に復活したイエス・キリストと出会った人々を挙げることによって確証します(5~8節)。また、パウロ自身も、復活の主キリストに出会った経験ゆえに、イエス・キリストが実際によみがえったことをさらに強調しています。
 では、なぜ、パウロは執拗にキリストの復活を強調しているのでしょうか。それは、コリント教会の信徒の中に、「死者の復活はない」(12節)と主張する人々が現れてきたからです。また、そういう人が現れたことによって、コリント教会の中で様々な「福音」に関する考えが出てきました。
 パウロは、ここで、「福音」はひとつであり、それは、キリストの十字架の死と復活であり、特に復活は、教会のすべての者が認めるべき明らかな事実であることを強調しています。また、キリストの復活とキリスト者の復活とが何よりも深く結びついていることを主張しています。なぜなら、一方を否定することは、他方も必然的に否定することになるからです。もし、死者の復活がなかったら、根本的前提に立って、偽りの宣教、偽りの承認、むなしいものを信じ続けていることになる、とさえパウロは強調しています。(16~19節)
 キリストは、「罪のために死なれた」だけでなく、「信じる者が義と認められるためによみがえられた」ということが事実でない限り、罪からの解放はありえない、と言うのが、パウロがこの箇所で言わんとしている一番の主張です。

 そして、パウロは、20節からキリストの復活の結果について述べています。20節で、キリストは、「眠った者の初穂として」とあります。この初穂とは、イスラエルの祭儀において、初穂を捧げることはその全体を捧げることを意味しました(レビ23章10~14節)。そして、それは、初穂として復活されたイエス・キリストの復活は、キリスト者全体の復活を代表するものであるという意味でもあります。最初の人アダムの罪によって、すべての人が死んでいるように、イエス・キリストにあって、すべての人が生かされているのです(22節)。キリストの復活こそが、キリスト者の希望であり、死んでも生きるという意味なのです。

【木曜】 コリント書第一15章35~58節

 パウロは、「死者の復活」を否定する人々に、論理的に説明してきました。そして、29節からは、キリストの復活を雄大なスケールで展開し、希望と忍耐の基盤を述べています。
 パウロは、コリント教会の人々の現実生活と彼自身の体験と生活での実践を通して、「死者の復活」の否定がいかに根拠がなく、しかも恐ろしい影響を及ぼすものであるかを示しています。
 そして、35節からは、反対者からの体の復活の仕方に関する具体的な例を挙げ、自然(35~44節)と聖書(45~50節)から体の復活に関して論証します。
 最後に、復活前の体と復活後の体の相違について論じて、パウロは論じてきただけでなく、「血肉のからだは神の国を相続できない」(50節)ので、どうしても地上の体の変えられる必要性を明らかにしています。
 パウロは、キリストの福音をはっきり理解し、福音に根ざして信仰の戦いを戦い、キリストの再臨において完成する神の救いの計画を、50~58節ではっきりと教えています。それは、コリント教会に、雄大なスケールを通して、希望と勝利を与えている。そして、それにあずかる者として、真の忍耐を求めています。

【金曜】 コリント書第一16章1~24節

 パウロは、キリスト者と教会の礼拝の基盤であるキリストの復活の事実を雄大に、コリント教会の実際の生活問題と照らし合わせながら展開してきました。そして、この16章、コリント人への手紙第一を結ぶにあたって、15章58節からつながるかたちで、コリント教会からの質問であったエルサレム教会の「聖徒たちのための献金」について答えています。献金の問題から、パウロは、宣教計画やテモテ、アポロといった主の働き人の説明、そして、最後のあいさつを手紙らしく結んでいます。それは、主イエスにある交わりがいかにパウロのなかで実践されているか、という証明でもあります。

【土曜】 コリント書第二1章1~24節

 今日から、第二コリント人への手紙に入りますが、これはいうまでもなく、パウロが2度目(実際は3度目という説もある)にコリント教会に書いた手紙です。
 パウロは、第一の手紙を出し、さらにテモテをコリント教会に派遣しました。しかし、第一コリントの手紙で言われていた問題は、ユダヤ教主義者たちがコリントにもやってきて、教会を掻き乱していたのに対し、若いテモテがなかなかうまく解決できなかったところにあったようです。実際、テモテは失望して去ったらしいとまで言われています。いずれにせよ、パウロに反対する勢力はますます強くなり、パウロもそのことを知って非常に悲しみ苦しんでいました。
 パウロの目的は、そのようなユダヤ教主義者たちの悪意に満ちたデマや自分への誤解と中傷を解きほぐし、コリント教会を主にある平和に満ちた秩序ある教会にすることでした。パウロ自身も「二度目の滞在のときに」(13章2節)と言っているように、実際にコリント教会を第一コリント人への手紙を書いた後に訪問していたようであります。しかし、かなり反対者が強固だったのか、パウロ自身も心に重荷と苦しみを与えられながら、しぶしぶコリント教会を去らなければならなかったようです。そして、第一と第二の手紙の間に「涙の手紙」と呼ばれる手紙をコリント教会に送りました(7章8節)。そして、パウロは、テモテよりも少し年上だったテトスをコリント教会に派遣しました。
 テトスが、コリント教会から戻ってくるまでパウロは気が気ではなかったようです(2章13節)。そして、テトスが帰ってきて、良い知らせを受け取ることができました。それは、コリント教会の大半の人が、自分たちの非を認め、パウロの真意を理解していることでした。大方の問題は解決されたようでした。しかし、エルサレム教会への献金はそのまま放置されていました。また、少数とはいえ、まだパウロに反対する人がいるということで、パウロは3度目の訪問を計画しました。この手紙は、その訪問計画前に、少しでもコリント教会の人々の理解を助ける意味で書かれた手紙です。それが、第二コリント人への手紙です。

 1章では、まず差出人を明記し、祝祷・頌栄を述べ、それからパウロの身近での事情を綴っています。そして、12~14節までは、パウロの誠実さ、自分の言動がいかに良心から出ているものかを説明しています。計画の変更についても15節以下で弁明しています。