新約 第35週
コリント書第一7章25節~12章31節

Centre for Study of Religion and Politics, University of St Andrews
村山 由美

2007年8月24日 初版

【日曜】 コリント書第一7章25~40節
「独身者の尊厳」

 まだクリスチャンになりたての、10代後半のころから、コリント書簡のパウロの言葉には、はっとさせられるものがありました。しかしコリント書はまた、全体として読むと、難解な書だという印象がありました。第1・第2コリントは、パウロとコリントのキリスト者たちとの往復書簡の一部ですが、往復書簡の他のものは失われています。そこに、読解の難しさがあります。しかし、それでも、パウロの言葉が現代の私たちに響く理由は、不品行や偶像礼拝、貧富の差や、分派主義、牧師批判などなど、コリント人たちの問題が今日の私たちの周りで起きている問題と非常に近いというところにあるのではないでしょうか。

 コリント人への手紙を通読してきた方なら、25~27節を見て、あれっと思われるかもしれません。7章2節では、「不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい」とあるのに、27節、28節では、「妻を得たいと思ってはいけません。しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただそれらの人々は、その見に苦難を招くでしょう」とはいったいどういうことなのでしょうか!しかも、新改訳の第二版では、「処女のことについて」(25節)とあるのに、26節以降では、男性に対して言われているようです。しかも、「私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できるものとして意見を述べます」と断り書きをしているパウロですが、この「意見」はコリント人たちのみにあてはまることなのか、それとも今日のクリスチャンである私たちにとっても生活の規範なのか???いろいろな疑問がわいてくる箇所です。

 まず、7章2節との関係ですが、2節以下の言葉は既に結婚している人たちへのアドバイスであり、25節からはまだ結婚していない人たちへ向けられていると考えることで解決がつきます。事実、2節は文法的見地からも、「持ち続けなさい」と訳すことが可能です。つまり、25節以下では、結婚の約束をしているカップルについて言われていることのようで、27節で、「妻に結ばれている」とは、婚約していいなずけの関係になっているということであって、すでに夫婦として生活している婚姻関係をさしているのではないことは、パウロが「処女」について語っているという文脈から明らかです(「妻」というギリシャ語は「女性」と訳すことも出来ます)。そして、パウロがここで勧めていることは、「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい」(20節)という前述の言葉と一致するところです。

 では、そのアドバイスの内容はというと、「結婚しても罪にはならないが、結婚しないほうがよい」というのです。26節で「男」と訳されている語は、性別を強調しない一般的な名詞ですから、「人」と訳されるべきでしょう。しかしいずれにせよ、「処女」である女性の側についてのことであるのに、アドバイスは男性に語られています。紀元1世紀の、男性中心の社会の一面がうかがわれるところです。
 では、なぜ結婚しないほうがよいのか?パウロによれば、結婚を含めた世のあり方、人々が毎日の生活を送るのに一喜一憂すること、買うこと、所有すること、富を用いること(30~31節)、それらのことは永遠に続くものではない。パウロにとっては、夫婦のあいだも「永遠の輝き」ではなく、あくまで「死が二人を別つまで」。信者たちがキリストにあって神と永遠に交わる日までの一時的な形態に過ぎないと考えていたようです。キリストの死と復活によって新しい時代がおとずれた今、独身のままで主に奉仕したほうが、「心が分かれる」(34節)ことなく使えることができるとも言っています。「現在の危急のとき」とは、必要に迫られているとき、つまり、キリストにある福音のおとずれを宣べ伝えるべきときのことです(参照:9章16節。「危急のとき」と訳されている同じ名詞が、「どうしてもしなければならないこと」と訳されています)。終末が近いというパウロの危機感が感じられます。36~38節で「自分の娘である処女」と訳されているのは、むしろ「自分のいいなずけである処女」と訳すほうが妥当だと考える学者が今日では多いようです。

 それでは、結婚はしないほうがいいのでしょうか?パウロは「然り」と言うでしょう。しかしそれも、「あなたがたを束縛しようとしているのではない」といいます。そして、夫に先立たれた未亡人も、未婚のままでいられたらそのほうがよいが、「結婚する自由がある」というのです(39・40節)。どう決断するにせよ、「主にあって」、つまり、神に奉仕する上で各人の益となるように、というパウロの勧めです。

 これはあくまで主にあって考慮した自分の「意見」であると謙遜に告白するパウロですが、今日私たちはこの箇所から何を学ぶべきでしょうか。この箇所の難しさは、パウロの言っていることを限定することよりも、その言われていることを今日どのように適応すべきかにあるように思われます。パウロが告白しているように、同じような教えを福音書のキリストの言葉に見つけることはできません。しかも、紀元1世紀のギリシャにおける習慣と、今日の日本における習慣が、かなり違うことも、この箇所が「難しい」理由の一つです。
 しかし、これを言うパウロにとっても、私たちにとってもはっきりしていることがあります。それは、キリストにある者は永遠に続く、来るべき完全な神の国の価値観に立って生きるべき、否、生きることができるということです。その永遠の神の愛、聖、義、善、真理に、キリストにあってあずかる者として、神と隣人を愛する生活に私たちは常に導かれ、うながされているのです。

 さて、最後になりますが、結婚は神様が創造の初めから定められたことであります。しかし、結婚しなければならない、あるいは、結婚してやっと一人前のクリスチャンだとは、パウロは決して言っていないのです。確かに、「監督について」という有名な箇所で、「ひとりの妻の夫であり」(第一テモテ3章2節)とありますが、それは「複数の妻を持っていない」ということであって、必ずしも監督になるべき人は結婚していなければならないという意味でないことは明らかです(使徒パウロは独身だったのですから!)。日本の教会における独身者について、じつは、パウロ先生のお言葉にわたくしたち教わるところが多い・・・のかもしれません。

【月曜】 コリント書第一8章1~13節
「偶像にささげた肉」

 結婚の話から「偶像にささげた肉について」と、かなり話題が変わったように思われますが、その理由は、男女の関係のことと、この偶像にささげた肉のことが、コリントのクリスチャンからパウロにあてた手紙に質問してあったので(参照:7章1節)、パウロはその質問に一つ一つ答えているからです。

 第一コリント8章~10章は、ひとつの段落をなしています。つまり、ここでのパウロの言説を理解する上で、この3章をひとかたまりとして読むことが非常に大切になってきます。この3章の中で、一見関係のない箇所でも、実は全体の中の一部としてひとつの文脈をなしており、全体の理解に不可欠だからです。

 「偶像にささげた肉」についての言及はパウロ書簡のほかにもいくつかあります(使徒15章28~29節、黙示録2章14・20節)。このことから、初代教会において、この問題がいかに日常的なものであったかうかがうことができます。

 パウロはコリントのクリスチャンたちの質問に答えるにあたって、彼らの言い分に言及しています。すなわち、コリント人たちは、「私たちは父なる唯一の神がおられるだけで、世の偶像の神は存在しないという知識をもっている」という主張をしました(1・4・8節)。そのことについて、パウロは同意します。しかし付け加えて、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」と言います。

 10節にあるとおり、コリントのあるクリスチャンたちは、偶像の宮で、例祭のときに出される肉を食べていました。偶像の宮で肉を食べることは、彼らにとって社会的な意味もあったかもしれません。そして、それは自分たちに「知識」があるからだ、言いました。しかし、キリストにある本当の「知識」とは、兄弟姉妹の徳を立てる「愛」と離れてはありえないものです。彼らの言動が、教会のほかの信者に与える影響を考えよ、とパウロは言います。影響を受けて、また偶像の世界に戻ってしまうだけでなく、キリストからも離れてしまう信者がでることをパウロは案じているのです。それほど、偶像礼拝とそこでの社交はコリントに住む人たちに深く影響を及ぼす問題だったのでした。

【火曜】 コリント書第一9章1~27節
「権利と自由を愛のゆえに制限する実例」

 前章においてパウロは、兄弟姉妹への愛のゆえに自由を制限することについて述べました。それは、パウロも実行していることです。パウロは使徒として、教会から金銭的なサポートを受ける「権威」がありながらも、コリントの教会に対しては、それを辞退して自分の手で働きました(12~18節)。当時、哲学者や知者と呼ばれた人たちは、自らの知識を教授する代わりに、金銭的な報酬をもらうことが常でした。ですから、パウロがサポートを断って自分の手で働いていることは、コリントのクリスチャンたちにとって、理解しがたいことでした。そこで、パウロが本当に、キリストの使徒であるのか、疑う者すら出てきたようです(第二コリント11章7~9節・12章13節)。確かに、パウロは主の働き人として、コリントの信徒たちからサポートを受ける権利があります。しかし、彼はコリントの教会の貧しい者たちのことを思って、また、パウロの宣べ伝えている福音がいわゆる哲学や知識以上のものであるので、その権利を辞退したのです。パウロは、宣教する者はただ働きをするべきだと言っているのではありません。現に、前述の第二コリントの箇所によれば、彼はマケドニアの信徒たちから経済的なサポートを受けていたことが明らかです。しかし、パウロはコリント人からのサポートを受け入れなかった、そしてそのことは、「福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いない」(18節)ことによって、コリントの信徒たちにすべてのことにおいて模範となるためでした。パウロの実践は、「自らの自由と権利を、他者への愛のゆえに制限すること」の手本だったのです。9章のおわりでは他者のための自制を競技者の態度にたとえています。それは、知識があり、豊かな人々ではなく、貧しく弱いものたちの側に立つパウロの態度です。

【水曜】 コリント書第一10章1~22節
「兄弟姉妹のことをおもって」

 宮で偶像にささげられた肉を食べていた人たちにとっては、その行為は単なる社交的なものに過ぎなかったかもしれません。しかしその霊的鈍感さが、自らと他の信者たちを、神を試す者、むさぼる者、姦淫する者、つぶやく者におとしめかねない、とパウロは注意をしています。水を通って、御霊の食べ物を食べ、御霊の食べ物を飲んで、なおかつ荒野で滅ぼされたイスラエルの人々の予型は、水によってバプテスマを授かり、キリストの体と血をいただいている私たちもドキッとさせられます。パウロは、「神は真実な方ですから、あなたがたを絶えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」(13節)と励ましながらも、厳しい警告を与えてくれます。「知識」や「新生の経験」、「聖礼典」ですら、それだけで自動的にキリスト者を偶像礼拝から守ってくれるものではありません。逆に、それらの特権を理由に高慢になった時、その高慢さが私たちを「悪霊と交わるもの」に変えてしまう力があることを忘れてはなりません。

 10章23節~11章1節は、8章の初めから続く一連のパウロの議論の結論部分です。要するに、パウロは何が言いたいのか。結論としてまとめると、まず、私たちは与えられた自由を他の人、特に主にある兄弟姉妹を思いやる気持ちを持って用いるべきこと。そしてそれこそが、「神の栄光のため」であるということです。また、そのなかで、肉を食べるか食べないか決めるべきで、もし食べるなら神に感謝をささげて食べよ、ということになります。

 3章にわたって議論されてきた「偶像にささげた肉」の問題点が、「肉そのもの」よりもむしろ、自分たちの知識を誇って、教会のなかで知識においても信仰生活においても弱い立場にある人たちをばかにしていた、コリントのある信者たちの態度にあったことが明らかになりました。

 日本人はとかく、相手を思いやることを重視するといわれますが、それでも、自分の権利や自由を主にある兄弟姉妹のためにあきらめるというのは、場合によっては非常な自制を伴います。教会のなかで自分の主張をする権利、もしくは相手を黙らせる権利、格差社会の世の中に迎合する自由、弱者を知らないふりをして踏みにじる自由、君が代を歌う自由・・・などなど。パウロは決して、自由や権利を捨て去れ、と言っているのではありません。しかし、キリストにつながっている者たちにとっての自由と権利の用い方は、キリストを知らないときと変化しているべきではないか。そこでは、「キリストにならう」(11章1節)ということが、考える者によいヒントを与えてくれるはずです。

【木曜】 コリント書第一10章23節~11章16節
「・・・らしく?」

 今日の箇所から、パウロの議論はコリントの信徒たちの礼拝中に起こる問題に移っていきます。これまでの部分が、パウロがコリントからの手紙に書いてあった質問に答えていたのに対し、11章から、パウロが報告を受けたことに対して忠言を与えているというかたちになります。

 第一の問題は、礼拝中の「服装」についてのようです。コリントの教会では、礼拝中に男性も女性も預言、すなわち神から賜った言葉を発言していたようですが(4・5節)、そのときに女性はかぶりものをし、男性はかぶりものをしないという習慣があったようです。それがどういうわけか、男性も女性も、その服装についての習慣を軽んじるようになっていると言う報告をパウロは受けました。男性はかぶりものをせず、女性はかぶりものをするというのは、一概にユダヤの習慣であると言うこともできなければ、異邦人の間で受け入れられていた習慣であると言うことも、歴史的資料から見て難しい点が多くあります。しかし、礼拝という秩序の中では、少なくともパウロによれば、かぶりものは、創造の秩序を象徴するものでした。すなわち、人が男性と女性に造られたこと、そして、その二者の関係は神とキリストの関係に連なる親しいものであると言うことです。10節で「権威のしるし」と訳されている語は、実はただ、「権威」というギリシャ語です。その秩序が守られている以上、そして、預言が「徳を高め、勧めをなし、慰めを与える」(14章3節)ものである限りにおいて、女性も男性も、預言をすることが認められているのです。

 3節で述べられている、「男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」というのは、一見すると、女性は男性より劣っている、というメッセージに取られがちですが、ここで、キリストのかしらが神であると言われていることに注意する必要があります。女性と男性の関係は、キリストと神の親しい関係に連なる創造の秩序として、説明されています。

 今日、男性が長い髪をしていても、女性がショートカットでも、それを不審に思う人はほとんどいないでしょう。いったい、パウロの時代のコリントにおいて、何が習慣的に受け入れられることで、何がタブーであったか、断定することは難しいのですが、はっきりとしているのは創造の秩序が礼拝という文脈のなかで表現されていたということです。それは、一般のギリシャ・ローマ社会における妻は夫の所有物であるという状態からはかけ離れた、「女は男を離れてあるものではなく、男は女を離れてあるものでは」ない、というお互いが存在しないと成り立たないという関係です。

 今日男女平等を唱える人たちが陥りがちな罠は、「女性の男性化」です。女性が、従来の男性と同じ事を、同じようにすることが男女の平等であると勘違いしている人が多いのです。女性の社会進出や、女性が政治や歴史をつくっていくことが推奨されるとき、もし女性が今までの男性と同じように政治や歴史に参与していくことしか求められていないとしたら、弱い者を黙らせ、支配する体制が変わることは期待できるでしょうか。今日の教会は女性の活躍を除いては成り立ちません。神の創造の御手の中に生きている、そのことを知っている教会が、男性にとって、女性にとって、どのような場所であるか、創造の秩序と神とキリストの関係に照らし合わせて、吟味すべき時ではないでしょうか。

【金曜】 コリント書第一11章17節~12章11節
「がつがつ食べてはいけません?」

 コリント教会の礼拝における問題点の2つ目は、主の聖餐についてです。初代教会においては、いわゆる「聖餐式」というのはいわゆるプラスチックカップと四角いパン切れをいただくのとはちがって、食事の形式をとっていたようです。しかし、どちらにせよその意義はキリストにある一致と、その基盤となっているキリストのあがないの尊さです。コリントの教会では、そのことを無視して、他の信徒たちを押しのけ、食事にありついている人々がいたので、そのことをパウロは正そうとしています。そして、キリストのあがないの犠牲が偉大であるがゆえに、それをわきまえないで主のからだと血に与るものは、「神のさばき」を招くといわれています。

 ここで言われている「ふさわしくないままで」とは、コリントの状況の中で考えるならば、分裂分派があり(18・19節)、「めいめい我先に」という利己主義な態度のことをさしていると考えられます。このような利己主義、分派主義は、この手紙のなかでたびたびパウロが指摘している、コリント人たちの霊的な欠点です。そのような罪のゆえに、礼拝の秩序も乱れ、混乱をもたらしていた様子がわかります。

 では、秩序があって、混乱さえ避けられていたらよいのでしょうか?決してそうではないでしょう。最大の問題は、信者の利己主義と分派です。キリストのあがないを感謝すればこそ、「我先に」という思いや、兄弟姉妹を退ける思いを取り除くことができるように祈っていかなければならないと思わされます。

【土曜】 コリント書第一12章12~31節
「自慢、目立ちたがり、高慢ちき」

 コリント人たちのこんな態度に読者である私はいらいらせずにはいられないのですが、それは実は、彼らの姿があまりにも自分の鏡であることが多くあるからです。礼拝中の問題の第3は、霊の賜物が無秩序に表現されていたことでした。そしてその無秩序は、やはり、お互いを尊重せず、虐げられた人がいたという現実の現れでありました。

 キリストに連なる人には神様から「みなの益となる」(7節)ように、さまざまな能力が与えられています。ですから、それらはお互いが一致して励ましあうためであって、能力自慢大会のために与えられたのではありません。

 お互いの違った長所を、受け入れて神をあがめる心を忘れたときに、礼拝ですらも、能力自慢大会になってしまうという、これは恐ろしいことです。

 一見、賜物に恵まれていると思われる人は、それが自分のためではなく、弱い立場にある人、助けを必要としている人のために与えられています。そして、預言や異言以上にすばらしい賜物が、すべてキリストに連なるものに与えられているのですが、それはいったい何でしょう?!・・・明日のお楽しみです。

参考文献

  • Hays, Richard, First Corinthians. John Knox Press, 1997
  • Garland, David E., 1 Corinthians. Baker Academic, 2003