新約 第34週
コリント書第一1章1節~7章24節

日本同盟基督教団 いのちの樹教会 牧師
小見 靖彦

2007年8月18日 初版

はじめに・・・

 コリントはローマでも指折りの大都市でした。多くの交易船が往来する港を2つも抱えた要所であり、丘にそびえ立つアフロディティ神殿にはたくさんの神殿娼婦たちが集められていたと言います。裕福で欲望に満ちた町。まるで現代の日本を彷彿させる大都市コリントでした。
 アテネでの宣教の後、挫折と不安のなかでやって来たパウロにとっては余りにも大きな町コリント。しかし挫けそうになる心を支えたのは他でもない御霊ご自身の言葉でした。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」(使徒18章9~10節)。
 彼は神の約束を頼りに宣教に励み、その結果、生み出されたのがこのコリント教会なのでした。パウロにとっては子どもの様に愛しいその教会が、今、様々な問題を抱え込み、健全な教えから離れようとしているのです。パウロは危機感を持って手紙をしたためます。それがこのコリント人への手紙第一というわけです。

【日曜】 コリント書第一1章1~31節

 コリントの教会の抱える問題は多岐に渡りますが、パウロがまず取り上げたのは教会内での分裂問題でした。コリント教会はそれぞれの教師の名を担ぎ上げて、派閥争いをしていました。愛し合い支え合うはずの教会が、自らの権利を主張することに躍起になって、けなし憎しみ合っていたのです。彼らの争点は、誰からバプテスマを受けたかということや、どちらが優れた智恵を有しているかといったことなどであったようです。言い換えると、自らの正しさを主張するための争いでした。自らの居場所を守ろうとするための争いと言ってもいいかもしれません。
 このような場面は、私たちの日常で様々に見かけるものです。私たちは自分を守るために、自分の正しさを主張します。ときには言い争いになっても、私たちは自らの潔白を主張します。そして、私の味方は誰か、敵は誰かと選り分けるのです。争いは、自らの正しさを誇るがゆえに起こるのです。

 これに対してパウロは「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです」(27節)と言います。パウロはここで、キリスト者とはどのような者であったかということを、改めて確認しているのです。私たちは神の前に、愚かな者でしかありません。とるに足りない者でしかありません。ただ憐れみにより御救いに与らせていただいた者にすぎません。私たちはこのことを、もう一度、覚えたいと思います。これこそが、争いのなかにあったコリント教会の、キリストにあって一つとなる秘訣だからです。そして私たちが一つとなる秘訣でもあります。
 私たちはただ神の憐れみによって、キリストの知恵と義と聖めと贖いのゆえに、救われた罪人である。この事実こそが、私たちの違いを埋めるただ一つの秘訣なのです。

【月曜】 コリント書第一2章1~16節

 「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(1~2節)。
 パウロはユダヤで最高の教育を受けた一人でした。当代随一のガマリエル門下の一人でした。その彼が十字架のキリスト以外は何も知らないことにするというのです。
 十字架のキリストは当時、何を意味していたのでしょうか。それは処刑された一人の犯罪人を指してその方が救い主であるということです。それは人々が期待するようなメッセージではありません。それは非常に単純で愚かな福音の提示です。智恵を尽くし、巧みな言葉を駆使するそれとは全く懸け離れたものです。しかしパウロはこの十字架のキリストのみを知る決心をします。他のものには目もくれません。
 なぜでしょう。それは、これこそが私たちの救いであるからに他なりません。そうです。他に救いはないのです。救いはただ十字架のキリストの尊い血潮によってのみ提示されるのです。それならば、私たちがこれ以上に求めるべき智恵があるでしょうか。
 しかしこのことは、多くの人にとって隠された奥義です。これを理解するには、私たちの努力ではなく、御霊の助けをいただくことが大切です。御霊は、隠された奥義としての智恵を私たちに啓示してくださるのです。

【火曜】 コリント書第一3章1~23節

 パウロは、「神の畑」、「神の建物」、「神の神殿」という3つの喩えを用いて、教会とは何かについて語ります。

【1】 神の畑

 「神の畑で作物を育てるのは誰か」という問いかけから、パウロは「教会の頭は誰なのか」という問題を語ります。自分でも、アポロでも、他の誰でもない、神ご自身こそが教会の頭であるというのです。指導者たちは神の尊いご計画の一部を担っているにすぎないのだから、やれパウロだ、やれアポロだと騒ぎ立てることは間違いである。大切なのは育ててくださる神を見上げることだと言っているのです。
 見えない神を、教会の頭として絶えず見続けること。それはしもべである自らの分を知るということでもあるでしょう。だからこそ、私たちは、この神のしもべにすぎない者が、神の協力者として用いられるということに、驚きと喜びを見出すのです。そのような一人一人の召しと献身をもって教会は成り立っている。私たちはそのように召されているのです。

【2】 神の建物

 畑の喩えに続いて、パウロは建物の喩えをもって、キリスト者としての生き方について語ります。私たちの待ち望むキリストの再臨の日。主はすべてのものを焼き尽くす火をもって、私たちの働きを試されます。もし私たちの建てる建物がその火の中でも焼け落ちないなら、私たちは報いを受けます。しかしもし焼け落ちれば、私たちは損害を受けるのです。私たちは何をもって建物を建てるでしょうか。主の試みに耐えうる自身の生き方であることが大切です。
 では、火の中でも焼け落ちない建物とは何でしょう。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(13章13節)とパウロは言います。私たちが愛によって築き上げるもの。これこそが火の中でも焼け落ちない、残されるものです。愛に生きるということは時に損を掴むことです。相手に分け与えること。相手を許すこと。受け入れること。それらはときに面倒です。何の見返りもなく仕えることはとても難しいのです。けれど、私たちはそのように生きることを願い求めましょう。なぜなら、私たちが隣人のために負う一切の労苦は、その時が来ると完全に報われるからです。忠実なしもべをキリストはねぎらわれる。そして新しい神の国において、より多くの物を任せてくださる。これが神の約束されている報酬だからです。

【3】 神の神殿

 パウロはまた神殿という喩えを用いて教会の役割について語ります。ここでパウロが神殿と語るところは、神殿のなかでも特に至聖所のことを指して言っています。それは神の臨在されるところ。そのお姿を直接に見ると死んでしまうというほどに聖なるお方がおられるところ。これが至聖所です。パウロはこのような至聖所を指差して、教会とはまさにこのような場所だというのです。
 大切なのは、至聖所が、人と神が会見するために聖別された特別の場所ということです。聖なる神が人と会うためにおいでになる特別な場所。なぜ、このような場所が必要なのか。それはもちろん、神が聖であり、私たちは汚れた者だからです。安易に聖なる神に触れることは、私たちの滅びを意味します。ですから、神は特別にお会いになる所と時を定められたのです。そして、教会とはまさに、この役割を担っている。つまり、この教会をもって、神は私たちとお会いなさるのです。私たちは礼拝を通じて聖なる神と対面するのです。

【4】 キリストのもの

 「そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」(23節)。私たちはあらゆるものを所有しています。人も、世界も、命も、時も。しかし、それは、私たちがキリストのものであればこそ、であるということを忘れてはなりません。パウロを送り、アポロやケパを送り、世界を統治され、いのちを支配し、死に勝利し、現在も未来も統べ治めたもうお方とは、キリストです。
 私たちが受けたすべては、本来はキリストのものなのです。私たちが何ゆえに、この恵みに与っているのか。それは私たちがキリストのものであればこそです。私たちはキリストの贖いを通して罪赦され、義と認められ、神の子としての特権に与ったのです。私たちはすべてを持っていても、主人ではありません。私たちは被造物にすぎない罪深い者。しかし、キリストにあって私たちは、キリストの持つ一切の恵みを所有する者とされるのです。

【水曜】 コリント書第一4章1~21節

 「キリストのしもべ」「神の奥義の管理者」と呼ぶことによって、パウロは、自らは主人ではないということを強調します。教会においては指導者であるパウロやアポロ。しかし彼らはキリストのしもべにすぎません。
 管理者とはあくまでも主人に管理する働きを任された者のことで、つまり雇われ管理者です。真の管理者はキリストですから、雇われ管理者に必要なのは、主人と任された働きに対する忠実さというわけです。いかなる者が何と言おうとも、何を要求しようと、何を渡そうと、何と批判しようとも、委ねられたものを完全に保持すること、正しく管理すること。これが神の奥義の管理者というもの。この立場をはっきりとさせているからこそ、パウロはコリントの人々の評判や、評価は自分にとって小さなことだと言い切れるのです。
 キリストのしもべは何に対して忠実であるのかと、いつも私たちは問われています。私たちは何に対して忠実でしょうか。誰の関心を買おうとしているでしょうか。人の批判を恐れて、人の裁きを恐れて、御言葉を妥協することはできません。私たちは神の前にこそ、その行為を照らし出さなければいけないのです。「私をさばく方は主です」(4節)

 養育係は機嫌を取ることはしても、子のために叱ることはしません。雇われている身分だからです。霊的退廃を招いている信徒たちを心から気遣ったり、正しい道に連れ戻そうとしたりしない者は、すべて養育係にすぎません。子に必要なのは、多くの養育係ではなく、たった一人の父親です。パウロは父親として、子であるコリントの信徒に言います。「どうか私にならう者になってください」(16節)。
 親が子どもに向かって「お父さんのようになりなさい」とか「お母さんのようになりなさい」とは、なかなか言えないことです。もちろん親だけではありません。誰かに向かって「私のようになってください」とは、なかなか言えない言葉ではないでしょうか。それは間違っている相手だけではなくて、実は忠告する己の生き方こそが問われるからです。私たちは自分自身が人にならわれるような者でないという事実を知っています。ですから、自分を見習えなんて言う人は、よっぽど己を知らないのか、よっぽど傲慢なのかとさえ思います。
 けれどパウロは言います。「どうか私にならう者になってください」。パウロのこの言葉は高慢ではありません。実体験に基づく恵みの知らせです。すべてのキリスト者はこのパウロの一言に倣うべきです。「私を見てください。私はこんなにも弱い者です。私は自分自身を見るときに本当に嫌になります。けれど、神はこんな私をそれでも良いと言ってくださったのです。こんな私を赦してくださったのです。だから私はもう、自らの弱さに惨めになることも、嘆くこともありません。私はこの弱さのゆえに神の愛に出会ったのです。だからどうぞ私を見てください。私に働かれたキリストを見てください」

【木曜】 コリント書第一5章1~13節

 5章から、パウロはコリント教会の具体的な諸問題を取り上げます。5章は不品行の問題です。コリント教会では異邦人のなかにも見られないほどの不品行が横行していたのです。「それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています」(2節)。パウロは、コリントの信徒たちが、キリストにある自由と解放というものを完全に履き違えていたことを指摘しています。つまり彼らはキリストの赦しのゆえにどんな行為をしても構わないのだと考えていたのです。そしてそのように自由な身分を得た自分たちを誇っていた。彼らは自らの不品行をも赦されたこととして捉えていたのです。パウロはこれを怒っているわけです。なぜなら、これは教会が神の聖さというものをあまりにも軽んじているからです。キリストの十字架の贖いを自分勝手な言い訳の道具に利用しているからです。

 不品行に対するパウロの対応は大変厳しいものです。「主イエスの御名によってすでにさばきました」(3節)、「主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡した」(4~5節)。神の愛を語るパウロには相応しくない言葉です。けれど、これは教会が教会であるために必要な厳格さです。なぜなら、パウロのこの厳しさによって初めて、その罪を犯した人に悔い改めの余地が生まれるからです。
 私たちは自らの罪に気付くことがなければ、悔い改めることはできません。なんでも曖昧にしてどうでもいいという世界では、罪の悔い改めは起こらないのです。コリント教会は福音を自分勝手に理解して罪という問題を見ようとはしませんでした。正しいことを正しい、間違ったことを間違っていると指導することができませんでした。
 パウロは「彼の霊が主の日に救われるためです」(5節)と言いますが、これが大事です。教会が、罪を犯した者に悔い改める機会を与えずに、かえって悪を奨励するようなことがあってはいけないのです。私たちがどれだけ見ない振りをしても、神はそれを見逃されません。私たちがそれを見なければ、神がその者を裁かれるのです。ですから、教会が互いを教えあいなさいというのはこのためです。

 私たちが恵みの民だからこそ、救いに与り、流された血潮の尊さを知るクリスチャンだからこそ、私たちは罪を曖昧にしてはいけません。罪を罪と認め、絶えず悔い改め、そして互いを教えあう。それは言い換えるなら、悔い改める者をいつでも受け入れる用意があるということでもあります。そうです。私たちは戒めるとき、それは悔い改めるその人を赦すという前提の下で戒めるのです。「彼の霊が主の日に救われるため」に、私たちは互いに教えあいながら、互いに支えあいながら、純粋な心と真実な行いによって、神に従う者でありたいと思います。

【金曜】 コリント書第一6章1~20節

【1】 教会の裁きとは

 6章の前半でパウロは、コリントの信徒たちが互いを裁判に訴えるという問題について記します。しかし訴えることの何が問題なのでしょう。それは教会が自ら解決をするだけの自浄作用を有していないということです。これが問題です。教会が罪を罪として見ず関わろうとしないので、信徒たちは外に訴えて問題の解決を図るしかなかったのです。しかし、そこに真の解決はありません。なぜなら、この世の正義は永遠のものではないからです。歴史がそれを証明しています。世の裁きとは、その時代の制約のなかでの正義でしかありません。永遠に変わるところのない正義とは、実は教会だけが持っています。神のことばです。ですから、教会だけが永遠に変わることの無い真の正義によって裁くことができるのです。
 パウロは裁きの大切さを語りました。しかしそこに望む解決があるのではありません。解決はその先にあります。赦しあうことです。パウロはむしろ「争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか」(5節)と言っています。「互いに訴えあうことが、すでにあなたがたの敗北です」(7節)とまで言っています。裁くための裁きではなく、赦すため、和解するための裁きです。これが教会の裁きなのです。私たちはイエス様の姿を思い起こしましょう。イエス様は、不正を甘んじて受け、だますより、だまされることを選び取った方でした。私たちもまたこのイエス様に倣いたいと思います。

【2】 なぜ不品行を避けなければならないのか

 6章の後半は、再び不品行について記されます。この箇所によると、不品行の問題の根っこは、どうやらコリントの人々が自分自身のからだというものを正しく理解していないことが原因のようです。
 パウロは自身のからだを主のためのものと言っています(13節)。私たちは私たちの受けた恵みの大きさを知って初めて、それに相応しい己であることを求め始めるのです。ここがスタートです。私は主のもの。だから・・・と、パウロは続けて、私たちがなぜ不品行を避けなければならないのか、なぜからだを聖く保たなければならないのかについて語るのです。
 1つは復活の恵みに与るがゆえに。2つはキリストと一つとされる恵みのゆえに。3つは聖霊の宮とされる恵みのゆえにです。

【3】 復活の恵みに与るゆえに

 パウロは「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいました」(14節)と言います。主の復活を考えてみれば、からだが如何に大切なものであるかがわかります。主はからだを持って人となられ、そしてからだを持ってよみがえられたのです。そして同じように、来るべき日の私たちの復活は肉体を持ってなされるのです。だから私たちのからだは決してどちらでも良いものではありません。私たちのからだは将来あるものとして取り扱うべきものなのです。復活の出来事はからだが永遠の価値をもつということを証明しています。

【4】 キリストと一つとされる恵みゆえに

 パウロはさらに、私たちのからだはすでにキリストの一部とされていると言います。ですから「キリストのからだを取って遊女のからだとする」(15節)ことは、一つはキリストとの関係を取り返しのできないくらいに無残に引きちぎる行為であり、一つはもう引き離すことのできない関係を遊女と結ぶことを意味します。不品行の罪とは、実は、キリストとの深い結びつきを破り捨てる反逆の罪と、遊女との深い結びつきを選び取る背信の罪の、二重の罪を犯すことを意味しているのです。

【5】 聖霊の宮とされる恵みゆえに

 私たちの希望は、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり」(19節)という言葉です。御霊なる神は私たちの内に住まれ、私たちとともに歩き、絶えず私たちを教え導かれるのです。以前パウロは教会が神の宮であると言いました。それは教会という宮において、神は私たちと出会われるということでした。しかしこの箇所でパウロは「あなたがたのからだは・・・聖霊の宮である」と言います。私たちのからだをもって、御霊なる神は私たちとお会いになるというのです。
 これはすごいことです。不品行は自由かそうでないかと言っている次元とは全く違います。人のからだをこのように取り扱われる神様とはいったい何なのでしょう。これほどまでに尊く認めてくださるお方がどこにいるというのでしょう。不品行に身を委ねているすべての人はこの言葉に耳を傾けるべきです。我が身は我のものと主張するすべての人は知るべきです。主と交わる者への、神の取り扱いがいかに尊いものであるかをです。

【土曜】 コリント書第一7章1~24節

 7章では結婚についての教えが記されます。しかし、ここで注意したいのは、不品行を避けるというテーマに基づいて、結婚が語られているということです。
 なぜこのことが大切なのでしょう。それは基本的にすべての人が結婚するべきとはパウロは語っていないからです。パウロは結婚を勧めます。しかし、それは不品行を避けることができない人に対してです。独身であろうとも不品行を避けることができるのなら、それで良いのです。

 冒頭「男が女に触れないのは良いことです」(1節)というのはパウロのではなくて、コリントの信徒たちの主張です。コリント教会では、一方で自由を称して好き放題に不品行を容認していた人々と、その逆に、不品行を徹底的に避けようとして結婚や夫婦間の性の営みさえ避けようとしていた人々がいたのです。パウロは確かに、自由気ままに欲望のままに生きる人々をたしなめました。しかし一方で、間違った独身主義と言いましょうか、行き過ぎた潔癖主義もまた否定するのです。
 「不品行を避けるため、男が女に触れないのは良いことです!」「不品行を避けるため、男女が結婚しないことは良いです!」「不品行を避けるため、結婚した夫婦が性の営みを持たないことは良いことです!」 性というものを単に汚れた物とだけ捕らえるがゆえの潔癖です。
 しかし、パウロの結婚観は違います。結婚は主の祝福であり、結婚における性の営みの大切さをはっきりと語ります。そしてそれは同時に、結婚関係以外の性関係の完全な否定をも意味しています。その行為が不品行かそうでないか。それは結婚という神が引き合わせた関係のなかでもたれたものなのか、そうでないのかによって明らかにされるのです。
 性とは本来、神が結婚した男女のために備えられた神の祝福です。私たちにとって誘惑となることが、しかし神の定められた結婚という枠組みのなかでは祝福となる。だから、「男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい」(2節)なのです。
 不品行を避けなさいと言っていたパウロです。しかし結婚という関係のなかでは、もはや避ける必要もない。避けるどころか、それがそのまま神の祝福とされるのです。誘惑であったものが、今や祝福とされる。これは究極の不品行を避けることではないでしょうか。

 結婚した夫婦については互いにこの性の権利を奪い取ってはならないとパウロは語ります。互いを愛すること、愛されることを拒んではならないと語るのです。それは、結婚してなお、互いの想いが外に向けられないためにです。性の営みというと、とかく否定的に思われやすいですが、しかし、夫婦におけるそれは、二人を一体とするための大切な要素です。どちらかの一方的な理由でこの関係が破られることは危険であるとさえ考えた方が良いでしょう。夫婦の正しい関係が築かれていないから、互いは再び外の世界へと目を向けるのです。埋まらない欲求を埋めるために、簡単に誘惑になびいてしまうのが私たちです。正しい結婚の枠のなかに生きる。これが、誘惑を祝福と変える秘訣です。

 パウロは、「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです」(17・20・24節)と言います。それはつまり、おのおのが違っていてもよいということです。人はそれぞれに神の許された生き方があります。パウロは結婚について教えます。しかし、誰彼となく結婚すればいいと言っているわけではありません。結婚も、独身も、神の賜物です。
 割礼か無割礼かということにも、パウロは何の重要性も見出しません。強要することなく、そのままでいなさいと語るのみです。奴隷であるか自由人であるかについてもそうです。自由人になれるならなればいいし、なれなくても気にする必要はない。たとえ奴隷のままでいても、召された者は神の子であり、栄光ある自由な身分を得ているのだというのです。結婚していても未婚でも関係ない。割礼を受けていてもいいし無割礼でも構わない。奴隷でも自由人でも・・・。
 神が用いられるのに、それらは何の障害でもありません。こんな私さえも主は用いてくださる。こんなちっぽけな者さえも目を留めてくださる。・・・と、誰しもが思っていいのです。神はあなたの境遇を見てあなたの価値を見出されるのではありません。私たちが置かれた状況の違いこそが、多種多様な神の用いられ方の表れ、神が備えられた賜物です。他の誰でもなく、私がそこに置かれていることの意味がここにあるのです。

参考文献

  • ジャン・カルヴァン『コリント前書(カルヴァン新約聖書註解8)』(新教出版社、1960年)
  • レオン・モリス『コリント人への手紙第1(ティンデル聖書注解)』(いのちのことば社、2005年)
  • キャンベル・モルガン『コリント人への手紙』(聖書図書刊行会、1956年)
  • 榊原康夫『コリント人への第一の手紙講解』(聖文舎、1984年)